第一話「ストックで足を滑らせた先」
「え、本当ですか!?」
アルバイトの休憩中にかかってきた電話に、私は信じられなくて思わず聞き返した。
『ええ。とりあえず来月から来れる?』
「はい! よろしくお願いします!!」
相手には見えていないのに、嬉しさのあまり言いながら頭を下げた。
それから日付と時間の確認をして、通話が終わる。
やった! ついに決まった!!
服飾の専門学校を出て三年。アパレル販売のアルバイトしながらずっと夢だったデザイナーになるための就職活動を続けてきて、ようやくデザイナーのアシスタントに採用が決まった。
長かったけど、これでやっと服飾デザインに関われる!
服に関することは好きだし、今のアルバイトも嫌いじゃないけど、可愛い服を売るよりも作る側の人になりたかった。
それがようやく叶うと思うと、自然と頬が緩んでしまう。
ろくな休憩を取らないまま、私は軽い足取りで売り場に戻った。
「戻りました~」
「おかえりー。何々そんなにニコニコして」
一緒のシフトに入っていた店長が私の顔を見て聞いてくる。そんなににやけているのかと頬をおさえながら、私は理由を話す。
「実は採用の電話が来て、決まりました!」
「え! やったじゃん! おめでとう!!」
「ありがとうございます!」
私が服飾デザインの就職を望んでいることを店長には言ってあった。それもあって、彼女は自分のことのように喜んでくれる。
しかし、その後で寂しそうな顔を浮かべた。
「……って、そしたら糸井ちゃん辞めちゃうのかぁ……」
「はい、すいません。今月いっぱいで……」
「うん、前々から言ってたもんね。私から上に報告しておくね」
「よろしくお願いします」
専門学校を出てからずっとアルバイトをしていたお店。都心から少し離れた駅ビルの中に入っている。急行が止まり、乗り換え駅のため、人の出入りが激しいエリアにある。
私の家からも三駅ととても近く通いやすいアルバイト先だ。
ブランドは二十代をメインとした客層で、カジュアルからフォーマルまで取りそろえている。大学生やOLさんが顧客に多く、私の年齢とも近いため、お客さんと話もしやすく、接客もしやすかった。
私も就職が決まって嬉しい反面、ここを離れるのは寂しい。
店長にはたくさんのことを教わった。アルバイトをはじめた時、私は服とそれを着るお客さんのイメージが直接結びつかなかったんだと思う。
専門学校でデザインや構造を学んだからその点は詳しいけれど、それを説明されたお客さんは困ってしまっていた。
そんな時、店長が言ってくれた。
お客さんがその服を着てどうなりたいかを考えるのが大事だ、と。
着る人があっての服。身につけてはじめて服は完成する。
生活の中で必要なもので、なおかつファッションとして体を彩る。
ただ着られれば良いという人もいるけれど、お店に服を買いに来るお客さんは後者を重視している人も多い。だからといって実用性が全くないものも求めてない。
自分がデザインした服をたくさんの人に着てもらいたい。そう思ってデザイナーを目指していたのに、着る人のことそっちのけで自分が作りたいと思うデザインのことばかりを考えていた。
ガツンと頭を殴られたような気がした。
そういった小さいけれど大切なことを店長からたくさん教えてもらった。
このまま販売員として私は終わってしまうのだろうかと思った時もあった。しかし、こうしてデザイナーとしての道が開けた今となっては、着実に自分の糧になっている。
「じゃあ、残り短い期間になっちゃうけど、引き続きよろしくね!」
「はい!」
店長の言葉に私はしっかり頷く。
残りのアルバイトの期間。今しか経験できないことをすべて吸収するつもりでやろう。
そう思って私は入店してきたお客さんに笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけた。
閉店三十分前。腕時計で時間を確認した私は、店長がかかってきた電話を終えるのを見計らって声をかけた。
「そろそろ上がっても大丈夫ですか?」
今日のシフトは早番。閉店時間よりも終わるのが早い勤務時間だ。
「うん、大丈夫! あ、帰る前にストックから取り置きの靴を出してきてもらってもいい? 注文の佐藤さんがこれから来るって言ってて」
どうやら今かかってきていた電話はお客さんだったらしい。私が帰ってしまうとお店には店長一人になってしまう。
「了解です! じゃあ、帰り際に持ってきますね」
「上がる時間なのにごめんね」
「いえいえ~」
また戻ってくるが一応「お疲れ様でした」と店長に挨拶し、私はバックヤードに向かう。
私服に着替えて、ヒールからスニーカーに靴を履き替える。スマホや財布を私物のリュックに入れて背負って帰り支度完了だ。
「取り置きの靴を持ってかなきゃね」
私はロッカーからストックに移動する。
駅前の小さな商業ビルのバックヤードは狭い。それでも店内の小さなストックだけで在庫は置ききれないため、緊急で必要じゃない在庫はこうしてバックヤードの方に置いてあった。
ストックの倉庫は二帖ほどの部屋だ。壁には天井まである棚が向かいあって設置されている。
「どこにあるんだろ?」
左右を見ながら奥に進む。しかし、目に入る位置にそれらしきものはない。
「上かなぁ……」
三メートルはあるだろう天井までの棚。その上まで確認するしかないか、と見上げた。
「よい、っしょ」
私は膝より少し高い一段目の棚に足をかけた。本来ならば脚立を持ってくるべきなのだが、共用の脚立は大きくて重く、置いている場所も遠い。
幸い探しているのは靴だけ。靴が入った箱を上から下ろすくらいなら脚立がなくても大丈夫。
そう思って、私は左右の足をそれぞれの棚にかけて上に登っていく。
「あ、これかな?」
それらしきサイズの箱を一番上の棚に見つけた。なんでこんな取りにくい場所に置いたのかと思わないでもないが、見つかったことにホッとして、手を伸ばす。
とその時――
背負っているリュックに何かが引っかかった気がした。
「やば……――」
思った時には遅かった。
不安定な足場では踏ん張りも利かず、私の体は重みのあるリュックの方に傾く。
天井に煌々と輝く蛍光灯が妙に目に焼き付く。
まぶたの裏にその残像を感じながら、襲い来る衝撃にぎゅっと目を閉じた。
――ドサッ。
「ぅぐっ!」
突き刺さるように背中に当たったのは、飲み物を入れているサーモボトルだろうか。
背中や腰に走る鈍い痛みに呻きながら、私はどうにか起き上がる。
体の横に置いた手に、ひんやりとしたカサカサとしたものの感触がして、うっすらと目を開けた。
「……えっ……?」
草だ。
夢でも見てるんだろうか。
今、私はアルバイト先のストックにいるはずだった。
しかし、目の前に広がるのはどう見てもそうじゃない。
草と木と土と。
人の手が加わっていない野原。
無機質な金属の棚が並ぶ小さなストック部屋が、一瞬にして自然の風景になった。
「なに、ここ……」
あり得ない光景に、私は呆然として呟いた。