第4話「蝕む黒、癒やす手」
彼を寝室のベッドに運ぶのは不可能だと判断して、私は店の床に清潔なシーツと毛布を敷き、そこを臨時の処置台にした。
部屋中のランプや蝋燭をかき集めて、手元を明るくする。
ポポは心配そうに、少し離れた棚の上からこちらを見守っていた。
「ひどい……」
改めて明るい場所で見て、私は息をのんだ。
黒い鎧を外していく作業は難航した。革紐は水を吸って固くなっているし、留め金は血でぬるついて滑る。
なんとか胸当てを取り外すと、その下にあったインナーシャツは、血と何か得体の知れない黒いシミでドロドロになっていた。
シャツをハサミで切り開く。
露わになった彼の肉体は、鍛え抜かれた彫刻のように美しかったけれど、その胸のあたりを中心に、不気味な痣が広がっていた。
まるで植物の根のように、あるいは毒蛇が這った痕のように、黒い血管が皮膚の下で脈打っている。
その黒い根は、彼の心臓に向かってじわじわと侵食を続けているように見えた。
「これは……『呪い』ね」
ただの傷じゃない。物理的な切り傷や打撲もあるけれど、彼の命を削っている本質はこの黒い痣だ。
私の知識にある中では、最悪の部類に入る。
竜種か、あるいはそれに匹敵する高位の魔物による呪毒。
通常の治癒魔法をかければ、魔力を糧にして呪いが活性化し、逆に命を縮めてしまう厄介な代物だ。だからこそ、彼は今まで誰にも治せなかったのだろう。
彼がうわごとのように、苦しげな声を漏らす。
高熱が出ているのか、汗が玉のように浮いているのに、体はガタガタと震えている。
「大丈夫。これなら、私のやり方の方が合ってる」
私は洗面器にお湯を用意し、清潔な布を浸して絞った。
まずは体を拭いて、汚れを落とす。冷え切った体を少しでも温めるために、暖炉の火も大きくした。
そして、私は自分の道具箱を開けた。
取り出したのは、杖でも聖典でもない。
小瓶に入った特製の軟膏と、蒸留したばかりの薬草水。
私の「治癒」は魔法的なエネルギーの注入ではない。
患者自身の生命力を呼び覚まし、免疫や再生能力を極限まで高めて、異物を排除させる手法だ。
魔法を「餌」にするこの呪いにとって、私の魔力を含まない純粋な「生命への呼びかけ」は、唯一の天敵になるはず。
私は冷えた手に息を吹きかけ、温めてから彼に触れた。
黒い痣の上に、直接手を重ねる。
ビリビリとした不快な感触が伝わってきた。拒絶反応だ。
構わず、私は目を閉じて意識を潜らせていく。
(聞こえる? あなたの体は、まだ負けたくないって言ってる)
彼の中の、まだ侵されていない正常な細胞たちに語りかける。
戦いなさい、とは言わない。
思い出して、と伝える。
本来の健やかな状態を。あるべき呼吸のリズムを。
指先から、じんわりと私の体温と「イメージ」を流し込んでいく。
光らない。派手な音もしない。
けれど、確実に彼の肌の下で、何かが動き出したのを感じた。
黒い根が、嫌がるように身をよじり、少しずつ後退していく。
その代わりに、彼自身の血流が力強さを取り戻し、蒼白だった肌に赤みが差してくる。
「っ、う……ぁ……」
彼が苦悶の声を上げ、私の手首を掴んだ。
ものすごい力だ。骨がきしむほど強い。
けれど、それは私を拒絶するためではなく、溺れる者が藁をも掴むような、必死の懇願だった。
彼の閉じたまぶたの端から、一筋の涙が伝い落ちる。
ずっと痛かったのだろう。ずっと、一人で耐えてきたのだろう。
「もう大丈夫。私がついてるから」
私は空いている方の手で、彼の汗ばんだ髪を優しく撫でた。
子供をあやすように、一定のリズムで。
手首を掴む力が、少しだけ緩む。
私は夜通し、彼の手を握り続け、その呪いと静かに対峙し続けた。
やがて嵐が去り、窓の外が白々と明け始めた頃。
彼の胸から黒い脈動は消え、穏やかな寝息だけが残っていた。
私もまた、緊張の糸が切れたように、彼のベッドの端に突っ伏して深い眠りへと落ちていった。
彼が目を覚ました時、どんな反応をするかも知らずに。




