まずい状況ですよ
目の前に広がる光景は予想していた以上に最悪のものだった。
『グオオォオオ……』
仁王立ちで目の前を威嚇しているこの魔物が先ほどの咆哮の主だろう。
銀色の毛を纏うそれは一見普通の熊にも見えるが、注目すべきはそのサイズだ。
3mは超えていそうな巨体は一振りで木をへし折ってしまいそうなほど筋肉質で、夕日に赤く燃える毛並みは血でさらに赤く染まっていた。
その魔物、シルバーベアの前には鎧を着た人間が数人地面に倒れている。
冬は獲物となる動物が少なく、飢えていたシルバーベアに運悪く見つかってしまったのだろう。
まだ息はあるようだが、このままでは全員喰われてしまう。
……私としては敵である騎士団の人間はこのまま放置しておいてもいいのだが、アリア様はそれを嫌がるだろう。
この状況をどうするべきか考え込んでいると、シルバーベアが物凄い勢いでこちらに振り向く。
どうやら見ていたのがバレてしまったようだ。
瞬時に反対方向へ走り出すと、シルバーベアがその後を追って駆ける音が真後ろから聞こえてきた。
ひとまず倒れている人間から離すことはできたが、この先はどうしようか。
アリア様の待つ場所からは少しでも離れるように走り、比較的木々の隙間が空いている所で立ち止まる。
『グルルルルゥゥウ………』
ご馳走が増えたことを喜ぶようにシルバーベアが喉を鳴らす。
腹を空かせているところ悪いが、こんなところで獣の餌となる気は無い。
アリア様の脅威となり得る存在は消しておかなければ。
対峙するシルバーベアを見据えながら、腰に下げていた短剣を右手で引き抜いた。
魔力を全身へと巡らせ、足元の雪を蹴散らしながら全速力で敵へ接近する。
『ガアァァ!!!!!』
餌が反抗してきたことに苛立ったのか、シルバーベアは短く吼えて太い腕を力任せに振るう。
頭を下げてそれを躱し、相手の腹へ刃を突き立てるが分厚い皮膚に阻まれ致命傷にはなりそうもない。
刃を引き抜き、怒り狂ったシルバーベアが私を掴もうと伸ばした手を踏み台にして高く飛び上がる。
その肩に着地し、頭部の一番柔らかい部分──眼球に短剣を深く深く突き刺した。
脳まで到達した刀身は、その機能を停止させた。
ゆっくりと前へ倒れる巨体から飛び降り、血振りした刃をじっと眺めた。
…やはり護身用の短剣で魔物とやり合うのは厳しそうだ。
元々屋敷の倉庫に放置されていた古びた短剣だ。
シルバーベアの腹を突き刺した時に刀身も少し欠けてしまった。
ふう、と大きく息を吐いて真っ白な空を見上げる。
こうして剣を握り戦ったのは久しぶりだ。
もう二度と無いと思っていたが、誰かを守るために振るう剣は存外悪くはない。
魔物を倒したなどと聞いたら、またアリア様に侍女らしくないと言われてしまいそうだが。
ともかくシルバーベアはもういないのだから騎士団の連中はあのまま放っておくことにしよう。
まだ少しは動けそうな者もいたのだし、何とかなるだろう。
それよりも帰りの遅い私を心配しているであろうアリア様のところへ早く戻らなければ。
私は慌てて握り締めたままだった短剣を鞘へと収めた。