逃亡生活のスタートですよ
薄暗い森の中を必死に走り続ける。
あと少しで日は完全に落ち、辺りは暗闇に包まれるだろう。
雪は積もっているものの、ちょうどよく降り止んでくれていて助かった。
すぐ後ろを走るアリア様を見てその息が切れていないことを確認する。
…こんな時だけは彼女がセレンディア家の人間で良かったと本当に思う。
「…セレナ!今はどこに向かっているの?」
「いつもの場所です。崖の下まで降りれば追っ手もすぐには追いつけないでしょう。…それよりも走りながら喋ると舌を噛みますよ。」
続けて何かを言おうとしていたアリア様は、私の最後の言葉を聞いて口を噤んだ。
バレないように屋敷を出たつもりではあるが、そろそろ姿を見せないアリア様を不審に思う者が出てくるかもしれない。
いや、もう既に逃走がバレている可能性もある。
国外へ出るまでは一瞬たりとも油断はできない。
「セレナ、崖の下に降りるって言ってたけれど、どうやってこの崖を下るつもりなの?」
辺り一面が暗闇に包まれ、唯一の光源である月が照らすのは険しい赤土の斜面。
下を覗き込めば足が竦んでしまうほどにそれは深く、飲み込まれてしまいそうな程の暗黒が広がっていた。
「迂回できる場所を探しましょう。探せばなにかあるかもしれないわ。」
「……いえ、その時間はありません。予想よりも早く追っ手が来ています。」
背後に目を向けると、大量の赤い玉が森の中を浮かんでいるのが見える。
逃げるとしたら森の中しかないと確信しているのだろう。
このままでは確実に見つかってしまう。
ふう、と大きく息を吐き、不安そうにしているアリア様の手を握った。
「アリア様、私を信じてくださいますか?」
「…?あなたの事は信じているわよ?……ッッ!!なっ!なにをして…!?」
突然の問いにキョトンとしていたアリア様を横抱きにして、数歩後ろに下がり助走の距離を伸ばす。
「…!!まさか飛び降りるつもりなの!?この高さからでは確実に二人とも死ぬわよ!?」
「大丈夫です。アリア様を死なすようなことはしません。私を信じて、目を閉じていてください。」
アリア様は不安そうに身を震わせながらも、私の首に腕を回してそっと目を閉じた。
その姿に自分が信頼されているのだと嬉しく思うと同時に、絶対にこの方を守らなければという強い使命感にも駆られる。
アリア様を抱く腕にギュッと力を込め、崖に向かって走り出す。
少しでも遠くに飛べるように、最後の足で精一杯地面を強く蹴った。
二人分の重みにより凄まじい勢いでまっすぐに暗黒へと落ちていく。
悲鳴をあげないように必死に声を押し殺すアリア様を空気抵抗から守るべくさらに強く抱き締めた。
「……大丈夫です。私に任せてください。」
木々の輪郭がぼんやりと見えるようになり、地面との距離が近いことを知る。
……このあたりでいいか。
片手を下に伸ばし、久しく使っていなかった熱い感覚が体中を巡るのを感じながら言葉を発する。
「───風よ。」
ブワッと大きな風が巻き起こり、体が優しく包まれる。
重力に身を任せ落下していた体はその速度を落としてゆっくりと地面に足を着いた。
「今のは…魔法!?セレナは魔法を学んでいないんじゃなかったの…!?」
孤児院から来た私が魔法を使えるとは思っていなかったのだろう。
アリア様は私の腕の中で驚愕の表情を浮かべていた。
「申し訳ございませんが、今は説明をしている時間はありません。しばらくはこの状態のまま走ります。しっかりと掴まっていてください。」
魔力が全身を巡っていることを確認して森の奥へと走り出す。
「セレナが身体強化まで使えるなんて…。誰かに教わった事があるということ…?」
独り言のように呟くアリア様の声には反応せず、全力で駆けながらまっすぐに目の前を見つめる。
私が魔法を使えることは屋敷の人間は誰も知らないはずだ。
追っ手もまさか魔法が使えない二人があの崖を下ったとは思わないだろう。
捜索の手がここまで伸びてくるのはもう少し時間がかかるはず。その間に少しでも遠くまで離れなければ。
先ほどよりも明るくなった月の光が雪の積もる夜の森を照らす。
これからどうなっていくのかは分からないが、今はただ逃げるしかないのだ。