君に殺される物語
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「いいえ、私は貴方を殺めようとは考えておりません」
透き通るような声で、彼女はそう答えた。
緊張した手つきで鍵を取り扱い、彼女はそっと優しく錠前にそれを挿入する。
美しい鍵だ。
ミスリル銀で鋳造された不規則な凹凸の尖端が飲み込まれていく。
後部には獅子孔雀の尾羽を形作った装飾がなされている。
埋め込まれた宝石は深海サファイアだろうか。松明の灯火に照らされ薄紫に輝いて見えた。
震える手で、彼女が解錠する様を俺は牢獄の内側から眺める。
「俺が怖いか?」
俺の問いに、彼女は無言だった。
バチッ、という音を出し僅かな煙を上げて錠前が開かれる。
思わず彼女は手を引っ込めたせいで、錠前は鍵が差し込まれたまま、埃だらけの石床に落とされる。
重い音を鳴らしながら、火花が散った。
魔導錠だが、細工をした技師の腕は三流だったようだ。
それとも二度とは開かぬつもりで施錠した故に、焼き切れる前提の魔力が注がれていたのか。
いずれにしてもこの牢獄を厳重にしたいという意図が、憐れなまでに必死すぎて笑える。
四肢を魔方陣を描いた壁面に鐡の杭で繋ぎとめ、十六の枷で縛り、全身に封印の紋を書き並べてもなお、俺がここから逃れはしまいかと心配なようだ。
すべて無駄なのに。
あらゆる束縛は俺がその気になりさえすれば造作もなく捨て去ることができた。
俺は捕らえられているのではなく、自分の意思でこの場に留まっているのだが。
鉄格子の扉を軋ませて開くと、彼女は綱渡りでもしているかのように一歩を慎重に進める。
細い身体。
手を伸ばせば摘み取れる野花のごとき、か弱さを俺はそこに見る。
「貴方を殺さない代わりに、お願いがあります」
「人間の……聖女が俺と取引をしたいと?」
瞳を覗き込むと、正面から彼女は俺と眼を合わせた。
精神力が弱い者なら、これだけで俺に魅了され魂を奪うことができた。
だが彼女は抵抗した。
聖女の加護が、心の鎧として強くはない人間の精神を護っているのだ。
「……ここから出たくはありませんか」
「出してやる代わりに同行し、ともに戦えと言うのであろう?」
「なぜ、それを……」
「俺を、甘く見ないほうがいいな」
見透かされていることに、彼女は怯んだようだった。
少しの間が必要だったが決意を改めたのだろう。一度、力強く頷くと再び俺と向き合った。
彼女は、紅い宝石のついた首飾りを掲げる。
「これを、貴方には着けていただきます」
「フッ」
「なにか面白いでしょうか?」
「初対面の贈り物としては、いささか物騒な物だからな」
「これが何か、ご存知なのですね……」
「いいぞ。好きなだけ着ければいいさ」
俺が促すと、彼女は耳障りな祈りの言葉を唱えながら首飾りを首に回してきた。
しばらく祈りは続いた。
やがて胸元に垂らされた宝石が吸い付くように肌に当たると、首飾り全体が俺と融合し身体に埋ってきた。
「これより私が戒めの呪文を唱えれば、貴方は苦痛を味わうことになります」
「聖女にしては悪趣味だな」
「……。私だってできればやりたくはありません。やらせないでください。……そして、貴方が私の手に負えないと判断した場合には……」
「死の宣告……紅い宝石が刃に変わり、俺の心臓を貫くのだろう」
コクリと、彼女は頷いて肯定した。
俺に対して生殺与奪の権利を握ったことで、彼女は少し緊張を解いていた。
これで飼い犬に首輪をつけたつもりなのだろう。
俺が従順に犬のように従うのだとしたら、それはこの宝石のせいではないのだが。
「他の戒めを取り払います。もう少し、我慢してくださいね」
俺は何も我慢してはいなかったが、彼女はそう言った。
人間の感覚でみると、さぞかし苦痛に満ちた状態ではあるのだろう。
全ての枷を外すには、金属の塊のような鍵束から正しいのものを見つけだして解いていくというパズルの様な作業を要した。
それを諦めずに根負けせずに終えると、次は聖油で身体中に描かれた封印の紋を洗い落とさねばならなかった。
清潔な布を油に浸し、聖女自らの手で紋を消していく。
染み込ませるようにゆっくりと布を当てなければ紋は剥がれない。
根気のいる作業を彼女は俺の全身にわたって丁寧に施した。
それは精謐でありながら官能めいた時間だった。
「まるで彫像のよう……貴方はやはり神に近しき者なのですね……堕天の騎士」
どこか恍惚とした表情を浮かべる聖女。
だが彼女が見ているのは俺ではなく、俺を通して思い浮かべられる奴らの面影でしかなかった。
それを俺は口惜しく思う。
やがて紅い宝石以外のあらゆる戒めから俺を解放すると、彼女は疲れから意識を失った。
愚かにも俺に悪意があれば、どうとでもできる状況だ。
だが俺には、彼女を害しようとする意思はない。
無防備な人間の少女を抱き上げ、俺は牢を出た。
石の螺旋階段を十二周半、昇る。
騎士や兵士、聖職者らが完全武装で狭い廊下に待ち構えていた。
彼女が失敗したときに備えていたのだ。
烏合の衆。そう評する他はない。
ひと睨みしただけで、彼ら全体がたじろいだ。
一足、俺が踏み出すごとに二歩、三歩を先を争うように引き下がる。
「聖女はお疲れだ。柔らかく清潔な寝台を用意しろ」
俺は命じた。
言葉の意味を解するまでに一時の間があり、やがて見てくれだけは物々しい集団に歓喜の輪が拡がる。
彼らは聖女が俺を完全に調伏したのだと思ったのだろう。
その誤解は俺に都合のいいものだった。
昏睡した聖女が眼を醒ますまで二晩を要した。
そして牢を出て三日の後、俺は彼女とともに旅に出立した。
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あるところに、ひとりの天使がいた。
彼は天に仕える騎士であり、悪しき魔性の軍勢との戦にあって数々の勲功を上げていた。
大地を切り裂く魔竜ガルドライサンとの戦いは激しいものであったが、七日七夜の死闘の後に彼は竜を葬りさることに成功した。
しかし、その地に暮らす人間たちに、天使と竜の戦いは甚大な被害をもたらしていた。
百人の人々が、翼を休め傷を癒す天使のもとに現れた。
彼らは皆、自分たちは誰もが愛する者を失ったのだと訴えたのであった。
「愛する者どうしが引き離されるのは憐れだ」
天使は自分の術で命を交換することを提案した。
「五十人の生者と死者の命を入れ換えよう。そうすれば、あの世とこの世で、愛する者たちが再会できる。誰がどちらに行くかはあなた方でよく相談しなさい」
天使はこれを名案だと考えたが、うまくはいかなかった。
誰もがこの世に残ることに執着してしまい、醜くくも恐ろしい殺しあいが始まってしまったのだ。
「天使様、生き残る五十人が決まりました」
血に汚れた人間たちが、愛する者らを甦らせるよう天使に要求したのであったが、天使は彼らの行いを嘆き、生きている五十人を地獄に落とし、死んでしまった五十人を天国に送った。
これらの出来事はやがて神々の知るところとなり、天使のしたことは越権甚だしいとされ逆鱗に触れることになる。
天使は、天使としての能力を奪われ天界から追放されたのであった。
やがて堕天使となった彼は、悪しき者たちに与し暗黒のちからを身につけて暴れまわるようになる。
神々に反抗して戦う彼は、堕天の騎士と呼ばれ恐れられるようになっていった。
二百年、神々と戦い暴れた彼はついに戦神との一騎討ちに破れ、五百年のあいだ牢獄に繋がれることになる。
やがて、彼のもとをひとりの少女が訪れるまでは──
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彼女は名をリーナと呼ばれていた。
ただのリーナだ。
聖女としての行いを立派に修めたのちには、もっと長くて呼びにくい名前が与えられるだろう。
俺は、そんな名で彼女を呼ぼうとは思わないが。
俺はリーナの従者であるがごとく行動をともにし、その旅路を連れ添って進んだ。
あまり歯応えのある敵と戦えなかったのは不満だが、それでも旅に飽きるようなことはなかった。
「どうやら……道を間違えたようですね」
彼女が自分の失敗を認めたのは、随分と遅かった。
西と東を取り違えた時点でまず指摘しておいたのだが。
季節は春で、聖女の目前には一面の花畑が拡がっていた。
本来なら岩場に挟まれた道を歩いている予定だったが。
「せ……聖女といっても人間ですから、間違うこともありますよ!」
顔を赤らめてそう言う彼女を、俺は責めることはない。
道がどちらであっても、近道でも、迂回路でも、どちらでもよかったからだ。
「でも、こんなに綺麗な花畑に出会えたのですから、これは神々の導きなのかもしれませんね!」
そう自分に言い聞かせるようにする彼女。
ときに信仰というやつは、不都合を好都合に転換させる効能があるらしかった。
聖女は信心深くあったものの神々は五百年前よりも世界に興味を失っているようだった。
魔神王とやらを滅するのが聖女リーナの旅の目的だという。
どうしたことか彼女は堕ちた天使である俺に、神々と天使たちの姿を重ねがちだった。
俺は彼女の望みに従ってはいたが、それは神の使徒だからではない。
俺はかつて神々を何柱も葬った身で、神殺しなのだから、奴らからすれば天敵のようなものだ。
しかし、聖女はいつしかそれをすっかり忘れてしまっていくようだった。
確かにそうさせるほどに、俺は彼女のために戦い、彼女を護って旅を続けたのだが。
彼女は困っている他人を見過ごさず、視界に入った人々に降りかかる苦難のすべてを取り除きながらでないと先に進まない嗜好の持ち主であったので旅は遅々として歩みは鈍かったが、俺は不思議と退屈だとは思わなかった。
俺は、自分でも呆れるほどに彼女を愛していると自覚していた。
なぜに不器用でか弱く、聖女とは名ばかりの奇蹟のちからしか持たぬリーナにこれほどまでに惹かれたのかは説明できない。
だが、それが愛というものなのだろう。
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我らが敵は、俺が側にいる限り聖女を殺めることは不可能と知ったようだった。
正しい認識だ。
騙されやすいことこの上ない聖女リーナは、適当な人質を用意されるとホイホイと罠に自ら飛び込み、俺に気づかれないように単独で敵地に向かった。
それに気づかない俺ではなかったが、彼女を行かせることにした。
砂漠のオアシスの街で置いてきぼりをくらい、俺は独りになった。
だがこの時間は俺が必要としているものだった。
ここを利用して、俺はあの男に会いに行かねばならない。
唯一の機会を逃すわけにはいかないのだ。
「まだ続けるのかね?」
男は、訪問した俺にそう言った。
市場の片隅で売れそうもない民族楽器を並べている露店に男はいた。
草臥れた冴えない店主にしか見えないが、この男こそは人間のなかにあっても屈指の魔力を秘めた術師であり、時の賢者と呼称される男だった。
「そうだ。また術を頼む」
「……無駄だと知って言うが、これは呪いだよ」
「俺にとっては祝福でしかない」
「ならばよいが……君に幸あれ」
時の賢者は俺の手を取ると、掌を少し撫でた。
これで術は完成した。
至高の次元に達した術式というのは、得てして大掛かりなことは成されず至って単純な境地に到達する。
そんなものだ。
「またくる」
そう告げると、男は片眉を上げて奇妙なものを見る目で俺を睨む。
「……そうならないといいな」
「だがやはり、彼女は俺を殺すだろう」
男はそれを否定はしなかった。
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時の賢者を訪れた俺は首尾よく聖女を救いだし、また更なる旅を続けた。
およそ二年、旅をして俺たちは魔神王を倒した。
児戯にも等しい戦いではあったが、魔神王とやらはよく頑張ったと称賛に値する敵であった。
神々との戦いを繰り広げていた昔にいたとしても、神にも王にも成り得ない凡庸さではあったのだが。
戦いの後に、聖女リーナは異界の門を封じていた英雄とやらを次元の狭間から呼び戻した。
英雄ガルシアーダというこの男、単身で次元の狭間に入り込み、三年ほどのあいだ魔神王が異界から呼び出そうとしていた魔族の軍勢がこちらの世界に来られないよう結界を張り続けていたらしい。
ご苦労なことだ。
魔神王が倒されたからには聖女リーナは英雄ガルシアーダと人間らの国々から祝福を受けて結ばれる運命にあるという。
彼女は、その運命とやらを無条件に信じているようだった。
「ここまで有り難う」
リーナは疑いもしない笑顔で礼を述べ、俺がお役後免であることを仄めかした。
いつの間にか俺は信頼され、野に放っても平気な存在だと認識されていた。
彼女のもとを離れ自由に過ごす。
そんな選択肢は俺にはなかった。
そして選択をするのは俺ではなく、彼女のほうだった。
「どうして……こんなことを?」
リーナが青ざめた顔で問い掛ける。
俺は英雄ガルシアーダの喉元に剣の切っ先を当てていた。
英雄は骨を何本か折ってやったので痛みに表情を歪めている。
名もろくに覚えていない人間の国の城の、耄碌した王の謁見の間でのことだ。
王とその周りにいた人間は先に殺しておいた。
二、三十人は殺して見せないと、鈍感な彼女には俺が本気なのだとは伝わらない可能性があった。
気を使って陰惨な雰囲気が出るように血をたくさん吹き飛ばしておいたので聖女リーナでも、俺が英雄君を殺ると言ったら殺るに違いないとはご理解いただけるだろう。
「君を愛しているからだ」
「意味が──わかりません」
「君が望むなら、人間どうし仲睦まじく生きていくのもいいだろう。だが俺はそんなもの見せられたくはなくてね……君を独占したい」
ガルシアーダの眼が俺を咎めるように見る。
口説き文句としては全体的な演出も含めて逆効果なのは承知の上だ。
勘にさわったので英雄君の折った骨のところを爪先で蹴っておく。
いい声で喚いた。
「やめてっ!」
「俺はこいつを殺そうと思う」
「……だ、だめよ……そんなこと」
「ならば死の宣告で俺の心臓を貫くがいい……俺を殺すか、こいつを殺させるか……君に選ばせてやろう。愛しているからな」
「あなたの言っていることは滅茶苦茶よ!」
それはそうだ。
俺は君に殺されることを望んでいるのだから。
だが一縷の望みは持っていた。
ひょっとしたら、あるいは信じていた運命を捨てて俺と生きる選択をするかもしれないと。
そうなれば俺は彼女に人間にできる最長であろう百歳の若さを約束する妙薬を与え、官能と悦楽の日々に君を閉じ込めて暮らすだろう。
あらゆる快楽を捧げて君を愛し、やがて滅ぶ君を看取ろう。
だがそれは刹那の幸福だ。
俺が臨むすべてとも言えなくはないが、あるいはやはり選べるなら俺は、ここで君に殺されることを望む。
「さて、痛いのは好きか英雄?」
「うがぁ!」
リーナが選択の権利を行使するまで、俺はガルシアーダを痛めつける。
「やめて!」
「ではさっさと楽にしてやろう」
「だめよ!」
「まさか呪文を忘れて思い出そうとしているんじゃないだろうな──聖女様?」
彼女であれば、あり得ないこともない。
早くしなければガルシアーダが持たないことも確かだ。
英雄君は感心なことに聖女の選択に身を委ねて観念しているようだった。
あるいは、リーナなら間違わないと信じているのか。
彼は正しい。
彼女は、ようやくあの言葉を口にする。
紅い宝石が鋭利で細い刃に姿を変える。
そして心臓を貫いた。
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ピタリ、と水滴の音がする。
俺は眠りから覚醒し、戻ってきたことを確かめた。
松明の灯りに浮かぶ牢獄の石壁。
律儀なことに左右対称に架けられた幾つもの拘束。
身体の紋のひとつひとつまでが、冗談のように寸分違わず懐かしい。
俺は時の賢者に感謝の言葉を捧げた。
また会いに行くことになる。
俺は二年と少しの時間を遡っていた。
死をトリガーに、望んだ時間に戻る術式。
賢者に施してもらった技は今回も完璧に機能していた。
地下の牢獄。
またここから始めるのだ。
彼女と出会う、この場所から。
今度もまた、君は俺を殺すだろうか。
おそらくはそうなるだろう。
だがそれでもいい。
俺はまたここから君と旅をするのだ。
そしてこの開始地点に戻ってこよう。
君が俺を選ばない限り、俺は君との時間を永遠に過ごすことになる。
君に選ばれ、君に愛されることを切望する一方で、俺は切実に君に殺されることをも望んでいた。
俺は自分の意思で牢獄にいるのだ。
時の牢獄に。
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コツコツ、と足音がする。
待ち人が現れた喜びに、俺の心は震えた。
もう何度、この音が鳴った先に君が姿を見せるかすら覚えていた。
弱々しくも覚悟を決めた顔をした君を、俺は格子越しに見た。
そして問いかける。
「俺を殺しに来たのか?」
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