白い枕に紅の蝶
ウタが聞えた。ぷんとにおう、よい酒のような歌だ。
真っ赤な紅を三日月の唇の上に塗った女の笑みが頭に浮かぶ。
私はそんな想像をして、ようやく自分が瞼を閉じていると自覚した。
瞼を閉じて、眠っている。
後頭部には柔らかな感触があった。いつまでもくっついていたくなるような肌触りだ。
恐ろしいほど滑らかでいて、暖かい。
そのまま意識を手放しかけた私を叱咤したのは、とろけかけた理性だった。
おい、おい。しっかりせんか。
こいつはおかしいぞ、はよう目を覚ませ。
まだまどろんでいたい甘い気持ちを蹴り飛ばし、私はゆるゆると目を開ける。
深い眠りに落ちていたらしい視界は、しばらくぼやけて、何も映らない。
薄い肉のふたをぱちぱちと動かす。すると頭上から声がふった。
甘い。不透明な果実酒もかすむ、とろけた話し方だった。
「あら、もう起きようとしてしまうのです?」
幼子を愛でる母の如く優しい手つきが、私の乱れた前髪を直す。
私は上目使いに手と声の主を見上げる。
自分のいる場所を確かめようと、とっさに壁や天井のあかりを注視した。
汚れひとつない漆喰の壁には、どこにも光源が見受けられなかった。一見生々しいように見えたが、ところどころ非現実的なつくりをした空間だった。
むろん、私の部屋ではない。
飛び起きおうとするも、失敗した。
驚愕する私とは反対に、私の身体はゆるみきっていたのだ。全身がなまりになったようにちっとも動かない。
「ああ、いや、もう少し眠っていようかな」
ここはどこだ。オマエは誰だ。
疑問に満ちた脳内に反し、私の口からはそんな言葉がまろびでた。
我ながら、安心しきって寝ぼけた声音にぎょっとする。
「本当ですか? まあ、嬉しい」
女は口元に手をあて、ころころと笑う。
先ほどまで私の額をなぜていた指が、彼女の赤い唇をなぜる。
「お疲れでしたのね。ぐっすり眠っておられて。可愛らしい寝顔でしたわ」
「冗談を」
寝ぼけまなこでの私の答えは、まるで知己に対するものじみて気やすい。
褥で愛人と交わす睦言のようでもあった。
「かわいそうに。外は大変なことばかりなのですか」
「ああ、まあな。何もかもが耐えがたいことばかりだよ」
女の同情につられて、私は弱音を吐く。
どうしてか、私は女に寄りかかることを至極当然だと思ったのだ。
日頃はかたく蓋をした不満があふれかえる。
偉ぶるだけの無能な上司。手抜きのことばかり考える若人。文句ばかり達者な客人たち。
どれもこれもに胃が痛む。あれをしたいこれをしたいと望む気力もわいてこない。
成人したばかりの時は、自分の未来は広くまぶしく開かれていると信じていたものだ。
やりたいことは無限にあった。その時の自分と今の自分を比べて、空しい気持ちで床に着く日々。
「つらかったでしょうね。おいたわしや」
女は憐れむ。私は美しい女の同情に、ひび割れた心をわずかばかり潤す。
男児らしからぬ情けない姿であった。
だというのに、不思議と羞恥の念がわいてこない。
私の知性は女を怪しむ。しかし、心はすっかりこの女に包み込まれてしまっていた。
母の安堵と妻の安らぎ、恋人の甘いうずき。それらすべての感覚をこの女に対して抱いている。
まったく、奇異なことである。
だから流石の私も、この状況は現実のものではないと気づいた。
女もよくよくみれば、私の好みと理想があらわれいでた絶世の美女。
この状況を受け入れだした私に、女は仏が浮かべるようなささやかな微笑みを浮かべた。
後光の如き笑みは凍りついた私を照らす。私の苦しい気持ちが朝溶けする雪のようにかき消えていく。
そして女はどこまでも私に優しかった。力を抜く私に、続けてこのように語りかける。
「ではもうひとねむり、なされますか? それとも他のことをなさいます?」
「他のこと?」
「もちろん、あなたさまのなさりたいことを。今このいっときは、現世のいましめを忘れましょう。思うがままになさってよろしいのです」
ああ、そうか。きっとここは私の夢のなかなのだ。
得心いった。
この世のものと思えぬ美しい女。私の人に明かせぬ望みをあおるような言の葉。
私の恥ずべき心の底が見せた、浅ましい夢だ。
女は私の推理を、欲望ごと肯定するように触れる。
頭頂部から頬、顎、首筋。さらに下へ。白魚の色をした指が、表面だけするすると伝う。
「どうせここは夢のなか。わたくしはあなたのしもべ。なさりたいことをなさりたいようになさってくださいませ」
だんだん視界がはっきりしてくる。だがまだ頭には真白い霧がかかったかのようだ。
せっかく押さえつけた欲がうずく。醜い獣欲が。
こんな触れ方ではとても足りぬ。
「ええ、ええ。せっかくの夢幻でございます。幸福に溺れてしまいましょう」
女はやおやかな白い腕で私の頭を持ち上げる。
薄緑の着物が目に入った。ほどよい肉づきの手首が袖からのびる。
私をからめとるために動かされたそれに、ひとみをひきつけられた。
アコヤガイの内側を砕いて練れば、かような色になろうか。
女の白はありえないほど純真だ。それでいてみだらとは。
私にあまりに都合のよい存在に落涙する。
女のいうまま、私は惰眠と快楽をむさぼろうと心に決めた。
かすみで編まれた白い雲を思わせる夢。
ずっと沈んでいたくなる。
現実の私は、干したての白い枕に顔をうずめているのだろう。
しかし、夢のなかにあって私の枕をつとめるのは、二つの丸いふくらみだった。
汗と混じった濃密な匂いにクラクラする。
女は私の頭を己の胸元に押し付け、私のかたい髪の間に指を通す。
「わたしはあなたのすべてを受け入れます。さあ、つらい現実など忘れ、お好きなだけここに……」
「どうして?」
女が何故、私なんかにそこまでしてくれるのかわからない。
無償の愛が恐ろしかった。たとえ、夢だとわかっていても。
「勿論、あなた様が愛おしいからでございます」
女は完璧に微笑む。私がのぞむ通り、いや、それ以上に、欲しいものはなんでもくれる。
すべてを彼女に任せ、まどろむ。
なんてすばらしい夢なのだろう。ずっとここにいたい。
女の言うとおり、ここに居続けられたなら。そうとすら思う。
「ええ、ええ。でしたら、しあわせでおりましょう」
女の問いかけに、何も考えず頷く。
漆喰が私の頭の中にまで入ったのだろうか。ふわふわとしたここちよい感覚に、私の頭蓋骨の中身はすっかりふやけた白い塊になったようだった。
日にちという概念すら知らなかった童心にかえってしまった。
現実に戻らなくてはと焦る気持ちも、とうに失せた。
早くおきねば遅刻する。やらねばならぬ仕事がある。それらすべてを放り出し、ぎりぎりまでこの夢の続きをみたいと願った。
だからだろうか。
不思議なことに、私の眠りはしばらく続いた。
眠りのなかで眠りに落ちた時は、次に目を覚ました時は現実だとばかり思っていたが。
一度、二度、三度と眠って、起きるたび、美しい女が朝餉を用意して迎えてくれる。
私は考えた。これは胡蝶の夢ではないか?
現実にはひと時のことであっても、夢のなかで一生にも値する記憶を過ごす。
胡蝶の夢は繁栄に満ちたものというが、この夢では私と女の二人きり。冒険活劇の如き、八面六臂の活躍と称賛はない。
だが現実ではとがめられ、まゆを顰められる怠惰と欲望にどこまでもつかることができる。
誰にも傷つけられない、しいたげても憎まれない、愛され愛する歓びにあふれている。
常に私の心にすくっていた、誰かにやつあたりしたいほど高まった悪意と苦痛もだいぶん和らいでいる。
朝は女と穏やかに談笑し、昼は湯呑に注いだ熱い茶を縁側ですする。
夜はむろん、いうまでもない。
ここでなら私は醜い自分をみずにいられる。現実での無力に直面することもない。誰のことも傷つけないし、憎まれない。
なんと素晴らしいのだろう!
そんなかわりばえのしない、幸福な夢が回数を忘れるまで過ぎたころ。
その日は春のうららかな陽光が降り注ぎ、私はいつも通り、縁側に腰をかけた。
紫の座布団を敷き、よっこらせ。
そう間をおかず、後ろで障子が開かれる音がした。
スパンと小気味いい音に続くのは、品のよい琴の声音だ。
「今日も日向で暖まりますの?」
女は初めて会ったときより、ほんの少し親しげにからかう。
私は心なしかしっとりとした縁側をなぜる。昨晩、軽くふった雨のせいか。決して不快ではないが、風が通るとひんやりした空気が私をあおった。
「ああ。昨日は雨が降っていて、早々に切り上げてしまったからね。そのぶん、たっぷり日の光を浴びたい」
「あらあら、まるで盛りの野花のようですわね。ちょうど、今日はよい練り切りが調達できましたのよ。ご一緒にいかがですか」
「いただこう」
女は赤い着物を押さえつつひざを折る。
そうして縁側にかけられたひざのよこに、漆塗りのお盆に乗せた桜の練り切り菓子を置いた。
落ち着いた緑の小皿に乗せられた愛らしい色の菓子だ。黒に赤い縁取りがされた小さな食器も添えられている。
私は皿をとり、小さめに切り分けて、大事に、ゆっくりと食す。
苦めの緑茶と実にあう、ほどよい甘みが舌に染みる。
目を細めれば、女が満足そうに微笑んだのが気配でわかった。
彼女はひとまず用事は終わったとばかりに家の奥へ戻る。炊事や洗濯といった家事のためだ。
夢のなかなのだから家事は必要ない。だからこれは私の理想的な妻という演出の一環であろう、と私は考えていた。
実際、白い割烹着をまとって家事にいそしむ女は妖艶さに貞淑な妻の清楚な魅力が輪をかけて、ますます彼女を愛おしくさせる。
とけるこしあんの美味とこれ異常ない妻によいながら、私はこぎれいに整えられた庭に目をやった。
見れば、庭で梅の花が咲いている。
そこで小さな緑がぴょこぴょこと枝をわたっていた。
小柄な鶯である。
梅に鶯とはよくいうものだ。
今は亡き母も、丁寧に庭の手入れをしては、そう呟いたのを思い出す。
庭には小さいが枝の並びが秀麗な梅が生えていた。母のお気に入りである。
恐らく庭は穏やかで優しかった母の思い出を反映した場所なのだ。
不覚にも涙腺がゆるむ。かすみがかった視界は桃源郷を見るかのようだった。
春の象徴たる花と鳥。現実には滅多にそろわぬ組み合わせは、美しく調和するもののたとえであり、早春の訪れを指す。
二つの素晴らしいものがそろえばどんなに美しいだろう?
古代の人間が憧れた美景がここにある。
――ああ、夢の世界はなんと幸せなのだろう。
もういっそ目覚めなければよいのに、とすら思う。
私は空想した。亡くなった母が夢のなかで、鳥となって愛した梅に寄り添っている。
感傷に浸り切り、失った温かみに寄り添う。
「まるでここは天の国だ」
感嘆のため息とともに賛美がこぼれる。
すると鶯が軽やかに鳴く。春を告げる絶世の歌に聞き惚れかけた私はうっとりとまなこを閉じかけた。
しかし、その小さな翼がはばたくさまをみたくなる。今にもくっつきそうな薄い皮を必死に開ける。
鶯は幼子がつく毬のように、枝の上で跳ねた。
花と花のあいまで目移りした後、ひとつの花に定めたようだ。
つぼみから開いたばかりなのだろう小ぶりな梅に近づく。
見ているだけで心身がほぐれる光景をぼうっと見つめていると、突如、鶯は花びらを嘴に加えた。
あれよあれよという間に、酸い赤色を啄む。
私はそれが母からの忠告に思えた。
ほら、早く起きなさい。でないとこわいおばけに食われてしまうよ。
幼子の頃、布団のなかでぐずる私をそういって脅して叱った。
なんだか急に居心地が悪くなる。重く沈んでいた腰をあげ、縁側に立つ。
「帰らねば」
でないと母に叱られる。
既にこの世にない母が、急に夢に現れ、したたかにしかりつけられるのではないか。
そんな妄想にかられる。
それも次は、女とむさぼりあっているときに現れるきがした。
未婚の女と寝る不純とふしだらをせめたてられ、半ば裸のまま家中を引きずり回される。
ありえない? 否。
ありえないほど愛おしい女がいるならば、亡き母親とて生者にとびかかろう。
夢にすっかりぼけた私は、自分の妄想をせっぱつまった危機だと思い込む。
肩にかけていた上着を羽織り直す。
時折庭を散歩するため、縁側近くに置いていたつっかけに足の指を突っ込む。
しかし、あれほど夢につかっていた事実がすぐに薄れるはずがない。
「あら、どこにいかれるのです?」
女は突如縁側に現れた。
夢から覚めたくない私の心。女はそのものであるかのようだ。
もう少し見ていたいと思わせられる大和撫子然とした笑顔で、にこにこ私を見つめてくる。
三日月形に細められた黒いまつ毛が、ぽっかりくりぬかれた穴に見えた。
「そろそろ夢から覚めねばと思ってね。ホラ、あちらにも私の生活があるでしょう。このままではうつつを忘れてしまいそうだ」
現実にはいない。妄想の女だというのに、私は言い訳がましくまくしたてる。
この女に嫌われたくないという思いがあった。
幸せで淫蕩な今日を終わらせよう。
私はこっそり、それはこの女を殺すことなのだと思った。
夢で出会った存在だ。夢が覚めれば、夢から生まれた女もまた消える。
知性は「夢のなかなのだから私の望み通りになるに違いない」と馬鹿に仕切っている。
同時に「もしも消されるのが私ならば、ふざけるなと怒鳴り散らす。殺さないでくれ、一人にしないでくれとすがりつく」。そう考えもする。
正直にいえば、さらに欲もあった。
女にすがってほしい、私の庇護欲と自尊心を満たしてほしい。
最後まで、そのような類の欲望である。
女は意外にも、笑みを深めた。
「貴方がそう望むのならば」
女は止めなかった。わずかな悲しみを浮かべただけで、あの素晴らしい微笑のままだ。
真っ赤な唇を塗った唇が弧を描く。
ぽろり。女の赤い口紅がこぼれた。
私は目を見張る。
そんなことはあるまいと思ったのだ。
私の目玉の奥に鎮座する水晶体が働いた。
無意識にこらした目は、赤の正体を見破る。
大きなひとしずくが垂れたとみえたのは、しかし、紅ではなかった。
美しい文様を大きな翅に宿した、くれないの蝶。
ぽろぽろ、ぽろり。
小ぶり大ぶり、大きさは異なるが、どの蝶もまったく同じ文様を備えている。
何度も重ねた艶めく唇の形がわからなくなっていく。
蝶は次第に量を増す。
女の白い肌。ぬばたまの髪。夜に照らされた瑠璃の瞳。
すべてくれないに塗りつぶされる。
「ですが、わたし、まだみつが足りませんの。もっと、もっと、旦那様の花のみつが欲しいですわ。だって、あんまりにもおいしくて。苦しみと逃避に燻されて、香ばしくて」
紡がれる姿と言の葉は完全に異形。夢の存在とすらいえない。
「け、化生め!」
私は震え上がった。満たされた私が崩れ去る。元の、弱くてみじめな私が顔をだして叫びをあげた。
信じられない気持ちはあったが、それ以上に恐怖が私を包む。
すぐさま女に背を向け、走り出す。
されど、理不尽が私を襲う。
女から庭に視線をもどした途端、そこは庭から道へと変わっているではないか。
整備などされていない、大きな石がごろごろと転がる田舎道。
「だれか! だれか! 助けてくれ!」
すいかの声をあげても誰もいない。
朝方の清らかな光が見渡す限りを照らしているのに、鳥の声ひとつしないのだ。
どこかもわからぬ。見覚えのない道をひたすらまっすぐに走る。
「どうして逃げなさるの? たくさん愛していただきますのに。それがわたしの幸せ、あなたの幸福ですのに」
女は私を夢に誘う。
私は女に答えない。ただ阿呆になって人を呼ぶ。
「現実を失ってもなあんにも困らなそう。ああ、慰めてさしあげたい、愛したいの、愛されたいの……」
逃げる私を女が追いかけてきていた。振り向かずともわかる。
足音もなにもしない。蝶の羽音が人の耳に聞こえるはずもない。
しかし、麻薬のようなちからをもった蠱惑的な声は、一向に小さくならなかった。
無我夢中でかぶりを振る。すっかり陶酔はさめきった。
私は具合の悪くなった夢を嘆く。どんなに快楽に満ちていても、不明のものにとらわれることには、どうしようもない恐怖があった。
未練ともいいようがない、純粋な不安だ。それが現実への嫌悪を凌駕する。
「私にはこの夢の正体がわからぬ! 夢なのか、悪夢なのか!? ああ、わからぬとは恐ろしい、早く覚めてくれ!」
「なるほど。だからお逃げになるのね? 決して、わたしが嫌いになったわけではございませんのね? あな嬉しや」
神でも仏でも構わぬ。あるいは訴えれば、目が覚めるかもしれない。
つっかけでは何度も転びかけ、そのたび肝が冷えていた。追いつかれたらどうなる?
そう思っての叫びに、女はなぜか喜ぶ。
「でありますれば。夢とは正体の曖昧なもの。それがおいやというならば、わたしが妥協すればよいだけのこと。何、この身はあなたの夢の化身ですゆえ」
荒唐無稽なことを言う。
しかりしかりと己を肯定する女が私へ向ける感情は、いとしい夫を追う妻のものだった。
己を形作る半身を決して見捨てまい。
そのような、理想的な妻の夢に、ほんの一瞬未練が生まれる。
「それでよろしいのです、旦那様。わたしにすべて任せ、時の流れるままになさいませ」
凛とした誓いに、私はどう答えたものかわからない。
漠然と、このまま女にすべてを任せれば、気持ちのよいまま終われる。だがそれは人の道にそぐうのか。
失えない欲望と築き上げてきた道徳は、どこまでも私を困らせ、迷わせた。
私は助けを求め、走って、走って、走り、走った。
何度も背後から、女の肯定と愛の睦言を受け取って。
顔の横を、何匹もの蝶が川の流れの如く乱れ飛ぶ。
時の感覚もなくなり、いつまでも逃げ切れもつかまりもしない、中途半端な地獄が続くかと思われた。
しかし、気が付くと。そう、認識もしないうちに。
ある時突然、ふっと、何もかもが真っ暗闇になっていると気が付いた。
「いつのまに?」
仕事で疲れ切って家に帰ると、いつのまにか眠りこけた時のようだ。
目が覚めてから、ようやく眠っていたのだと気が付く。
私はしばらくぼけっと天井を見つめてしまった。
天井である。古ぼけた、皮をはがれた幹の色をした天井。
つまり、私の部屋。現実の部屋である。すなわち、夢ではない。
まさにそう理解するのに、たっぷり数分を要していた。
夢から抜け出た。あまりにどっぷりつかっていたものだから、事実を受け入れるのに、随分脳に栄養を回さねばならなかった。
私は布団にくるまれていて、寝返りをうったせいで寝間着は随分と乱れていた。
上半身を起こすと全身を鈍痛がさいなむ。
夢のなかとは真逆である。
よほど深く寝入っていたようだ。さらに起きようとすると、身体のあちこちで「ぱきり」と空気がつつぶれる音がした。
よい夢かと思いきや、とんだ悪夢であった。
額に伝う汗をぬぐう。日向で火照った腕がべっとりと濡れ、薄い毛が肌に張り付く形に倒れた。
まるで本当に長距離を全力疾走したあとのようで、ぞっとしない。
天国かと思いきや、ひどい夢をみたものだ。
こんなことなら、よい夢であったうちにもっと楽しんでおけばよかった。
あんなに恐ろしがった自分が馬鹿らしくなって、乾いた笑い声をあげる。
笑っているとだんだん気分が軽くなってきた。
おかしくすらなってきて、天井を見上げて腹から笑う。
首をあげると、部屋の隅に這った蜘蛛の巣が目に入った。
細い細い糸はほこりでおもく垂れている。
その真ん中に、薄暗い赤の翅をもつ蝶がかかっていた。
濃い血の一滴が重く垂れたような蝶だ。
私の悪夢の隙間を縫い、こぼれてきた。そのような虚妄が興奮した脳汁とともに湧き出てきた。
喉の奥からカエルがつぶれた悲鳴があがる。
蝶は巣にとらえられている。
しかし、私には蝶があの女に思えて仕方がない。
すなわち、蜘蛛の巣は私だ。
とらえているようで、支配しているようで。操られ、食まれるのは私!
自然の摂理など、あの虫の美しさ、魔性の前では、なんのちからも持たない。
あれは私の肉ではなく、魂を、心を食らうのだから。
おののき、布団の上に無様に転がって震える私の耳元で、声がした。
甘い甘い、砂糖水の囁き。逆らい難い安眠の誘い。
「いつでもお待ちしておりますからね」




