一章
一章 赤ずきん、戦慄する
実は怖いグリム童話――と銘打たれた文庫本を持った同級生たちが、きゃっきゃうふふとページを捲っているのを横目に、赤羽律は頬杖をついた。彼女の席は廊下側、どういうわけかやたら窮屈さを覚える一番後ろだった。休み時間の今、忙しなく人の出入りが行われており、かの有名な女学園の中等部も、蓋を開けてみれば年相応に子供な少女たちの弾ける笑顔しか辺りには見られない。
そろそろ高校受験に本腰が入ってくる夏休みも近いわけだが、内部進学生が半分を占めるこの音戯女学園中等部において、受験の空気は殆ど漂っていなかった。かく言う律も、進学希望先は音戯女学園高等部である。きちきちの堅苦しい伝統校だと入学当初は思ってもいたが、校則こそ厳しいものの、教諭陣も同輩たちも格式にばかり縛られた頭の堅い人間ばかりではなかった。「ご機嫌よう、赤羽さん。今日も清々しい朝ですわね」なんて言葉遣いの人間は全くといっていいほどいない。
「白雪姫怖っ! 母親を熱い鉄板の上で躍らせるとか。しかも裸足!」
「シンデレラもなかなか……継母と姉の目を鳥に突かせてるよ」
「こわい、メルヘン怖い!」
少女たちの可愛い悲鳴が唱和される。メルヘンね。そう口の中で呟き、律はシャーペンをくるくると回した。怖いも何も、とんでもなく血生臭いんですよ、いやいやマジで。魔女相手に戦争しちゃってますから、白雪姫。
「赤ずきんもさぁ、こうやってリアルな絵を見ながら考えると、グロいよね。オオカミのお腹ハサミでちょきちょきとかさ」
「そのあとに石詰めだもんねー」
またもや悲鳴が唱和される。律はシャーペンを回す手を止め、うんうんと頷いた。
そうそう、本当にグロかったんだよ、あんまり記憶にないんだけど。とにかく、この世界での「怖い」メルヘンなんかよりも、本当の「メルヘン」は、そりゃあもう怖かったんだから。
予鈴が鳴り響く。黄色い声に包まれていた喧噪の世界は、徐々に落ち着きを取り戻し、世間的なイメージの「厳格なお嬢様学校」のそれに変わっていく。教師が教室に入ってきて、日直であった律は起立と呼びかけた。静かに立つクラスメイトたちは、三〇度の角度で頭を下げる。
「よろしくお願いします」
教師に対する礼の言葉が合唱される。
よろしくお願いします。
なんだか、昔から妙に懐かしみのある言葉だった。それには、きっと前世が関係しているのだろう。
――赤羽律、一四歳。音戯女学園中等部三年A組所属、出席番号一番。
彼女は、ただの人間ではない。本人もそれを自覚していた。彼女には、今は薄れつつあるとはいえ、前世の記憶があった。妄想でも夢でもない、はっきりと、「前世」と認識できている、もう一人の己の一生に関する記憶が確かにあったのだ。律がそれを「思い出し」て「認識した」のは、彼女が小学三年生の時、運動会のパン食い競争で、吊るされたフランスパンを噛みきれずに一人恥ずかしい思いをしていた時だった。
唐突に思い出したのだ。
「あれ、私、赤ずきんじゃん」
結局、パン食い競争は最下位に終わったが、思い出した前世の記憶はその日から断片的に脳裏で鮮明に再生されるようになった。
律が「赤ずきん」という存在であった世界は、メルシェンという名前がついていた。それは、その世界にたった一つしかない大陸の名前であった。元々、律の前世での名前は「メロ」といったが、とある事情からその名で呼ばれることはあまりなかったと記憶している。そのとある事情というのが、メルシェンを脅かした七人の魔女たちとの死闘である。
律は、七人の魔女と戦うために選ばれた最後の勇士であった。魔女と戦うために村を旅立った彼女に贈られたのが、母親手製の頭巾。最後の勇士の噂は瞬く間にメルシェン中に広まった。魔女の眷属たちをばったばったとなぎ倒していくその姿から、彼女の通り名は「赤ずきん」となったのだ。
さて、「前世」というのだから、既にメルシェンでの赤ずきんメロの生は終わりを迎えているのだが、理由は単純で、彼女は魔女との死闘の果てに命を落としたらしかった。らしい、と推測で終わるのは、その肝心の部分を律がはっきりと憶えていないせいだ。どうにも仲間らしき人々の叫び声を聞いたところは憶えているのだが、その先で自分は恐らく死んだのだろうと考えている。
だが、前世の記憶が本物であったとしても、最早、この転生した後の世界では、律はただの「赤羽律」で、立里市の住宅街に居を構えるサラリーマンとOLの娘でしかない。この世界には魔女もいなければ魔法も存在せず、赤ずきん時代の力はどこにもないのだ。盟友たちもいない。
だから、彼女は決めていた。
赤羽律として生きることを。
前世という大きすぎる過去に囚われない、一人の少女として、人間として人生を全うすることを。とは言え、前世が気にならないなんてことはない。
メルシェンはどうなったのか? 魔女たちは全員倒せたのか? 自分以外の勇士も転生しているのか?
疑問は尽きない。だが、尋ねたところで、己の記憶以外に頼れるものはない。その唯一頼れそうなものも、肝心の部分がロストしている。だから、一日数回前世のことを思い出しても、深く考えることはやめていた。気にはなる、だが、それ以上に英語の予習や数学の復習、日本史の暗記の方が、今は重要なのだ。
「はい、では、四五ページの最初から。赤羽さん、和訳して下さい」
ほら、役に立った。
はい、と返事をして、律はばっちり予習済みのノートを開く。開いて――
「……すみません、間違えて社会のノートを持ってきてしまいました」
小さく手を挙げ、律は、小学三年生の時にパン食い競争で味わった羞恥と同じものを嚥下した。くすくすとクラスメイトたちが小さく笑い出す。嘲笑というよりは、「また律ちゃんがやらかした」という苦笑に近いものだ。前世では、こういう生温かい反応はもらえなかった気がする。もっと、なんというか、心臓にどれだけ毛を生やしても最大出力のバリカンで剃られた挙句、ぐさぐさ抉られるような笑みを向けられていたような。
教師は首を竦め、律の隣の少女を指名した。
ああ、なんと平和な世界だろう。
穏やかに日々を過ごし、学友たちと笑い合い、ゆっくりとベッドで眠れ、毎日三食にありつける。敵だなんだと緊張することも、えいやえいやと武器を振るうこともない。今生とは素晴らしい。日本最高。――最高。だが。
(他のみんなは、世界は、どうなったのかなぁ……)
目を閉じても、明確に浮かんでは来てくれない仲間たちの顔。それでも、自分と旅をし、魔女に挑んだ盟友たち。かけられた言葉は、忘れられない。今よりずっと荒んでいて、危険で、命のかかった世界だったけれど、それでも、懐かしいと思えるのは仲間のおかげだ。そして、勇士である自分を支え、或いは厳しく指導してくれたメルシェンの人々の。
「相変わらずどうしようもない雑魚だね赤ずきんちゃん。もういっそモブ①とかモブ②とかに改名したらどう。退場という手もありだけどどうしたい?」
「赤ずきんさん。すみません、迷惑なので下がっててもらえますか」
「メロたん。ちょっと頭巾ずれてるよ? ヅラはちゃんと直さないと」
「赤ずきんメロ……噂に違わぬ鬼畜ぶりじゃの。問答無用で眷属を馬車馬の如く使い走らせるその姿、勇士にあるまじき外道さよな」
「おばあちゃん、メロちゃんがみんなの足手まといになっていないか心配で心配で……」
ぼきん、と音を立ててシャーペンの芯が折れた。
なんかそんなに良い思い出もないかもしれない、前世。なぜ仲間から苛めに近い罵倒を受けねばならなかったのかもあまり思い出せないが――いや思い出したくないが、どれだけ自分を酷く扱っていようが盟友だったことに変わりはない。
素敵な仲間たちだったと信じたい。切実に。
まさか自分一人が転生したわけでもないだろう、という確信めいた思いはあった。この世界のどこかに、メルシェンで勇士として名を連ねた同朋たちは少なからずいるだろう、と。ただ、会ったところで分かるのかどうかは怪しい。何しろ自分の前世の姿一つまともに憶えていないのだ。共に戦った友たちの顔も、薄ぼんやりとしてしまっている。警察に捕まった容疑者を知る人へのインタビューで、顔にモザイクをかけられている人たちが脳内でがやがやと、自分に対する罵倒を繰り広げているのみである。
会いたいかどうかと言えば、そりゃあ会えるものなら会いたいと思う。
他の勇士にも前世の記憶があるのかは分からないが、もし自分より鮮明に前世の記憶を保持しているのならば、訊きたいことがたくさんあるのだ。志半ばで命を落とした自分が成し遂げられなかった、七人の魔女を倒して世界を救うという物語の顛末を。
まあ、そんなに近くに都合よく、前世でお世話になった人々が転がっているわけもない。小石じゃあるまいし。
「律ー、ご飯食べ行こ」
「さくちゃん、最初に先生のとこ行ってプリント出さなくちゃ駄目だよ」
「お腹空いちゃったから無理ー」
「もー。また忘れて怒られちゃっても知らないからね」
昼の鐘が鳴った。真っ先に寄ってきた友人を見て、律はそれまでの思考を全て捨てる。
今は、今だ。
メルシェンで学校に通うことができたのは、王侯貴族や富裕な商人の子供、聖職者を目指す信徒だけだった。律こと、「赤ずきんメロ」の出身は、地方の村の庶民の家だ。母親が内職で雑貨を作りながら、農業で生計を立てていた。母親の顔にまでモザイクがかかっているのは悲しいことだったが、母への愛情だけはしっかりと思い出せる。父親の姿は殆ど記憶の中の映像には出てこないので、早くに死別したか、両親は離婚していたのだろう。祖母は村を囲う森の奥に家を持っていた変人だった。
生活に余裕はなかった。一時期は、将来安泰の聖職者となって母のためにお金を稼ごうとも思い、わざわざ単身で王都まで赴いたものの、神学校での過酷極まりない修練と上級生からのパワーハラスメントに耐えきれずトンボ返りしたことは、やけに鮮明だ。だが当然あまりいい思いはしない。「助けてド〇えもん」と泣き叫ぶ勢いで実家のドアを叩いたのは恥だ。
僅か一週間の学校生活――最終学歴なしであったメロだったが、赤羽律として生きる彼女は、思いきり学校を楽しむことにしていた。部活も三年間、真面目に陸上部で過ごしたし、勉強も手を抜いたことはない。忘れ物はよくするが。惜しむらくも、陸上は六月の大会で引退となった。今は暇だ。毎日が暇だ。だが、浮ついていると毎度ろくでもない目に遭う。そうでなくとも、学校帰りに寄り道をすることは厳禁となっていた。
音戯女学園の制服は黒いセーラー服だ。地元では唯一の黒セーラーなので、すぐに身元がばれてしまう。校外への威信や体裁を守るためなのか、こと、学校帰りの飲食や遊びは禁則だった。中には堂々と校則を破る猛者もいるのだが、内部進学を目指している律には恐ろしい所業でしかなかった。内部進学希望者は、高等部からの入学組に比べて多少は緩やかな試験問題を与えられるが、中等部時代の内申チェックが非常に厳しくなるのだ。学力四の内申六、比重が内申書に傾いている以上、下手に校則を破って学校側から目をつけられるわけにはいかない。だから、脇目も振らずに帰路に着く。
律の家は女学園から徒歩で三〇分ほどかかる。不幸にも、女学園行きのバスのルートから外れている簡素な地域であった。自転車登校が認められるのは自宅から学校までの距離が六キロ以上の者に限られており、三〇分かかるとはいえ三キロ程度の距離に家がある律には、徒歩以外に選択肢がなかった。不幸だ、実に不幸だ。だが、小学校までは一〇キロもあった。通学に一時間近くかかったのだ。それを考えれば三キロ程度なんのそのである。
「あっついなぁ」
ぼやいた彼女の目線の先には、コンビニがあった。夏の空はまだ青く、四時を過ぎても日は高い。頬を伝う汗をハンカチで拭う。コンビニは涼しさを求める人々で賑わっていた。ちょっとくらい……。そんな誘惑が脳裏をよぎる。繁華街じゃあるまいし、教師たちも巡回してやしないだろう。そう思った時には、身体も思考もコンビニに傾いていた。実は小銭がある。ギリギリ君アイスの一本くらいなら。そんなことを考えていた。律という少女は、思考こそ保身的で真面目なのだが、単純で流されやすい、俗に言えばチョロい一面も大々的に存在していた。
だが、チョロいヒロイン、つまりチョロインたる律は、はたと足を止めた。ガラス越しに、雑誌コーナーでむさいおっさんたちに紛れている少女の姿を発見したからだ。きっちり結わえられた二つの三つ編みは胸元に流れ、切れ長のクールな目は黙々と少年漫画のページを追っているようだった。仇敵を見下ろすような目つきで漫画を読み進めている少女は、黒いセーラー服を身に纏っていた。
音戯女学園中等部の生徒だ。
それ以上に、律は、その少女のことを知っていた。もっと言うならば、苦手にしていた。一つ下の二年生、名前は狩屋椋子。学内ではそれなりに名の通ったプチ問題児だ。プチ、というのは可愛いという意味ではない。一見すれば優等生なのだが実は素行がよろしくない、ということらしい。なまじ勉学ができ、部活動でも優秀すぎる成績を修めているために、学校側もきつく注意できないようだ、と噂で聞いている。
直接的な接点はない。だからこそ、律は彼女を苦手としていた。接点がないのに、時たま物凄い目で睨まれるからだ。例えば、廊下ですれ違った時、友人たちとお喋りをしながら食堂にいる時、清掃の時間にゴミ捨て場でばったり会った時、登下校の際に門で鉢合わせした時、などなど。
彼女は、鬼でも見るような目で律を睨むのだ。ひっ、と悲鳴を思わず零したことも、一度や二度ではない。なんでだ。なぜ睨むのだ。私が何かしたのか、いやしていない。そんな反語や自問はしょっちゅうで、それでも、接点を持つことも怖いので現状は心臓に悪い知らんぷりをずっとしている。卒業まで半年、あと半年、知らんぷりを決め込めばいいのだ。そう己を励まし続けている毎日である。ここ最近は彼女を見かけなかったのだが、まさかこんな辺境のコンビニで目撃しようとは。
「……帰ろう」
そう呟いて、律は踵を返した。狩野椋子は、漫画を読み続けている。だが、その目が一瞬だけ、律に向いたことを彼女は気付かなかった。
律の今生での母親の名前は美咲、父親の名前は義雪という。普通のOLとサラリーマンであり、恐らく前世とは全く関係のない二人なのだろうと思っている。「ねえねえ、パパもママも前世の記憶ってあるぅ?」と、前世について思い出した初期には尋ねたこともあったが、子供の他愛のない冗談だと流された。以来、前世に関することは一切口にしないようにしている。口に出せば出すだけ、今生と前世の親を比べてしまう気がした。どちらの親も慈しむべき存在に変わりはないのに。
共働きの両親は、夜にならねば帰ってこない。ただいま、と言っても静かな空気しか漂っていない我が家は、物寂しさすら慣れてしまって何も感じない。冷蔵庫を開けると、昨日の夜に食べたスイカの残りがあった。皿の上に二きれスイカを載せ、縁側まで持っていく。二階建ての和風建築は、周囲の新居に比べれば時代遅れ感も否めなかったが、風通りのいい造りは好きだった。縁側の戸を開ける。ちりんと風鈴が鳴った。
「はぁー、うまー」
よく冷えたスイカは、さっぱりした甘味と涼しさを与えてくれる。ほっと息をつく律は縁側か伸びた足をぶらりと動かし、
「……み、水……」
この世のものとは思えない、低く淀んだ声が鼓膜を叩いた。空中で不自然に停止した足と、瞬きすらしない律の両目。彼女の黒い眼が捉えているのは、日当たりのいい庭先でうつ伏せに倒れている髪の長い子供の姿だった。そんじょそこらの子供ではない。髪の色は南海のリゾートもびっくりと言わんばかりの発色のいい青色だ。しかも、身に纏っている服も、このくそ暑い夏にはあまりにも不向きな黒いローブである。馬鹿かこいつは。
だが、初めて見る子供――しかも倒れている幼女と思しき人間にそんな暴言を吐くことはできない。
この家を死体発見現場にしてはならない。そう思い至った律は、どたばたと音を立てて冷蔵庫に走った。ミネラルウォーター(父用)のペットボトルを引っ張り出し、急いで幼女の元に向かう。縁側に置いてある便所サンダルに足を引っかけて、うつ伏せの幼女を抱え起こした。「はい、水!」
ペットボトルの口を幼女の薄い唇につける。半分瞼を押し上げた子供は、かすれた声でありがとうと呟き、水を飲み出した。まじまじ見つめ、律は息を呑む。とんでもないものを拾ってしまった気分だった。死にかけの犬猫なんてものではない、もう、ブラッドダイヤモンドクラスのやばいものをうっかり手にしてしまったような、そんな気分だ。
子供の目は徐々に輝きを増していく。まさに生き返っている最中のようだ。とにかく水を与えただけではいけない、一旦日陰に連れて行かねばと、子供を抱き上げる。年の頃は一〇歳前後ほどだが、驚くほど軽かった。
居間の扇風機をつけ、座布団を並べてその上に子供を寝かせる。
「うー、うー……気持ち悪いよぉ」
そりゃああんな熱射光線に晒されながら倒れてりゃあ気分も悪くなるだろう。意識がなくなっていなくて本当によかった。
「まだ水いる?」
既に空になってしまっているペットボトルを横目に、律は子供に尋ねる。子供はゆるゆると首を振った。苦しげに呻く子供を傍らに、律は縁側に置いてあったスイカの皿を持ってくる。居間の卓上に皿を載せると、子供はむくりと身を起こした。
「もう大丈夫なの?」
頬を真っ赤にした子供の様子は、あまり大丈夫そうではない。ぽーっとしている子供の反応は鈍かった。大丈夫、と口では言うが、こりゃあ駄目だと律は首を振る。
「それ、なあに」
「ん?」
子供が薄ピンク色に染まった指先をスイカに向ける。最近の子供はスイカも判別できないのか? と訝しんだが、本当に何か分かっていなそうな子供の視線に、律は「スイカだけど……」と差し出しながら答えた。おずおずとスイカを受け取った子供は、しばらくそれをあらゆる角度から眺めた後、口に運ぶ。しゃり、といい音がした。
「おいしいですね」
「うん、まあ……」
あっと言う間に食べ終わってしまった子供は、名残惜しそうに皮まで食べようとする。それを慌てて制止し、律は冷蔵庫から残りのスイカも持ち出した。少し名残惜しくもあったが、いずれは食べられるものなのだ。今食べてしまっても問題はないだろう。
嬉しそうにスイカを頬張る子供の姿は幸せそうで、律は、なんだか自分はいいことをしている、まるで足長おじさんにでもなったようだと自己満足に浸った。本物の足長おじさんには大変失礼な感情である。
濡れタオルを子供に渡して手を拭くように言えば、子供は無邪気に笑って礼を言った。その瞳が血のように赤いことに、律はそろそろかと一人頷く。
「あなたの名前は? なんでうちにいたの? ていうかどこの国の人? 親はどこにいる?」
「キッカって言うんです。ちょっと追われてて。人っていうか魔女です。ママがいました」
「あ?」
「なんですか?」
「ちょっと、ちょっと。なに、魔女?」
魔法少女キッカ☆マギカ的な? よくやるよねごっこ遊び。君のは随分と手が込んだ仮装までしているみたいだね。うんうん、分かるんだけどさ、真面目に答えてほしいな。
律は至極真面目な顔で再度尋ねる。ふにゃりと笑うと、また子供はふざける気がしたのだ。だが、キッカと名乗った少女は「本当だもん」と頬を膨らませた。
「わたし、メルシェンで、」
メルシェン――。その言葉に、律は目を見開く。だが、少女の言葉を遮るように、簡素な住宅地には無縁にしか思えない乾いた音が響き割った。空気を裂く、一発の銃撃音。それは、目にも止まらぬ速さで鼻先を掠めていった弾丸は、キッカが手をついていた畳のすぐ近くに被弾した。ほんの数ミリずれていれば、確実にキッカの白い手の甲を撃ち抜いていたことだろう。
蒼くなったのは律だった。キッカはどこか平然とした表情で、「きたー……」と言わんばかりにくたびれた目の色をしている。開け放たれた縁側から、弾丸はまたもや撃ち込まれてきた。慌ててキッカを突き飛ばす。狙われているのは自分ではなく、この少女だ。「追われてて」という子供の言葉を反芻し、律はキッカを抱き上げて二階へと急ぐ。玄関から外に出ては狙って下さいと言っているようなものだ。庭先と玄関先は繋がっている。何も考えずにいれば、帰宅した際に律が倒れているキッカの存在を認知しなかったように素通りとなるが、意識していれば狙いやすいのは当たり前だった。
どこから狙っているのか定かではないが、とにかく身を隠さねばならない。
「なんでキッカちゃん狙われてんの!?」
自室に飛び込んで、鍵をかける。できるだけ声は潜めたが、語尾は荒くなった。キッカは赤い目を悲しげに伏せる。
「わたしが魔女だから……」
「魔女って、メルシェンの魔女ってことだよねっ」
餌に飛びつく犬のような勢いでキッカの肩を掴み、律は熱っぽい目で少女を見つめる。キッカはその勢いに唖然としつつも、こくりこくりと頷いた。
いた!
魔女なんて敵とはいえ、メルシェンの住人がいた!
妙に嬉しくなり、律は一瞬、非常事態であったことを忘れてしまう。ばりん、と激しい音がした。窓ガラスが割れたのだ。咄嗟にキッカを抱き締める。幸いにして窓の近くにいなかったおかげでガラスの雨から逃れることはできた。
「ああああそうだった、警察警察……!」
とかく、人間はパニックに陥ると常識に囚われがちである。ベッドに放っておいた携帯電話で、119番を押し、「これ救急車じゃん!」と一人突っ込みを入れて110と訂正する。間もなく電話は繋がった。
「すみません今銃撃されてるんですけど!」
『……えぇ? あの、緊急性のないふざけた通報は犯罪ですよ』
「緊急事態ですよ思いっきり! 立里市葉梨地区の住宅街です!」
『はいはい。今回は大目に見てあげますから、もういたずら電話しないでね』
「ちげーよ! って切られたし!」
つーつーと無常に機械音を鳴らすばかりの携帯電話をベッドに投げつけ、律は名門女子中の生徒とは思えない百面相を披露しながら打ちひしがれる。またしても銃声が響いた。ご近所さんは何をやっているんだ、通報しろ通報! そう憤慨せずにはいられない。
だが、元より、住宅地とは名ばかりで売家空家が多いこの地域に人はあまり住んでいなかった。
またガラスが割れる音がする。どーする、どうする!?
焦ったところでライフカードは出てこないし、どれを選んでも破滅エンドしか見えてこない。うががががと奇声を上げて悩む律に、キッカは危ないものでも見るような目をしながら気遣いの声をかける。
「あの、わたしを外に出せばきっと大丈夫ですよ」
狙われているのはこの子供なのだ。そんなことは分かっている。分かっているが、そうだよねじゃあ外に出てって、なんて言えない。
「それはできないよ。私にはあなたが殺されなくちゃいけない理由が分からないし」
「魔女だから仕方ないんです。そういう役回りなんです」
「そんなの……」
納得できない、そう言いかけて、律はぎょっとした。ふわりと少女の身体が宙に浮いたのだ。
「ありがとうお姉さん。わたしはもう行かなくちゃ」
そう言うなり、キッカは銃弾が飛び込んでくる割れた窓の方に浮いていく。
魔女は倒すべきもの、消えるべき存在。世界を脅かす危険分子、人々の敵。
ずっとそう教えられてきた。勇士として旅立った時も、魔女を倒す行為になんの戸惑いもなかった。その眼で、魔女によってどれだけの人々が虐げられ、いくつの町が、村がいたずらに滅ぼされ、どれほどの命が失われたのかを見た。まるで遊ぶように命を掌で転がす魔女たちの姿は、悪そのものだった。
けれど。
「ここはメルシェンじゃないもの……!」
再び銃弾が撃ち込まれる。それは窓に近付いたキッカに迫り、律は叫びながら、少女の小さな手を握って、その身体を抱え込んだ。自らの背を窓に向けて。
時が止まったようだった。
抱き締めているキッカの体温に、脳味噌がくらくらする。血が足りないのかと思った。銃で撃たれてしまったのだと、そう思っていた。だが、痛みはどこにもない。
「まったく。何も変わってないようだね、赤ずきんちゃん。その能天気な思考も変わってくれていたら、俺もこんな苦労しなくてよかったんだけど」
男の声だった。見知らぬ若者の声。くらくらする脳内で、何かが化学反応を起こしているようだった。
赤ずきんちゃん。そう呼ばれて、心臓の奥が委縮する。嬉しいような、悲しいような。
キッカを抱き締めたまま、律は振り返る。窓の奥、ベランダに悠然と立つ男の姿があった。黒い学ランに、学生鞄を引っ提げた茶髪の少年が立っている。彼の足下には、ウサギの糞のように、弾丸が転がっていた。
「やれやれ、ようやく動きがあったと思ったら早速赤ずきんちゃんが巻き込まれてるなんて。本当になんなんですかねあんたは。疫病神ですかトラブルメーカーですか馬鹿ですか」
「ひ、ひどい! 不可抗力なのに……!」
「不可抗力なんて難しい言葉を使えるようになったのか。パン食い競争最下位だったのに」
「それ全く関係ないよね!? って言うかなんで知ってるの!?」
「あの、うるさいから黙ってくれる? 君如きのために消費される地球上の酸素が勿体ないし」
「よく聞くフレーズだけど実際に言われるとすごく傷つく!」
律の激しい突っ込みなどものともせず、少年は再び放たれた弾丸を学生鞄で叩き落とす。その姿に唖然とする律は、どんな反応をすればいいのか迷った結果、「これは嘘だ夢だありえないありえない」と今更ながら現実逃避を始めた。だが、それを許さないと言わんばかりに、少年は室内に入ってくる。そして、律が抱き締めているキッカを見とめるなり、はあ、と深々溜息をついた。
「またそんなもの拾って……。お母さん、ちゃんと自分で面倒見れないんだから拾ってきちゃ駄目っていつも言ってるでしょう?」
「誰がお母さんだ!」
「俺」
「さも当たり前でしょみたいな顔で言うな! まずは名乗れ!」
「口の悪いクソガキだな俺にそんな口叩いていいのかコラぶっ殺して千葉の海に沈めるぞ」
「自分の方が百倍くらい口悪いよ……!?」
少年は、通っている学校ではさぞかし女子から人気だろうと容易く推測できる端正な面差しをしていた。だが、その整った顔も凶悪な色に染まれば、たちまち土下座したくなる鬼面に変わる。二、三人どころか三ケタは人を屠っています、なんて暴露されても律は驚かないだろう。
「なんで俺のこと分かんないんだよ……俺、あ、いや、私はあなたを女手一つで育て上げたのに……!」
途中から裏声を使って女声表現をする少年は、ううっ、と泣く真似をする。
「えっ……お母さん、なの……?」
キッカを自らの背後に庇いながら、律は目を見開いた。黒い瞳に驚愕と動揺が浮かぶ。
モザイクがかかっていた記憶の中の母親の顔が、徐々に鮮明になってくる気がした。
「なわけねえだろカス。幼稚園からやり直せダボハゼ」
「ですよね! 分かってて乗ってあげたのにこのザマだよ!」
「で、さっさと後ろのガキ渡せよクソガキ。今ならここにロリコンがいますって通報しとくだけで済ませてやるよ」
「どっちも嫌だよ! 通報だけってそれ以上あるの!?」
「ちっ……。相変わらずやかましいツッコミ女め」
そっちがあまりに話を脱線させるから悪い。なんて言えば今すぐ処刑されそうなので、律は口にバツ印をつける。お口はミッ〇ィーにしておくのが一番だ。
少年は、怯えた様子で律の背後からことを見守っている青髪の魔女を一瞥し、外に向かって叫ぶ。
「赤ずきんちゃんは『魔女』を殺すことをよく思っていない。ここは一旦引くのがベストじゃないか? 赤ずきんちゃんの意向に背くのはあんたの本意じゃないだろう?」
それは、どうやら、姿の見えない襲撃者に向けたものらしかった。返事は当然ない。だが、了承の代わりであったのだろうか、一発、ずどんと乾いた音が響いた。それを聞いて、少年はふんと鼻を鳴らす。そして、彼は律のベッドに堂々と座り込むと、足を組んで律と子供に座るよう指示を出した。どこの王様だよと突っ込みたくなるのを抑え、律は正座する。それに倣うように、キッカも正座をして、ぴったりと律に身を寄せる。
「まずは、赤ずきんちゃんに前世の記憶がないと話にならないんだが、そこんところは?」
なんとなく予想はしていたが、どうやら、彼もメルシェン絡みの人間らしい。
律は無言で頷いた。だが、「でも」とすぐさま付け加える。
「あなたのことは、その……憶えてなくて、」
懐かしさのようなものはある。だが、外見だけでは分からない。前世の記憶は不完全で、肝心の部分が多く抜け落ちているのだ。少年は、嘲笑めいた表情を浮かべる。
「なに、君が『赤ずきん』であったことさえ憶えていればいいんだ」
「それは思い出してる。魔女と戦ってたことも」
「なるほどね。でも、一緒にいた奴らのことは憶えてない、と」
「なんとなくは憶えてるんだけど……」
「まあそれは今は関係ないから置いておこう。それより」
少年は足を組み替える。背後にはゴゴゴゴゴなんて効果音と真っ黒の背景がありそうだ。
「なんでタメ口きいてんだコラ、年上舐めてんじゃねえぞ、日本はな、年功序列なんだよ」
「なんという社会弊害!」
「まあ赤ずきんちゃんじゃあ能力至上主義でも俺には勝てないけど」
「ぐ……なんだか否定できない……!」
太腿の上で拳を握り、律は悔しげに目線を下げた。
「それでぇ、えーっと、なんの話だっけ?」
「ほら自分で話逸らしちゃったから何話そうと思ったか忘れちゃってるよ! さっきから脱線多すぎだよ!?」
「あ、俺の名前は大神刹真だから」
「はい無視したー、真面目に話す気ないでしょ」
刹真と名乗った少年は、ごほんとわざとらしく咳ばらいをした。無駄話もそここに、始めるよ、とご丁寧に宣言する。無駄話を始めたのはお兄さんだよね、なんて、やはり律は言えないのでお口をミッ〇ィーにしておく。
「結論から言おう。赤ずきんちゃんを含めて、勇士はみんな死んだ。メルシェンは魔女の手に落ちた」
それが俺の「記憶」で「真実」だ。そう、刹真は付け加えた。急に胃が重くなり、律は己の指先を絡ませ合う。祈るようなその仕草は、最早役に立たないものだった。前世の世界は悪の手に落ちた、勇士たちは使命を果たせなかったのだ。
「だけど、多くの勇士がこの世界で生まれ変わっている。これが意味する理由は何か?」
「……また使命を負ったから、とか?」
「そうだな、そう考えるのが順当だろう。全く違う理由なのかもしれないけど、なんにせよ、また魔女との戦いが開幕するのは確かだ」
不安気に俯いているキッカを横目に、律は複雑そうな表情を見せる。そんな彼女に、刹真は説明を続けた。
「この世界とメルシェンは、どうにも繋がっているらしくてね。こっちの世界で『童話』なんて形で、赤ずきんや白雪姫、シンデレラなんかが伝わっているのも、どうやらその作用らしい。で、その繋がりを利用して、魔女たちはこちらの世界をも手中に収めようとしているというわけだ」
「それで、今回の使命も、また『王様』からのお達しで?」
メルシェンにおいて、母と二人、慎ましやかに暮らしていたメロこと律が勇士となったのは、一通の手紙が送られてきたからだ。ホワイトランド王国、言わば、大陸メルシェンの大部分を支配する大王国の王からの勅令であった。他の勇士たちもみな、王から手紙を受け取って勇士になったのだ。使命を与えたのは王であり、いったい、どういう基準で自身が選ばれたのか分からないが、あの手紙がなければ旅立つことも死線を越えることもなかった。だが、世界を跨いで王から使命が届くのだろうか。少なくとも、前世において、律はメルシェンとは異なる世界が存在しているなど信じたことも聞いたこともなかった。
刹真は首をこきこき鳴らした。冷めた目が律を見下ろす。
「断片的な記憶じゃない、本当に、前世の全てを憶えている生まれ変わりは少なからずいる。この世界に生を受けた瞬間から、あらゆる『メルシェンに関する記憶』を引き継いだ稀な存在がね。そういう稀な勇士の生まれ変わりは、赤ずきんちゃんがのうのうと学校生活を満喫してパン食い競争で最下位になった挙句えぐえぐ泣きながら噛みきれなかったフランスパンで歯茎を痛めて先生に慰められていた間も戦っていたんだよ、魔女の脅威とね」
「すごく色々突っ込みどころがあるんだけどここで突っ込んだら負けな気がする……」
無論、話が進まない的な意味でだ。
「魔女たちがメルシェンを落としたあと、次にどうするか。勇士たちは分かっていた。まあ、最後の戦いまで生き残っていた勇士に限るけどね。魔女は強欲だ。もう一つの世界に辿り着く術を得た奴らは、この世界を手中に収めようと考えた。その野望を、結局、勇士たちはメルシェンで阻止できないまま転生した。で、記憶がはっきりある奴は、果たせなかった使命を今生でこそ果たそうとしているというわけ」
ふう、と息をついた刹真は、理解できた? と冷酷な態度で律に問う。大まかな事情は把握した。なんでパン食い競争最下位の苦い思い出をあんたが知っているんだ、と部分部分で疑問は生じたが、なかったことにした方が身のためになる気がした。
「じゃあ、今度は俺が質問する。おいロリガキ。素性を明かせ、三行以内だ」
「掲示板かよ!」
「わたし
魔女
放浪中」
「きっちり収めているけど明らかに説明不足!」
「なるほど……。七人の魔女、亡き『オスナーゼ』の後釜ね。前世の段階では存在していなかった七番目の新しい魔女か」
「うわこの人絶対に最初から知ってたよね今のやり取り不要だったよね」
もうやだこの人。がっくりと肩を落とし、完全にペースを持っていかれている律は、口を挟むことを諦めた。
「魔女の実体化は、この世界じゃまだできないはずだろ。人間の精神に寄生することなく、どうしてお前は実体を保っている?」
「ジッタイ……? よく分からないけど、わたし、お姉様方から嫌われてて、メルシェンから追放されちゃったんです。お城に穴が空いて、その穴に落とされちゃって。目が覚めたら、この世界にいました」
「ふぅん。それで、猟師さんに見つかって追われてたと」
「はい。あの人、すごい人ですね。わたし、この世界に来てから殆ど魔力が使えなくて、一見すればただの子供でしかないのに容赦なく『魔女め……!』って銃口向けてきましたよ。もう、逃げるの大変でした。このお家の庭で倒れちゃったのは誤算でしたけど、おかげであの人を一時撒くことができました」
いや。ただの子供は青髪赤目なんて容姿はしていないだろう。
そう律も刹真も思っていたが、両者ともに口には出さなかった。
「確かに、猟師さんは凄腕のハンターだからね。微量の魔力でも、あの人は視ることができる。さすがに弱り切った魔女の行方は追えなかったようだけど、回復直後に場所を特定するなんてさすがだ」
素直に称賛の言葉を贈る刹真に、律は小首を傾げた。知り合いなのだろうか、『猟師さん』なる、襲撃者と。おずおずと尋ねると、彼は訝しげに目を細めた。
「まさか、赤ずきんちゃん。猟師さんのことも憶えてないわけ?」
「えっ……お恥ずかしながら……」
やれやれ、また俺のありがたい説明を披露しなくちゃいけないようだ。そううんざりした口調で告げ、刹真は続ける。
「勇士には、それぞれ『眷属』と呼ばれるものが存在する。まあ、中にはたった一人で旅をする勇士もいたけどね。無能な赤ずきんちゃんには有能な眷属がちゃんといた。猟師さんは、赤ずきんちゃんの眷属の一人だ」
「その、眷属っていうのは、」
「眷属の説明はややこしい――っていうか、あの世界でもよく分からない、『そういう存在』とでも思ってくれ。そもそも、勇士の選出だって適当みたいなものだったしね。赤ずきんちゃんが世界を救う勇士(笑)とかになっちゃってるし」
「この身に余る侮辱の数々……なんだかすごく馴染み深くて悔しい」
けっ、と、少女にあるまじき顔で歯噛みする律をよそに、刹真は説明を続けた。
眷属は、「勇士」と旅を共にしていた、魔女と戦うことを誓った勇士の部下である。眷属は、勇士と共闘する中で、勇士に与えられていた加護の力を借り受け、魔法じみた力を手にすることができた。だが、その力の原理や勇士の加護云々といったものの背景は、眷属自身も勇士本人もまるで分かってはいなかったため、実際、眷属がどういう存在なのかは不明だった。
とにかく、眷属イコール勇士の傍で常に戦う戦士。
そう締め括った刹真は、ふんぞり返った。
「赤ずきんちゃん、お茶」
「究極的な横暴ぶり!」
「飲めたもんじゃない粗茶でいいから出してよ」
「言うに事欠いてそれ!?」
ぷりぷり文句を言いながらも、律は部屋を出た。そろそろ足が痺れてきたこともあり、歩き回りたかった。不安気にこちらを向いたキッカには微笑みかけ、階下に向かう。
それにしても、なんて一日だ。バイオレンス。イッツソーバイオレンス。じんじん痺れる足裏から指先に眉根を寄せつつも、律は客用のコップを棚から取り出す。トレーの上にコップとスナック菓子を少々。ペットボトルの麦茶は片手に持つことにした。トレーの上に載せたら、それはそれで危ない。震える片手で慎重にトレーを持ち上げ、階段を上った。開けっ放しの自室に、なんの感慨もなく入ろうとした矢先、律は我が目を疑った。トレーを落とさなかったことを全人類から称賛されてもおかしくないほどに、動揺した。
「下ろしてください~っ!」
幼女の白いおみ足が、あられもなく晒されていた。ぽかんと、律は、刹真に足首を掴まれ、逆さ吊りにされているキッカを見つめる。黒いローブの下に覗くかぼちゃパンツは白い。じたばたと釣られた魚のように暴れ回るキッカだが、彼女の反抗などものともせず、刹真は冷酷そのものである両目をぎらつかせた。
ひっ、と律は喉を鳴らす。
お巡りさん連れてこないと……!
だが、そんな彼女の焦りなど気にもしない様子で、刹真は「ああ、ご苦労様」とにっこり笑う。あまりにも作られた邪気のない笑顔は、いっそ大量破壊兵器のような殺傷能力を備えていた。怖すぎる。やっていることと表情のあまりのギャップが。
「た、助けてお姉さん……」
だらりと垂れた青髪は床についている。赤い目はうるうると涙で煌めきが増しており、血が上ってきているのか、白かった肌は薄ピンク色に染まりつつあった。
「大神さん、ストップ、ストップです」
律は、トレーをそおっと置いて、麦茶の入ったペットボトルを片手に刹真に語りかける。二リットル満タンのペットボトルだ、武器になる。いざとなれば幼女虐待をする悪魔にこれで対抗しよう。ふえええん、と今にも泣き出しそうな七人の魔女の一人は、見目がなまじ可愛いだけに見る人が見ればものの数秒で卒倒しそうな破壊力を秘めていた。
だが、そんな幼女を、容赦なく刹真は更に高く持ち上げた。至福に塗れたいい笑顔で。
「戦いはとっくの昔に始まってた。直接こちらの世界に干渉できない魔女たちは、人間の精神に寄生して度々事件を起こしていた。魔女が直接舞台に上がっていなかった以上、俺たちにできたのは魔女のしもべたちを叩いて事件を解決することだけ。でも、今目の前に魔女がいる。しかも、おあつらえ向けに弱体したままだ。これを好機とせずになんとする?」
「大神さん……」
どこからともなく、風が吹いてきた。カーテンを揺らす程度の微風は、徐々にその勢いを強めていく。
「魔女は倒さないといけない。今度こそ、必ず」
「大神さん、」
刹真が、キッカの足首から手を離した。きゃっ、という少女の悲鳴が二人分重なる。だが、衝撃音はなかった。目を閉じたものの、一段と強くなる風の勢いに、律はおっかなびっくり瞼を持ち上げた。キッカは壁際に押さえつけられている。足は床から離れていた。苦悶に歪む表情と壁に押さえつけられたその様は、十字架に処された聖者のようだ。
割れたガラス片を、刹真が手に取る。それをキッカに向けた彼は、表情を消した。
「待って」
律の部屋にあった紙類が舞い散る。嵐の中に身を置くような焦燥感が、彼女の言葉を走らせる。
「いずれ他の勇士とその眷属たちがやることだよ、赤ずきんちゃん。魔女は敵だからね」
刹真が律を一瞥する。来るな拒むな黙っていろ。そう言わんばかりの目力に、一瞬だけ律は怯んだ。だが、その怯みを上書きするように、子供の呻き声が響いた。それを聞いた瞬間、彼女は跳躍していた。小さな身体が大きな一歩を踏み出す。「大神さん!」
ガラス片を握っていた刹真の腕を両手で引き止め、律は叫んだ。叫びで全てが終息したように、乱舞していた風がやむ。壁に押さえつけられていたキッカが前のめりに倒れてくるのを抱き止め、律は首を振った。
「この子に悪意は感じられない。それに、この世界はメルシェンじゃないよ、大神さん」
「馬鹿言わないでくれる、赤ずきんちゃん。そんな悠長なこと言って、また世界が魔女の手に落ちたらどうするわけ?」
苛立たしげに刹真は吐き捨てた。彼の言い分は分かる、とてもよく分かる。この少年もまた、かつてメルシェンを救うために戦った一人なのだろう。使命を果たせなかった歯痒さを、悔しさを抱えているのだろう。律だって頭では分かっていた。倒せるのなら、弱い内に魔女は討つべきだ。魔女の力は恐ろしい、そんなことは知っている。感覚が憶えている。対峙した際の恐怖心は、引っ張り出そうと思えばいくらでもできた。
「でも、だからって敵意も害意もない子供を見殺しなんかにはできないよ」
襲撃者に狙われた時、この子供は「魔女だから仕方ない」と言った。そして、自らの命が狙われていることを承知で外に出るとまで言った。律に安全を保障するために。
確かに、魔女は悪だった。メルシェンで、前世で、律は悪を滅ぼすために戦った。けれど、それは純然な悪意と敵意を魔女も持っていたから。その悪意と敵意に挑まなければ、世界という単位で危機が及ぶから。でも、キッカからは、悪意も敵意も伝わってこない。律にとって、戦う理由も殺さなければいけないわけもなかった。
「魔女もその眷属も、みんな嘘つきだ。そのガキだって、欺くために純粋さを装っているだけかもしれない」
苦々しく、少年は言い捨てる。
「そのときは、私が責任を取るよ大神さん」
絶対にそんなことにはならない。そんな確信が少女の中にはあった。
「また猟師さんに狙われるかもよ、そしたらどうするの?」
「私が守るよ、絶対に守るよ、大神さん」
数秒間、二人の視線が複雑に絡み合う。ぎゅ、とキッカを抱き寄せる律のその姿に、はあ、と折れたのは刹真だった。
「呆れたよ、赤ずきんちゃん。君は本当に変わってないね、馬鹿みたいに信じるところも、嘘をつかれてもいいとすら考えているところも」
「別に、嘘をつかれてもいいって思ってるわけじゃないけど……」
「まあ、今回は免じてあげるよ。俺の『眷属』としての力も半端なものだって分かったし」
ガラス片を放り、刹真は悠然とした態度でベランダの方へ向かっていった。大神さん、と背後から呼びかける。振り向き様に、彼は告げた。
「少しは何かを疑ったり、憎んだり、そういうことをしないと、また失敗してしまうかもよ、赤ずきんちゃん」
学生鞄を引っ提げ、大神刹真はベランダから飛び降りた。ぎょっとして近づこうにも、落ちているガラス片が怖くて近寄れない。しゅた、という綺麗な着地音が微かに聞こえてきて、律は静かに安堵した。
「部屋を片付けていってほしいって言おうと思ったんだけどな……」
見上げてくるキッカに向かって小首を傾げ、律は、一時だけ現実逃避をした。どこから手をつければいいのか分からないほど、ひっちゃかめっちゃかになったワンダーワールドと化した自らの部屋から。
◆〇◆〇◆
わざと住宅街沿いの歩道を外れ、人気のない神社の方面で歩んだ少年は、道に伸びる己の影とは別の影が正面にあることを悟り、足を止めた。ざわざわと木々が揺れる。にやにやと、揶揄する表情を浮かべる学ランの少年、大神刹真に、もう一人の影の主は射殺さんばかりの目で睨んだ。
「顔を合わせるのは十数年ぶりだっていうのに、相変わらずつれないね猟師さん」
前世で死んで、転生してから一七年。メルシェンとこちらの世界の時の流れ方が同一とは限らなかったが、死んでからすぐ転生したと仮定すれば、刹真にとって、実に一七年ぶりの再会であった。とはいえ、あまり喜ばしい感情はない。
「あなたとじゃれたことは一度もない。今この場で始末してもいいんですよ」
対する相手も、ひどく感情を抑えた声音であった。暴発する憎悪と敵対心を封じ込めているようだ。その姿があまりに滑稽に思え、刹真はせせら笑った。
「眷属が勇士の許しなしに戦うわけ? 君は変わったようだね、猟師さん」
「あの人を守るためなら、なんだってする。もう二度と殺させはしない」
雲に夕陽が飲まれていく。徐々に明るさを失っていく環境の中、「猟師」の手に、猟銃が現れた。なんの前触れもなく、突然顕現したその蜂蜜色の銃身に、刹真は驚くこともなく肩を竦めた。
「俺に戦う意思はない。君も見てただろ? まだ眷属としては不完全なんだ」
もっとも、君も万全じゃあないようだけど。
そう付け加え、刹真は唇に弧を描く。瞬間、銃口が爆ぜた。深閑としていた神社に、銃声が吸い込まれ、直後に強力な風が刹那的に吹き込んだ。刹真に向かって放たれた弾丸は、彼の足下にやはり落ちていた。悠然と立つ少年に、猟師が激昂した。
「何が眷属だ、狼風情が!」
「見ての通り、こんなちんけな魔法もどきしか使えない。まだ万全でないとはいえ、幻俗できる君と違って、俺は弱い。害意のないものには手を出すな、っていうのは、赤ずきんちゃんの方針だったけど、それも破る?」
銃口が向けられる。刹真は真っ直ぐにそれを見つめ、微動だにしなかった。時間の感覚さえ狂いそうな緊張感の果てに、舌打ちが落ちる。猟師が銃口を下げた。
「……言っておきますが、わたしはあなたのことを二度と信用することはありません。もしあの人を危険に晒してみろ、容赦なくその額を撃ち抜いてやる。わたしだけじゃない、魔女の力がまだ使えるあなたのことなど、誰も信用しやしない。自分だけが記憶を完全に引き継いでいると思っているなら大間違いですよ、裏切者のストレイン」
そう長々と嫌味たらしく、憎悪に塗れた口調で告げた後、猟師は思いきり刹真を睨みつけて横を通り過ぎていった。猟師の姿が見えなくなったところで、少年は足下に落ちた弾丸を拾い上げた。それは見る見るうちに消えていく。ぎゅ、と空気しかない掌を握り締め、彼は苦笑とも嘲笑とも取れる笑みを浮かべた。
「二度とってことは、一度は信用してくれてたわけか」