Magie du Parfum ―人を呪わば穴二つ―
口癖のように『この町は北と南で随分とレベルが違う。』と、父も母も言い続けてきた。確かにそうかもしれない、と久方振りに地元に戻ってきた山口恵梨香は一人納得する。
町の中央にあるバスターミナルを挟んで北側は、綺麗なマンションや庭付き一戸建て、割と大きな有名スーパーがあったり、果ては“セレブ通り”なんて呼ばれる場所まである。
対する南側は学校も荒れているし、コンビニや本屋は万引き対策に追われ、古ぼけた団地やアパートでは時折、孤独死や自殺があったりもする。雲泥の差だ。
ピンク色のパンプスを鳴らしながら南側にある実家へ向かう。戻るつもりのなかったこの町は、否応なく恵梨香を憂鬱にさせた。
地元の底辺高校を卒業して、都会で働いて5年が経ち、恋人もできた。結婚しよう、と言われて喜ばないはずもなかったが、一方で自分の親のことを考えるとすぐには返事ができずにいた。
恵梨香の父親は所謂、アルコール中毒だ。母親は飲んでは暴れる父に愛想を尽かし、恵梨香が中学生のある日、忽然と姿を消した。もう顔も覚えてはいない。ただ、口さがない近隣住民によると、嫁いできたときは小綺麗なお嬢さん風だったのに、出ていくときには着の身着のまま、ボサボサの頭に化粧気の無い姿だったという。
10分ほど歩いて生家についた着いた恵梨香がみたものは、昼間から酒瓶を抱え肌着姿の上、腹を出して大の字で眠っている父親の醜態だった。眉を顰め、小振りのトランクだけを玄関脇に置いて今開けたばかりの扉をもう一度閉める。
「…こんな親父、死んでくれたらいいのに。」
いない方がよほどましだ、と独り言ちて今来た道を北へと戻っていく。
この町はそう広くはない。主要な遊び場や施設は中央のバスターミナル付近に集まっているし、どの地域に暮らしている人でも使いやすいように、と所謂コミュニティバスが町の中を走り回っている。北側には新しいグルメや流行のファッション、話題のCDや雑誌等もきちんと仕入れる本屋があり、恵梨香もそのコミュニティバスを使ってあちこち出掛けていた。
父親が目を覚ますまでの時間潰しにカフェにでも入ろうかと思っていたが、つい懐かしくなって小型のコミュニティバスに乗った。
ゆらゆらと揺られながら記憶を反芻する恵梨香の耳には、時折、同乗した老人の声が飛んでくる。この町――特に南側の人間は『〇〇さん家の××ちゃん』『□□さん家の長男坊』等、家と子供の顔がセットでインプットされていて、更にはその子供の情報もどこから仕入れてくるのか『西高校に行った』『都会の大学へ行った』だの知り尽くしていて、正直に言えば気持ちが悪い。
恵梨香自身も高校時代に、何度かそれで嫌な思いをしている。向こうはこっちを知っているのに、こっちは何も知らない。朝すれ違った時に、老女から『昨日は北の文具店にいたわよね。その前はその向こうの本屋。お勉強忙しいの?』等…相手からすれば世間話のつもりかもしれないが、こちらにしてみれば、まるで見張られているような感覚に陥ったりもした。
「あら?えりちゃんかー、誰かと思ったわー!大きくなって!」
噂をすれば…とはいうが、考えているだけで本当になるなんて。恵梨香は思わず舌打ちさえしそうになるのをこらえつつ、話しかけてきた老女に視線をやる。年齢で言えば60を優に超えているだろう、白髪に目が痛い花柄のワンピースの女に、思い当たる節はない。
「高校出てすぐに都会に出たから、お父さん独りぼっちで寂しいでしょうに。やっと親孝行する気になったんかねぇ、大人になったこと。皆言ってたのよ、女の子なのにお父さんの世話もせず「あー、ごめんなさい。私ここで降りるんで、失礼します。」
言葉を遮るように席を立ち降車ドアへ移動するが、とにかく周囲の視線が痛い。あくまでもコミュニティバスの中で、北側の人間もいるのに南側のノリで話しかけてこないで欲しい!という恵梨香の思いは伝わらず、背後からは未だ、彼女と父親を貶す言葉が『善意』というオブラートに包まれて飛び交っていた。
止むを得ず降りた停留所は、北側の端、セレブ通りの近くだった。貧乏な実家住まいの頃とは違い、今は自由に使えるお金もそれなりには稼いでいるし、この辺りを歩いていても何もおかしくはない。
イライラするのを堪えながら適当にカフェにでも入るつもりで散策してみると、一件だけ見慣れない店舗があることに気が付いた。
「ナニコレ?」
5年も町を離れていれば街並みも、店も、人さえも変わるし、それは当たり前のことだ。けれど、当たり前と言えない何かを、恵梨香は感じ取ってその店を上から下までじっくりと観察する。
アイボリー、とでも言おうか白っぽい壁の2階建てビル。それ自体はとてもありふれているし何もおかしなところはない。店の前にはモスグリーンの木製看板が一つ。ショーウィンドウは、レトロなダークブラウンの木枠の窓型でその雰囲気から、アンティーク系のショップだろうと当たりをつける。
探しているのはカフェで、アンティークに用事はない。骨董品や美術品に興味はない。踵を返し、立ち去ろうとしたところで声をかけられた。
「お嬢さん、靴が随分とくたびれてますね。」
今日はよく声をかけられる日だ。しかも、失礼でムカつくタイプの内容ばかり!積もり積もった怒りが破裂して、とうとう文句の一つでも言ってやろうと振り返った所にいたのは、面識のない、男性だった。
白いカットソーと黒いギャルソンエプロンの男はカフェ店員を連想させる。黒髪に眼鏡、というのも非常にありがちではある。ただ、どういう訳か男の目はガラス玉のように澄んだ緑色をしていてモノトーンで纏められたファッションの中、首から下がった鍵のネックレスと瞳の色だけがくっきりとしていて非常に目を引いた。
「…ちょっと失礼じゃない?」
確かに靴は、ずいぶんと汚れていた。今履いているサーモンピンクのエナメルパンプスは履き心地が良く、もう随分と長く履いていた。
初任給で細いヒールのこのパンプスを買った時、自分は田舎のしがらみから解放されて、一歩大人に近づいたのだと感じられた。エナメルは油断するとすぐに傷だらけになるし、手入れが難しいにも関わらずヒールが折れれば直し、ソールを張り替えても履き続けた。
恵梨香は自分の足元を改めて見てみる。膝丈のボルドーのスカートが揺れる先に伸びている自分の脚先には、ボロボロになってツヤのない靴があって酷く貧相に思えた。
男に言い返してやりたかったけど、この有様ではぐうの音も出ない。きゅっと唇を噛む恵梨香に、男はやんわりと声をかけた。
「突然お声がけしてしまい、失礼しました。もし、お時間ありましたら、寄って行かれませんか?」
男が示していたのは、今しがた見つけたアンティーク風の店。やっぱりカフェか何かだったんだろうか、と男の恰好をもう一度じっくり見ながら恵梨香は思う。きっと、カフェの店員で客引きに出てきたのだろう、と。
「ウチはカフェではなく、香水専門店なんです。お綺麗なお嬢さんの事ですから、こういったものには敏感でいらっしゃるかと思いまして。お客様のお好みやイメージに合わせたオーダーメイドも承ってますので、是非。」
「…じゃあ、少しだけ。」
ニコニコと人当たりのよさそうな表情を浮かべる男が、口にしてもいない『カフェ説』を見抜いたことに驚きつつも、まぁ、あれだけジロジロと見れば当然か、という考えに上書きされて恵梨香は案内されるがままに店内へ足を踏み入れる。
店の中は少し薄暗い。色とりどりのガラス瓶が並ぶ奥には、会計や接客をするのであろうカウンターと椅子が一つ。その椅子を勧められて取り敢えずは腰を下ろす。
「改めてお詫びします。今履いてらっしゃる靴は大切なものなのでしょうね。」
「そう、ね。仕事をしだして、ダサかった私が初めて一目惚れして買った靴だから、そろそろ5年の付き合い。」
「それはそれは!ただ『素敵な靴は素敵な場所へ連れて行ってくれる』という言葉もある通り、浮かない気分の時こそ綺麗な靴を履いていただきたいですね。何か、お困りなのではありませんか?」
カウンターを挟んだ向かいに男が立っている。店主、と名乗ったが年齢はよくわからない。落ち着いた物腰は老齢とも言えるのに見た目は20代というアンバランスな雰囲気を持ち合わせていた。恵梨香は何故か、男に向かって少しずつ胸の内を吐露し始める。何故か、そうしなくてはいけない気がして。
「結婚することになったの。プロポーズされて、勿論嬉しかった。人並みに浮かれてたけど、現実問題として親とか親族とか絡んでくるでしょ?うちの親父、クズなの。だから、結婚するとか言えない。彼に迷惑を掛けたくないし、彼のご両親にだってあんなジジイ見せたくない。だから無理。」
5年ぶりの帰省でまず見たものが親父の腹とかありえないよね!とカラカラ、笑って話す恵梨香だが、その眼尻にはうっすらと涙が浮かび始める。見知らぬ相手だからこそ、『山口さん家のえりちゃん』と噂をされずに話せる安心感もあったのかもしれない。
「いっそ、死んでくれりゃよかったんだけどねー。急性アルコール中毒とか?あんなのでポックリとか。育ててくれたとかいうけど、その分ボコボコ殴られたり、色々されてきたからさ。正直に言えばさっさと消えてほしいわ…。彼と絶対、結婚して幸せになるの。」
プロポーズしてくれた彼の話を始める恵梨香をよそに、店主はほんのわずかに、口角を吊り上げる。
「――その為なら、何も惜しくない、と?」
「え?うん。…彼と結婚するためだったらさ、面倒でも嫌でも、頑張れるかなーって思う。」
店主の雰囲気が先程までと大きく変わったように思えてゾクリ、としたものを感じずにはいられなかった。店内の温度が一気に2、3度下がったのではないかと思えるほど。頬を染め、惚気ていた恵梨香も顔を引き締めて思わず向き直る。
カウンターの中の店主は先程までと何一つ、変わってはいない。けれど、どこか遠くで警報音が聞こえるような気がする。微かに吐き気さえも感じられた。
「先程のお靴の件のお詫びです。少し、お待ちくださいね。」
店主は首から下げていた鍵を手に振り返り、背後のドアを潜って消えた。サンプルでもくれるのだろうか、と不穏な空気も忘れ、いつの間にか緊張で強張っていた身体の力を抜いた。
特にするべきこともなく、恵梨香は自身の足元にまた、目をやった。薄暗い中では汚れは目立たないにしろ、そろそろリペアに出して、きちんと手入れをすべきことは確かだった。心なしかヒールもグラグラしている気がして、帰りに別の靴を買ってそれを履いて帰ろうか、と頭の中で近隣の地図を広げ靴屋を探す。
そうしているうちに店主は戻ってきて、恵梨香の前に一つの瓶を置いた。
「お待たせしました。こちらをお持ちください。」
にこやかな店主はそれだけ言うとカウンターの向こうで紙袋と箱の用意を始めた。恵梨香はそっと、その瓶を手に取ってみる。
ハイヒールの形をした香水瓶で、よく見れば中には2粒のストーンが沈んでいる。液体のサーモンピンクの中に小さなシルバーカラーの石と、一回り大きな赤い石。ボトルの足首に当たる部分にはストラップ代わりにリボンが巻き付けてあり、その上にアトマイザー部分があるのかこちらもピンク色のクリスタルカットのキャップが嵌っている。
「店長さん、これ、売り物でしょ?そりゃ確かに最初はむかついたけど、実際に靴が汚かった訳だしさ、いいよ。受け取れない。せめてお金払うって。」
慌てて香水瓶を置き、ハンドバッグから財布を取り出して紙幣を確認する。千円札が何枚かと一万円札もあったし、流石に買えない事はないだろうと値段を聞いてみるが、断られてしまう。
「これは貴方の為の香水です。ですから、どうかお気になさらずに。きっと助けになりますよ。」
「気にするってば。香水ってピンキリだけど、ブランドものなら一万したっておかしくないんだから。」
恵梨香は食って掛かるも店主は既にラッピングを進めていて、モスグリーンの紙袋に箱を収める段階まで来ていた。
「…私が調香して作る香水は、誰か特定の、個人の為のものです。なので、これは貴方にしか効き目はないのですよ。貴方が不要と仰れば、これは捨てるしかありません。どうぞ、受け取ってください。お代は結構ですよ。」
紙袋に箱を収めてカウンターから出てきた店主は、恵梨香の手に紙袋の持ち手を握らせて言葉を続ける。
「先程も申し上げましたが、真新しい靴やお気に入りの靴、というのは持ち主を導いてくれると思います。どうぞ、お幸せに。」
店主の笑顔に押し切られる形で紙袋を持ち、店の外に出る。随分と長く話し込んでいたように思えたけれど、スマホの時計で見れば大した時間は経過していなかった。ただ、やたらと着信が多い。不在着信だらけだ。
数歩、歩きながらそれを確認してみるも見覚えのない番号ばかりでその中にぽつぽつと、父親の携帯番号が入っていることに気が付く。目を覚ましたのだろうか。面倒だがひとまず家に帰ることにしよう、とセレブ通りまで出て、近くのコミュニティバス停留所へ足を向ける。
ふと、貰ってしまったものは仕方がないし、せめて、ネットのレビューや口コミの部分で御礼をしようと閃いて、店の名前や外観を控えようと思い立ち、カメラアプリを起動した。今自分が出てきたはずの路地を振り返る。
「あ、れ…?」
細い路地の奥まで見通してみても、先程まであった筈の店は見当たらなかった。
もう一度路地へ足を踏み入れようかと思った矢先にスマホが音声着信を知らせる。取り敢えず画面の表示を確認するも、やっぱり見覚えのない番号で出るのをためらった。が、指が液晶に触れ通話画面に切り替わった。
『もしもしっ!山口恵梨香さんの携帯電話ですか!?』
切迫したような声、その向こうでは何かサイレンが響いていた。
「はい。そうですけど…」
『こちらは東町総合病院です。お父様が、救急搬送されました。すぐにこちらへ来ていただけますか。』
恵梨香の父は眠りから覚めた後、玄関先にトランクがあって一度は帰ってきたはずなのにそこにいないことで腹を立て、携帯で電話をかける。何度かけても繋がらない事で怒りのボルテージは上がり、酒の残る体を引き摺って表へ飛び出した。
娘を探しに行くつもりだったのか、幻覚でも観ていたのか定かではないが、古いアパートの2階から降りようとした際、足を踏み外して階段を転がり落ち後頭部を強打した。
酒を飲み管を巻く事を知っていた近隣住民は、『触らぬ神に祟りなし』と示し合わせたかのように家から出るものはおらず、暫くの時間をおいてこっそりと、様子を見に顔を出した1階の住人によって冷たくなったところを発見されたのだ。
指定された病院へ駆けつけ、対面したのは既にこの世の人でなくなった父親。部屋の中には一人の看護師と2人の警察官。
彼らからここまでの流れを聞いたところで、恵梨香は怒りが堪え切れず手に持っていたものを渾身の力を込めて父親に投げつける。バッグ、スマホ、そして持っていた香水の紙袋。
「っざけんなよクソジジィ!!てめぇ、いつまで人に迷惑か、けっ…あ、あ゛…ぃ、たぁ…」
恵梨香はその場に崩れ落ちる。瓶が割れてしまったのか、開けた覚えはないのに香水の香りがする。甘い、お菓子のようでいて、父親の飲み残したカップ酒の様な、嫌な臭いも混じったおかしな匂い。
おなかが痛い。おなかが痛い。おなかが痛い。
彼女を中心としてボルドーのスカートが色濃く染まる程に血が滲みだす。恵梨香の意識はそこで一度、途切れた。
恵梨香が目を覚ました時には、病室に寝かされていた。傍らには父親に向かって放り投げたバッグやスマホ、ビニール袋に包まれた香水の袋。もう一つの大き目のビニールは自分が着ていた衣類が見えた。
やっぱり瓶は割れちゃったのか、とぼんやりと考えつつ、今自分がどうなっているのか状況がよくわからずにそっと、上体を起こした。左腕に点滴、病院の個室、入院着。ざっと得られた情報はこの程度だ。
タイミング良く、ノックの音がして誰かが病室に入ってきた。プロポーズしてくれた恋人と看護師の二人連れで、恵梨香は少しほっとした。自分の状況がわからないまま寝かされているだけ、というのは落ち着かない。看護師がいるなら最低限の説明はしてもらえるだろう。
「山口さん、ご気分はいかがですか?吐き気やおなかの痛み、まだありますか?」
「いえ、痛みはありません。あの…私、いったい何が…」
看護師はチラ、と壁際に立ち尽くす恋人を見遣り、また視線を恵梨香に戻してから告げる。
「この後、先生から詳しくお話をしてもらうけれど…昨日、お父様が亡くなられた際に倒れたのは覚えてるかしら。ショックだったんだと思うわ。あなた、…妊娠していたのね。残念だけど…」
妊娠。全く気が付かなかった。無意識に、自由になる右手が下腹部に伸びる。何か看護師が言葉を続けていたが、耳には入らなかった。
いつの間にか、暫くの無言を置いて壁際で立ち尽くしていた恋人がベッドサイドに座っていることに気が付いた。恵梨香が顔を向けると困ったような表情になり、視線を逸らした。
男は言う。プロポーズはベッドの中の甘言のつもりだった、実は妻子持ちなのだと。今回の事で家族にバレた、とも。
「離婚されたら、文無し・職無しになるだろうな。今の会社も妻の実家関連だから。借金してでも慰謝料を、ってなるのは目に見えてる。正直に言えば、このタイミングで産む、なんてことにならなくてよかった。なぁ…一緒になってくれるんだろう?」
頭の中が追い付かない恵梨香を残して、男は立ち去った。
白い病室に取り残された恵梨香は呆然と、もう一度力なくベッドに倒れこむ。遠くに聞こえる赤子の泣き声が聞こえた瞬間に発狂せんばかりに声を上げて泣いた。