FILE1:誘拐
この小説は一部だけですが、警察を罵る言葉などが出てきます。そういうのが嫌いな方は読むのをおやめください。
―プロローグ―
アスファルトの地面、夜の人通りの少ない道路の上。雨でアスファルトは変色している。しかし、そのアスファルトのうえに横たわる一人の女性が頭から流す血でアスファルトは赤くなっていた。
横たわる女性、三十代くらいでパートの作業服を着ている。頭から血を流しており、目は白目をむいているが、まだかすかに息をしている。
その女性の横で六歳くらいの男の子が女性をさすって泣き喚いている。
「お母さん! お母さん!」
男の子の泣き声が夜の道路に響き渡る。しかし誰もこない。雨が女性と男の子をぬらしていく、女性の体からでる大量の血が雨と混ざり少しだけ血の赤色が薄くなっている。女性はほとんど死んでいるが、まだ呼吸はしている。
道路の上には食べ物が詰まったスーパーの袋が転がっていて、その袋からはりんごが何個か飛び出して道路に転がっている。
「お母さん! お母さん!」
夜の道路に男の子の泣き声が延々と続いている、それはまるで夜の道路のBGMのように。
雨が段々と女性の体温を奪っていき、そろそろ死んでしまう、と女性は覚悟した。女性は自分をさすっている男の子の頭を最後の力を振り絞って右手をのせて弱弱しくなでた。
男の子がまだ泣いている、女性はその光景を死にかけのかすんだ目で見ていた。男の子は、お母さん! と叫んでいる。
その時、道路のに転がる女性と、その女性をさする男の子を車のライトが照らした。男の子がライトのほうを見ると、青い色の車が停止して男の子と女性を照らしていた。
車から白衣を着た若い男が急いで運転席から降りてきた。男の顔には不安で顔色が悪い。
「大丈夫ですか!?」
男は女性のそばに駆け寄ると男の子と向き合うようにして女性の体をさすった。女性は男の存在に気づくと少しだけ微笑んだ。
男は女性の頭を見ると息を呑んだ。大量の血が出ていてアスファルトの色を黒から赤に変えている。まずい、と男は直感的に思った。
男の子は相変わらず、お母さん! と呼び続けて泣いている。
男は女性の上半身を起こすと同時に全てに絶望した。頭からで散る地のほかにも、いくつか骨が折れているのに気づいた。何より、雨で体温がかなり下がっている。もう助からない、と男は感じた。
男の子が女性の腕にしがみついて泣いているのを男は哀れみのこもった目で見ていながら、女性の耳元に顔を近づけて言った。
「私は医者です。残念ながらあなたの助かる見込みは極めて少ない。最後に誰かに言っておきたいことがあれば、私が伝えます」
男が言うと女性は少しだけ微笑んだ。そして近くにいた男の子を指差して、男に伝言を残した。
「分かりました、必ず伝えます」
男が言うと女性はまた微笑んで、そして近くにいた男の子の頬を血で染められた手でなでた。男の子はその行動で全てを察したように、嫌だ! と泣き喚いたが、それでも女性は微笑んで男の子を見つめていた。
しばらくすると、男の子の頬をなでていた手がガクッと垂れ下がった。男はそれと同時に女性の上半身をアスファルトの地面に、そっと寝かせた。そして手首を手を当てて脈を確認した。脈は止まっていた。
男の子は男を見つめていた。男は男の子と目を合わせると首を横に振った。同時に男の子が寝ている女性に抱きついて泣き喚き始めた。
男は立ち上がるとポケットから携帯を出して、自分の勤める病院に電話をかけた。
「……あっもしもし! 私ですが、すぐに救急車を呼んでください……はい、そうです。どうやら交通事故みたいで……いや、息はすでにありませんし、脈も止まっています……」
男は電話口で誰かと会話をした後、よろしくお願いします、と言って電話切った。そして再び電話をかける。今度は警察にだ。
「……あっもしもし、警察の方でしょうか? 実は交通事故が起きたみたいで、女性が一人倒れているんですよ」
男はその後も警察と話をした後、電話を切った。後数分でパトカーに乗った警官がこちらに向かってくるらしい。
男は電話を終えると、男の子に駆け寄った。男の子は寝ている女性にしがみついて泣いている。
男は男の子の隣に来ると、泣いている男の子の背中をさすった。男に気づいた男の子は男を見つめて、泣きながら聞き取りにくい声で言った。
「……パ……トカー……」
「えっ!?」
男の子は今、確かに『パトカー』と言った。しかし、パトカーがどうしたんだろうか? と男が思っていると男の子が言った。
「パトカーが……お母さん……ひいた……」
「えっ!」
男は男の子の気が狂ったのか、と思ったがすぐにそれは違うと感じた。何故なら、男を見る男の子の目は、涙と雨でぬれているが瞳の奥に恐ろしい憎悪を感じたからだ。
しばらくすると、パトカーと救急車が来て、救急車で女性は病院まで運ばれた後、病院で正式に死亡が確認された。
第一章【誘拐】
学校の屋上のフェンスを乗り越えて、わずかなコンクリートが足場になっていてる場所がある。校内では自殺しやすい所、第一位になっている場所。そのわずかなコンクリートの足場に黒場一はフェンスにもたれかかりながら立っていた。
少し足を滑らせれば、間違いなく地上に落ちて死んでしまう。しかし黒場の顔には恐怖などは感じられない。
黒場はさらさらの黒い髪の前髪を右が分け伸ばして、前髪で右目を隠している。ファッションだ、と彼は言うが、ほとんどの人が、不気味な悪趣味なやつ、といって彼には近づかない。
学校の黒い制服を着て黒い靴をはいて黒い髪の毛、そして黒場という名前。彼はほとんどの物を黒くしている。シャーペンも消しゴムも傘もネクタイも、すべ黒色だ。黒くないものは肌と目だけど、肌は日焼けもしていなくて白色だ、目は黒目の部分がすこしだけ赤くなっている。
彼は地面に視線を落とした。屋上から下を見下ろすと運動場が見える。今は昼休みという事もあって生徒はいなくて、白線でえがかれたトラックが運動場にあるだけだ。その白線のトラックを彼はただ見つめていた。
高校二年になって半年が過ぎて、夏休みも終えて準備が整った。全ての準備が、復讐の準備が整った。黒場はそう考えると自然に笑みを浮かべた。
屋上は何もなく、フェンスと黒場意外は何もないし、誰もいない。コンクリートでできた地面だけが広がっている。
黒場は屋上が好きだった。誰もいないし、何もない、だからこそ気持ちがいい。何より、孤独感を味わえる。学校で唯一、孤独感を味わえる。
孤独はいい、全てを感じれない。つまり、傷つかない。
「傷つきたくない」
黒場は自然に呟いていた。しかしそれが素直な気持ちだった。
「……弱虫」
後ろから女性の声がした。黒場にとっては聞きなれた声で誰かもわかっていたが一応振り向いた。
「傷つきたくない、なんて弱虫ね」
女性は馬鹿にしたように言った。この高校の女子用の制服で着ていて、目がぱっちりとしてて髪の毛が超ロングヘアー、瞳の色はく黒色、名を羽藤蘭という女子。
「人の独り言を勝手に聞くな」
黒場はフェンスの向こう側にいる羽藤に低い声で言った。怖がらせようとする声を出したが、羽藤がこれくらいで怖がるはずもなく、ただフェンス越しにいる黒場を見つめていた。
黒場は、まいった、というように頭をかいた。その様子を見て羽藤がすこしだけ笑った。彼女は決して大きな声ではわない、いつもクスッという感じで笑うのだ。それが不気味で仕方ない。
「ねぇ弱虫さん、明日の予定は?」
フェンス越しに羽藤が黒場に勝ち誇ったかのような笑顔で聞いた。
「俺は弱虫じゃない」
黒場は両手の指をフェンスの穴の部分に入れてフェンスを掴んみ、フェンス越しにいる羽藤に顔を近づけて、羽藤を睨んだ。それでも彼女は笑顔を崩さななかった。
「傷つきたくないって呟いていたのは誰かしら?」
相変わらずの笑顔で言ってきた。口元は笑っているが目は笑っていない笑顔、目は瞳が黒く光っているだけ。
彼女は心から笑えないし、心から何かを愛せない。そういう体質なのだ。今の黒場とよく似ている。
「傷つきたくないっているのは寝言だ、忘れてくれ」
黒場はまるで言い訳をする子供ように言った。それを見ていた彼女から笑みが消えた。怒ったのではなく、彼女は笑顔を長時間保てないだけだ。
「明日の予定は?」
笑顔をなくした無表情の彼女がフェンスの向こう側にいる無表情の黒場に聞いた。無表情の彼女を見て黒場は鼻で笑った。
「笑顔を保てない体質、人間として悲しくないかい?」
からかうように黒場が言うと、彼女が突然フェンスを思いっきり蹴った。彼女が蹴った勢いでフェンスが大きく揺れ、黒場は屋上から地面に落ちないためにフェンスを力強く握り締めた。
しばらくするとフェンスの揺れはおさまって黒場は安堵の息をついた。もしもフェンスを強く握っていなかったら今ごろは地面に叩き落されて、頭から血を流して死んでいるだろう、と黒場は思っていた。
「……人間として悲しいのはあなたよ」
フェンスを蹴った張本人の羽藤が憎しみのこもった声で言った。しかし黒場も命を危険にさらされたんだ。負けて入られない。
「俺のどこが人間として悲しいんだ? 笑顔を保てないわけでも、人を愛せないわけでもない。俺は普通の人間だ……君と一緒にするな」
黒場が言うと羽藤は悔しそうに唇をかみ締めた。それを見ていた黒場がまた鼻で笑ったが、今度は彼女は何もしなかった。
「……あなたは今生きていない人間からの愛情を求めているけど、私はくまで今生きている人間の愛情を求めているのよ。あなたは人間として悲しいわ。死んだ者は生き返らないの。覚えておいて」
彼女ははき捨てるように言った後、黒場とは目を合わせずに上空を見上げ、晴天よ、と言った。黒場は何も言わなかった。
しばらく沈黙が続き、黒場も羽藤も何も言わずに空を見ていた。空には雲はない。昼という事もあって日差しが強く太陽が輝いていて、風も弱弱しくしか吹いていない。そんな空を黒場と羽藤はただ見つめていた。
黒場がそろそろ明日の予定を話そうとしたときに屋上の扉が開いた。黒場と羽藤が同時に扉のほうを見ると、見慣れた二人の男子生徒がいた。
一人は少しばかり小太りだが角刈りの金髪をした目の細い男、東宝隼人という高校一年生。
もう一人は寝癖ではねた髪の毛、今にも眠そうで目の下には大きなクマがあるやせた男、飯島真哉とという高校二年生の男。
二人の姿を確認した羽藤と黒場は目を合わせて、頷いた。羽藤はフェンスから離れて二人の元に駆け寄り、黒場はフェンスを慣れたように軽軽しく乗り越えた。
そして羽藤と東宝と飯島のいるほうへゆっくりと歩いていく。
四人は円を作るように立った。皆は神妙な顔をしていて真剣そのものだった。
コホンッと黒場が咳払いをし、そしてそれを合図に皆が座り黒場だけ立っている状態になった。
「……今から、明日の予定を説明視する。明日の……明日からの……誘拐作戦について説明する」
四人全員が息を飲んだ。少しだけきつい風が吹いて黒場の右目を隠している前髪がなびいて、隠れていた右目が見えた。その目の瞳の奥には憎悪のようなものが強く感じられた。
*
遠藤が事務所の扉を開けると、狭い部屋の真ん中においてあるソファーに新聞紙を顔にかぶせた男が、横になって眠っていた。いびきがその狭い事務所内に響いているのがとても耳障りだ。
遠藤はその寝ている男に近づくと、もっていた丸めた雑誌で男の新聞紙で隠れた顔を叩いた。即座に男が、痛っ、と声をあげて上半身を勢いよくおこした。
「賀川、いい加減仕事中に寝るのはやめんか」
「……あれっ? 俺、今まで寝てたんすか?」
寝ぼけているのか、とぼけているのかは分からないが、遠藤はとりあえず、阿呆、と言いながらまた雑誌で賀川の頭を叩いた。またしても、痛っ、という声を賀川があげた。
「ひどいじゃないじゃないっすか。俺はまだ寝起きなんすよ。あまり頭をたたっかれるとね、脳細胞が減っちゃうんですよ。知ってましたか?」
「元々、減るような脳細胞は無いだろ」
遠藤はそういうと、賀川から離れていき、事務所の窓を開けた。大きな窓で、空けた瞬間に風が一気に入ってきたため、つい先ほどまで加賀が使っていた新聞紙は音を立てた。
遠藤は事務所の隅にある資料をつめた本棚を見た。本棚の中の資料は重要な者が多くて、ガラスの扉に鍵までつけていいる。泥棒など入りはしないだろうが、注意しといて損は無いだろう。それにそこには資料だけじゃなくて、自分が警察庁に身を置いていた頃の、若い時の思い出もある。
遠藤は五年前まで、警察庁に勤めていたが五年前、ある事件の責任を負わされて警察を辞めざるえなくなった。その事件で自分が失敗した事は無いが、何かの捜査ミスがあればそれは誰かが責任を取らなければならない。それが警察という物で、いまさらその流れをかれる事はできない。
それに遠藤はその事件で犠牲になった女性の遺族に、彼がいることで別に上司から辞めろといわれる前から辞めるつもりだった。
本棚のガラスの扉に写った、五十代後半の男。オールバックの髪型には、年齢を感じさせる白髪が目立ち、目の周りには刻み込まれたようなしわがあり、頬には昔、犯人とももみ合いになったときにできた傷が残っている。遠藤はそれが自分の姿だと思うと、情けなく感じた。やはり人間は年齢には勝てないのである。
ふとソファに座って新聞を読んでいる賀川を見た。彼はまだ二十代で、とても若く見える。前髪を銀髪で染めているが、後ろ髪は黒髪のままだ。変わった髪だな、と以前彼に言ったことがある。彼はそれに対してひどく怒っていた。それがなぜだかは分からない。
遠藤は本棚の少し離れた所に置いてあるデスクに腰をおろした。そのデスクの正面には賀川が座っているソファーがあり、今は座っている加賀の横顔が見えた。その賀川の正面にはソファーとほぼ同じな長さのテーブルがあり、それをはさむかのようにまたソファーがある。
デスクの上には小型液晶テレビがあり、今は電源がついていなくて画面は真っ黒である。テレビのほかには捜査資料が散乱している。
遠藤が警察を辞めたと同時に考え付いたのは、私立探偵だった。組織に縛られない、独自の捜査ができる仕事だ。これほど自分が望んでいた仕事は無い、と考えてすぐに事務所をたてた。
その時に助手を募集したら、賀川が名乗り出た。彼は元々、警察を目指していた若者だった。彼と知り合ったのは七年前、彼がまだ高校二年のころだった。彼の友人が殺されて、彼は容疑者だった。
彼は必死に自分が無罪である事を訴えつづけた。警察は彼が犯人であるとほtんど決め付け状態で、取調室で厳しく彼を落ち着けた。しかし、遠藤は彼の無罪を信じ、事件を見直した。すると、意外なほど簡単に真犯人は捕まって彼の無罪は証明された。
彼はひどく遠藤に感謝し、何度も礼を言った。そして自分も警察に入ります、とそう言ってくれた。遠藤はその時ほど、警察という職業をしていて良かったと思った事は無かった。今までの警察人生は人を不幸にしてばかりだったから。
しかし、遠藤が警察を辞めると、彼はすぐに通っていた警官学校をやめて、助手になってくれた。今ではたった一人の仕事仲間である。
遠藤は小型液晶テレビの電源をつけた。テレビは丁度、ニュースをやっていた。さっそくニュースキャスターが原稿を読み始めた。
そういえば、四日前にある誘拐事件がおきた。被害者は十六歳の女の子で、犯人から「娘を預かった」というベタな電話があったそうだ。しかし昨日からニュースはその誘拐事件についてまったく触れないでいる。恐らくは報道協定が結ばれたのだろう。
誘拐事件は、人質の安全が第一だ。マスコミにも協力はしてもらわないと困る、と昔特殊班にいた友人が言っていたのを覚えている。
「日本ももう犯罪大国ですね。こんなにしょっちゅう誘拐事件が起こってたら、いつか日本の子供全員が誘拐される経験をするんじゃないですか」
ソファーで新聞を読んでいた賀川がぼやいた。彼の言う事も一理あるかもしれない。
もはや日本は「アジアの犯罪大国」と名づけられていて、治安もかなり悪い。もはやアメリカと変わりがないかもしれない。
「しかし……犯罪は多いのに、仕事は全然きませんね」
……言い返す言葉が無い。確かにここ最近は仕事、つまり依頼がまったく来ない。ある意味はそれは良いことなのかもしれない。しかし、仕事がないと人間は生きていけない。
「俺たちのする仕事が無いのは、日本が平和だって証拠だよ」
「けど、ニュースはいつもネタで溢れてますけどね。どうして皆、探偵より警察を信頼するんですかね?」
「そりゃあ、そうだろう。普通に考えてみろ。少人数で中途半端な捜査をする探偵と、ある程度の任数で捜査する警察。どっちを取るかといわれたら普通は警察や」
「……とは言っても、警察だって中途半端な捜査しかしないですけどね」
賀川が皮肉をこめて呟いた。彼もまた、警察被害者だ。危うく殺人犯にさせられそうになったんだから、適当な捜査をした警察を恨んで当然である。なんてたって危うく「殺人犯」というレッテルを貼られる所だったのだから。
「でも遠藤さんは違いますよ。俺の無罪だって証明してくれましたし、ここで雇ってくれてる。俺の恩師ですよ。一生ついていきます」
そう言うと賀川はソファーから立ち上がり親指を立てた手を見せて笑顔を向けた。遠藤はフッと鼻を鳴らした後、ありがとう、と言っておいた。
小型テレビの画面を見るともうニュースは終わって、バライティ番組の再放送をしていた。バライティが嫌いな遠藤は少し不機嫌になり、すぐにテレビを消した。
デスクから立ち上がろうとしたところで、事務所の扉がノックされた。ソファーに座りなおしていた賀川が急いで立ち上がってドアに駆け寄った。賀川がゆっくりとドアをあけると見覚えのある黒服をきたショーとヘアーでメガネをかけた男が軽く頭を下げながら入ってきた。
「おお、海野! 久しぶりやないか」
遠藤は来客に少し大きめの声をかけた。海野と呼ばれた男は小さな紙袋を片手に持っており、もう片方の手には仕事用の黒い皮でできた鞄をもっていた。海野はドアを開けてくれた賀川に礼を言った後、デスクにいる遠藤を見た。
「お久しぶりです。元気そうで何よりです」
少しだけかれている声で海野はそう言った。
ソファーに向き合うように座った海野と遠藤は、少しだけお互いの近状報告をした。遠藤がまったく依頼が来なくて困っている、と話すと海野は、いいことなんじゃないですか、と言った。それから遠藤は最近に解決した事件のことを話した。事件といってもたいした事じゃなく、二ヶ月前に夫の浮気の証拠写真をとってくれ、とある主婦から依頼されたものだ。その証拠写真は見事に夫を尾行していた賀川が撮った。その事を話すと海野はチラリと賀川の方を見た。
賀川は本棚に腕を組んでもたれかかり、ソファーに座っている遠藤と海野を見ないように窓の外の空を見上げていた。
「賀川、お前も挨拶くらいしんか」
「嫌です。遠藤さんは痛いほど知ってるでしょう、僕は警察が嫌いなんです。確かに遠藤さんにあこがれて警官学校に入ってましたが、遠藤さんが辞めたら警察なんて嫌いです。だから僕は、警察の人間も嫌いです」
賀川は言い終わると黙り込んだ。恐らくこれ以上言ってもだろうと遠藤は思い、海野に謝った。
「すまんな。あいつはかなりの警察嫌いで、お前も警察人間やから嫌いなんやろう」
海野は警察官僚だ。いわいるキャリア組といわれている偉いさんの一員だ。その割には謙虚な正確で部下に好かれている。
「いいんんですよ。彼が警察ぎらになった経緯は聞いてますし、それは警察の責任ですからね」
「相変わらず気が弱いな」
「よく言われます」
しばらく沈黙が続き、遠藤が言葉を発した。
「で、今日は何の用や? 用事が無いわけやないやろ。わざわざ誘拐事件で忙しいのにここにきた理由はなんや?」
「……流石ですね、よく私が今、誘拐事件の捜査をしてるってわかりましたね」
「阿呆。俺だって警察に身を置いてたときもあるんや、それくらいは分かるわ。誘拐事件で指揮本部におるんやろ?」
指揮本部とは、誘拐事件の起こった土地の警察署につくられるキャリア組や偉いさんたちで造られるもので、ここが事件に対する全ての指揮を出す所だ。
「ましてや、お前の上司どもは口は出すけど事件には関わらんようにしてる。事件が失敗に終わって責任を取らされるのは嫌やからな。こういう指揮本部とか事件のトップでもしもの時に責任を負わされるのは若手のキャリアと相場がきまっとる」
「お見事です。確かに私は誘拐事件の指揮本部にいますよ、トップじゃありませんけどね。今だって、ここで時間をつぶしてると上司に知れたらうるさく言われるんです」
「キャリアはキャリアで大変やな。で、そんな忙しい時に何の用や?」
すると海野はさきほどまで手に持っていた紙袋を膝の上に置き、その中からクリアファイルに入れられた数枚の紙を渡してきた。遠藤はそれを受け取り、その紙をファイルから出して見てみた。
一枚にざっと百名程度の名前が並べれている紙が八枚。そしてなにやら資料のような紙が二枚。あわせて十枚の紙がファイルには入っていた。
「これはなんや?」
「今、捜査中の誘拐事件の被害者の通っている学校の全生徒名と、今の捜査段階で分かっている事件詳細をしるした資料です」
海野はさも当然のように言ったが、遠藤は何故そんな重要な資料を渡されたかが理解できなかった。それを訊こうとしたとき、先に海野が言った。
「遠藤さんは前に、黒場一という少年をすごく気にかけていましたよね?」
遠藤はその名を聞いた瞬間、少しビクッとした。黒場一という少年。それは遠藤が不幸のどん底に落としてしまった少年の名前だった。もちろん悪気は無かったが、遠藤のした失敗が黒場を不幸にしたのは変えられない真実だ。
「遠藤さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
海野が覗き込むように遠藤の顔を見ていた。遠藤はすぐに、大丈夫や、と言い資料を見た。並べられている数え切れない名前を見ていると錯覚を起こしそうになる。
「その誘拐されている女の子、羽藤蘭という子なんですけど、その子と同じ学校に通ってるんですよね、黒場一君が」
「……えっ?」
遠藤はらしくもない、驚きの声を漏らしてしまった。
黒場一が、被害者と同じ学校の生徒。それにひどくショックと衝撃をうけていた。
「まあ私が伝えたい事はそれだけですので、そろそろ帰らせてもらいます」
海野はそういうとソファーから立ち上がった。それに賀川が反応し、いそいでドアに駆け寄って扉を開けた。これは、早く帰れ、と言ってるわけではなく、賀川なりの気遣いである。
「それでは遠藤さん、また今度」
海野はそう言おうと紙袋と鞄もって扉を出て、事務所を出て行った。出て行く直前に賀川に頭を下げたが、賀川は何も反応しなかった。
海野が出て行くのを確認すると賀川は扉を閉めて、溜息をついた。
「やっと帰りやがった。ったく……嫌いなんですよ、警察の人間は。遠藤さんだって警察を辞めたんだから警察関係者との付き合いはやめたら良いじゃないですか。……遠藤さん、聞いてますか?」
賀川の声はをえんどうはまったく聞いていなかった。いや、聞こえなかった。あまりの衝撃に遠藤は固まって、海野からもらった資料の中の一枚を見つめていた。
その紙の真ん中あたりに、丁寧に蛍光ペンで塗られた「黒場一」という名前があった。