第2話「小さな来訪者と、名もなき薬草」
ナギの村に来てから、あっという間に一週間が過ぎた。
廃屋同然だった我が家も、連日の大掃除のおかげで、ようやく人が住んでいると言えるレベルにはなってきたと思う。
壁のシミは落ちなかったけれど、それも味だと思えば悪くない。床は磨けば飴色の光沢を取り戻したし、立て付けの悪かった窓も、村の大工さんに少し手伝ってもらってスムーズに開閉できるようになった。
今日は、いよいよ裏の森へ探索に出る日だ。
朝もやがまだ残るひんやりとした空気の中、私は麻の袋を肩にかけ、ブーツの紐をきつく結び直した。腰には小さな剪定バサミと、土を掘るためのスコップ。
「いってきます」
誰もいない家に挨拶をして、私は裏口から外へ出た。
足元の草は朝露に濡れていて、歩くたびにシャリ、シャリと小気味よい音がする。
森の入り口までは歩いて五分ほど。
近づくにつれて、木々の密度が増し、頭上を覆う枝葉が濃くなっていく。空気が一段と澄んで、湿度を含んだ濃密な緑の香りが鼻腔をくすぐった。
迷いの森、と呼ばれているけれど、浅い場所なら村の人たちもよく山菜採りに入っているらしい。
私は獣道のような細いルートを辿りながら、地面や木の根元に目を凝らして進んだ。
「あ、これ……『月光草』の亜種かしら?」
大木の根元に、淡い青色の花を見つけてしゃがみ込む。
指先でそっと花びらに触れると、ひんやりとした感触と共に、微かな魔力の脈動を感じた。王都の植物園では見たことがない。この土地特有の変異種かもしれない。
私は興奮を抑えながら、丁寧にスケッチブックにその形状を記録した。
まだ採取はしない。生態系を壊さないよう、必要な分だけをいただくのが私の流儀だ。
さらに奥へと進む。
鳥のさえずりが遠くで聞こえ、風が木の葉を揺らす音だけが響く静寂の世界。
王宮での日々が、まるで遠い前世の出来事のように感じられた。
ガサッ。
不意に、すぐ近くの茂みが揺れた。
私は反射的に身を固くする。
熊や猪が出るとは聞いていないけれど、野生動物がいるのは当然だ。
息を潜めて様子を伺っていると、茂みの奥から「キュウ……」という、弱々しい鳴き声が聞こえてきた。
威嚇するような声ではない。むしろ、助けを求めるような切実な響き。
私は警戒を解かずに、ゆっくりと茂みをかき分けた。
「……!」
そこにいたのは、茶色い毛玉のような生き物だった。
大きな丸い耳に、つぶらな瞳。長い尻尾は体と同じくらいのボリュームがあって、ふわふわとしている。
一見するとリスのようだが、額には小さな、エメラルドのような結晶が埋まっていた。
精霊獣だ。
それも、まだ子供のように小さい。この額の結晶……『精霊の涙』と呼ばれる、純粋な魔力の塊だわ。
その小さな体は、今は泥にまみれ、後ろ足からは赤い血が滲んでいた。どうやら何かの罠か、鋭い茨に引っかかって怪我をしてしまったらしい。
私が近づくと、その子はビクリと震えて、必死に後ろへ下がろうとした。
けれど、痛みで足が動かないのか、顔を歪めてうずくまる。
「大丈夫、怖くないわよ」
私は努めて穏やかな声を出しながら、ゆっくりと膝をついた。
敵意がないことを示すように、両手を開いて見せる。
精霊獣は賢い。こちらの心根を見抜くという。
怯える黒い瞳が、じっと私を見つめ返した。
「痛かったわね。すぐ楽にしてあげるから」
私はそっと手を伸ばした。
逃げようとする素振りを見せたが、私がこれ以上近づかないで待っていると、観念したのか、それとも痛みに耐えかねたのか、力を抜いて地面に顎を乗せた。
それを合図に、私は彼(彼女かもしれない)の体に手を触れる。
温かくて、柔らかい毛並み。そして、小刻みに震える小さな鼓動。
私は目を閉じて、意識を集中させた。
手のひらから魔力を流し込むのではない。
私の魔法は、もっと根本的なもの。相手の細胞の一つ一つに語りかけ、「元の姿に戻ろう」と促す力だ。
光らない。音もしない。
ただ、じわりと温かい何かが、私の手からこの子の傷口へと染み込んでいく。
――治れ。繋がれ。元気になれ。
心の中で繰り返す。
裂けた皮膚がゆっくりと塞がり、切れた血管が繋がり、痛みの信号が和らいでいくイメージを明確に描く。
王宮の聖女たちが見せるような、一瞬で傷が消える奇跡ではない。
けれど、確実に、無理なく体を修復していく「治癒」だ。
数分後。
私の手の下から、震えが止まっていた。
そっと手を離すと、傷口は綺麗に塞がり、新しいピンク色の皮膚が覗いていた。
「キュ?」
その子は不思議そうに自分の足を見つめ、それから何度か地面を蹴ってみた。痛くないことが分かると、パッと顔を輝かせて私を見上げる。
「よかった。もう走れるわね」
私が微笑むと、その子は「キュイッ!」と高く鳴いて、私の肩に駆け上がってきた。
柔らかい尻尾が頬をくすぐる。
どうやら、気に入られてしまったらしい。
「ふふ、くすぐったいわ。……あなた、名前は?」
もちろん答えはないけれど、その温かい重みは、ここでの生活で初めて得た「他者」の体温だった。
木漏れ日が差し込む森の中で、私はようやく、本当の意味で一人じゃないと思えた気がした。
この小さな出会いが、やがて大きな運命を運んでくることになるなんて、この時の私はまだ知るよしもなかったけれど。




