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二章

二章 赤ずきん、魔女と同居する


 母、美咲は、薄化粧の顔を固まらせ、えっ? と首を傾げた。今日の夕飯は肉じゃがだぞ~、なんて、浮かれながら帰宅した彼女が目にしたのは、銃痕の残る畳と、正座をしている娘、そしてその隣にいる正体不明の子供の姿だった。そんじょそこらの子供ではない。青色の髪に赤い目をした、世にも不可思議な容姿をした可愛い少女だ。宇宙人か。咄嗟に、そんな言葉が飛び出てしまう。子供は「違います、わたし、ま、」と口を開いたが、その口を押さえつけた愛娘、律は、へらへら笑ってみせるだけだった。

「律……そっちの子は……?」

 敢えて、畳の銃痕には触れない。母親の、努めて穏やかに振舞おうとするその姿を真っ直ぐ見つめながら、律は「あのね」と切り出した。ふよふよ視線は泳がせない。動揺は悟られてはならない。

「キッカちゃんっていうんだ。それで、いきなりなんだけど、この子を暫くうちで預かっちゃ駄目かな」

 がたん、と、美咲の手からスーパーのビニール袋が落ち、缶詰が転がった。

「えっ、えっ。なに、その子を、預かる……? えっ?」

「アイルランド人で小さい時に宗教団体に誘拐されて神の子と崇められていたせいで一時は何も信じられない孤独な幼少期を過ごしていた、でも内心は心優しくてついにカルト集団から逃げ出して日本に渡ってきて古本回収で生計を立てていた可哀想な女の子なの」

「へ? ん? アイルランド人……?」

「とにかく、複雑な家庭環境で育った可哀想な女の子なの」

「え? だって誘拐されたり捕まってたりしてたんでしょ? 家庭とかなかったよね今の話だと」

「お願いお母さん!」

 息をつかずに吐き出したでたらめ。有無を言わさない勢い。勝った――。律はそう確信していた。

 美咲はしっかりはしているが、勢いに呑まれやすい傾向がある。恐らく生まれついてのものなのだろう。いやそれはちょっと腑に落ちないな、でもこれだけ熱弁してくるのだから真実なんだろう。どれだけ疑っても結論では肯定してしまうのだ。そんな母親もまた、ある意味では律と同じくチョロい。さすがは親子といったところか。

 そんなチョロさのために、美咲は度々霊感商法やら押し売りやらネズミ講やらに引っかかっており、その度に父親とその手の被害には敏感な律が引き止めて改心させていた。だが、今回ばかりはその性質を熟知している娘は反旗を翻したように、利用の手段を取った。

 案の定、美咲は不審そうな顔をしつつも、「うーん、そこまで言うなら……」と、霊媒師を家に連れてきてしまった時と同じ台詞を吐く。よっしゃ勝った。内心でガッツポーズを取り、律はありがとうと叫ぶ。

「あ、あの。よろしくお願いします」

 ぺこりとキッカが頭を下げる。照明に反射してきらきら輝く青い髪は、本当に美しい南海を切り抜いたようだった。

 そのあまりに浮世離れした容姿に、美咲はやはり、動揺と不審を拭えない。だが、真摯な態度の律と、礼儀あるキッカの姿に、「あぁ、はい。よろしくね……」と、苦笑いを浮かべるのみだった。

 守る、なんて大それたことを宣言してしまった以上、危険が及ぼうがどうしようが、キッカは手元に置いておくべきだ。律はそう考えていたし、行く宛てのなかったキッカもまた、できることならこの家に逗留することを望んでいた。第一関門たる親の許可を取ることをひとまず成功し、律とキッカはほっと息をついた。

 転がった缶詰を拾い上げ、逃げるようにそそくさと台所に行ってしまった美咲は、暫くの無言の後、「ねえ律」と我が子の名前を呼んだ。

「なに?」

「そのー……今日、なんかあったのかなーって」

 敢えて触れていなかっただけで、気付いていなかったわけではないのだ。美咲は銃痕のことを遠回しに尋ねていた。それが分からないほど馬鹿な律ではない。

「いやー、あれだよ、あれ。火薬的な何かが、ちょっと降ってきたっていうか落ちてきたっていうか」

 キッカの説明にしても苦し紛れすぎるものだが、これもどうなのよ。そう内心突っ込みながらも、律は努めて平静を装った。キッカは顔を背けている。

「あ、へえ。そうなんだ……? い、隕石かなーなんちゃってアハハハハ」

 非常に苦しそうに、美咲が返事を寄越す。おどけたつもりなのだろうが、台詞は完璧に棒読みだった。

「NASAの研究員とか来ちゃったりしてねー、あ、日本だからJAXAかなー」

「それじゃあお家掃除しないとねー」

「そうだねー」

 あまりにも不自然なやり取りは、母子揃って自覚済みだった。お互いに咳払いをして、それまでの流れをなかったことにする。美咲は美咲で、既に処理と受容の限界を迎えつつあったし、律も話を逸らすことに懸命だったので、打ち切られた話は二度と二人の間で交わされることはなかった。キッカは無論のこと、無言だった。父親が帰ってくるまでは。

 七時を過ぎた頃、父、義雪が居間ののれんを潜った。夕飯ができる頃合いだったこともあり、律もキッカも居間でテレビを見ていた。ただいまー、と間延びした声で帰宅の旨を告げる義雪に、律と美咲がお帰りと返す。

「はー、疲れたー。だりー。美咲さん、美咲さん。ポストにまた変なハガキ届いてたけど、妙な人たちと絡んでないよね?」

 一枚のハガキをひらひらと振りつつ、義雪は椅子に座ってテーブルに肘をついた。こげ茶色の髪は今日もぼさぼさだ。窓際に追いやられてからというもの、商社マンとは思えないほどにだらしない外見になってしまった自らの父に若干の哀憫を抱きながらも、律は子供が口を挟むことではないなと黙っていた。美咲が鍋を持って台所から出てくる。

「でもさー、美咲さん、気をつけてよね」

「あなたに言われなくても大丈夫」

 ふん、と鼻を鳴らして、美咲は拗ねたように台所に戻っていった。いや、大丈夫じゃないだろ、と律が心の中で鋭い言葉を投げつけたのは誰も知らない。

「律、律もちゃんと母さんのことを、……って、そっちの……何、いつから我が家は宇宙人が住み着くようになったの」

 義雪の視線が、キッカに突き刺さった。びくりと肩を震わせた子供は、律を見上げる。また同じ説明をしなくちゃならないか、だが父はあんな苦し紛れのトンデモ話を信じるほどチョロくない。

「お父さん、実はこの子は、」

「……なんか、家庭環境が複雑な女の子なんだって。暫くうちに置いてほしいんだって」

 ご飯を四人分テーブルに配膳しながら、美咲がどこか茫洋とした口調で言った。自分に言い聞かせているようでもあった。義雪は箸を片手に、「うん?」と眉を顰める。すかさず、律は父親にすり寄った。

「そうなの。可哀想なの。だから、私が暫く一緒にこの子と住みたいの。駄目かな?」

「えー……。いや、この子の親がいいって言うならいいけど……」

「パパの顔は知りません。ママはお城に籠っていて顔を合わせてくれません。お姉様方はわたしをいないもの扱いしているので問題はないです」

 きっちり丁寧に答えるキッカ。いや問題だろ、と冷静に答える義雪だったが、そのあまりにヘビーな家庭環境を聞かされ、少なからず同情の気持ちが生まれていた。小皿を取ってきた美咲は口元を押さえ、「ううっ……そんなのあんまりだわ」と涙声を出した。

 あ、やっぱチョロいわ二人とも……。

 そう思わずにはいられない律だったが、自分のことは棚にしているようだった。

「いい、いいわキッカちゃん。辛かったでしょうけど、ここがあなたのホームよ!」

 がしりと、美咲の両手がキッカの撫で肩を掴む。ちなみに、あの黒いローブはさすがにいかんだろうということで、律が貸したTシャツを子供は着ていた。律も年の割には小柄な方だが、キッカが着るとただのTシャツもワンピースの勢いであった。

 ずり下がったTシャツの肩を直してやり、律は自分の席の隣にキッカを座らせる。

「こっちの世界のものとか食べて平気なの?」

 よそわれる肉じゃがに、小声で律は問いかけた。キッカはこくりと頷く。

「スイカ……? もおいしかったし、大丈夫です多分」

「あぁ、そう言えば問題なく食べてたっけ」

「それより、あとでお話を聞いてもらえないですか?」

「話? うん、いいよ」

 キッカの前に盛りつけられた肉じゃがが置かれたことで、二人はひそひそ話をやめた。いただきます、と手を合わせる律たち三人に小首を傾げながら、キッカも手を合わせる。いただきます、と遅れて呟いたキッカに、義雪が声をかけた。

「ねえ、箸とか使えるの?」

「ハシ……?」

「あ、そっか。アイルランド人だもんね」美咲がそう手を叩けば、

「え、アイルランド人なの」と、義雪が目を剥いた。

 うん、そういう設定なの。美咲からフォークとスプーンを受け取って嬉しそうにしているキッカを横目に、律はじゃがいもを咀嚼した。まあ、なんだか馴染めてるしいっか。そう楽観して、不安はなかったことにすることにした。

 夕飯のあと、風呂に二人で入り、客間から一式布団を自室へと運び込んだ律とキッカは、窓ガラスが割れているために、直に吹き込んでくる夜風に当たっていた。風流なものだが、ばりばりに砕けた窓ガラスは不穏だった。カーテンで窓を覆ってしまい、律はベッドに寝転がる。ふかふかの布団にさっさとくるまって眠ってしまいたかった。だが、お姉さん、と呼ばれて起き上がる。

 キッカはちょこんと、敷いた布団の上に体育座りをしていた。今の格好は、かつて律が着ていたしましまのパジャマ姿だ。

「この期に及んでまだお願いなんて頭が下がる思いでいっぱいなんですけど、実は、わたし、魔力を食べなくちゃ生きていけないんですよ」

「魔力?」

 反芻する律に、キッカは頷く。

 魔力というのは、魔女とその眷属特有の生命エネルギー、魔法の源である。メルシェンにおいては、稀に人間でも魔力が体内に眠っていることがあった。魔力は基本的に、保有している魔女なり魔族なり人間なりの生命力であるわけだから、他者が干渉することはまずできない。できないはずなのだが、七人の魔女の「追加メンバー」、キッカには、それができてしまった。と言うより、他者の魔力を糧にしなければ生きられない存在であった。

 魔力食いの魔女――それが、キッカが他の魔女たちに疎まれ、追放されるまでに至った原因だという。

「まあ、下手したら自分の魔力を全部食べられちゃうかもしれないわけだから、仕方のないことですけどね、嫌われるのも」

 寂しげに微笑み、キッカは足の指を動かした。

「今は弱体しているおかげで、ちょっとの魔力でも燃費がいいんです」

「こっちの世界にも、魔力があるってこと?」

「ありますよ。お姉さんにも、少しだけど魔力があります。勇士さんだからかな。実は、こっちの世界に来て、どうしてもお腹が減ってある人の魔力を頂いてしまったんです。それがあの猟師さんでした。まさか、お姉さんの眷属だったとは思いませんでしたけど……」

「いや、私のっていうか『赤ずきん』のね」

「? お姉さんも『赤ずきん』も、同じ人ですよね」

「同じ……、あー、同じ、なのかな、同じなんだろうけど……」

 完全に前世の記憶を保有しているわけではない律にとって、「赤ずきんだった自分」――つまり「メロ」が自分のことである、という認識はあっても、自覚はあまりなかった。キッカは歯切れ悪い回答に疑問符を提げているようだったが、深く追及してくることはなかった。

「それで、あの、ちょっとお姉さんの魔力を食べてもいいですか……?」

 こてんと首を傾げ、不安そうに見上げてくるキッカ。律は反応に困った。 

 魔力を食べる、なんて想像がつかない。どういうことになるのか、まったく分からない。別にあげることはいいのだが、痛い思いはしたくない。そんな彼女の思いを察したように、キッカは、大丈夫です! と大きく頷いた。

「全然痛くないってみんな言ってたし、お姉さん程度の魔力ならなくなっても体調に支障は出ないですよ。魔力主体で生きている人じゃないし、魔法も使えないみたいだし」

「みんなって誰? なんか逆に不安だよ! しかもさらっと馬鹿にされたよね今」

「お願いしますお姉さん」

 純真そうな子供からの懇願に、律はやれやれと首を振った。いいよ、と告げると、キッカはやったー! と万歳をしてみせた。

「じゃあ、いただきます」

 そう言って、キッカは律に人差し指を向けた。疑問符を並べる律を横に、くるくると指を回すキッカは、集中しているのかいやに真剣な顔つきだった。身体の方に何か異変はない。今は何をやっているのだろう? 足をぶらぶら動かして、まだかまだかと待っているうちに、キッカが人差し指を咥えた。赤子のようなその素振りに、律は目を瞬かせる。

「ごちそうさまでしたー」

 にへらと笑うキッカに、赤いパジャマの襟を正していた律は小首を傾げた。

「えっ、それだけ?」

「そうですよ。痛くなかったでしょ? わたし、人の魔力を引き出すことができるんですよ、体外に。お姉さんの魔力は無味ですね」

「ええー……なんか微妙」

「はい、正直……おいしくなかったです」

「いやそこは素直になるなよ傷つくわ!」

「でも、助かりました。本当にありがとうございました」

 にこにこと満面の笑みを浮かべるキッカは、心底嬉しそうだった。その笑顔に、律もつられて微笑む。

 その後、この世界に来てからのキッカの話を聞いた。やって来たのは三日ほど前だと言う。メルシェンとはまったく勝手の違うこの世界は、一方では素晴らしく、一方では不安だと、キッカは眠そうな眼を擦りながら言った。そりゃあそうだろう。前世の記憶があるとはいえ、こちらの世界の常識と環境に守られて育った律にしてみたら、この世界での生活は普通そのものだ。だが、いきなりこちらの世界に落とされたというキッカは、あらゆるものが初めてで、驚きと不安の連続だったことだろう。

 すう、と、静かにキッカの目が閉ざされていった。疲れが出たのだろう。

「私も寝よ」

 キッカに布団をかけてやり、律は微苦笑を浮かべて電気を消した。今日は、本当に色々ありすぎた。

 カーテンがそよりと揺れる。静かな夜だった。

 あらゆる喧噪を忘れさせるような、そんな闇に包まれて、律の意識も間もなく途絶えた。


 ◆〇◆〇◆

  

「だからー、赤ずきんちゃんさー、舐めてんの? 使うなって言ってんじゃん、寧ろお願いしてるじゃん、頼んでるじゃん、その腐れパルプンテもどき。なんで使うの? 本当になんで? パルプンテだけでゲームはクリアできないんだよ、みんなバッドステータスだよ、全滅だよ。ねえ分かってる? ねえ」

 虫けらでも見るような目で、男が自分を見下ろしている。大神刹真。先日会ったばかりの少年だ。しかし、その服装は例の学ランではない。装備品も鞄ではない。黒いマフラーはぼろぼろで、そこそこ高価だったであろう装飾の施された衣服も破れかぶれになっていた。辛うじて目立った損傷がないのは、彼の得物であろう、十字架のような長剣だけだ。今は地面に突き刺さって少年の杖代わりになっているとは言え、一言でも声を発すればたちまち斬り殺されそうな緊張感があった。

「と言うか……このパーティー偏り過ぎだよね。なんでみんな攻撃型なの、馬鹿なの、物理で死ねよもう。回復要員連れてこいよ、僧侶AとかシスターBとかホイミスライムとか」

 悪態をつく刹真(仮)に、「そんなこと言うならオオカミさんがやればいいと思います、回復要員」と、冷淡な声が飛んできた。見れば、つばの広い羽根つき帽子にブラウンのコート姿の少女がふんと顔を背けて木に寄りかかっていた。背負っているのは猟銃のようだ。

「わたし知ってます。オオカミさんが回復魔法使えるの」

「俺の回復魔法は一人にしか使えないんだ、周囲の人間に影響は及ぼせないんだ、残念ながら」

「一人一人に使えばいいと思います。もしかして一回しか使えないんですか、まじウケる」

 下らない言い争いを始める二人に、まあまあと第三者がやんわりと割って入った。

「とりあえず魔物は退治したし、いいじゃないの」

 金髪に緑色の目をした、実に美しい中性的な顔立ちの少年が微笑む。少年と判断できた要素は声だけで、仕種も表情も「女です」と言い通せば信じ込ませられそうなほどだ。にこにこと笑って場を和まそうとしているのは分かったが、如何せん、彼の背後にある返り血つきの斧が非常に狂気的で和めない。だが、言い争っていた二人はそのことを突っ込まず、少年のおどけた様子に溜息をついた。

「赤ずきんちゃんのパルプンテもどきで何回死にかけたか分かってる? 一〇回使ったら一〇回味方側に不利な効果とか正直笑えないよ? 魔物倒したって言うけどさ、こいつらのレベル分かってるの。今日日、ドラキーの方が強いよ」

「まあ正直……こんなザコ相手にここまでボロボロってちょっと、いやかなり屈辱です」

「メロたんも悪気はないよ。全員混乱が三回連続した時はさすがに苛ついたけど」

「悪気があったらまじでぶち殺してるレベルだから」

「オオカミさん、赤ずきんさんを殺したらわたしがあなたを殺してわたしも死にます」

「そうなると生き残るの僕だけ? いえーい勝ち逃げ」

 壮絶な空間だった。誰一人まともな奴がいない。

 沈黙を守り続けていたが、もう我慢の限界だ。

「ネタが多すぎて捌けないよ!」

 布団の端を掴んで勢いよく身を起こす。叫んだ時には、夜は明けていた。ガラスのない開け放しの窓の外からは、雀の鳴き声ではなく烏のアホーという声が聞こえていた。はあはあと肩で息をしながら、ふと視線をベッドの下に落とす。今の自分の叫びで目を覚ましたのであろう、青髪赤目の少女がもぞもぞと起き上がってきた。

「おはよぅ、お姉さん」

「……おはよう、キッカちゃん」

 夢だけど夢じゃなかった。未だに興奮冷めやらぬ悪夢に、かいた汗を拭いながら律は肩を落とした。

 キッカ共々身支度を済ませ、居間に向かう。とりあえず、律の小学生時代のジャージをキッカには着させておいた。一般的な紺色のジャージだが、少女の外見といやな化学反応を起こしてとんでもなく目立つ。朝食の準備をしていた美咲と、既に朝食を食べ始めていた義雪は、おはようございますと頭を下げたキッカを二度見しつつ、こくこくと頷いた。

 律とキッカが揃ってトーストを齧っていると、まずは義雪が家を出た。次いで、サラダボウルをテーブルの上においた美咲が慌ただしく化粧をして会社に向かう。行ってらっしゃーい、と声をかけた律に倣って、キッカも目を瞬かせながら続ける。

 律が歯を磨きながら制服に着替えていると、テレビを見ていたキッカがとたとた足音を立てて走ってきた。子供用の歯ブラシを買ってあげないとな、と、新しい大人用の歯ブラシを取り出してから思った。

「ひょっとはらいあも」

 ――ちょっと辛いかも。そう言って、歯ブラシの上にピーチミントの歯磨き粉をつける。ぐにゅりとチューブから捻り出された薄桃色のクリームを暫し凝視したキッカは、恐る恐る、それを口に突っ込んだ。かっ、と少女の赤い目が見開かれる。やっぱり辛かったか。律は口を濯いでから「大丈夫?」と尋ねた。しゃこしゃこと緩慢な動作で歯ブラシを動かすキッカは、ふるふると首を振る。

「おいひい!」

「え」 

 ルビーが埋め込まれたような両目は喜色に満ちていた。その後、どうやら歯磨き粉を気に入ったらしいキッカは延々と歯磨きを続け、挙句飲み込もうとした。さすがにそれはおいしくないだろうと、慌てて漱がせる。

「甘味の中にある苦味と強烈な爽快感……まるで極上の魔力みたいですよ、お姉さん」

「言うなれば私は歯磨き粉以下ってわけね」

 目を輝かせているキッカに、律はぼそっと嘆息した。

 べ、別に昨日言われたこと気にしてるとかじゃないんだからね……! と、一人寂しく心の中で突っ込んでいると、不意にテーブルの端に置いてあったハガキが目に入ってきた。なにこれ、と手に取る。差出人の名前も住所もない。裏返して、ひくりと喉が鳴った。

 

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「な、なにこれこわい、どんな会なの……」

 顔に深い影を落とし、わなわなと震える律は、きょとんした顔でこちらを見つめてきているキッカに気がつく。あの猟師――殺る気だ。確実に。

 律は義務教育中の身である。しかもわざわざ私立の中学に通わせてもらっている。欠席するだけ授業料が無駄になる。サボれば内申に傷がつく。学校に行かずこの幼い少女を守り続けるという手段は選び難いのだが、これは人命――いや魔女命か――に関わる重要な問題だ。

「お姉さん?」

 世紀末覇者ばりの深刻な顔芸を披露する律に、不安そうなキッカが話しかけた。その姿に、律は唇を噛む。

「私、学校に行かなくちゃいけないの」

 黒いセーラーの裾を摘まんで、律は身を屈めた。キッカは、ガッコウ、と鸚鵡返ししてくる。このまま一人でこの家に置いておけば、その身に危険が迫っても助けられない、守れない。こうなれば、仕方ない。自分の評判も落とさず、尚且つキッカの身の安全も守る方法。それは。

「一緒に学校に行こう」

 完璧だ、と言わんばかりに力強く握り拳を作った律に、キッカはぽかんとして首を傾げた。イッショニガッコウニイコウ? と、最早原型が日本語とは思えない片言口調で反復する少女に、律はぶんぶんと首を縦に振った。

「うちの学校、初等部もあるし。制服はちょっと用意できないけど、たぶん、私といれば怪しまれないはず」

 言うが早いや、ヘアゴムとピンを取り出した律は、キッカの長い髪を手早くお団子状にまとめ上げた。上のジャージを脱がせて、灰色のパーカーを着させる。帽子とフードを重ねて目深に被らせれば、髪と目の異色さは分からない。姿格好は十分変質者だが――なにせ、今は夏である――背丈も小さいし大丈夫だろうという謎の自負が律にはあった。これが最善手だと思い込むと、途端に客観性を失ってしまうのは彼女の欠点の一つだ。

「まさかそのまま初等部に突っ込むわけにもいかないし、ここは眞木先生にお願いしよう」

 そうぶつぶつ呟いて、律はキッカを伴った。

「お姉さん、わたし、一人でも大丈夫だよ」

 昨日ほど他人行儀でない口調で、キッカが律の手を引いた。玄関で立ち止まるキッカに、律は表情を緩ませた。

「私が大丈夫じゃないんだ、キッカちゃんが心配で」

「お姉さん……」

「だから、行こう?」

 軽く手を引くと、キッカは花を咲かせたように笑った。

 さあ学校に出発しよう。意気揚々と庭先を出たところで、その思いは早速挫かれた。

「あ、おはよう赤ずきんちゃん」

「おはようございます。……いやなんで!?」

 無駄に整った顔を微笑ませている大神刹真が立っていた。学ランに学生鞄。ポケットに突っ込まれた財布から伸びるチェーンが鈍く光る。キッカが小さく悲鳴を上げて律の背後に隠れた。

「なんの用……? キッカちゃんのことなら、」

 キッカを後ろ手に、律は声を潜めた。威嚇する猫のようなその姿に、少年はくすりと嫌な笑いを零す。

「もう殺そうなんて思ってないよ。俺はただ、君たちを護衛しに来ただけだ」

「護衛?」

 片眉を上げ、律は刹真を一瞥する。その刺々しい視線を片手で払うように、彼は続けた。

「赤ずきんちゃんは、前世の記憶がちょっとあるだけのど素人。魔法も使えなきゃ幻俗もできない。そんな『今は』ただの人間に過ぎない赤ずきんちゃんと、実体こそあるが弱体しまくりで魔女の片鱗の力も使えないザコのガキが、仮に他の勇士や眷属――猟師さんとか――に襲われたら、どうするんですかってこと」

 確かに、彼の言うことは尤もだった。魔法、と言われても、幻俗、と言われても、律にはぴんとこない。幻俗、というあまりに特徴的な言葉に至っては、彼女の脳内で「現属」「減続」「ゲン族」と、ありもしない造語がなされまくっていた。猟師が赤ずきんの眷属とはいえ、魔女への殺意は消えていない。あのハガキが物語っている。だからキッカを一人で家に置いておきたくなかったのだが、相手は昨日も、白昼堂々銃をぶっ放してきたような奴だ。往路に人がいようがいまいが関係なしに、キッカの脳天に狙いを定めていないなんて考えるのは甘い。

 刹真の言葉で客観性を僅かに取り戻した律は、しかし、まだ警戒は緩めない。そんな反発心の浮かぶ彼女の目を見て、刹真は肩を竦めてみせた。

「赤ずきんちゃん。俺は、赤ずきんちゃんの味方だよ。君とメルシェンを巡っていた頃からずっとね」

 笑みを消し、少年は真剣な面差しになって言う。整った顔立ちに浮かぶ憂いの色に、律は思わず見惚れた。手をそっと包まれる。骨張った刹真の手は驚くほど冷たかった。対して、律の体温は急上昇していく。

「お、大神さんっ」

 離すようにそれとなく伝えてみるが、刹真は一層、握る手に力を込めるばかりだった。痛くはない、優しいがしっかりと力の籠ったその絶妙な加減。ちっ、と、着火するように鋭く、大きい舌打ちが聞こえてこなかったら、恐らく律は顔を真っ赤にしたまま一切の思考を手放していたことだろう。どこからか聞こえてきたその舌打ちに、律は慌てて手を振り払う。

「猟師め……邪魔を……」 

 ぼそっと呟いた刹真の言葉は敢えて流し、律はわざとらしく咳払いをした。

「それで、本当に、ただの護衛のつもりなんですよね」

「もちろん。――俺はね、赤ずきんちゃん、君が最優先なんだ。君の意向、言葉、行動、存在。俺はその全てに忠誠を誓うよ」

「大神さん……」

 これが少女漫画だったら、律の心に生じた「キュン」が物語の始まりと言えた。が、この物語は少女漫画ではなかった。

「まあ、ぶっちゃけ、勇士の加護の影響でさっさと本来の『眷属』としての力を取り戻したいだけなんだけどさ。やっぱ勇士の傍にいないと眷属って本領発揮できないっぽいし」

「その本音いらないよね! このときめきどうしてくれる!」

 律から視線を逸らして、しれっと本当の目的を口にした刹真は、全く悪気がないようだった。この野郎と頬を膨らませる律に向かって、少年は、にぃと口角を吊り上げる。邪悪な笑みだった。ともすれば悪魔のような。

「回り廻って君のためになる。幸せだろ?」

「なんて上から目線……!」

 腰に抱き着いてくるキッカの存在を忘れるほど、律は深く嘆いた。 


  ◆〇◆〇◆


 幻俗っていうのは、と、面倒くさそうに刹真が口を開く。沈黙も嫌だったので、この際、学校まで送ってもらう道中、自分の「前世の記憶」から抜け落ちてしまったことや、メルシェンとこの世界について訊こうと思ったのだ。だが、刹真は「えー」だの「はあー」だの、まるで返答する気がなかった。もういいもん、と諦めて口を噤んだ矢先、仕方ないなあとようやく彼は語り出した。天邪鬼だ。

「前世の姿を取り戻すこと。それが幻俗だ。勇士とその眷属は、生まれ変わったこの姿でも魔力がある。まあ、勇士の場合は魔力じゃなくて『加護』ってわざわざ言い換えるけどね。幻俗すれば、その魔力を、こっちの世界で完全解放することができるようになる。言うなれば、『勇士』と『眷属』の本来の力を発揮できるってわけ」

「前世の姿を取り戻す、って?」

「プ〇キュアみたいに変身するってこと」

「適当すぎる……」

「じゃあ仮〇ライダー」

「どっちも意味的に変身するってことだし」

「つまりそういうこと。まあ特殊な変身器具はいらないけど」

「呪文的なものは?」

「はぁ……赤ずきんちゃん、中二病も大概にしてよ」

「? 私、中三だよ」

 至極真面目に返答したのだが、途端に刹真は黙り込んでしまった。何が琴線に触れたのかさっぱり分からず、律は、不機嫌層に唇を引き結んでいる少年を見上げる。キッカは律の左側にいて、しっかりと彼女の手を握っていた。

「大神さんってどこ高生? 何歳?」

「頭いい高生。一七」 

 あまりに不遜な物言いに閉口する。だが、この人の態度は今更だと、律はめげることなく質問を続けた。

「赤ずきんの『眷属』なんだよね?」

「……とりあえずは」

「大神さんは、前世の記憶、全部ある?」

「あるよ。ここで生まれた時から」

 そんな馬鹿な、と笑いかけ、やめた。見つめた先の刹真の表情は至って真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。視線が交錯する。慌てて目を逸らし、律は「じゃあ」と、何も気付かなかったように装って言葉を紡いだ。

「その……私が、『赤ずきん』が、死んだところ、とか……憶えてる?」

 聞きたいような。聞きたくないような。

 相反する思いが胸中を亡霊の如く飛び交う。だが、欠けた記憶を埋めたかった。テンポよく続いていたやり取りが、唐突に分断される。ぷー、と車のクラクション音が鳴った。目の前の交差点にある信号機が赤になる。立ち止まった三人の中で、キッカだけが物珍しそうに辺りを見渡していた。不意に視線を感じ、顔を上げる。聞きたい? と、刹真が律を見下ろした。

「聞き、たい、です」

 思わず上擦った声が出た。そう、と刹真は目を伏せ、正面を向いた。

「立派な最期だったよ。たった一人で、他の眷属が止めたのに敵に向かって行って。満身創痍なのに、ザコなのに、無謀なことする馬鹿だった。でも、この人の『眷属』でよかったって、俺は思った」

 これで満足? と言って、すたすたと彼は横断歩道を渡っていく。既に信号は青になっていた。お姉さん、とキッカに声をかけられて、ようやく律は刹真のあとを追い出す。手で隠しきれないほど、少女の顔は赤らんでいた。

 黒いセーラー服姿の少女たちの姿がちらほらと多く目に入ってくる。音戯女学園は既に目と鼻の先であった。女学園の前の信号機が直前で黄色になり、律たちは歩調を緩める。黒いセーラー服が揺れるのを冷ややかな目で見ていた刹真は、不意に律を振り返った。

「赤ずきんちゃん、高校はどうするの」

「あぁ……このまま高等部に進学しようかと。まあ、希望だけど」

「ふーん」

 自分で尋ねておいて、興味なさげに刹真は前を向いた。どういう意図なのかさっぱり分からないが、これもやはり今更かと、律は何も言わなかった。信号待ちをしていると、キッカが「うわぁ」と、感嘆の声を突然上げた。ん、と視線をキッカが向けている方へ向ける。なにあれ、と、刹真も怪訝そうに声を出した。

 黒塗りの外車――俗に言う、ダックスフンドのような車というやつだ――が、女学園の前に停まったのだ。そこから、一人の女子生徒が現れる。遠目からでも分かる美人だった。すらりとした背は高く、黒いスカートから覗く足は雪のように白く眩しい。さらりと風に揺れる長い黒髪は絹のようだ。とりわけ目立つのが、青い花を模した大きな髪飾りだった。

 女子生徒は髪を一掻きし、悠然と校門の前に立つ。すると、車から更に人が出てきた。女子生徒の腰くらいの背丈の少年たちだ。みな一様に、揃った前髪をしていて、頭部の横と後ろは短く刈り上げられている。いわゆる坊ちゃん刈りである。少年たちは、初等部男子の制服であるカラーシャツに黒いベストを合わせ、短パンに黒いソックスという、いかにもな格好をしていた(音戯学園初等部は、男女共学だ)。

 少年の一人が、女子生徒の学生鞄を恭しく頂戴する。そして、その直後、女子生徒は身を屈めた。鞄を受け取った少年とは別の少年が、女子生徒に何やら耳打ちした。一瞬、視線が律たちに向けられた気がしたが――颯爽と校門を潜っていく彼女のあとを、七人の男子小学生たちが追従していった。その光景たるや、行幸のようである。

「あの女、相変わらず頭に花咲かせて」

 苦々しげに刹真が言う。信号が青になった。歩きながら、律は返す。

「違うよ、あれは髪飾りだよ、大神さん」

「いやそんなの分かってるから。俺が言ってんのはあのトンチキな登校風景のこと」

「あの人、すごい……」

 キッカもまた、息を呑んだ。二人に向かって、律はどこか得意げに語り出す。

「あの人は『変態美人』または『歩く貴族』って呼ばれてる、この学校全体で有名な人なの。高等部に通ってるよ。大神さんと同年代じゃないかな」

「知ってる」

 ふふん、とドヤ顔した律をべもなく切り捨てた刹真は、面白くなさそうに舌打ちした。

「へんたいびじん、なんて、変な名前だね……」

 キッカが憐憫に塗れた声を出す。いや、変態美人っていうのはあだ名でね、と律が説明している間に、校門の前についた。男子と子供を連れている律を、通り行く学園の生徒たちが興味深そうな目で見ていた。だが、その視線は特に気にもせず、律は刹真に向き直る。

「じゃあ、大神さん。どうもありがとう」

 笑顔で礼を述べると、刹真は鼻から呼気を噴出させた。

「そういうのいいから、さっさと行ってくれない? 噂立てられると俺が迷惑だから」

「じゃあ送らなければよかったんじゃないかな――って痛い!」

 頭部に強烈な衝撃と痛みを覚え、律は口の端を噛んだ。どうやら引っ叩かれたらしい。大神刹真に。 

「あーすっきりした。苛ついた時はこれに限るね」

 そうにこやかに頷く刹真の表情は、太陽を呪いたくなるほど晴れやかだ。頭を摩って痛みを受け流そうと必死な律に、彼は、じゃあね、と手を振った。振り返してなんかやらん。忌々しい敵を見るような目で、律は年長の少年を見ていた。

「俺は失礼するよ、赤羽さん。あのショタコン女には気をつけるように」

 口早に告げて、刹真は去って行った。律の傍を過ぎてゆく女子生徒たちが、こぞって「あの人かっこいい」と色めいた声を上げている。それをぼんやり聞き流し、律は小首を傾げた。ショタコン女、って。

「変態美人先輩のこと?」

 その呼び方もどうなんだと、キッカが密かに突っ込んだことは、本人以外知る由はない。 


  ◆○◆○◆


 比較的小柄な体躯の律が、その身で完璧にキッカを隠しながら歩く、というのは無理な話であった。だが、辺りをしきりにきょろきょろしては、背後にキッカを隠して進む彼女の様子を、道行く生徒たちは微笑ましいものを見るような目で見送っていた。教職員たちは朝会中らしく、おかげで連れ歩いている小動物――もとい、キッカの存在を問い質されてはいない。だが、幾人かの律のクラスメイトたちは、あとで必ず、今朝一緒に登校してきていた男子高校生のことも含めて尋ねようと密かに言い合っていた。

 そんなクラスメイトたちの計画など知らぬ律は、一人緊張感に満ちた顔つきで保健室に向かっていく。ダンボールはないので隠れられないが、壁に引っ付いてじりじり迫るその姿は、どこぞの潜入工作員のようだった。キッカもそんな律に倣って、冷たい壁に身をぴたりを寄せていた。夏場には少しきつい服装をしているだけに、壁の冷たさが心地いいなどと思っていることを、律は知らない。

 保健室は電気がつけられたままだった。だが、主たる真木白亜まぎはくあの姿は見えない。他に人がいないことを確認してから、律はキッカと共に室内に入った。なんだか無駄に体力を使った気がする、と垂れた汗を拭い、問答無用で冷蔵庫を開けた。保健室を訪れざるを得なくなった生徒に、冷えピタやら氷のうやらミネラルウォーターやらスポーツドリンクやらの類を提供するための冷蔵庫の中には、どういうわけか何本もアルミ缶がある。缶チューハイだ。全て、この保健室を任されている養護教諭、真木白亜の持ち込み品である。そのチューハイに紛れさせてあった缶ジュースを、律は素早く取り出した。

 入学当初から保健委員である律は、そのせいかどうか知らないが、やたらと真木に絡まれることが多かった。委員長、副委員長そっちのけでやたらと雑用を任されては、しょっちゅう保健室に呼びつけられて雑談の相手をさせられる。最近は、別に真木の相手をしなくても成績は下がらないと察してからは極力、彼女の誘いを受け流すようにしていたが、一年生の時はほぼ毎日のようにここへ足を踏み入れていた。病人でも怪我人でもないのにだ。そんな経緯もあって、真木が酒を冷蔵庫に持ち込んでいることは知っていた。他の教師に知られたら一大事である。学校側に黙っている代わりに、律のためのジュースを用意する、という真木の言葉に乗って、未だに律は冷蔵庫の秘密を誰にも明かしていない。好きに飲んでいいから秘密にしてね、とウインクしていた真木白亜の姿を思い出しながら、律は飲みかけのサイダーをキッカに差し出した。

「暑いでしょ、もう脱いでいいよ」

 腕捲くりをしていたキッカの様子に、律は彼女のフードと帽子を取ってやる。律からアルミ缶を受け取ったキッカは、それに口をつけてからパーカーを脱いだ。ようやく半袖という季節感ある格好ができた青髪の子供は、ふうと安堵したように息をついた。だが、直後にお腹を摩る。そして、嘆くように呟いた。

「お腹減ったなぁ……」

 もう一口サイダーを口に含んでから律に返すキッカに、スカートをぱたぱたと持ち上げて足下に風を送り込んでいた律は苦笑する。

「え、朝ご飯けっこういっぱい食べてたよね?」

「うん……でも、やっぱり魔力がないと駄目みたい、です」

「ほあー。ねえ、魔力を食べるのって、使うのとはやっぱりわけが違うの?」

 刹真の言葉を思い出しながら、律はキッカの座るソファに腰を下ろす。彼の口ぶりでは、赤ずきんであった自分も「魔法」が使えるような様子だった。キッカも「少しだけど魔力がある」と言っていたし、もし使えるものなら魔法を使いたいものだ。キッカを守ると宣言した以上、刹真の助けを待っているばかりではいけない。律の質問に、キッカは赤い目を瞬かせた。

「お姉さん、魔法を使いたいの? でも、今のわたしじゃアドバイスできないかも……」

「どうして?」

「こっちの世界に来てから弱体している分、必要な魔力も少なくて、使える魔法にも制限があるみたいなんですよ。そもそも、わたしの魔法は防御専門で無意識のうちに身を守るものだから……。それに、わたしが七人の魔女の一人だからかもしれないけど、使いたいって思えばその時点で魔法が使えるんです」」

「へー。じゃあ、今もお腹が減ってるってことは、無意識下で魔法を使ってたってこと?」

 律がサイダーを飲み干すと、キッカはふるふると首を振った。

「魔力は生命力の源ですけど、それは体力と一緒で一定時間休んでいれば回復するものなんです。あるお姉さまは、失われた魔力は自分で自然に補えると言っていました。でも、わたしだけ違うんです。消費した魔力は休んでも回復されることはないし、誰かの魔力を食べることでしか補えないんです」

 表情を暗くするキッカは、足をぶらぶらと動かしていた。誰かの生命力を糧にしなければ生きられない少女、それ故に、仲間から追放された子供。はっと、キッカの目が見開かれる。無意識のうちに律の手は少女の青い頭を撫でていた。さらさらとした手触りが心地いい。照れたように俯いたキッカは、ちらちら視線を律に投げる。そして、心許なさそうに口を開いた。

「お姉さんは、勇士さんだったのに変だね……。みんなが言うように、どうしてわたしなんかに優しくするんですか。敵なんですよ、こんなんでも」

「もしキッカちゃんが悪意の塊に見えたなら、きっと私は、猟師さんからも大神さんからも庇わなかったよ。でも、キッカちゃんは、この世界をどうこうとか人を殺すとか、するつもりないんでしょ?」

 さも当たり前のように返す律に、キッカは少しだけ恐怖心を持った。この、人を無条件で信頼しきるその姿。それはとても危ういものにも見えたのだ。そして、少女はその信頼を寄せてくる彼女の目に、とてつもない重みを感じた。もし、自分がこの人を裏切らざるを得なくなったとき、この人の目はどんな風に歪むのだろう。純粋な好意と信頼に煌めいている目が、侮蔑と敵意に塗れてしまったら――姉たちのような目をされたら。そう思うと、胸が痛んだ。

 しゅん、と更に俯くキッカの頭を、律は優しく撫でる。そして、歌うように続けた。

「私にとって前世は前世、今は今なんだ。確かに私は『赤ずきん』だったけど、今はただの赤羽律。そして、私にとってキッカちゃんは、居候人」

「……お世話になってます」

「うん、お世話します」

 にこっと笑う律を横目に、キッカもまた、暗くなっていた表情を僅かながら明転させた。和やかな空気が二人の間に流れる。だがそれは、「激写ですわ」という、カメラのシャッター音で崩された。ぎょっとして二人は入口の方を見やる。そこには、くねくねと身体を軟体動物のように動かしながら、スマートホンを操ってにやにやしている女の姿があった。

 白の半袖カットソーに薄桃色のプリーツスカート姿は女子大生のようだ。ごてごてと装飾されたスマートホンをしまいながら、現れた女、真木白亜はきゃはきゃはと笑った。口元を覆う両手の爪はピンク色にむらなく塗られている。くるくると巻かれた毛先は、彼女が浮き足立った様子で室内を歩く度に揺れていた。

「激カワなんですけどー萌え萌えなんですけどー。もぉ、女子中学生×幼女とか誰得? あたし得! まあ、お姉さん×ショタが最高だけどねっ」

 可愛らしい顔立ちをしていながらスタイルもよく、見かけは何一つ文句のつけようがない女性でありながら、いつまで経っても独身なのはこの性格のせいだろうとは、学園中の人間が推測していることであり、恐らくは真実だった。

 キラっ☆とバックに文字を背負っていそうなポーズをかましている真木を、一切の感情が抜け落ちた目で見つめる律は、彼女と目が合うと音も容赦も迷いもなく、さっと視線を逸らした。すると、ゴキブリのような速さで(見かけだけは)若い養護教諭が寄ってくる。

「あれれー、りっちゃんどうしたのー? 具合悪いのー? 顔色悪いねー、寝る? 寝たい? 先生と寝たい? いいよいいよ、もちろんオーケーよ、おkだよ」

「究極に気色悪いんで顔近づけないで下さい、加齢がうつります、私に」

「さらっとひどーい。でも白亜めげない☆」

 いらぁ、と、律が顔色を悪くする中、彼女の悪魔のような台詞と態度にキッカは愕然とする。敵など関係ないと言った直後だっただけに、律のそんな黒い一面を引き出す真木という女を、青髪赤目の子供は震えながら凝視していた。律の頬をぷにぷにと突っつく真木は、もうりっちゃんたらツンデレなんだからぁ、と顔を赤らめている。どこにもデレる要素などない。

 いい加減にしろ、と言わんばかりに、律が真木の手を払う。彼女が何か言う前に、律は口早に告げた。「先生、ちょっと相談がありまして」

「りっちゃんからのお願いならなんでも聞いちゃうよ、お姉さん。もちろん見返りはりっちゃ、」

「冷蔵庫」

「――で、お願いって何かしら、赤羽さん」

 冷徹な口調で吐き捨てた一言に、真木の態度が一八〇度変わる。教師然としたその姿は、最早別人のようだった。表情や言動は印象に関わる大事なものなのだなと、キッカは学ぶ。

「キッカちゃんといいます。この女の子を私が学校にいる間、ここに置いてあげてほしいんです。先生みたいなド変態に預けるのは忍びないんですけど、さすがに学校で幼女を襲うようなど腐れではないと思っているので、お願いします」

「けっこうな言い草ね……。いくらなんでもそんなことしないわ」

 ひくり、と目の下を真木が痙攣させる。

 彼女の弁明をしておくと、真木白亜は確かに色情狂いの嫁き遅れではあるが、同性愛者でもロリコンでもない。ただマニアックな行為とネタが好きなどうしようもない男好きなだけだ。

「ちょっとりっちゃん、地の文のふりをして心の声を表に出さないでくれる?」

「先生、メタな発言はよしてください。で、預かってもらえるんでしょうか」

 キッカが不安そうに真木を見つめる。潤んだその瞳に、色情狂いの男好き改め養護教諭は、うっ、と息を詰まらせた。キッカが不安なのは、この人と二人きりなんてちょっとやだな、大丈夫かな、という恐怖と身の危険という直感のためだったのだが、それを見事に「わたしは預かってもらえなかったらどうなっちゃうんだろう、校舎のどこかで誰かにペロペロされて連れて行かれちゃうのかな」と、穿った方向に受け取った真木は、親指を立てた。

「預かるわ、預からせていただくわ」

「鼻血拭けよ変態」

 ソファの脇に置いてあったティッシュ箱を投げつけ、律は酷薄な目で真木を一瞥した。きゃんっ、と小型犬のような声を出してティッシュを顔面に受けた彼女は、はあはあと肩で息をしながらティッシュをちぎって鼻に詰める。美人台無しだった。これは男も寄ってこないわけだと、そんな姿にした張本人たる律は表情一つ変えずに思う。そんな律を、かたかた身を小刻みに震わせながらキッカは見つめていた。この人は前世でも優しいままだったのだろうな、と思っていたが、実際は容赦なく敵をぶちのめしていたのだろうと想像し、キッカは口の利き方には気を付けようと己を縛る。

 だが、仲間にも罵られて戦闘不参加を乞われていたことを、幼い魔女は知らない。

「それにしても、また面白い子を拾ったのね、りっちゃん」

 書類の片された机に肘をつきながら、真木が妖艶に微笑む。ティッシュが鼻に詰まっていなければ、律とはいえ、ちょっとはドキドキしたかもしれないというほど、色香があった。だが、いつも肝心のときに発揮されないというのが真木白亜の残念さだ。

「この子、アイルランド人で、家庭環境が複雑な家出人なんです……」

 昨日、母親にはなんと説明したのか忘れてしまった。辛うじて憶えていた設定をなんとなく口にする。アイルランド人ねぇ、と反芻し、にやりと笑った。

「Hi,kitty.(やっほー子猫ちゃん)

 How is the taste of the owner who found it in this world?(この世界で見つけた飼い主はどんな感じかな?)」

 ぎょっと、律が目を剥く。唐突に発せられた無駄に発音のいい英語に、しまったと思った。アイルランドは英語圏だ。まさかキッカがここにきて英語ペラペラなんてオチがあるわけない。対するキッカも目をぱちくりしていた。律も何を言われたかさっぱりだったが、キッカも同じだったようだ。

「やぁーね。こんな基礎的な英語も分からないようじゃ駄目じゃないの」

「えっと……小さい時に宗教集団に誘拐されて、日本で育ったから英語分かんないんです」

「あら。『異世界から来たから英語が分からない』――の方がいいんじゃないの?」

「えっ……」

 彫刻のように固まる律に、真木は、ふふふと微笑むばかりだった。キッカも、驚いたと言わんばかりに目を見開いている。キーンコーンカーンコーン、と割れた鐘の音が聞こえた。予鈴だ。ホームルームが間もなく始まる。

 あ、血止まった。そう言って、徐に真木は詰まっていたティッシュを撮み出した。先端が鮮血に染まったそれを、彼女はぽいと足下のゴミ箱に落とす。そして、律に笑いかけた。

「りっちゃん、行かなくちゃ。大丈夫、りっちゃんのお願いなら、あたしちゃんと聞くわ」

「……よろしく、お願いします」

 どこか釈然としなかった。弱気な目でこちらを見てくるキッカも、心配だった。だが、子供は手を振ってくる。

「じゃあ、待ってます、お姉さん」

 その言葉を聞いて、律は保健室をあとにした。

 ――まさか、冗談だよね。

 真木の一言を思い出しながら、彼女は急いで階段を駆け上る。異世界。その言葉が真実だと知る者がそんなに多いわけがない。冗談で言ったに決まっている。本鈴の前に、教室に滑り込むことができた。いつもなら来ている担任の鈴浦女史の姿が見えない。隣の席の円谷円香つぶらやまどかが、苦笑しながら律に「おはよう」と声をかけた。切り揃えられたセミロングの髪が肩から背中に流れる。

「おはよう、円香ちゃん。先生来てなくてラッキーだったよ」

 鈴浦女史は遅刻はもちろん、遅刻ぎりぎりにも結構うるさい、学園では有名な時間魔だ。

「なんか、まだ学年の先生たちは話し合ってるみたいだよ。授業始まるの遅くなるんじゃないかってみんな言ってる」

 教室内は、いつ担任が現れてもいいように静かだった。こそこそと喋る律と円香の会話が大きく聞こえるほどに。

 学年会が時間を押してまで行われているなんて、どうかしたのだろうか。律が小首を傾げると、円香は茶色い瞳に驚愕の色を滲ませた。「やだ、律ちゃん知らないの?」

「何かあったんだね?」

 目を細める律に、ずいと身を寄せて、円香は続けた。

「今日、桜ちゃんも柚希ちゃんも欠席してるの。律ちゃんは絶対知ってると思ったんだけどな。昨日、事件に巻き込まれたって噂だよ、しかも怪我してるって」

「えぇっ!」

「静かに」

 思わず叫んだ律の口を、円香が素早く塞ぐ。もがっ、と息を詰まらせた律はこくこく頷いた。手を離した円香は、目尻を下げて心配だよねと律を見つめる。うん、と応えるのが精一杯だった。示堂桜しどうさくら眞峰柚希まみねゆずき、この二人は、どちらも律と親しい友人たちだった。クラスにおいて、律はどこのグループにも属せるが、普段お昼を囲んでいたのがこの二人なのだ。入学当初、桜と席が隣同士で、桜の幼馴染だった柚希とも連鎖的に親しくなった。その二人が、同時に事件に巻き込まれて怪我をした、とは。

「何があったんだろう……」

 手を組み、律はぼそりと呟く。律ちゃん、と円香が心配そうな声を出した。

 ホームルーム終了を知らせる鐘が鳴って、ようやく鈴浦女史がやって来た。きっちり纏め上げた髪にきっちり留められたシャツのボタン。今日もきっちり御前の異名を誇る担任教師のスタンスは揺るがない。だが、彼女は、「一時間目は自習です。二時間目以降は時間割通り動くように」とだけ告げて、足早に踵を返してしまった。教室の引き戸に手をかけたところで、鈴浦女史は振り返る。

「赤羽さん、ちょっと」

 クラスが嫌な沈黙に包まれた。慌てて立ち上がり、律はそそくさと鈴浦と共に教室を出る。誰もが、律と担任を注視していた。廊下に出てから、鈴浦女史は声を潜めて律に言う。

「示堂さんと眞峰さんの欠席の件で、何か知っていることはありますか?」

「あ……、いえ、何も」

「そうですか。なら結構です、戻っていいですよ」

「何があったのか、なんで休んでるのか、教えて頂けませんか」

 懇願する律に、鈴浦女史は心苦しそうな表情で首を振るばかりだった。



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