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その3


「ええっ。まだコクってたの、佐伯さん。…ええと、何回目だっけ?」加奈子がコーヒーカップを洗いながら眉間にしわを寄せる。

「今月は5回。入社してから一日おきだったから」苦笑しながらカップの水気をふき取る玲香。

「これから先もそうだと困るから、この前は“結婚を約束した相手がいる”って言ってみた。だから、もう来ないと思うけど」

「うわー。そういえば今日は見てないけど、首吊ってるんじゃないの、彼」

「ちょっと、やめてよ加奈ちゃん」玲香が怒ったように頬を膨らます。

「社内で一二を争うイケメンなのにねえ」


「顔なんて二の次なの!…だって話してても、ピンと来ないんだもの」

 玲香が語気を強めると、加奈子は「ふ~ん」と言いながら、玲香の耳元に近づいた。

「今はそれより、仕事があるものね」

「そうよ。早く仕事を覚えて、賢児さまをしっかりサポートできるようにならなくちゃ。少しでも賢児さまの力になれるように。今は、それだけ」

「初日から、けっこう残業してるみたいだけど、大変ねえ」

「ううん。時間があっという間に過ぎちゃうの。夕べも賢児さまと、プロジェクトの修正案の話してたら、気がつくと1時間以上経ってて。でもね、すごいのよ。“うちの会社の商品ていうのは、夢を与えるんじゃなくて、現実を与えるために夢を理解させる道具”なんですって。話を聞いてたら、なんかもう、ワクワクしちゃった」


 頬を上気させて言う玲香を見ながら、加奈子は言った。

「愛する―それは互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることである」

「ん? それなあに?」

「ばーい、サン・テグジュペリ」

「“星の王子様”の?」

「そうよ」

「加奈ちゃん、“星の王子様”好きだったっけ?」

「うーん、そうね。舞い降りた王子様に恋するお姫様が好き」玲香を見て、楽しそうに微笑む加奈子。

「あれ、お姫様出てきたっけ? あの話…」

 話の内容を思い出そうとする玲香の肩を、加奈子がポンと叩く。


「玲ちゃん、11時から打ち合わせって言ってなかった? そろそろ行かないと」

 加奈子に言われて時計を見た玲香は、少し慌てた顔になった。

「わあ、本当だ。じゃあね、加奈ちゃん、先行くね」

 手を振って、小走りにその場を離れる玲香の後姿を眺めながら、加奈子は、しみじみとつぶやいた。

「二人のうち、どちらかがいるところには、いつも二人ともいるんだよ。…ば~い へミングウェイ……か…」


  *  *  *


 玲香が社長室に戻ると、賢児と大垣が難しい顔をして資料をめくっていた。

「参ったなあ。今月は日本にいないんじゃなかったのか?」

「そう聞いてましたけど、水町女史によると“今回は急に確認したくなって戻った”んだそうです」

「いつも急だろうが…あのジイさん、俺に何か恨みでもあるのかな」ため息をつきながらも、賢児の目は資料とパソコンを、かなりのスピードで行ったり来たりしている。

「どうかなさいましたか?」


「玲香さん、緊急事態発生だよ。今日のランチタイムが、急遽、大隈老人のチェックタイムになった」

 眉間にしわを寄せる大垣のところに、玲香は急いでメモを持って走り寄った。

「大隈老人というのは、出資する企画を選定するのに抜き打ちチェックをかけてくるという、超お金持ちのご老人のことですか?」

「そのとおり。いつも予兆があるから、彼の秘書から事前連絡が来るんだけど、今回本当に唐突だったらしい。こっちも新年度でバタバタしてたから、油断してたよ」


「で、私は何からやればよろしいでしょうか」

 玲香の問いには賢児が答えた。

「今回は時間もないし、Dプロに絞る。君が作っていた企画書も含めて、関連書類に朱字を入れるから、まとめ直してくれ。パワポに移植調整している時間は…なさそうだな」

「では、1時間後に私がパワーポイントのファイルとオブジェクタをお持ちしますので、先にお食事なさって下さい。その後、企画説明していただければ、多少時間が稼げます」

「君のランチタイムを削ることになって申し訳ないけど、そうさせてもらおうか」


「…それでお店はどちらに?」

「大垣さんがいくつか当たったんだけど、個室を取れるそれなりの店が埋まっていてさ。もういくつか当たってみて駄目なようなら、俺のうちまで連れていくしかないかなと思ってるんだけど」

「和食でよろしければ、多少心当たりがあります。聞いてみます」

 言い終わるか終わらないかのうちに、玲香は携帯を取り出した。


「…あの、私、清流旅館の高橋と申します。店長さんいらっしゃいますでしょうか……あ、松室さんですか? 清流の玲香です。実は、急で申し訳ないんですけど…」


  *  *  *


 賢児はアタッシュケースを手にすると、玲香に声を掛けた。

「本当に助かったよ。じゃあ先に店で待ってるから、後はよろしく頼む」

「はい。承知しました」

“さてと…これからが本当の時間との勝負だわ”

 玲香は二人を見送ると、再びパソコンに向かった。


  *  *  *


 玲香が「雅」に到着したとき、店長が部屋から出てきて、ちょうど賢児たちの食事が終わったところだと告げられた。

「急にすみませんでした。本当に助かります」

 義兄の光彦が実家の旅館で板長を務める前に働いていたこの店は、姉一家が東京に出てくる際には必ず立ち寄る店だった。

 玲香も高校生の頃から店長とは面識がある。東京に就職することになったときにも、祝いの席を設けてくれた。

「いやいや、ちょうどね、キャンセルが出た後だったんだよ。お客様を紹介していただいて、こちらこそありがとう。さ、早く行ってさしあげて。お仕事、お仕事」

 玲香は店長に軽く会釈すると、賢児たちが待つ個室のドアをノックした。


「失礼いたします。プレゼンテーション用の機材をお持ちいたしました」

「ありがとう。お疲れ様」

 賢児が玲香にそう言うと、大垣が玲香と一緒に機材の設置に取り掛かった。

「おや、可愛いお嬢さんだね」

 大隈老人が覗き込むように玲香の顔を見つめる。

「私の秘書をしている高橋です」

「高橋と申します」

 玲香が深く頭を下げると、大隈老人は今度は賢児の顔を覗き込んだ。


「彼女も一緒に食事させたらよかったのに」

「今回のお話がまとまりましたら、ぜひご一緒させていただきたいです」

 そう言って微笑む玲香を、大隈老人は上から下までなめ回すように眺める。

「ほほう。すると君との食事代は1回2億計算ということか」

「2回で4億でも結構でございます」

 玲香の言葉に笑い出す大隈老人。

「いやあ、有能な秘書だね、賢児君!」

「恐れ入ります」


 機材の設置を終えると、玲香はバッグから名刺入れのようなものを取り出し、賢児たちが座るテーブルの中央に置いた。部屋にはほのかな柑橘系の香りが漂い始める。

「うん、爽やかな香りだ。これは何だね?」

「アロマオイルを何種類かブレンドしたものです。お食事の直後ですと、眠気も出てくるかと思いましたので、このような香りに」

「ふむ。では頭もスッキリしてきたところで、じっくりと一押し企画を説明してもらおうかな」

「承知いたしました。それでは資料の1ページ目をご覧下さい。本企画の狙いは、一言で言うなら…」


  *  *  *


「いやあ、今日は実に楽しかったよ。出資契約書は水町君のほうに回しておいてくれ。…高橋さん、君は最高のボディガードだね。今度ゆっくり食事しよう。できれば賢児君抜きでね。はははは」

 大隈老人はご機嫌な様子で車に乗り込んだ。

「またのご来訪をお待ちしております」

 ドアの前で頭を下げる賢児。大垣と玲香も、その後ろで礼をする。

 車が走り去り、玲香が頭を上げると、大隈老人は玲香のほうを見ながら手を振っていた。再度お辞儀をし終えたときには、車はもうほとんど見えなくなっていたが、玲香はほっとした顔で、胸の前で小さく手を振り返した。


「まったく、食えないジイさんだな…」憮然とした表情で言う賢児。

「でも、3億出してくださるって、すごいですよね。賢児さまのプレゼンの賜物ですね」うれしそうに賢児を見上げる玲香。

「いや、60点ぐらいだな、せいぜい。きっと5億までは用意があったはずだから。なあ?」

 賢児に聞かれた大垣は、首を少し傾げながら言う。

「1企画でしたら、1回のプレゼンでは、あれが限度では」

「じゃあ、残りの2億は次のお食事会のときにいただきましょう!」

 両こぶしを握って、玲香が唇をきゅっと結ぶと、見ていた賢児の表情がやわらいだ。

「そうだな」

 だが、やわらいだ表情とは裏腹に、賢児の頭の中では悔しさが渦巻いていた。


 なるほどな。まさしく「ボディガード」だ。

 俺が言葉に詰まりそうになったり、返答に迷いが生じそうな気配を察してのことなのか、たまたまなのか…彼女がおしぼり持ってきたり、プロジェクタの電源を切って窓を開けたり、スカーフを取り替えてひらひらさせたり、その度にジイさんの注意は彼女に向いて小休止になる。

 結果として俺に時間的猶予を与えてくれていた。説明のフォローをしてくれた哲っちゃんと同様に、いやもしかしたら、それ以上に彼女は俺を守ってくれた。

 ジイさんは企画責任者のその時の“出来具合”によって額を決める人間だ。3億しか出さなかったのは、それが俺への点数に他ならない。彼女には自分が手本を見せて示さなければいけない立場なのに、助けられる側に回るなんて、まったくもって情けない限りだ…。


「賢児さま。今回の仕事で60点は十分すぎるくらいに及第点です。必要以上にご自分に厳しくなさる必要はありません」

「必要なことができていたとは思えないだけだよ」

 賢児が下を向くと、玲香がくりっとした目を、さらにぱちくりさせながら言った。

「あんな急ごしらえの資料で、あれだけプレゼンできていたのにですか? あ…私、最新の資料だと思って入れていた白書のデータ、もうすぐ新しいのが出るんだったんですね。申し訳ありませんでした。

 その辺も、瞬時に新しいデータの傾向のお話を盛り込んでくださって…もう、ただただ感心してしまいました。本当に勉強になりました。ありがとうございました」

「そうだよねえ、玲香さん。それに賢児さま、時にはボディガードに身を任せるのも必要です。頑張りすぎないでください。我々は、あなたをサポートするためにいるんですから」大垣は賢児の背中を軽くなでた。


「そうそう、その“ボディガード”っていうのは何なんでしょう? 私が合気道の段持ちだってこと、大隈様はおわかりになったんでしょうか。気功をやってらっしゃるということですから、何か読めるのかもしれないですね。…でも、賢児さまは柔道2段ですよね。うーん、私じゃボディガードになりませんよね」腕組みして考える玲香。

「いや、玲香さんは最強でしょう」大垣がくすりと笑う。

「同感だ」苦笑いする賢児。

「そうでしょうか? じゃあ、ボディガードも承りました」

 二人ががケラケラ笑うのを半分不思議そうに見つめながら、玲香は照れたように笑った。


  *  *  *


「賢児さまも、お試しになってください。1、2分間で目の疲れがだいぶやわらぐと思いますから」部屋に戻ると、玲香は熱いおしぼりを賢児に渡した。

「ありがとう」賢児は、さっき店で大隈老人がやっていたのと同じように、おしぼりを両目の上に乗せた。

「気持ちいいな、これ。暖かい手で目隠しされてるみたいだ」

「目隠しされて、幸せな気持ちになったことが、おありなんですね、賢児さまは」


「…うん。おふくろが、俺が子供の頃、よくやってくれた。“だーれだ?”って。それをやってほしくて、わざと背中を向けておふくろの前に座ったなあ」

「やっぱり甘えん坊さんだったんですね、賢児さまは」

「“やっぱり”って何だよ」

「だって、大垣さんと話しているときなんて、しっかり者のお兄さんにあやしてもらってる弟みたいですよ」

「失礼だなあ。…まあ、哲ちゃんは幼馴染だし、もう一人の兄貴みたいなもんだけどな。この半年、本当によく支えてもらったし、甘えてるのは事実だけどさ…」


「大垣さんはきっと、素直な甘えん坊さんのことが、可愛くて仕方ないんですね」玲香が、うふふと笑う。

「あ。その言い方、バカにしてるんだろ」

「いいえ。大垣さんの気持ち、わかるなあと思っただけです」

 玲香の言葉に、賢児は自分の顔が赤くなるのを感じた。

「なんか、顔まで熱くなってきたなあ」

「血行がよくなってるんですよ」


 変化を悟られまいとして、タオルのせいにしてみたものの、目を閉じながら、賢児はずっとドキドキしていた。

“玲香、俺のこと可愛いとか思ってんのかな。…別に深い意味なんてないよな。特別な意味じゃないよな”


 賢児は最近、玲香の言葉の一つ一つが気になって仕方が無い自分を自覚するようになっていた。

 玲香と話していると、気持ちが安らいで、背負っている責任の重さから、一瞬開放された気分になる。以前に比べると、だいぶ肩の力が抜けてきたようにも思うし、何より仕事が楽しい。月曜日の朝に目覚ましが3つも必要なんてこともなくなった。

 休みの日も、前よりゆったり休めるようになった。ただ、玲香の顔が見れなくてつまらないなと思うのも事実だけれど。今頃彼氏と一緒なのかなと思って、少し気分が滅入ることがあるのも事実だけれど。


「さあ、もう結構ですよ」

 玲香が賢児の目の上のおしぼりを取った。賢児の前に、玲香の笑顔が広がる。

「いかがですか? 少し視界が明るくなりますでしょ?」

「本当だ。へえ…簡単にできるし、いいな、これ」少しどぎまぎしながら答える賢児。

「お母様の手には、とても及ばないでしょうが、多少の疲労軽減にはなるかと思います」

「ありがとう」

 賢児は、おしぼりを片付けに行く玲香の背中を見ながら、ぼんやりと思った。

“玲香の手で目隠しされたら、幸せだろうな…”

 だが次の瞬間、そんなことを考えても仕方がないのだと思い直し、天井を見上げながら、自分の両手でもう一度目を塞いだ。


  *  *  *


 賢児が再び仕事に取り掛かろうとしたとき、大垣が部屋に眉間に皺を寄せながら入ってきた。

「賢児さま。久我夫人からお電話が。あと10分くらいでこちらに到着されるそうです」

「ええっ。今日は厄日かよ…」頭を抱え込む賢児。

「今日か明日なら、10分程度なら時間を取るとおっしゃったそうじゃありませんか」

「仕方ないだろ。でないと毎日、哲ちゃんの携帯に電話して、俺の予定確認するって言うんだから…とにかく、10分で帰ってもらうよ」

 深くため息をつく二人に玲香が尋ねた。


「どうかなさったんですか?」

「そうだ! 玲香さん、力を貸して下さい。賢児さまも私の指示に従って。いいですね」

「何でしょう?」

「お二人で恋人同士を演じて下さい。…ええと、玲香さんが女の子達にやってあげていた、あれ、オイルを使ったハンドマッサージありましたよね。あれを今から賢児さまにやってさしあげてくれませんか。

 ドラマなんかでありがちな“社長と秘書がそういう関係”という感じで。玲香さんは高校のとき演劇部だったんですよね。そのくらいお手の物ですよね。お願いします」


 まくし立てる大垣に、賢児が慌てて言い返す。

「哲ちゃん、ちょっと待てよ。そんな業務外の、しかもセクハラまがいのこと、できるわけないだろ!」

「別に、押し倒して服を脱がせろとは言っていません」無表情に答える大垣。

「当たり前だろ!」

「あの…ハンドマッサージは、確かに賢児さま、だいぶお疲れだと思いますから、時間が許せばどうかなと私も思っていたんですが…それで、なぜ恋人のふりなんでしょうか?」事情が飲み込めていない玲香が首を傾げる。


「彼女、賢児さまにお見合いさせたくて仕方ないんですよ。こちらも悪いんですがね。忙しさに紛れて、ちょっと中途半端な返事をしてたら、すっかりその気になってしまわれたものですから…」

「久我の小母さまは親父の後援会副会長で、パーティー券もいつも山ほどさばいてくれるんだ。来月もパーティーだし、あまり無碍にもできないんだよなあ。…俺も哲ちゃんみたく、ホモのふりして逃げればよかったよ」憂鬱そうに大垣を見る賢児。

「それはそれで大変なんです。先日はご親切にも、行きつけの店のカリスマ美容師とかいう男性を紹介してくださいましたから」賢児より憂鬱そうに答える大垣。


「…わかりました。私にできることであれば、何でもいたしますから」

「でも玲香に妙なことさせて、いろいろ周囲に広まったら、迷惑がかかるし…」

「お任せ下さい!」

 玲香はすたすたとその場を離れ、しばらくすると、洗面器に張ったお湯やタオル、オイルを持って帰ってきた。


「このお湯に、しばらく両手をつけておいて下さい」

 洗面器からは、ほのかに甘い香りが漂ってくる。

「これは何の香り? さっきのとはまた違う感じだね」

「これは、イランイランとラベンダーです。…ラブラブな恋人同士の雰囲気には、いいんじゃないかと思います。先ほどのは、ローズマリーとレモングラスを使いました。レモングラスは消化を促す作用があるんです。ローズマリーのほうは、痴呆にも効くらしいです」

「玲香さん、それ、大隈老人が聞いたら泣いちゃうよ」くっくと笑う大垣。


「哲ちゃんは、彼が来ることを“徘徊”って呼んでるんだ。出資者に向かって失礼だろう?」

「賢ちゃんだって、スケジュール表に“じーさん”って赤ペンで書いてるでしょうに」

「お二人とも…。でも、それくらい言わせてもらわないと持ちませんよね、きっと…賢児さま、手を出して下さい。お拭きします」玲香は賢児の手を丁寧にタオルで拭くと、自分の手にオイルを垂らし、賢児の右手を両手で包み込んだ。

「なんか、これだけで気持ちいいね」

 賢児がうれしそうに笑ったそのとき、社長室のドアがノックされた。

「徘徊2号のご到着だ。…じゃあ、玲香さん、よろしくお願いしますよ」


 ドアに駆け寄る大垣。彼がノブを回すか回さないかのうちにドアは開き、50代半ばと思われる女性が現れた。

 少しハーフっぽい派手な目鼻立ち、紫のメッシュが入った髪に、ダイヤがいくつもあしらわれたメガネ、一目で高級ブランドものとわかる仕立てのよいスーツに、オーストリッチのバッグという、見るからにゴージャスないでたちだ。


「すみません、今はちょっと…」

 遮る大垣ににっこり微笑み、彼女は賢児のほうへ向かってきた。さも、今気づいたばかりというふうに振り返る賢児。

「いらっしゃい、和歌菜おばさま。ご無沙汰しております。すみません。今、玲香…秘書にハンドマッサージしてもらっていて…このままお話うかがってもよろしいですか?」

「あら、おじゃまだったかしら?」微笑みながらも玲香のことを鋭く眺め回す久我夫人。


「このような格好で失礼いたします。秘書の高橋でございます」賢児の手を握ったまま、しなるように挨拶をする玲香。

「今、お茶を…」

 立ち上がろうとする玲香の手を引いて、座らせたままにさせる賢児。

「お茶なら、彼が入れてくれるよ」

「でも…」そう言いながらも、すぐさま体を賢児のほうに向け、うっとりと見つめる玲香。

「ただ今、お茶をお持ちします」大垣が言う。

「どうぞお構いなく」二人の様子に眉をひそめる久我夫人。

「恐れ入ります」同時に振り向き久我夫人に微笑む二人に、大垣が噴出しそうになる。


「玲香。そんなに見つめられたら、気持ちよくて溶けちゃうよ」

「お仕事が終わったら、もっと気持ちよくしてさしあげますから…」潤んだ目で賢児を見つめる玲香。

「でも着替え忘れちゃったよ、今日は。途中で買わなきゃなあ」

“賢ちゃん、文句言ってた割には何だよ、その台詞…ノリノリじゃんか!”

「大丈夫です。この前の、お洗濯してありますから」

「…ちょっと、賢児さん」久我夫人がいらついた様子で賢児に話しかけるが、賢児はそれを遮るように玲香と会話を続ける。


「やっぱり、行ったり来たりは面倒だなあ。そろそろ同じ家から通おうか?」

“そうくるか!”

「…そうなったら賢児さまのこと、毎晩いっぱい気持ちよくしてあげられますね」

「朝もだろ?」

「休みの日は、一日中です」ふふっと色っぽく笑って頬を染める玲香。


 久我夫人がこれ見よがしに大きく咳払いをするが、やはりまるで眼中にないと言わんばかりに会話を続ける二人。業を煮やした夫人が大垣の袖を引っ張り、耳打ちする。

「何なのかしら、あれは!」

「ご覧のとおりです」

「どういった方でいらっしゃるの?」

 青筋を立てる夫人に、大垣がしらっと答える。

「静岡の老舗旅館の娘です。仕事もできるし、賢児さまのケアを心身ともにしっかりしてくれるので、賢児さまも仕事に張り合いができたようで…いいことです、会社にとっても」

 大垣が“心身”の“身”の部分にアクセントを置いて答えると、久我夫人は真っ赤な顔をして大垣を睨み付けた。


「それにしたって、人前であんな…!」

「恐れ入りますが、この時間は、“人前”になる予定がございませんでした。今日は二人とも何しろ忙しくて、昼食も先ほどやっと取り終えて、ようやく休める時間でしたので」

「やっとその気になってくれたと思ったのに…。涼一さんと言い、賢児さんと言い、どうして私の薦めるお嬢さんには目もくれないのかしら」


“趣味が悪いからですよ”と言いたい気持ちを抑え、大垣はにこやかに、そして丁寧に答えた。「申し訳ございません」

「まあ、いいわ。あんな状態の人をお見合いさせても先方に失礼だし。…どうもお邪魔さまでございました!」

 久我夫人は、賢児と玲香を険しい目で見つめたが、二人は夫人のことなど眼中にないかのように見つめ合ったままだった。


 ドアに向かって彼女が歩き出したとき、玲香が後ろから取ってつけたように声を掛けた。

「お帰りでいらっしゃいますか? お気をつけてお帰り下さいませ」

「失礼いたします!」

 ドアが勢いよく開かれ、久我夫人はヒールの音を甲高く響かせながら去って行った。


 しばらくその様子に聞き耳を立てる3人。エレベーターホールのベル音が鳴るのを確認すると、3人は顔を見合わせて笑い出した。

「5分かかりませんでしたね」

「傑作だよ。兄貴に教えなくちゃ。おば様、普段はすごくいい人なんだけど、兄貴の時も、そりゃあもう必死にお見合い写真持って追いかけててさ」

「今回も、会社が大変な時期だからこそ、支える女性が必要だと主張されていました」


「まあ一理あるかもしれないけど、とりあえずは退散してもらわないと体がもたないよ」

「何だか悪霊退散祈念みたいですね」

 玲香が苦笑すると、3人は再び顔を見合わせて笑った。

「でもさ、この会社辞めても、女優で食ってけそうだな、玲香は」

「賢児さまこそ…。でも、もしクビにしたら、久我さまにバラしちゃいますよ」玲香が口を尖らす。

「それは困るから、ずっといてもらわないとな」

「やった。永久就職口ゲットです!」


 楽しそうに笑いあう賢児と玲香を見ながら、大垣は思った。二人の間に流れる空気に触れると、こっちまで幸せな気分になる。

 今日は芝居という名目だったけど、少なくとも賢ちゃんは、願望そのままの台詞だったんだろうな。うれしい時、右の眉毛がぴくっと動くから、すぐわかるよ。

 彼女もなあ…ちょっと演劇部にいたくらいで、あんなにすぐに頬染めたりできるものなのか? 芝居じゃないクサイよな、あれは。ちょっと遠山さんに探り入れてみるかな。


「哲ちゃん、そんなにうれしいのかよ。和歌菜おばさまを追い出したの」

「ほんと。顔がゆるんでますよ、大垣さん」

「そう? うれしいことって顔に出ちゃうんだよね、つい」

 まだ賢児の手を握っている玲香と、それを普通に受け止めている賢児は、大垣の言葉の真意を理解するでもなく、大垣の顔を見て、ただ楽しそうに笑っていた。


  *  *  *


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