その1
「お断りになったほうが、よろしいわ」
静かに響くその声に玲香が振り向くと、そこにはスラリとした女性が立っていた。
帽子とサングラスで顔全体はわからなかったものの、スッと通った鼻筋と白く滑らかなその肌から、際立った美しさの片鱗が見て取れた。
玲香が内定先の大企業へ辞退を申し入れようか迷っていることを、親友の加奈子に唐突に打ち明け、それに対して、この時期に何をバカなことを言っているのかと、加奈子が反論していたときのことだった。
その彼女は、にっこりと微笑んで、もう一度玲香に言った。
「そこは、お断りにになったほうが、よろしいと申し上げたの」
「ちょ、ちょっと。何なんですか?」彼女に向かって顔をしかめる加奈子。
「あの…」
玲香が話しかけようとすると、彼女はスタスタと歩み去ってしまった。追いかければよかったのかもしれないが、玲香の足はなぜか動かなかった。
「知ってる人なの?」怪訝そうに聞く加奈子。
「ううん」
彼女の後姿をしばらく見つめていたかと思うと、玲香は言った。
「ごめん、加奈ちゃん、私やっぱり断ってくる」玲香はそう言うと、庭園を駆け出した。
「え? 玲ちゃん、ちょっと! 玲ちゃんてば!」
あっという間に玲香の姿は見えなくなり、加奈子はその場で、ただ呆然とするしかなかった。
* * *
「さてと、食材でも買いに行こうかな。今週は残業続きだったから、スーパー行く暇もなかったし…」
見事に空っぽな冷蔵庫を覗きながら、玲香はつぶやいた。
かろうじてありつけた念願の仕事だが、残業が多いと平日は店が開いている時間に帰れることが少なく、自炊がままならない。
東京に出てくるとき父親と約束した「一人暮らしなら自炊」を守り通そうとする玲香にとっては、冷蔵庫の中身はお肌の手入れ以上に重要なことだった。
先週のゴールデンウイークに帰省したときも、髪と肌のつやを見ればわかるとか言われ、その頃外食続きだったのを父に当てられた。
玲香には玲香の言い分もあるが、忙しければよけいに体に気をつけなくてはいけないのも事実だ。一人暮らしで寝込んだりしても、誰も助けてくれないのだから。
“うーん、スッピンで行っちゃおうかなあ。徒歩3分の場所にわざわざお化粧していくのも面倒だし…”
とりあえず紫外線よけのクリームだけ顔に塗ると、玲香はフリースのジャケットをはおった。財布とキーホルダーをポケットに入れ、携帯を探して辺りを見回したとき、ベルが鳴った。
“ああ、そうだ。加奈ちゃんが昨日別れ際に、電話するって言ってたっけ。明日の飲み会のドリンク類の相談かな。はいはい、今出ますよ”
「もしもーし」
「あ。休みの日にごめん。ちょっと教えてくれるかな?」
「え? 賢児さまですか?」
電話の主は、玲香の上司、社長の西園寺賢児だった。いきなり彼の声が流れてくるとは思っていなかった玲香は、答えながら慌てて携帯を落とした。
「す、すみません。遠山さんかと思ったもので」上ずった声で言う玲香。
「いや、こちらこそ悪い。実はさ、月曜までに資料作っておきたくて“T-seat”のファイル探してるんだけど、ロックかかってるみたいで」
賢児に言われて思い出す玲香。
そうだった。この前、変なアクセスがあったから、一時的に“赤フォルダ”に移してロック掛けて、そのままだった。やっぱり昨日戻してから帰るんだった。
このまま口頭でパスワードを伝えるだけでも構わないのだが、作業中に他にも必要なファイルが出てくるかもしれない。それなら直接会社に行ったほうが面倒がないだろう。
「今、オフィスでいらっしゃいますか?」
「昼飯食おうと思って外に出たところ」
「わかりました。これから行きますので。私もやり残したことがあったので、午後から行こうかと思っていたところなんです」
「じゃあ悪いけど、よろしく」
「わかりました。1時間ぐらいで着きますから、それまでお食事なさっていて下さい」
玲香は電話を切ると、大急ぎでフリースを脱ぎ、化粧を始めた。
“ああ、こんなことなら、もう少し早めにちゃんとお化粧しておくんだった…”
BBクリームを塗り、あっという間に口紅まで塗り終えたかと思うと、手早くワンピースに着替えた。
“お昼、いつ食べればいいんだろう。ウィダーインゼリーでも買うしかないか…”
賢児からの電話を切って10分後には、玲香はジャケットをはおり、家のドアに鍵をかけていた。
* * *
“休みなのに悪かったかな、やっぱり…”
電話を切った後、賢児はちょっと後悔した。
彼女もきっといろいろ忙しい時期なんだよな。残業もずいぶんしてもらってるから、休みの日は、それでなくてもすることが多いだろうに。…でも、もしかしたら、もうそんなに一緒にいることもないのかもしれない。
いや、別にプライベートなことに誘ってるわけじゃない。これはあくまで仕事なんだから。そうだよ、仕事なんだから。
玲香が自分の下で働き始めて2週間経ったあの日、そう1カ月前のあの日、屋上で見た光景が思い出されて、賢児は咄嗟に頭を振った。
“何、考えてるんだよ、俺。仕事、仕事。今はとにかく仕事だ”
賢児は目の前のランチの看板をぼんやりと読みながら、その店のドアを開けた。
* * *
賢児には、自分の会社が入っているビルの屋上に“秘密の休憩所”と呼んでいる場所があった。
屋上のエレベーターホールの奥にある小さな倉庫内には、登って外に出られる鉄梯子が付いていた。倉庫のドアは一見ドアとわかりづらく、鍵を持っているのは賢児だけなので、仕事の合間に、ちょっと陽の光を浴びてのんびりしたいなと思った時には、こっそりとエレベーターホールの上に上り、人工芝の上で一休みしていたのだ。
しかも、ホール自体が少し高さのある造り具合になっていたので、その上に人ひとり乗っていても、屋上に来る人間達が、それに気づくことはなく、賢児にとっては格好のリラックス場所だった。
「いい天気だ」
賢児は腕を伸ばしながら、深呼吸した。
「高橋さん、改めて僕の気持ち聞いて欲しいんだ。付き合ってください」
下のほうで、聞き覚えのある声がした。そーっと覗くと、声の主は営業部の佐伯だった。
「どうしても、君じゃなきゃダメなんだ」
佐伯がにじり寄ると、玲香は二歩下がった。
「お気持ちはありがたいんですけど、私、結婚の約束をした相手がいます。すみませんが、佐伯さんのお気持ちには一切応えられません」
玲香は、手を前に揃えて、きっちりと頭を下げると、踵を返し、その場を立ち去った。
「ま、待って。高橋さん!…」後を追う佐伯。
そして二人の姿は、賢児の視界から消えた。
賢児は、心臓がばくばくと脈打つのを感じていた。
“結婚…? 彼女、結婚するんだ。そうなんだ。そんなこと、哲ちゃんだって言ってなかったじゃないか。いや、でも、仕事を続けるつもりだから、特に言わなかっただけなのかもしれない。だけど聞いてないよ、そんなの聞いてない”
なぜ、こんなに動揺しているのか、賢児は自分でも理由がわからなかったが、ただ、目の前の青空が急に灰色がかって見えたのだけは、はっきりとわかった。
* * *
玲香が電話で呼び出されてから50分、オフィスのドアを開けたとき、賢児はすでに昼食を終え、部屋に戻ってきていた。
「お待たせしました。今、出しますので」
化粧をするときよりも、さらに素早い手つきでキーボードを操作し、玲香は目当てのフォルダを元の位置に戻した。
「いつものところにありますので、どうぞ」
「ありがと。これ御礼ね。そこのゲーセンで今取った」賢児は、かぴばらのマスコット“かっぴい”のキーホルダーを玲香の目の前でブラブラさせた。
「こ、これは…」
「好きなんだろ? 壁紙、これになってるじゃない」
“見られてた…”
焦って目が泳ぐ玲香を前にニッコリ笑うと、賢児はそれを彼女の頭の上に乗せる。
「お、恐れ入ります」
気まずさと恥ずかしさで一杯になるのを必死に振り切り、冷静を装いながら、頭の上のキーホルダーをマウスの横に置いた。
* * *
急な出勤になってはしまったが、今日ここまでやっておけば、月曜日会議の前にバタバタしなくていい。ちょうどよかったかなと玲香は思った。
“かっぴい”のキーホルダーを撫でながら、パソコンに表示されている時計を見ると、4時45分を示していた。スーパーの安売り時間にはちょっと間があるし、中途半端な時間だが、何も買えなくてゼリーで食事が終わってしまうよりはいい。
“シチューでも多めに作って冷凍しておこうかな。来週はもっと忙しくなりそうだし…”
そう考えながら玲香は苦笑いした。気がつくと、仕事と食べ物のことで頭の大半が占められているのに慣れてしまった自分がいる。休みの日には、いつもよりちょっと遅くまで寝て、平日にできない家事に手をつけると、あっという間に一日が終わってしまう。
雑誌で見るような、一人暮らしで、なおかつ恋愛に趣味に仕事に全力投球なOLなんて、実在するのかと首をかしげるのは自分だけなんだろうか。私なんて、賢児さまとの残業を、心の中でこっそり楽しむのが関の山。世間の人たちって、本当にタフだ。
「まだ、いらっしゃいますか? 私のほうは一段落したので、そろそろ失礼しようかと思うんですが」
「あれ。もうこんな時間か。うん、お疲れ様。今日はごめんな、急に呼び出しちゃって。でも、玲香に任せておけば安心だから、助かるよ」
お世辞かもしれないが、賢児にそんなふうに言われると、玲香はたまらなくうれしかった。何しろ最初にこの部屋に通されたときは、門前払いに等しい態度だったのだから。
“あの時、簡単に引き下がらなくてよかった”
玲香は心の底からそう思った。
* * *
在学中にアルバイトで制作部に1年ほどいたことがあったが、今の社長に会うのも、社長室へ足を踏み入れるのも、玲香にとって初めてのことだった。
重そうなドアの向こうに広がる社長室は、一歩入って、その広さにびっくりすると同時に、自社商品だけでなく、他社の関連商品と機材がずらりと並んだ光景が、まるでガジェッターのアジトのようで、さらなる驚きの念を禁じえなかった。
玲香は学部卒業後、大学院の研究施設がたまたま実家の静岡のほうにあったため、バイトを辞めて、そちらに戻っていた。そして修士課程の修了まで、あとわずかという一昨日、バイト中にお世話になった大垣哲也から連絡をもらったのだ。
現在イマジカの専務を勤める彼の用件は、この会社で就職の面接を受けてみないかということだった。内定していた多治見総研を断ってしまい、卒業後の行き先が宙に浮いていた玲香にとっては、またとない、有難い話だった。
バイト中に玲香が係っていたプロジェクトは、当時の社長が途中で突然「時期尚早」との判断を出し、結局頓挫してしまった。
形の上では、当時の専務と一緒に継続の意思を示していた常務預かりという形にはなったのだが、専務はその頃アメリカにいて、実労部隊のリーダーとなる適任者も本社には見当たらず、社長が反対する限りは、そのままお蔵入りなのだろうと、社員の誰もが思っていた。
しかし、玲香が静岡へ戻ってから、社長が常務と共に突然引退し、当時の専務が社長に昇格したため、プロジェクトは思わぬ展開を見せることとなった。新社長が就任してから半年経った今、社長直属の開発室という部署が設置され、プロジェクトが再開されることになったのだ。
その開発室の一員となるために面接を受けてみないかと大垣から言われたとき、玲香は意外な展開に驚きもしたが、同時にかなりの期待感を抱いた。もし参加できるならば、院で学んだことも少なからず仕事にいかせるし、むしろ仕事の中で発展させられるかもしれないと。
「大垣さん、僕は男性にしてほしいと言ったはずだけど」
社長の西園寺賢児は、いかにも不愉快そうな態度で立ち上がると、玲香の履歴書を大垣の手に差し戻した。
「いえ。“ちゃんと仕事ができる人間”とはおっしゃいましたが、“男性”とはおっしゃっていませんでした」大垣が表情一つ変えずに答える。
「同じことですよ。女…いや、女性にはもう懲りていること、大垣さんが一番よく、わかってるでしょう」
「お言葉ですが、あの姉妹は論外と言いますか、お父様の仕事の関係者の都合で送り込まれた人たちなのですから、一般の働く女性と同列に並べては、うちの女性社員にも非常に失礼かと思いますが」
言われた賢児は深くため息をついた。
「もちろん女性全員が、あんな極めつけの非常識だと思っているわけじゃない。だが、いい加減、こっちもうんざりなんでね。当分女性は御免被りたい。そこのお嬢さんを見る目も変に厳しくなったりしたら、お気の毒だと思うけどね」
「そこいらの男性社員よりも、厳しい目で見ていただいて大丈夫だと思いますよ、彼女なら」大垣がにっこりと笑う。「高橋さん、気にしないで。ここのところ社長は女性運がなくてね。女性を見ると反射的に眉間に皺が寄ってしまうんだ」
賢児は大垣をじろりと睨むと、視線を玲香に移した。184センチの長身から、鋭いまなざしが玲香を覆う。だが、それに臆するでもなく、玲香は一歩前に進み出て頭を下げた。
「高橋玲香と申します。学部時代に制作部でお世話になっておりました。Dプロジェクトは私の研究テーマとも重なる部分があり、かねてから大変興味を抱いておりました。再開にあたり、是非参加させていただきたいと考えております」
玲香の言葉を補うかのように、大垣が1通の書類を賢児に手渡した。
「これが、アルバイト時代に彼女がまとめたプロジェクトの発展計画概要です」
「あ、あの、それでしたら、こちらが最新版です!」玲香はバッグから書類を取り出し、賢児の手元にある書類の上に重ね、もう一通を大垣に渡した。
「君に連絡したの一昨日だけど……よくまとめたね、こんなに」大垣は書類をパラパラとめくりながら、感心したように玲香を見た。
「1日でまとめたというわけではありません。こちらで再開されないようなら、自分の研究内容も取り入れた新しい企画として、ゆくゆくどこかに就職した際に役立てられればと思い、少しずつまとめてきました」
「この4ページ目にある“五感すべてに訴えるヒーリング要素とカウンセリングスキルの導入”というのは新しい要素だね。君の研究テーマと関係があるのは、ここら辺なのかな?」
賢児の問いに玲香が答える。
「はい。私の専門テーマは、心の病の予防診断システム開発です。従来の企画概要にあったような人工知能機能だけでなく、付加価値として、そのようなものを考えてみました」
「…これ、悪くないね、大垣さん」
賢児は椅子に座ると、引き出しからセキュリティカードを取り出した。
「これは専用資料室のカードだから、大切に保管して。デスクはプロジェクト開発室に用意させる。出社は…東京で暮らす準備もあるだろうから、住まいが決まって落ち着いたら、彼に連絡して出社日を決めてくれればいい。今の時期だったら、他の新入社員と一緒に4月ということになると思うが」
「ありがとうございます!」玲香は深く頭を下げた。
「それでは彼女と詳細を詰めた上で準備にかかります。…ところで賢児様、彼女の席は、その一角にコーナーを設けて置く予定ですので」
「え?」びっくりしたように大垣を見つめる賢児。
「彼女には、秘書業務も含めた賢児様のアシストをしてもらいます。仕事の配分を調整するためにも、同室のほうが無駄がありませんし」
「秘書なんていらないよ。自分でやるから、いい」
再び不機嫌になり、憮然とした表情になる賢児に、大垣はたたみかけるように言う。
「今後、プログラム側を主導していただくわけですし、庶務的なことは他の人間に任せていただきませんと。…それと申し忘れておりましたが、これからはマスコミの取材も定期的に入れていきます。その分、仕事量も増えますので、その辺も見越した上でのことです」
「わあ。雑誌に載ったりなさるんですか? 社長が宣伝してくだされば、きっと女性がソフトをばんばん買ってくれますねえ」
あえて空気を読まないのかのように、玲香はニコニコしながら大垣に言った。
「そのとおり。相変わらず飲み込みが早いね。Dのソフトは話題づくりをガンガンやって、開発費を早くペイできるように売っていかないといけない。それには、二枚目の独身社長は一種の武器になる。そうだな、君はセンスがいいから、取材のときには社長のスタイリストもやってあげてよ。この人、自分の価値がちゃんとわかっていないというか、ファッションに無頓着なんだよ、困ったことに」大垣は、やれやれといったふうに首を振る。
「取材なんてごめんだ。仕事だって一人のほうがはかどる」大垣をにらむように言うと、賢児は口を尖らせた。
「大丈夫ですよ。前回のお嬢さん方のようなことにはなりませんから。…それに、開発室の全体調整を私にお任せくださるとおっしゃったのは“社長”です」
大垣は、“賢児様”とは呼ばず、あえて“社長”という言い方をした。
「あの…ところで、前回のお嬢さん方とか、先ほど論外とおっしゃっていたのは一体…?」
玲香が話に割り込むと、大垣は“サンキュー”と玲香に口で示し、笑いながら事の次第を説明した。
「さすがの僕も、ちょっと驚いたけどね。社長の秘書にしてくれと無理やりねじ込んで来たのに、顔がきれいなだけで、コピーも使えなければ、お茶汲みもできない。挙句の果てに、電話で婆やを呼びつけて、その婆やに仕事をさせたらしい。さすがに一日でお引取りいただいたが、次に来た妹がまたツワモノでね。仕事は普通にしていたらしいんだが、社長がセクハラをしたと言って、父親と一緒に乗り込んできたんだ。で、そのセクハラの内容が“社長が自分を食事に誘わない”ことだっていうんだから」
「そんなの、スマップのコントでも、ないですよね」
けらけらと笑う玲香を賢児はギロリと見る。
「笑い事じゃないんだよ、こっちは」
「…し、失礼しました」
「しかも妹のほうなんか、着てるんだか着てないんだかわからないような服で来るんだぞ。12月にノースリーブで胸出して仕事すんなっつーの!」
嫌な思い出がよみがえって来たのか、賢児は苦々しそうに声を荒げた。
「まあ仕方ないですよ。敵の目的は賢児様と縁談をまとめることだったわけですから。まあ、その後もよくまあ、あれだけ続々とというぐらい、女性がやってきて、確かに仕事の邪魔でした」
「それは作戦ミスですね、敵…いえ、先方の」玲香がうなずきながら言う。「まずは、社長の好みのタイプを事前調査するとかしませんと。それに仕事ができないなら、職場に放り込むのはダメですよね。社長も状況的に大変な時期でいらっしゃるでしょうに。…それとも、最初の姉妹の場合は、とにかく毎日社長の傍に置いておきたい理由でもあったんでしょうか?」
「ああ、そこなんだよな。…多分、俺が何か口をすべらせないかと狙ってたんじゃないのかな、あの時期は親父の周りもいろいろ…」賢児は、しまったというふうに口をつぐんだ。
「お父様が偉い政治家でいらっしゃると、いろいろ大変なんですね」玲香は心底、賢児を気の毒がっているようだった。
「まあ、そこそこね」玲香の発言に乗せられて、ついしゃべり過ぎてしまった賢児が、少し気まずそうな様子で言う。
大垣は、そんな賢児の様子を見て内心驚いていた。賢児は普段初対面の人間に、こんな拗ねた表情を見せることも、うっかり何かを口走るようなことも、決してなかったからだ。
“けっこう彼女のことが気に入ったのかもしれないな。そういえば、彼の初恋の幼稚園の先生に、彼女はどことなく似ている”
父親が西園寺家の執事を勤めている大垣にとっては、賢児は会社の上司であると同時に幼馴染でもあった。
大垣はさらに思った。そして彼女は何より頭の回転が速い。別に、彼のタイプの女性を開発室に入れようと思ったわけではないが、そういう意味でも、結果的にはもってこいの人材だったのかもしれない。
「それでは部屋のレイアウト等は、また、他の者たちとも相談します。機材をどこまで入れるかということもありますし。…ああ、それで、どうしましょう。開発室6人のうち3人が高橋ですね。今後会議も多くなりますし、呼びわけが必要そうです」
「高橋さんは…高橋さんとしか、呼びようがないよなあ」
賢児の言う高橋さんとは、40手前の制作部長、アートディレクターを務める男性だ。
「そうですね。じゃあ、SEの高橋君と彼女は、下の名前で呼ばせてもらいましょう」
「そういうのってセクハラにならないの」ちょっと心配そうに賢児が聞く。
「大丈夫です。玲香とお呼びください」
「では、そういう方向で。じゃあ玲香さん、他のメンバーに紹介するから」
大垣は玲香を連れて社長室を出た。
* * *
「すごいね、玲ちゃん! 社長付きなんて、うらやまし~」
そう言いながら、玲香本人以上に興奮しているのが、玲香のバイト時代からの親友、総務部の遠山加奈子だった。
「うん。念願の仕事がやっとできるから、すごくうれしい。多治見総研の内定断っちゃったときは、自分でも何やってるんだろうと思ったけど」
「でも本当に、あれって不思議な話よね。“おやめになったほうがよろしいわ”なんてさ。通りすがりに言うような言葉じゃないものね。まるで玲ちゃんを導いてくれたみたいじゃない。いったいどこの誰なのかしら。…まあ、びっくりなのは、その直後に猛ダッシュで内定断りに行っちゃう、玲ちゃんだけど」
「ごめんね、あの時は心配かけて。せっかく静岡まで来てくれてたのに、いきなりあんなことしちゃって」
「ま、いいってことよ。そのおかげで、また同じ会社で働けることになったんだから」加奈子は美味しそうにビールをごくごくと飲んだ。
「でも、社長と同室なんて、女の子たちから恨み買うわよ。…それと進子ちゃんからも」
進子ちゃんというのはアートディレクターの高橋のことだ。心が乙女で賢児の大ファンなのである。
「確かに本人に会ってみて、加奈ちゃんが、社長が女の子に人気があるって言ってた意味がわかったわ。進子ちゃんが熱を上げるのもね。なんか、ちょっと可愛いのよね。マンションが決まって、挨拶に行ったときもね、“こっち系”の社長さんとの会食を大垣さんに入れられちゃったらしくて、“体を売って仕事取るなんてやだ。うち帰る”とか言って、机に突っ伏しちゃったりするのよ」玲香は先日の賢児の様子を思い出して、くすりと笑った。
「ちょっと、ちょっと、何それ? 社長って、女子社員に人気はあるけど、クールで近寄りがたい感じが受けてるのよ。かわいいなんて思ってる子、いないって」
「うん、私も最初はそう思ったっていうか、怖い感じがしたんだけど、全然違うの」
「へえ、そうなんだ」
「それに、そのあともね…」
うれしそうに話を続ける玲香の姿を見ながら、加奈子は思った。
“玲ちゃんが自分からいろいろと男の話するの初めてだ。
社長にしても、クールと言えば聞こえはいいけど、つまりは女性社員に対して愛想が無いから、一部の“男は全部自分になびくはず”派の子たちからは、“何様のつもり?”とかって逆に評判よくないのよね。まあ“社長様”に向かって勝手なこと言って、失礼なのはどっちよって話なんだけど、でも、そんな社長も玲ちゃんにはカワイイところ見せちゃうんだ。
うーん、これって、もしかして、もしかするかも?…”
「玲ちゃん。大事にしないとね」
「うん。頑張って仕事しまくるから!」
親指を立ててウインクする玲香に、加奈子は心の中でつぶやいた。
“そうそう、その調子。親指のほうは「男」もね”
「じゃあ、改めて、玲ちゃんの未来に乾杯!」
グラスの音が店内のざわめきに消え、二人のおしゃべりはとめどなく続いた。
* * *




