その14
「今まで、よくお勤めを果たされましたね。今日であなたは十五ですから、“弐の命”としてのお役目はいったん終わりです」
“壱の命”は“弐の命”の手を取り、翡翠でできた龍の像と、水晶、水色と紫の石からできているブレスレット、そして細長い石を手渡した。
「この黄龍さまたちが、これからのあなたを守ってくださいますからね」
「はい。ありがたく頂戴いたします」
“弐の命”は、その4点の品をお盆に乗せると、頭上に掲げて深く一礼し、手元にあった白い絹でそれらを包み、着物の胸元へしまった。
「五十年後、もしあなたが望むなら、黄龍さまたちと共に神宮へ詣でなさい」
「はい、“壱の命”さま。今まで、どうもありがとうございました」
“弐の命”は再び丁寧に頭を下げた。
「巫女寄せ宿の宿主たちには、新たな羽童の像を。ご承知の通り、宿の力を守る大切な拠り所です。今後も心してお預かりするように」
青龍、朱雀、白虎、玄武、それぞれを主神とする宿の亭主たちが、“壱の命”から順番に像を受け取った。宿主たちは、命が交代する際に、交代せずにいるほうの“命”から、新しい羽童の像を受け取り、それまでの像を奉納することになっている。
“命”と呼ばれる存在には、吉事のきざしを受け取る役目の“壱の命”と、災いの予兆を受け取る役目の“弐の命”がいた。
当時は、“弐の命”は物心ついた頃から十五歳まで、そして場合によっては、その後、六十五歳から天寿を全うするまで、その任に就き、“壱の命”は年齢に関わりなく任につくものとされていた。
巫女たちはその力を磨くため、定期的に指定された宿、いわゆる“巫女寄せ宿”を拠点とし、“天との交流”をはかる。そして、その言葉は“機関”を通じ、中央へ集約され、必要な場所へと下ろされる。
いわば巫女たちは、一種の国家公務員なのだが、戦後は国家神道が廃止されたこともあり、その活動は秘密裏に行われるようになっていた。
“命”と巫女寄せ宿は、地域ごとにその数が定められていたが、戦中に宿自体が失われたり、宿主や家族が無くなったりして、たたまざるを得ない宿も多かった。
さらに戦後の混乱の中では、戦前のような体制維持は難しかったこともあり、今では宿集合体、つまり四神を主神とする4つの宿の集まりが存在する場所も、十週箇所に留まっている。
“命”の数は、ひとつの宿集合体に対し、見習いも含めて4人とされているが、場所によってはその数に達していないところもあるという状況だった。
「これからの半世紀、世界は様々な移り変わりを経験するでしょう。先日の、“弐の命”の言の葉にもあったように、人間が自然の怒りを買うようにもなりますが、反面、私達のような人間を欲する人々が増えることにもなります。ここにいらっしゃる皆様方は、来る未来を見据え、宿のお役目を全うされてください」
“壱の命”は、最後にそれだけ言い残すと席を後にした。それに続いて、朱雀を主神とする宿、通称「雀のお宿」の亭主が従った。
“命”は、4つの宿を一定期間で周りながら修行をする。この地域においては、北を司る玄武の宿、通称「黒亀亭」に始まり、東を司る青龍の宿「清流旅館」、南を司る朱雀の宿「雀のお宿」、西を司る白虎の宿「縞猫荘」の順番で一週間ずつほど滞在するのだ。
“弐の命”に黄龍を渡し終えた後、“壱の命”は清流旅館から雀のお宿に移動するため、雀のお宿の亭主が、宿へ同行することになっていた。
“壱の命”の後姿に向かい、ひれ伏すようにしていた“弐の命”は、やがてゆっくりと頭を上げ静かに立ち上がると、その場に残っていた3人の亭主たちを見渡した。
「お世話になりました。どうか皆さま、お健やかに」
“弐の命”の言葉に、亭主たちはただ頭を下げる。“命”はその様子を目に焼け付けるかのように、さらにもう一度見渡し、部屋を出た。
そのとき、庭からの風と共に、縁側には淡いピンクの、やや大きめの花びらが一片舞い込んだ。やがて亭主たちも、一人ずつ静かに部屋を後にし、黒亀と縞猫の亭主二人は、それぞれの住まいへと向かった。
一連の様子をこっそりと庭陰からのぞいていた清流旅館の息子は、縁側の花びらを大事そうに手のひらに乗せ、“弐の命”が去って行ったほうへと走り出した。突き当たりの部屋の前には、ひとりの少女が座っていた。
「“命”さまはいらっしゃいますか?」
彼の問いかけに、少女は表情を変えずに答えた。
「おめしかえ中です。どなたも入れません」
「あの、これ、渡してください。“命”さまの忘れ物です。“命”さまのです」
真剣な顔で、花びらを差し出す彼に、少女は表情を緩める。
「わかりました。お渡しします」
そう言って少女は、白いハンカチの中に、その花びらを収め、袂へ滑り込ませた。そして、泣きそうな顔でおじぎをして一目散に駆け出した彼の後姿を、何か少し考え込むような様子で見つめていた。
* * *
「急に名前で呼ぶのって、何だか恥ずかしいよ」
「でも、私はもう、“命”ではありませんし」
うつむく躍太郎に、華織は少し不服そうに言う。
「それに…そういうのって、何だか自分のものみたいだし…」
「それなら、もういいです」
華織は、ぷいと横を向き、すたすたと歩き出した。慌てて後を追う躍太郎。しばらくすると、砂利道に足をとられてよろけた華織を躍太郎が後ろから支える。
「大丈夫?…華織」
躍太郎の声に、うれしそうに振り返ってうなずく華織。
「お手紙くださいね。学校がお休みのときには、東京にも来てくださいね」
「うん。夏休みには必ず会いに行くから」
躍太郎は華織をそっと抱き寄せると、髪をやさしく撫でた。
* * *
土曜の昼になると、学校から急いで帰ってきては一目散にポストに向かう兄を、律子は二階の自分の部屋の窓から楽しそうにのぞいていた。紅潮した面持ちで手紙を取り出し、目当てのそれがあると、澄んだ笑顔で胸ポケットにしまう兄。彼の幸せそうな様子は、見ている律子も幸せな気分にさせた。
「お兄ちゃん、お帰り!」
妹の声に、上を見上げて手を振る躍太郎。
「玄関に手紙置いておくからな。取りに来い!」
「え~。居間に持って行ってよお」不満げに答える律子。
だが内心は、居間まで寄る時間が惜しいくらい、その手紙を心待ちにしている兄を微笑ましく思っていた。
躍太郎は自分の部屋に駆け込むと、急いで引き出しから鋏を出し、御園躍太郎様と書かれた封筒の上を丁寧に切った。そして、中身をそーっと取り出し、広げた。華織がいつも封筒に忍ばせる文香=ふみこうが、ほのかに香る。
「躍太郎さま
そちらは期末試験の最中でしょうか。こちらは先ほど最後の科目の数学の試験を受けてきたところです。
転校してから初めての期末試験なので少し緊張しましたが、どれもまあまあの出来だったと思います。
普通の学校では、お友達と試験のヤマをかけあったりするんですね。私も挑戦しました。災い以外のことを受け取ろうとしたことなどありませんでしたから、どきどきしました。
でも、意外とすんなり問題が浮かんできました。半分だけ受け取って、残りはすぐに消して、真理子ちゃんに伝えました。当たったので大喜びしてくれて、今日の帰りには、そのお礼にと新発売のチョコをもらいました。
人に喜ばれることを受け取るというのは幸せなものなのですね。こんなにおいしいチョコを食べたのは生まれて初めてです。全部食べてしまうのはもったいないので、残りは宝箱の中に入れることにしました。
私は今まで、人が悲しむことや苦しむことばかりを受け取ってきたから、こんなふうに自分の力をうれしく思ったことはありません。いつも壱の命様がうらやましくて仕方がありませんでした。
力が減る前に、誰かに喜んでもらうことができてよかったです。
弟には、そんなことのために使っちゃだめだと怒られたし、もうしないと思いますが、でもとてもうれしかったです。躍太郎さんにだけは、この気持ちをわかってもらいたいなと思いました。
躍太郎さんはまだ試験中ですよね。頑張ってくださいね。でも、この手紙が届く頃には、もう終わっているでしょうか。
夏休みが待ち遠しいです。
明日はお母さまと一緒に新しいワンピースを買いに行きます。躍太郎さんが東京に来たときにお見せしますね。ではまた。華織」
躍太郎は、しばらくの間、手紙をじっと見つめていたが、やがてテーブルの上に置くと、畳にごろんと寝転がって天井を見上げた。
“俺には彼女を好きでいる資格があるんだろうか…”
“命”達を迎える旅館の人間としては、幼い頃から彼女達の能力が羨ましくて仕方が無かった。華織への興味も正直言えば、初めは、その“命”としての能力や、存在そのものに憧れの念があったからだ。本当に彼女自身を見ていたわけではないのかもしれない。
やがて、自分自身が“命”の補佐をすべく存在として選ばれた時に、自分にもその能力の幾ばくかを授かった時に、初めて彼女の大変さの一端を理解できた。
自分の“言葉”が友達に喜んでもらえたことを、心底うれしそうに報告する華織の手紙を読んで、躍太郎は胸が痛くなった。災いを予知する“弐の命”でいるということは、今の自分ですら想像もつかないくらい大変なことだったのだ。
“命”でいた時分には、いつも静かに微笑み、宿の人間にやさしく言葉をかけていた彼女の健気さに心を打たれるのと同時に、躍太郎は自分の浅はかさを不甲斐なく感じていた。
* * *
「父さん、明日は何時からだったら電話使っても平気?」
「昼過ぎればいいぞ」
「ありがと」
巫女寄せ宿の電話は、機関からの連絡に備えた支給品であったため、巫女が宿に来る前後は私用で使わないのが慣例になっていた。
「東京か?」
「うん」
「来年からのこともあるし、夏休みに下見に行こうと思うんだ。その打ち合わせ」
そう言いながらも、躍太郎は少しでも早く華織の声を聞きたくて仕方がなかった。自分の無理解を華織に詫びたい気持ちで一杯だったのだ。
そして、少しでも早く、華織に会える日を約束したかった。東京の大学への進学を目指して勉強を続けている躍太郎だったが、それはある意味、華織の傍へ行くための準備でもあった。
「絶対に合格してみせるよ」
躍太郎は父親に笑いかけると、手にしていた華織の手紙を胸に当てた。
* * *
お姉ちゃんの、あんなにうれしそうな顔は初めて見た。あんなにぐっすり眠っているお姉ちゃんを初めて見た。朝起きたとき、あんなにうれしそうな顔をするお姉ちゃんを初めて見た。
やめてくれてよかった。神様ありがとう。お姉ちゃんを帰してくれてありがとう。お願いだから、このままにしてください。
いつも明け方にはうなされていて、汗びっしょりかいて目を覚まして、予言した怖いことを何度も心の中で繰り返していたのを、僕は知っている。真っ青な顔で目を覚まして、でも母さんたちに心配かけないように、一生懸命普通の顔になってから朝ごはんを食べに行ったのを僕は知っている。同じ部屋で寝ている僕しか知らない、お姉ちゃんと僕だけの秘密だ。
お姉ちゃん、今までごめんね。僕のせいで、つらい思いをさせてごめんなさい。僕がなればよかったんだ。僕がやればよかったんだ。ごめんね。お姉ちゃんごめんね。
でも、よかった。お姉ちゃんが普通の人になれて。テストの問題を予想するのに、そういう力を使っちゃいけないと怒っちゃったけど、楽しいことを予想するのは、うれしいんだよね。お姉ちゃんは、すごく楽しかったんだよね。
神様、今度何かあったら、お姉ちゃんでなくて、僕にしてください。もう、お姉ちゃんをつらくするのは、やめてください。お願いします。
* * *
華織は躍太郎の受験が終わった後にいろんな場所を案内して回っていた。だが、ある神社の前を通ったときに、華織の気分が悪くなり、境内のベンチで休んでいた。
「あっ」と、震えるように小さく声を絞り出し、袖にしがみつく彼女に、躍太郎は囁くように尋ねた。
「何か見えたの?」
こっくりと頷き躍太郎の袖を握る彼女の手は、少しずつ震えを増していた。
「血にまみれて…男の人が倒れてる」
「知ってる人なの?」
「…顔は見えないの。でも、傍に落ちているのは…あれは、羽童の像だわ。羽が取れて壊れてしまっている」
「羽童って…まさか、倒れている人は巫女寄せ宿の主人だってこと?」
彼女は自分の耳をふさぐようにしながら、遠くを見つめた。
「そんな…そんな……お願いです! 助けてください…どうか彼を…助けて…」
泣き崩れる彼女を、躍太郎は抱えるようにして起こしあげた。
「しっかりして。大丈夫だから。何が見えても、何が聞こえても、僕がそばにいるから」
「…どうしてなの。こんな力、決して幸せなものじゃないのに、なぜ欲しがるの」
半分意識を失いかけている華織を支えながら、躍太郎は不吉な予感に襲われた。
“この前、他の宿に注意を呼びかけてたよな。まさか、父さんの身に何かが…?”
今回上京する前に、父が持っていろと自分に託した羽童。本来、旅館の外には持ち出さないはずだ。だが、受験のお守り代わりだから特別だと言われて、単純にそう納得していたが、もしかして別の意味もあったのだろうか…。躍太郎は考えあぐねていた。
それに華織は、もう“命”としての力はなくなっていたのでは。この状態はいったい…?”
彼女の能力の状態を理解しかねて、躍太郎はさらなる不安に襲われた。
* * *
「飛呂坊!」
聞きなれた声と共に清流旅館の庭に現れたのは、黒亀亭の息子、躍太郎だった。
「躍にいちゃん……どうしたの? どこ行ってたの? 父ちゃんも皆も探してたんだよ」
びっくりして庭を掃いていた箒を落とした飛呂之の問いには答えず、躍太郎は飛呂之の手に一通の手紙を握らせた。
「これをおじさんに渡して。お願いだよ。必ず渡して」
それだけ言うと、辺りを見回し、躍太郎は夕闇に消えて行った。
「にいちゃん!」
少し離れたところに停めてあった黒い車の後部座席に躍太郎が乗り込むと、車は急発進し、あっという間に去っていってしまった。だが、後部座席にもう一人乗っていた女性の横顔には、飛呂之は確かに見覚えがあった。
“命さまだ…”
飛呂之は、その手紙を握り締めると、慌てて家の中へ駆け込んだ。
* * *
「あなた、何が書いてあるの? 躍太郎ちゃん、いったいどうしてこんなことになってしまったの?」
険しい表情で手紙を読む夫、跳治を、妻の靖子は心配そうに覗き込んだ。
「父ちゃん、何があったの? 躍にいちゃん、どうしたの?」
飛呂之は、普段温和な父親が眉間にしわを寄せる様子を見て、自分のせいでこうなったような気がしてしまい、よけいに心臓がドキドキしていた。
「躍太郎くん、“弐の命”様と一緒にいるようだ。、関根さんを探そうとしているらしい」
「じゃあ、やっぱり黒亀の件は、ただの事故じゃなかったの? 関根さんが関係しているの? ねえ、機関は何とかしてくださらないの? もう、美佐江さん、限界よ。お腹に赤ちゃんがいるっていうのに、“羽音”なんて書いてあったら、怖くて仕方ないわよ。あんなに、やつれてしまって…」
「“命”さまと一緒だということは、機関も何らかの手はずは打ってくれる可能性が高い。…とりあえず、明日行って来るよ、雀に」
「父ちゃん、俺がいけないの? 手紙もらったから、いけないの?」
両親のただならぬ様子を見た飛呂之は、涙ぐみながら跳治に聞いた。
「大丈夫だ。お前は悪くない。ただ、このことは誰にも言うな。絶対だぞ」
やさしい父が厳しい顔で言うのを見て、飛呂之は、ただ言われるままに頷いた。
* * *




