表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

昭和40年代、若き哲学徒の青春彷徨と修道逡巡、その2、

作者: 舜風人

思い出せばキリもない、昭和42年。さてそのころ、



くしくも、1966年、河出書房と、中央公論社から、「世界の大思想」「世界の名著」という思想書のシリーズ本(全集叢書)が刊行されたのである。

若き哲学の徒を自任していた、田舎の少年は、町のただ一軒の書店で、それを知り、欣喜雀躍したのであった。このシリーズの中のいくつかは、は今でも私の、愛読書?です?

それまでは、哲学書など、こんな田舎では、岩波文庫しか、なかったからである。

角川文庫にも多少哲学関係の本はあったがやっぱり、質と量で岩波文庫でしたね。

他には哲学とか、思想関係の翻訳はこんな田舎の本屋では、皆無?に近かったといってもよいでしょう。

昭和でいえば42年ですよ。そんな昔に、でも突如として?

哲学ブーム?の翻訳本がそろって出版とは?

しかもこのシリーズは、いずれも当時の一流の学者の本格的な、まじめな翻訳です。

今でもその価値はそれほどは減じてはいないでしょう。

高校に入った私は、洋画と哲学のとりこになってしまい、肝心の学業はそっちのけで、

町にただ一軒の洋画館に入りびたり、あるいはマリにただ一軒の本屋で、岩波文庫の宗教書や哲学書をわかりもしないのに?読み漁るという体たらく。

そんななる日、親友のK君が、学校での部活中に急性心不全であっけなくも急死です。

一帯なぜこんな若くしてK君は死ななければならなかったのか?

生と死の不可思議、不条理に悩んだ私は、

それを契機にますます神秘的分野にのめりこんだ私は、


、田舎少年の私は一念発起?して哲学科を目指すことになるのです。

哲学科に行けば哲学ができる、教えも受けられる。あわよくば哲学者にもなれる。

まあそんな少年の夢妄想?ですよ。


ところがいわゆる受験勉強というのは全くしてないから。第一志望の東京大学インド哲学科は全くムリですし、仕方なくやっと入ったのが某私立大学の哲学専攻科です。当時哲学科というのは結構どの大学にも設置されていて、東京だけでも10校以上ありましたね。

しかし田舎からはるばる大東京にまで出てきた私を待っていたのは、あまりにもみじめ極まる裏長屋での生活でした。

まるで「神田川」の世界です。三畳一間の築、50年以上のホント寝るだけの下宿、机一つ置けません。

今でいえば、カプセルホテル。です。

そこで寝るだけ、キッチンなんてありませんし、トイレも共同。大学の食堂で昼食が唯一のまともな食事です。原則食事はそれだけです。


貧乏学生の典型のような大東京での裏長屋暮らし。


そしてそれ以上に私を絶望させたのは、大学そのもでしたね。

大學闘争華やかなりしころ、年中大学封鎖で休校です。

それ以上にがっかりしたのは、哲学科の授業でしたね。

必修の体育っていったい何ですか?そんなことしにわざわざ田舎から来たんじゃないんですよ。

一般教養のムダ。

そしてさあ肝心の哲学専科の授業も、

ただ哲学史の講義だけです。

あるいは倫理学とか美学とか社会学とか、のその教授の書いた本での講義だけですよ。

原典への挑戦というような科目がほとんどゼロなんですよ。

上っ面の概論か、さもなくば、その教授の書いた自分の本の講義だけです。

スピノザのエティカについて教えてくれよ。カントの純粋理性批判を読み解いてくれよといっても駄目なんですね。

こんなことで私は哲学者になれるんだろうか?

なれるわけないですよね。

哲学科出ても哲学者にはなれない、

それを痛感しました。で、私は古書店で、さっきの「世界の大思想」シリーズを自分で買って、

それらの巨匠たちの牙城に一人ぶつかってまあ砕け散っていた?ってわけです。

大学ではそんな肝心の原書原典の読解の秘鍵は何も教えてくれないのですから。

そういう意味ではこのシリーズは貴重な原典全訳本でしたね。


当時の評論家で哲学者?の猪木正道氏はこういっていましたね。

「誰それの哲学の解説書とか、研究書とかそういう、原典以外のものを読むのが一番ダメな方法だ、そんな解説書なんかじゃなくってまず、その哲学者の原典にぶつかりなさい、原典にこそ真の鍵があり、原典に挑戦することでしか、真の哲学は見えてはこないだろう」

まさにごもっともな提言ですよね。


この「世界の大思想」シリーズで、特にお気に入りだったのが、


スピノザの「エチカ」

ヘーゲルの「精神現象学」(これはのちほどのゼミの副読本でしたからね)

ニーチェの「権力への意志」

パスカルの「パンセ」

モンテーニュの「エセー」  などなど、、。


世界の名著シリーズでは

バラモン教典、原始仏典 : 責任編集 長尾雅人

大乗仏典 : 責任編集 長尾雅人

この2冊には目が醒めされました。


インド仏教の原典訳で、大乗仏教に目覚めましたね。

竜樹の「空論」を知ったのもここからです。

唯識派を知ったのもここからです。

フロイトよりも1000年も前に、すでに深層意識を発見していた、

それを「阿頼耶識」と名付けていたなんて、すごいですよね?


ちなみに上記の本は今でも大事に持ってますよ、

まあ言ってみれば哲学者になる夢破れた私の記念品 (スーベニール)?みたいなものでしょうか?

青い表紙のヘーゲルの「精神現象学」懐かしくも愛おしい哲学書です。

樫山金四郎教授のこの訳って結構、名訳じゃないですかね。のちに出た、

岩波のヘーゲル全集版よりも、私はこっちのほうが分かりやすいと思いますよ。

ところであの青い表紙の装丁、がなんとあの、東京オリンピックのデザインで有名な。亀倉勇作だったとは。

このシリーズ、

他のも、結構名訳ぞろいじゃないですかね?

「世界の大思想」シリーズは今でも好きな本ばかりです。

まあこの手の原典全訳の哲学書が、今やもうどこの出版社も出さない(出せない?)現状ですから。

「世界の大思想」シリーズの全訳は今でも貴重ではないでしょうか?


ところで「世界の名著」シリーズのほうは原典全訳ではないので、わたし的には物足りない本が多いですね。

抄訳が多すぎます。完訳がほとんどないです。というわけでやはり、世界の大思想のほうに軍配があがりますかね。なんせ、「世界の大思想」のほうは「原典完訳」と堂々と銘打ってるんですからね。

抄訳では、原典の深いあじわいと、深いコクが失われがちですものね。

さて、


まあ今思い出してみると、無味乾燥な大学授業でしたが。そんな中でも、ゼミのヘーゲルの「精神現象学」の読み合わせの授業だけは記憶に残っていますね。

難解さではナンバーワンといわれるこの本を教授とゼミ生で読み解いてゆく。、

まあ当時の私にいかほども理解できたか今思い出してみてもうそ寒い?理解だったとしか思えませんが

。でもなんかわかったような気分で高揚感に包まれたことでしたね。先ほどの樫山金四郎教授の翻訳本を副読本にして一字一句から読み解いてゆく。これこそが哲学科の授業でしょうね。

まあとはいえ、、。

私がヘーゲルをある程度深く、理解しえたのはそのご、ずっと後で、某解説書?を読んでからですがね。

ちなみにその某解説書というのは、イポリットの、「ヘーゲル精神現象学の生成と構造」というとても分厚い2冊本ですよ。この本も今もって手元にありますがね。


さて、

独逸語の授業も楽しかった?です。楽しかったというといかにも浅薄ですが。このドイツ語の授業が契機で、私がドイツロマン派に目覚めたのですから、まあ人生何がきっかけになるかわからないもんですよね。ドイツ語の語学授業では、今も記憶に残ってるのは、グリム童話の原語を読解したり、つまり読んで訳すのです。

その辺りからグリム童話の真実に目覚めて、ドイツ文学史も自分なりに研究するようになり、

やがてドイツロマン派に運命的に出会うということでしたね。

ホフマンのゴシックな世界に戦慄し、、。

アイヒェンドルフの清澄な夜の森の乗馬と散策に心洗われ、、。

ティークの創作童話に胸をえぐられ、、。

ノヴァーリスの夜の賛歌に酔いしれて、

ブレンターノの「カスペルルとアンネルル」の運命秘話に涙して、、

いつしか気が付けば私はドイツロマン派のとりこになっていたのでした。

まあドイツ語自体は、、私の怠慢の故か?今だにたどたどしくしか読めないのが残念ですけどね。

独逸語は上達しませんでした。グリム童話の原典くらいはどうにか読解できますが、。

ブレンターノの「ゴドヴィ」という長編小説を全訳出来るほどのドイツ語力は残念ながらありません。悔しいです。といって?今更これから、ドイツ語を学習しなおす気もありませんがね。


ところで大学時代の、淡い恋愛はなかったかって?

そもそも、、哲学科には、、女学生がほとんどいませんですからね。

いても、、マルクス主義を学びに来ましたみたいな、、女闘士見たいな人ばかりでした。

当時の哲学といえば即、マルクス哲学でしたからね、そんな大学紛争華やかなりしころの大学の哲学科でした。私は言うまでもなく

神秘学的な方面の哲学指向ですから、新プラトン主義とか

ヤコプベーメ、エックハルトですから、、

マルキストの女闘士と話ができるはずもありませんよね。

「世界は階級闘争だ、人民よ団結せよ、」そんな女闘士と無理でしょ。

私は瞑想とイニシエーションで、サトリを得たい?と思ってるんですから。

正反対です。

まあこういうサトリ嗜好?というのが誰にもあるはずで、

その受け皿が当時は皆無でしたからね。

革命だ、人民闘争だの一点張りですから。

そうした、隙間に?うまく取り入って?

受け皿になったのがそう、オウム真理教だったのでしょうね。

オウムができたのが1984年ですから、

私のころにはまだなかったのですが、

大学内にはオウム以前のカルト宗教系の御誘いも結構ありましたね。


ヨガの会系もどき、、

カルト系のキリスト教まがい?

自己啓発系の金取り詐欺系?

まあ私はおかげでそんな絡繰りに通じていたので、すでに自己修行で、サトリの、意味無意味を自己了解してたので、そんなカルト系には、引っかかりませんでしたけどね。


さて大学生の私といえば、、

現実の私はといえば、、大都会で貧しくみじめな私はほんとに孤独でした。

まるであの「アンゼルムスのようにね。アンゼルムスにはやがて、緑の子蛇が、、そう

麗しのセルペンティーナが、救済の女神として現れるのですがこの私にはいくら待っても、

セルペンティーナは現れませんでしたけどね。先ほども述べたように、、そもそも、、哲学科には、、女学生がほとんどいないのです。


「黄金の壷」の末尾にこうありますね。


「ああ私はといえばやがて夢醒めれば裏長屋の汚い下宿部屋に戻るのだ、そうして世の中の雑多なみじめな生活に再び、押しつぶされるのだ。

するとそれを聞いていたリンドホルストが。こう言う。

「何をおっしゃる?、そんな泣き言言ってどうなる?あなただって今アトランティスでの夢の暮らしを垣間見たではないですか。あなただってあの夢の国に、貸家をお持ちなんですよ。

そもそもアトランティスの国というのはですね、実はポエギー(詩)の国のことなんですよ。

その詩の国のあなただけの貸家に、いつでもあなたは行くことが御出来になるではないですか」




さてそんな孤独で、、というか孤絶した私の生活で唯一の楽しみは、古書店巡りでした。

私のアトランティスは古書店のうずもれた古本の中にあったのです。

ファンタジーへの逃避?

まあそういうことでしょうね。

大学の授業が終わると、その足で電車に乗り、神田のいわゆる古書店街へ、

そのころまだインターネットもなくて本(書物)こそが文化の中心でした。

私の狙うのはもっぱら、サブカル系の宗教系の本、あるいはドイツロマン派の古い翻訳本です。

ヤコプベーメ、えっくはると。十字架のヨハネ、聖テレジア、聖フランシスの小さな花。

などの古い翻訳本をどれでも100円のぞっき本コーナーで見つけてほくそえんで手に入れたものでした。


あるいは当時私は、たま出版のエドガーケイシーシリーズとか、

大陸書房の異世界モノとかあるいは、

心霊科学スピリチャリズム系とかも、独学していたので、

自己修行も始めていました。

瞑想や、呼吸法ですね。

あるいは、ホフマンとか、アイヒェンドルフの古い翻訳本もいくつか見つけて今でもそれは大事に持ってますよ。こういう本は誰も見向きもしないので店頭のぞっき本コーナーに山済みされている中に埋もれているんです。

店の奥のガラス棚には、夏目漱石の初版本とかそういうのが高価でうられていますが。

私の目あてのドイツロマン派の古い邦訳本など、当時は、ただ同然でしたね。


さてそんな私もやがて、4年間の大学生活を終えて、

、私は大学を卒業することになり、、結局卒業論文はニーチェの「権力への意志」(ビーレ・ツール・マハト)の、研究解読をテーマに、ということに、

これも実は、、あの世界の大思想の「権力への意志」をほとんど借用させていただいいての、私の解釈研究でしたがね。


指導教授からは「君、大学院へ行ったらどうかね?」とお誘いも受けたが、私は大学を出るのがギリチョンパだったので、大学院へ行く金などあるはずもなかった。

大学出たらすぐにでも食うために仕事を見つけなければ、

就職難で、しかも哲学科ですからね。50社も受けてみんな全滅。

やっとありついたのが遠い田舎のだれもが嫌うような?とあるお仕事でした。


かくして私は都落ちで、、あれから40年。ただただ食うために?働き?日常生活に完全に埋没しきり、、


結局私は、、

哲学者にも、魔法使いにも、新興宗教の教祖にも、なれなかったがどうにかこうにか死にもせずにこうして生き延びてはきた。

今もそうして私のささやかな本棚には、あの青春の哲学徒の忘れ形見、

そう、「世界の大思想」の亀倉勇作デザインの青い表紙の哲学書が、10冊ほど並んでいるのです。

よくもまあ、無くしもしないで。

懐かしくも

哀しくもある

これらの哲学書

今も手にとれば青春のあの高揚感が

ふと老体にも

萌すのかもしれない。




㊟この物語は、完全なフィクションであり、現実の一切と、なんの関係もありません。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ