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終章

終章 律、決意する


 示堂桜、眞峰柚希の両名が無事退院し、学校に顔を出したのは事件から三日後だった。表向きは食あたりによる極度の下痢症状ということで片付けられたらしい。恥じらいある女子中学生の欠席理由にそれはどうなんだ、と律は思いもしたが、事件性はあるのに、外傷もなければ犯人の目撃証人もいないということで、警察は表立った捜査を取りやめ、学園側も二人の両親も「事故」という結末で全てを終わらせることを望んだようだった。魔女が関わっているなんて言っても到底信じられる話ではない。好都合じゃ、と、林檎の一言で、その件は律たち前世組の間では二度と持ち上がることはなかった。

だが、肝心の律は、イーナの精神魔法で生み出されたあの世界での一件が忘れられず、二人に声をかけられても、引きつった蛙のような声で、醜い福笑いのを彷彿させる顔でにたにたと気持ちの悪い表情を浮かべるばかりだった。二人が「本当に」元の二人であるということはすぐに分かったが、それでも、あの一瞬に味わった不安や恐怖は一生忘れるものではないだろう。友人の大切さをしみじみと感じながら、律は久方ぶりに心休まる親友たちとの時間を過ごした。

椋子とは、事件終結以来顔を合わせていなかった。彼女も彼女で登校することがなかったのだ。家の場所は林檎の眷属が知っているようだったが、押しかけるよりも、彼女自身が心の整理をつけて再び姿を見せてくれるまで待とうと思った。奇しくも、椋子もまた事件から三日後に学校へやって来た。再会した場所は学食で、律がチャーハンセットをトレーに載せて桜と柚希が待つ窓際の席へ向かうと、三つ編み姿の後輩が立っていたのだ。

そして、彼女は律が見ていることも知らずに、一足先に食事を始めていた桜と柚希の両名に向かって深く頭を下げた。それを見て呆けたのは、二人ばかりではない。律もまた、トレーを傾けてしまい、スープを零しそうになった。たまたま近くを通り過ぎた高等部の先輩に傾いたトレーを支えられ、どうにか事なきを得る。自分の左半身が熱いスープ塗れにならなかったことに感謝しつつ、律は椋子たち三人を少し離れた位置から見つめていた。

人の多い学食内では、彼女たちのやり取りは聞こえてこない。ただ、椋子はきっと謝罪しているのだろうし、なぜ謝罪されているのか分からない二人はただ茫然としているのだろうなと推測した。桜が立ち上がり、椋子に近寄る。あたふたする桜に追従する形で、柚希が椋子を覗き込んだ。それでも、椋子は顔を上げない。すみませんでした、と、ひたすら謝罪しているに違いない。

ふ、と口元が緩んだ。不謹慎だと咎める心は確かにあるのに。

そして、律は三人の元へと歩き出した。


 ◆〇◆〇◆


「って言うことがあってねー。椋子ちゃんも丸くなってくれたっていうか」

 放課後の保健室。真木がノートパソコンに向かって鼻歌交じりにキーを素早くタイピングしている。もちろん、律は彼女に話しかけていたわけでも、一人でぶつぶつ言っていたわけでもない。ソファに腰掛ける律の隣にはキッカがいて、向かいの丸椅子にはテーブルに肘をついた刹真と、長い脚を窮屈そうに抱えている林檎の姿があった。

なぜ他校の「男子」生徒と高等部の生徒が、中等部の保健室にいるのか、ということに、最早誰も突っ込む者はいない。おかしいことを「おかしいよ!」と大声で叫んだところで、もう受け入れるしかないという冷たい空気しか返ってこないのだ。律や真木以外の関係者に見つかればもちろん大事だが、放課後に保健室を訪れる生徒は殆どいない。文化部が幅を利かせるこの学校において、部活動で怪我をする生徒は稀な存在だからだ。

 冷蔵庫から冷えたジュースの缶を二本取り出した律は、オレンジジュースをキッカに手渡し、自身のサイダー缶のプルタブを引っ張った。ぷしゅ、と炭酸が弾ける音がする。「で」と、刹真がつまらなそうに目を細めた。

「その肝心の猟師さんはなんで来ないわけ、ここに。色々話があるって言ったよね? 毎日毎日、あの猟師さん目当てでこんなとこ来てたのに」

「まだ顔は合わせづらいみたい。もうちょっと待ってあげてよ。やっぱり複雑だと思うし」

「ちょっとって、いつまた魔女の襲撃があるか分かんないのに悠長すぎるよ。魔女の支配を脱した以上、猟師さんには赤ずきんちゃんの眷属として傍にいてもらわないと」

 俺がずっとこの学園いることはできないしね。

不服そうに呟く刹真に、「きも」と、林檎が囁く。すかさず刹真は林檎の丸椅子の足を蹴りつけた。ぐらぐら揺れる椅子から落ちそうになった彼女を、慌てて眷属たちが支えた。

「何をする腐れ狼! 今すぐくたばれ」

「お前こそ野垂れ死ね毒林檎」

「ほぉ、獣風情が。いいじゃろう、毛皮にして毛布代わりにしてやるわ犬畜生」

「やれるもんならやってみろ、そのご自慢の顔にご自慢の氷ぶっ刺してメイクしてやるよ」

 テーブルを叩き割らんとする勢いで手をつき、両者が立ち上がる。縄張りを争う肉食動物のように牙を向け合う二人の間に、慌てて律は入り込んだ。

「ストップ! 話は途中だよ!」

 声を大にする少女に、二人は視線をぶつけ合いながら大人しく席に着く。それでも、剣を収める気はないのか、睨み合う二人の殺意は延々と交錯し合っていた。とにかく、と一言前置きし、律は咳払いをする。ずー、とジュースを啜るキッカは、静かに事の成り行きを見守っていた。養護教諭の鼻歌はまだ続いている。

「私、決めたの。赤羽律としても、赤ずきんとしても、魔女と戦う。この世界で生まれ変わった意味を、もう一度深く考えてみたいの。幸い幻俗もできるようになったし、もう守られるばかりじゃない。一人の勇士として戦ってみせるから、大丈夫」

 どこか誇らしげに薄い胸元に手を当て、律は告げる。ちりん、と、風鈴が鳴った。

誰も何も言わなかった。

暫くの間、世界は空白に包まれていた。

あまりにも周囲が無反応すぎて、律は苦し紛れに、もう一度同じ宣言を繰り返す。真木が別の歌を鼻で奏で始めた。そこで、律は今の今まで真木白亜の存在を失念していたことに気がつく。頭の痛い――いやイタい会話だと思われていたらどうしよう。普段あれだけイタい女教師だと罵っているのに、傍から見れば、魔女だ生まれ変わりだなんだと、完全に夢想がちな頭の緩い少女の戯言にしか聞こえまい。

一瞬にして表情を暗転させる律に、刹真が苛立たしげな声を出した。

「だから? だからなに。ちょっとこの間のイーナ戦で俺に褒められたからって調子に乗ってるわけ? 結局あいつ倒したのは俺だ、」

「妾も、じゃ」

「……俺とこいつだから」

 逸早く訂正の言葉を挿んできた林檎に譲歩する形で、刹真が言い直す。それこそだから何? とでも言いたげに目を瞬かせる少女を前に、少年は眉間の皺を濃くした。

「率直に言うとさ、君、最弱なんだよ。今回は君の魔法が上手く作用したみたいだけど、実際、君の魔法は本人すら何が起こるか分からないランダムマジック。前世において、俺たちは君のその欠陥魔法で幾多の危機に陥った。味方に不利なバッドステータスを引き起こされたり、遭遇した魔物が強大化したり、戦闘中にいきなりばらばらの場所に飛ばされたり。完全に運試しでしかないその魔法を、君が使いこなせたことは、はっきり言おう、一度もない」

「お主に運はほぼない。最悪じゃ。年がら年中大凶じゃ。アナザーなら死んでる」

「使える魔法はランダムマジックのみ、効果は発動するまで誰にも分からない。そんな君が、一人の勇士として戦う? はっ」

 目尻を下げ、口角を片方だけ吊り上げる刹真の表情は、筆舌に尽くしがたいほどの嘲りと侮蔑に満ちていた。頬杖をついた彼は、目力を込めて律を全力で睨みつける。

「ちゃんちゃらおかしいんだよデコ助野郎がッ!」

 そうじゃそうじゃ、と横で追従する林檎が、眷属に命じて紅茶を持ってこさせる。一人優雅にティータイムを始める彼女と、文句は許さないと言わんばかりにきつい視線を浴びせてくる刹真に、律はぐぬぬと唇を結んだ。そして、またも傍から聞けば耳を疑うような会話が繰り広げられてしまったことに、一人頭を抱える。真木の反応がないだけに、余計色々なことを勘繰ってしまい、律は髪をわしゃわしゃと掻き乱した。

「確かにー、りっちゃんが一人で魔女と戦えるかって言ったら無理よねぇ。まあ白野さんも学園にはいるし、この際、猟師ちゃんがいなくてもいいんじゃない?」

 一瞬、誰が何を言っているのか、律には分からなかった。中腰のまま、膝を折り曲げ、両手で髪を掻き乱しながら不自然に停止している律は、奇抜な画家に描かれた、人類には早すぎた芸術作のようなポーズのまま声がした方に顔を向ける。そして、身を落ち着かせるように、テーブルに置いてあったサイダーに手を伸ばした。

「よく言うよ。今回も、あんたが加わってればすぐに片がついたのに」

 刹真が嫌味たらしく吐き捨てると、真木はノートパソコンから目を離して両手を組み、ぶりっ子ポーズをとる。身を過剰に振り、彼女は目をわざとらしく潤ませた。

「え~、だぁってぇ、可愛い孫娘のことだもん、心配だよぉ」

 きょるんきょるんと瞬きする真木の瞳には、無数の星が飛んでいるかのようだった。演技もここまで熱が入ると萎えるもんだな、と刹真が内心で呟くと、ぶば、と蝿の大群が押し寄せたかのような汚い音が液体と共に周囲へ撒き散らされた。律の小さな口から勢いよく噴き出されたサイダーの飛沫が、林檎と刹真の頬に付着する。びきり、と両者の血管が音を立てて拡張されたが、どうにか怒りを押し込めた二人は律の傍からさっと身を引いた。

 あーあー、とキッカが呆れたような声を出す。木の床は噴出されたサイダーで濡れ、それをせっせと林檎の眷属たる七人の男子小学生たちが拭き始めた。

「お、おば、おばあちゃん!? おばあちゃんって、おばあちゃん!?」

 組んだ指先の上に顎を載せた真木は、若々しい顔をにっこりと笑ませる。更に深く頭を抱えた律は、よろよろとその場にしゃがみ込んだ。

「おばあちゃん……マイグランドファーザー……」

「りっちゃんそれ違う、ファーザーじゃなくてマザーよ」

「……真木先生が、シロおばあちゃん……?」

「なんでそんないかにも変質者に向けるような不審の眼差しで見つめてくるのよ、挨拶されただけなのにいきなり通報する人並みに酷いわ」

 憮然とした表情で律を見つめる真木は、やれやれと言いたげに首を振った。衝撃が収まらないのか、律は混濁した目で真木をテーブル越しにそっと見つめていた。敵情視察に震える新米軍人のように委縮しきっている律に、周囲の人間たちは揃って溜息をついた。

「じゃ、じゃあ、最初から全部分かって……?」

「当たり前でしょ、りっちゃんたちより先にこの世界に生まれ変わってたのよ? そこのキッカちゃんが人間じゃないってことも分かってたし、りっちゃんの正体だって猟師ちゃんの正体だって、最初から気付いてたわ」

 コーヒーカップに口をつけ、真木は唇を尖らせた。

 蒼くなっていた律は、恐る恐る立ち上がり、溜まっていた唾を飲み込む。

「もしかして……私だけずっと何も知らないままだった……?」

 情けないその言葉に、キッカを除いた全ての人間が、何を今更と言うように声を出して頷いた。テーブルに手をつき、少女は項垂れる。

「うううう……。酷いよぉ、みんな一言でも私に声をかけてくれればよかったのに……」

 泣き言を漏らす律に、各自が思い思いに表情を変えた。林檎は腕を組んで刹真を睨み、その眷属たちは肩を竦め、真木は愉快そうに唇で三日月を作り、キッカは不思議そうに首を傾げ、そして刹真が、一瞬だけ唇の端を噛んだ。次の瞬間には加虐気質が迸る悪い意味で晴れやかな表情を浮かべた彼は、ぽん、と手つきだけは優しく律の肩を叩く。励ますようにも思えたそのショルダータッチに、律は顔を上げた。

「まあまあ、これからは任せなよ赤ずきんちゃん。雑魚の経験値稼ぎの方法は熟知してるからさ、下手にかっこつけて先陣切る必要ないよ」

「この野郎、爽やかな顔しながら人の決意無駄にしやがった!」

「大丈夫、雑魚には身代わり要員っていう大事な役目があるよ」

「育てる気が全くないよね! そんなことしてると懐き度下がっちゃうんだから!」

「いや懐かせる必要感じてないから。だって君、永遠に進化しないでしょ?」

「伸びしろから完全否定!? ちょっとは信じようよ!」

 神か仏か聖人かとでも称したくなるほど、柔和かつ慈愛に満ちた表情を見せる刹真が放つ容赦ない言葉に、律は歯を剥く。だが、暴力に訴えても勝ち目はない、口で迎え撃つ自信もない。こうなれば、と、彼女は踵を返し、

「帰ろ、キッカちゃん!」

「ふぇっ!?」

 青髪赤眼の幼い魔女の手を引っ張り、律は鞄を乱暴に引っ掴んで教室から出て行った。逃げたな。ぼそりと林檎が告げる。逃げたわね。あっさりと真木が同意する。

「追いかけぬのか?」

 その問いかけに、刹真はこくりと頷いた。

「立派なガードが一人ついてれば大丈夫だろ」

 くすりと微笑を零した彼の視線の先には、飲みかけのまま放置されたオレンジジュースの缶がぽつんと佇んでいた。

 俺の正体を赤ずきんちゃんに伝えないのか。

肘をついて手を組み、口元を隠しながら刹真が冷めた声で言うと、ノートパソコンの電源を落としたばかりの真木が腕時計をいじった。

「あたしは言わないわ。りっちゃんにはあなたが必要だもん。あの子はまだまだ弱いしね」

 あくまで、己が眷属として十分な戦力であるから生かされているのだと、刹真は自嘲する。真木白亜は、恐らく、使えないと判断すれば容赦なく自分を排除しにかかるだろう。かつて、彼女の愛する孫娘を死に追いやった原因としての恨みは有り余るほどあるはずなのだ。林檎はその場でものを申すことはなかった。

 陽が傾き出す。保健室を閉めて帰るという真木に、本来いるべきではなかった二人は一足先に保健室をあとにする。無論、窓から外に出た。無言で林檎と別れようと思った刹那、待て、と制止の言葉がかけられる。

「ついでじゃ、乗せていってやらんこともない」

 すっかり人気を失った昇降口前、桜並木の向こうにある校門の外には、見慣れた高級車が停まっていた。底意地の悪い笑みを見せ、刹真は肩を竦める。

「おやおや、俺の命もここまでのようだね」

「乗らぬなら構わぬわ。獣臭くならなくて済む」

 髪を靡かせ、林檎は歩き出す。そのあとを、刹真は静かに歩んだ。九つの影が伸びる中、飛行機雲が空の彼方を突き抜ける。朱色に染まりつつある空に、刹真は目を伏せた。長年、林檎の運転手を務めているが故に顔馴染である不動老人に軽く挨拶し、彼は少女と向かい合う形で後部座席に座った。緩やかに発車してから、林檎が肘掛に体重をかける。

「イーナに向けたあの言葉、心の底から真実なのじゃな?」

「そうだ、と言ったら、お前は俺のことを許してくれるのか?」

「そんなわけなかろ、あほ言うな。お主のせいで前回の聖戦は敗北したのじゃぞ。第一、お主は許されようとも思っておらんじゃろ。首輪だって大人しくつけられたしの」

「さすが、俺の麗しき幼馴染様はよくご存じで」

「こっちの世界でたまたまそうなっただけじゃろ、気安く呼ぶな喜色悪い」

 べ、と舌を出して嫌悪感を示す林檎に、刹真は挑発するように笑った。緩く弧を描く口元に、林檎は「で」と、話を進めるべく切り出した。

「赤ずきんは自分の死についての記憶はある、と言っていたが、お主がそんなこと言い出すということは、あやつにはもしやないのか、今際の記憶が」

「ああ、多分ね。仲間のことを思い出した時に、もしかしてとは思ったけど、はずれだった。赤ずきんちゃんは何も知らないよ。俺が彼女を裏切ったことも、自分がなんで死んだのかも、きっと、何も憶えていないんだ」

 無意識のうちに、骨張った指先が絡み合っていた。何かに耐えるように強く手を組む刹真のその姿は、まるで神に祈る敬虔な信者のようでもあった。ふう、と息を吐き出し、林檎が背もたれに身を預ける。

「ややこしい奴らじゃな……。まあ、妾から言えることは、お主のことは決して信用せんということだけじゃ。あと、今、赤ずきんに真実を明かしても妾に得がない」

「あくまで、聖戦に勝つことが目的か」

 林檎の纏う気配が変わった。空調が効きすぎてるとでも言うように、冷気が肌を刺していく。ただでさえ林檎の傍にいるだけで体温が冷えるのに骨身に染みると、表情には出さないまま、刹真は身震いなどしないよう身を引き締めた。二重の瞳がゆっくりと閉じられていく。

「七人の魔女は、全員殺す。メルシェンを取り戻すことだけが妾の悲願じゃ」

刹真は黙って聞いていた。暫くして、神社に差しかかったところで刹真は車を停めるよう頼む。彼の家はまだ先だったが、実家まで送られる気は毛頭なかった。

「ありがとな、林檎」

 素直にそう礼を言うと、美しい相貌を台無しにするように、林檎は口をあんぐりと開け、目を剥いた。「お主、車に戻れ、病院に行こうぞ」

「心配どうも。じゃあな」

 人がせっかく礼を言ってやったのに、と目元を引きつらせながら、刹真は車に背を向けた。ざ、と風が吹く。林檎を乗せた高級車が角に消えていくのを見送って、彼は静かに歩き出した。神社を覆う木々が揺れる。影が大きく靡き、夕暮れ時に蜩が哀愁の唄を捧げていた。足を止め、刹真はゆっくりと振り返る。一人の少女が、灯篭に身を預けて立っていた。黒いセーラー服と三つ編みが揺れる。

「やあ、猟師さん。俺を殺しに来た?」

 軽い刹真の言葉に、相手は首を振った。

「わたしにとって、赤ずきんさんが一番であることに揺らぎはありません。狩屋椋子としても、猟師としても、あの人のためにもう一度戦う覚悟はできています。なので、もう一度、あなたに宣言しておきたくて」

 しっかりと椋子に向き直り、刹真はポケットに突っ込んでいた手を引き抜いた。温い風ですら、指先を冷たくしていく。

「オオカミさん。あなたがまたあの人を裏切るようなことがあれば、わたしはあなたを必ず殺します。でも、あの人はあなたの罪を知らないみたいなので、今はただ、見極めさせてもらいます。あの人には、悲しい思いをしてほしくないから……」

 そりゃどうも、と、皮肉屋を装って返した。すぐに軽口を叩くつもりだったのだが、感情を必死で抑えているような椋子を目の当たりにし、刹真は喉元にせり上がっていた言葉を嚥下した。代わりの言葉が、無意識のうちに零れた。

「……俺にはある呪いの魔法がかかっていてね。おかげで、夏場でもこんな暑苦しい格好をしなくちゃいけない。体温が常に奪われ、魔法をかけた相手には俺がどこにいるのか、何をしているのか知られてしまう。忌々しい呪いだろ? かけた相手はなんて言ったと思う? 首輪だってさ。駄目な犬を支配するための枷なんだと」

 学ランの襟元を引っ張り、刹真は諦めたような笑みを見せた。余裕などどこにもないその表情に、椋子は訝しげに目を細める。自分でも、随分と弱い顔を晒しているという自覚はあった。まるで、だから自分のことを信じてくれと訴えているようじゃないかと、刹真は自嘲を深めた。そして、己の弱さを焼却してみせるように、彼は言葉を紡ぐ。

「俺のことは二度と信用しなくていい。一度でも信じてくれていたなら、それでいい。だから猟師さん、赤ずきんちゃんのことをまた、助けてやってほしいんだ」

 自分の首を絞めるような顔で吐き出す刹真に、椋子は見ていられないと言わんばかりに顔を背けた。

「言われなくても、そのつもりでした」

 伸びた影は、重なることはない。

次に風が吹いた時には、二人の少年少女の姿は、夏の夕空の下から消えていた。


 ◆〇◆〇◆


 敷いた布団に俯せになり、絵本を読んでいるキッカを横目に、律はベッド脇のコンセントからドライヤーのコードを引き抜いた。この世界で暮らす以上、文字の習得は必須だろうと子供向けの絵本をキッカには読ませ、字を教えていたのだが、あっと言う間に子供は平仮名もカタカナもマスターしてしまった。この分なら漢字もすぐに覚えてしまうだろう。櫛で髪を梳いていると、読み終わったらしいキッカが絵本を閉じた。

「なんだかわたしが知っている『シンデレラ』とはけっこう話が違うね」

 絵本の表紙を律に見せながら、キッカは小首を傾げた。

「そうだね……。こっちの世界では、全部創作されたお伽話ってことになってるから。そもそも、なんで伝わってるのかな」

 世の人々は、まさかメルシェンという異世界で、伝えられてきた童話の登場人物が実際に生きていたなんて信じることもできないだろう。ただ名前が被っていただけにしても、童話で語られる登場人物たちがあまりにも重なり過ぎている。赤ずきんメロの眷属たちは揃って「赤ずきん」という童話に登場するし、白雪姫もまた然り。他の勇士たちが度に出た経緯はあまり知らないが、律の場合は、勇士選定の手紙が届き、旅に出る旨を祖母に伝えるために村から出たのが全ての始まりだったと言っても過言ではない。これもまた、童話として伝わる赤ずきんのあらすじに当てはまる。

自分たちが生まれ変わってきたことと繋がりがない、という方が不自然だが、どういう理屈なのかは刹真も知らないようだった。どこか釈然としない思いを抱えながらも、律は予習を始めることにした。それを見て、キッカは二冊目の絵本を読み出す。本棚から引っ張り出したのは「ラプンツェル」。その題名を見て、あ、と、キッカは声を漏らした。

「この名前、よくお姉さまが言ってた気がする……。猫かぶりラプンツェル死ね、とか」

「あー……ラプンツェルさんね、あんまりよく憶えてないんだけど、なんだかすごく……防衛本能があの人のことを思い出すなって言ってる……」

 まさかその「ラプンツェル」の生まれ変わりに、間接的な助けを受けていたとは知りもしないまま、律はこめかみを押さえた。難なく絵本を読み進めていくキッカに倣って、自身も英語の教科書を開く。だが、すらすらとはいかなかった。ちまちまと単語を確認しながら和訳を進めること一〇分。不意に、枕元に放ってあった携帯が鳴った。キッカが顔を上げる。既に、絵本は終盤に差し掛かっているようだった。

「あれ、知らない番号だ」

 不審に思いながらも、携帯画面に表記されている一一桁の番号からのコールに出ることにした。時刻は九時三〇分。もしもし、と小さな声で電話に出る。俺、と最初に言われて、律は脳内に疑問符を大量出現させた。詐欺か。だが、俺、と言ったきり何も言わない相手に、律は間を置いて、大神さん? と密やかに尋ねた。

『これ俺の番号だから。あとで君のメアド書いてショートメール送ってくれる?』

「あ、はい。……って言うか、誰から私の番号聞いたの……」

 あらゆる挨拶をすっ飛ばして用件だけ伝えてくる刹真に流されそうになる。

「まさか勝手に私の携帯いじってたんじゃ、」

『俺はあの変態養護教師から聞いただけなんだけど』

「ああ、真木先生……いや、おばあちゃんか……」

 保健委員主催で任意の夏季キャンプを行った際に、委員同士の連絡先を交換することになった。当然、顧問である真木は委員全員の連絡先を把握していた。無断で他人に教えるなんて、と憤る気持ちは不思議となかった。刹真とは知り合ったばかりとはいえ、他人と括ってしまうにはあまりにも深い仲である。純粋に、前世において共に旅した仲間として。その仲間に、己の祖母が――まだ信じられないという思いはあるが――教えたというのならば、納得はできた。

『キッカも一緒にいる?』

「いるよ。何か喋る?」

『別に用はないよ。……まあ、当面の危機は去ったとはいえ、あまり浮かれすぎないようにね』

 じゃあメールよろしく、という言葉を残して、刹真は通話を切ってしまった。あっさりとした無機質音しか発さない携帯を暫し呆然と見つめ、律は絵本を片付けているキッカに苦笑する。布団の上に転がった子供は、どこか嬉しそうな顔をしていた。

「あのお兄さんも、わたしのこと『キッカ』って呼んでくれるようになったんですよ」

 電話のやり取りが聞こえていたのだろうか、笑顔を見せるキッカに、律は、そう言えばそうだねと頷いた。ショートメールに己のメールアドレスを添付し、送信する。

「なんだかんだ、あの人優しいからね」

 口は悪いわ、態度は悪いわ、暴力的で理不尽だけど、と苦笑いすると、見計らったように見知らぬメールアドレスからメールが届いた。キッカが律の机までやって来る。ひょこりと、律が手にした携帯を覗き込んだ子供は、「かっこ、なんとか、かっこ」と、文面をそのまま口に出した。まだ漢字は読めないのだ。添付された画像を開いて、律は悶絶した。

 あ の や ろ う 。

 夜明け頃に撮られたものだろうか。薄闇の中、半目で口を開け、額丸出しで髪があらぬ方向にうねっている写真の被写体は、少女の寝顔というよりは野生のトドないしカバが陽に当たって休息している瞬間を激写したと表現する方が正しい。うら若き華の乙女が晒していいような顔ではなかった。あまつさえ写真に収めるなど鬼の所業だ。

 メール本文には、先ほどキッカが読み上げた三文字だけが書いてある。

 (笑)とだけ。

 くっそあのやろう、と口汚く罵り、律は「腐れ外道」とだけ書いて返信した。絵文字も顔文字も当然ない。 

「これで弱み一つだね……」

 ふむふむと感慨深そうにキッカが言う。あの写真を突き出されたら逆らえる気がしない。

 優しいなんて撤回だ、極悪非道だ。ぶつぶつ怨嗟の言葉を零していると、再び携帯が鳴った。刹真からの返信かと、警戒しながら携帯を開く。その様子を注意深くキッカも見つめていた。だが、送られてきたメールに、律は怒るどころかはにかみを見せ、その表情にキッカは小首を傾げる。

 携帯をキッカに見せることなく微笑を湛えていた律は、にへらと笑った。

「今日アドレスを交換した友達からね。初メール」 

 ぎこちない感じが拭えない、少々硬い文面だった。きっと何度も本文を消しては書き直し、送信しようする度に中断したに違いない。その光景が容易に想像でき、律は笑い声を漏らした。それでもメールをわざわざ送ってきてくれた、後輩の不器用な真面目さに。 

「いいこと書いてあった?」

「これからよろしくお願いします先輩、だってさ」

 キッカの頭を軽く撫で、さてなんと返事をしようかと、律は考えた。よろしくお願いします、は外せない。

 彼女たちの関係は、この言葉から始まったのだから。 

 返事を書きながら、律はキッカに声をかけた。アザラシのようにごろごろとベッドの上で転がっていた青い髪の魔女は、赤い目を瞬かせて起き上がる。

「私も『キッカ』って呼んでいいかな」

 きっとこんな了承はいらないのだろうけど、訊かずにはいられなかった。

 どこか照れたような顔をしている律に、キッカはにこりと笑った。もちろん、と、言葉に出す代わりに。

「改めて、よろしくね、律さん」

 丁度、送信ボタンを押したあとだった。差し出された小さな手にそっと触れる。

 重なった手のひらに、勇士と魔女は笑い合った。



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