愛人を連れて夫が帰ってきましたが、既に後を継ぐ権利はございません。
ウィルマにとって夫という人間は、世界で最も不要な存在でしかない。
嫡男という立場だけで甘やかされて育ち、何もかもを親に押し付け、学業も非常に思わしくないことから貴族なら通うはずの王都の学園に入学を認められず、せめてと王都にある貴族の生活に限りなく近い平民の富裕層が通う学校に通い、上を知らずに持て囃されて過ごした。
唯一の息子なだけに、子爵位を与えられることが約束された彼にふさわしい嫁が必要だと、男爵家の三女であるウィルマに白羽の矢が刺さったのはずいぶんと昔の話だ。
もっとも、最初からウィルマが良かったのではなくて、妻を迎えるなら貴族らしい見た目の娘がいいと我が儘を言う夫の言葉に、手当たり次第に婚約を申し込み、どこからも断られて散々な結果だった後の話だったのだから。
そして、当時の若い頃の性格から変わることもなかった夫のデレックは、今、目の前で愛人らしき女性の肩を抱き、ニタついた下卑た笑みを浮かべながら数ヵ月ぶりに帰ってきていた。
* * *
「娼館で一番人気のルドヴィカが、俺の子を孕んでくれた。
こいつならば、俺の満足できる子を産んでくれるだろう」
開口一番に言い放った言葉の最低さに、向かいに座るウィルマと息子のリヒトは眉を顰め、血の繋がった父親であろうはずの男を黙って見つめる。
「帰ってきて早々に何を言うかと思えば。
既に領地経営に関わっているリヒトがいるのに、デレック様はそんなことをおっしゃるのですね」
溜息と共々吐き出したウィルマの言葉は、いつもならばデレックの神経を逆撫でするものであったが、今日ばかりはご機嫌なようだった。
とっておきの切り札を手に入れたと思っている夫は、鬱陶しいまでの勝ち誇った笑みを浮かべながら口を開く。
「お前達二人では子爵領が発展もしなければ、豊かにもならんのでな。
こうして優秀な俺の子種を、お前達よりもよっぽど貴族らしい見た目のルドヴィカに与えたのだ。
きっと、誰よりも優秀な子が生まれるだろう」
発展しているか確認できるほど、目の前の男は子爵家に帰ってきてなどいないし、ましてや当主としての仕事に手を出したことなどないのだが。
本人が何を知った気でいるのかは知らないが、難癖をつけてウィルマとリヒトを貶したいだけだ。
隣で蔦のように絡みつくルドヴィカに鼻の下を伸ばすデレックを見て、リヒトも目を眇めながら声を上げる。
「王都の貴族達が通う学園に、貴族の常識として母上は通われていましたし、成績上位者でしたので優秀でないはずはないかと。
ちなみに父上が通われた学校はどこでしたでしょうか?」
途端にテーブルの上の茶器を薙ぎ払い、「黙れ!」と感情剥き出しで罵るデレックに、ウィルマたちの近くに控えていた使用人が身構えながらも呆れを隠さずにいる。
意気揚々と付いてきたルドヴィカと呼ばれる娼婦ですら、使用人たちがデレックを歓迎する様子も無ければ、彼の攻撃的な態度に驚かない妻子の様子に戸惑っている。
そんな空気を感じていないのはデレック本人だけだろう。
気を取り直したらしいルドヴィカがデレックの名を呼んで、自らの腕を絡ませているデレックの体にしなだれかかる。
「ねえ、あんた。話が進まないじゃない。
さっさと済ませて、それから娼館で身請けの話を進めてよ」
胸を押し付けるようにして媚びを売るルドヴィカに、デレック以外の誰もが眉を顰めるのを隠さずにいる。
気づかないのは本人達ぐらいだ。
「そうだな。こいつらに使う時間が勿体ない」
そんなことで機嫌が戻ったのか、下品な笑みを浮かべたデレックが、対面に座る妻子へと言い放つ。
「俺も非道じゃない。二週間の猶予をくれてやる。荷物をまとめ、俺が困らないように引継ぎが無くても仕事が勝手に回るように手はずを整えておけ。
ああ、慰謝料なんて望むなよ。お前らには払うだけの価値はないからな」
「荷物をまとめるのと、慰謝料は不要とのことですね」
気にした様子も無くウィルマが言葉を返せば、嘲りを含んだ笑みが深くなった。
「お前達がどうしても懇願するならば、使用人として家に置いてやってもいい。
給与を払うつもりはないが、食べるものと寝る場所に困らないだけ感謝してほしいもんだ」
一体どういう生活を予想しているのか、ルドヴィカもニヤニヤとした笑みを浮かべている。
だが、ウィルマにとって彼らの言葉は戯言でしかない。
言いたいことだけを散々に口にしたら満足したのか、だらしない姿勢のままに立ち上がったデレックが、ルドヴィカの腰に腕を回しながら歩きだす。
背筋を正した貴族らしい優雅な歩き方ではなく、まるで昼間から酒場をたむろする無作法者にしか見えない足取りで。
実際、酒を飲んでいるのだろうとウィルマは判断する。
安い煙草だけではなく酒臭さが漂っていたし、先程の急激な怒りも、アルコールによって自制できていないことの表れだ。
半ば体当たりするようにして扉を開いたデレックは、使用人が開けてくれないことに疑問すら抱いていないのだから。
「いつもながら思うのですが、あれを父と呼ぶのは抵抗がありますね」
彼らが立ち去った後にリヒトが表情を変えずに辛辣なことを言えば、後ろで存在を消して立っていた家令が盛大に溜め息を落とす。
「リヒトが物心がついてから会ったのも、数える程度だものね」
「そう言う意味ではありません」
リヒトの言葉に、再び家令が大きく息を吐く。
「お生まれになった頃より見ておりましたが、嘆かわしい限りでございます。
あんな下品な女、奥様が生きていらっしゃったら何と言われたか」
家令の言う奥様とは、デレックの母親である前子爵夫人だ。
ウィルマが嫁ぐ頃には故人であったが、事故で亡くなるまではお会いしたことがあるし、どうしようもない息子を叱り飛ばすしっかりした人であった。
婚約者であった頃のウィルマが、子爵家を訪れて一番話したのは前子爵夫人である。
次に前子爵だ。
子爵家の屋敷でデレックと会ったのは片手で足りるくらい。
デレックが娼館に入り浸るようになったのは、母親の死による歪みではなく、単に母親という煩い人から解放されてやりたい放題になっただけでしかないとしか思えなかった。
「母上、どうされますか?」
ウィルマに向けられた視線に、首を横に振る。
「どうするも何も。
荷物をまとめろというのですから、彼の言う通りに」
ウィルマが言えば、恭しくお辞儀をした家令がメイド達に部屋の整理を言い付ける。
少しだけ目を見開いたメイド達はウィルマ達を見、すぐさま小馬鹿にした笑みを浮かべて頷くと、一人を残して応接間から立ち去っていった。
残ったメイドが雑多な手つきで茶器を片付けていく。
消毒しなくっちゃ、という言葉と一緒に最後のメイドも姿を消し、部屋に残されたのはウィルマとリヒト、それから家令だけだ。
* * *
デレックの入り浸っていた娼館については、ウィルマも嫁ぐ前から把握している。
少しばかりお金に余裕のある平民が通うような娼館だ。
貴族を相手にした格式高い遊び場ではないが、金の無い労働者相手の安っぽい場所でもないため、それなりに清潔感のある場所らしい。
子爵令息であるデレックならばもう少し格上の娼館で遊べるが、学生時代に隠れて遊びに行っていたらしいそこは、彼の一番気安い場所なのだろう。
それに、いくらグーテマン子爵家が裕福であるとはいえ、娼館に住み込み続ける費用も馬鹿にならない。
デレックが格下の娼館でいいのであれば、それに越したことはない。
そんな彼と婚約するとあって、両親は随分と心配をした。
家に帰らず娼館に入り浸る身持ちの悪い男。
婚約者として論外だ。
だが当時のウィルマは、婚約者が駆け落ちして困っていた。
それに義父であるグーテマン前子爵からは、血を引いた子さえできればそれでいいとさえ言ってくれたし、ウィルマが不利にならないような細かい取り決めが両家の親の間で交わされた。
前子爵と当時は健在だった前子爵夫人だけでなく、使用人も必ずウィルマを助けるという条件もあって、ウィルマは覚悟を決めて嫁いだのだ。
まさか初夜で娼婦のような奉仕を強要されると思わず、拒否した瞬間に殴られた上、半ば強姦じみた行為によってウィルマはボロボロになったが。
その代償のように、運良く初夜で子を授かることができたのは幸運だったと言われている。
グーテマン子爵家の特徴を受け継いだリヒトは、父親の欠点は受け継がずに育った。
堅実さを好む、少しばかり慎重なタイプだ。
初夜が明けてからのウィルマを見て土下座し、子が産まれた時には誰よりも喜んでくれた前子爵は、しっかり者に成長するリヒトを可愛がった。
将来性のある子どもだと当主としての仕事を早くから教え始め、学園に通い始めれば、周囲への根回しや社交も張り切ってこなしてくれた。
夫に軽んじられるウィルマが馬鹿にされないよう、己の息子がいかに愚息であるかと噂まで回し、夜会のエスコート役も引き受けてくれる良き人だ。
早くに結婚して子を儲けたことから若々しく、見る度に荒んだ姿と態度に変わっていくデレックよりも、いっそ思慕を抱きそうになるほどに。
「ほんの少しでもお義父様やお義母様に似ていれば良かったのに」
これはウィルマがよく零す言葉だ。
そして使用人達も、大体同じようなことを言っている。
目の前にある書類は二枚。
デレックは何の疑いも持たず、どちらも記入するだろう。
そして、彼には見せない書類の控えが一枚。
「本当に残念な人」
その姿を想像し、書類はそのままに立ち上がった。
* * *
デレックは二週間後きっかりに姿を見せた。
いつもならば数ヵ月単位で姿を見せないのだから、非常に珍しいといえるだろう。
同じ応接間の、同じ席。
しどけない、というよりは下品なまでにだらしのない服装のルドヴィカを連れ、二週間前よりも一層勝ち誇った笑みをデレックは二人に向けた。
「さあ、猶予をくれてやったんだから、いくら低能なお前達でも言われたことはできているだろう」
その言葉を合図に、家令がテーブルへと離縁届の書類を広げる。
「当主様には離縁の許可を頂いておりますので、後はデレック様のサインだけで離縁は成立致します」
どうぞ、と言い残して、家令がウィルマの後ろへと再び控える。
デレックの目の前にあるのは確かに離縁届だったが、それとは別に絶縁状と書かれた書面も添えられていた。
問う視線に気づいたらしい家令が、少し迷った風な素振りを見せてから口を開く。
「血の繋がったリヒト様と、完全に縁を切るという書面でございます」
そう言われて書面へとデレックが目を走らせ、確かに目の前にいる処分予定の息子と縁を切ることが記載されているのを確認する。
ご丁寧に双方による金の無心などを行わないことや、血縁を主張しないといったことまで記載されていた。
「これはまた、随分と気の利いたものを用意したじゃないか」
デレックが顔を上げて、家令を見る。
褒めようと声を上げようとして、彼の名前が出てこずに言葉を飲み込んだ。
物心付いたころからいたはずなのに、この十数年でさして話すことも無かったせいか、すっかり名前が抜け落ちている。
エドガーかルドガーといった名前だったはずだが、目の前に座る二人の前で忘れましたなんて、デレックのプライドが許さない。
デレックは取り繕うように頷くと、用意されたペンを取る。
インク壺にたっぷりと浸してから、今にも滴りそうなペンを書面の上へと下ろし、僅かに滲ませながらも自身の名前を記入した。
離縁届に一度。そして絶縁状にも一度。
「さあ、これですることは終わった」
そうして満足そうに息を吐くと、ウィルマの後ろにいる使用人達の中から、力仕事に自信のありそうな者を指差す。
「この屋敷の正統な主の命令だ。この二人から身に余る服を剥ぎ取って、さっさと屋敷から叩き出せ」
だが、誰も動き出そうとしなかった。
指差した手を戻すことができず、デレックは慌てふためきながら同じ言葉を繰り返す。
「なんだ、お前ら。なんで黙って俺を見ている!
こいつらを追い出せって言っているだろうが! 命令だぞ!」
最後はもはや怒声だ。
それでも誰も動こうとしないまま。
馬鹿にする気かと、怒りの感情が沸騰したデレックに対し、冷静な声が差し込まれた。
「残念ながら、屋敷から出て行くのはデレック様ですよ」
思わず言葉を失って、目の前の堅苦しい女を凝視する。
「お知らせしていないので無理はありませんが、三ヵ月ほど前に前子爵の申請が国に受理され、子爵当主はリヒトに代わっています」
嘘だ、と言葉が漏れ落ちるが、誰も嘘だとも冗談だとも言ってくれない。
「そんな馬鹿な話があるか。
俺はグーテマンの血を引く唯一の子で、親父の息子なんだぞ」
戦慄く体に震えが起き、ぶれる指先がリヒトへと向けられる。
「そいつは未成年のはずだ。
この国では成人しないと跡取りになれない」
あり得ないことだと否定的になるデレックに対し、ウィルマは涼し気な顔で見返してくるばかり。
「リヒトの年齢を正しく把握は出来ていないと思いますが、そうですね、確かにリヒトは未成年です。
けれど、保護者が不在になる場合の特例だってあるのですよ」
ウィルマが小さく嗤う。
「貴族子女ならば通って当然の王立学園にて、二年目には誰もが学ぶ高位法令の基礎にあります。
デレック様はご存知なかったとは思いますが」
馬鹿にされたと理解したデレックが、瞬く間に怒りを沸騰させて立ち上がった瞬間、全く動かなかった使用人が牽制するようにウィルマ達の前に出る。
まるで本来の主を守るかの動作に、ここにきてもまだ、デレックは状況を把握できずにいた。
「デレック様に教えて差し上げましょう。
貴族法の第六章にある65条にて、『嫡子及びその兄弟が後継たり得ないと判断され、及び国にも認められた場合には、血縁関係のある者を指名することができる』とあります」
そんなもの、デレックは聞いたことない。
いや、正確にはデレックの通っていた学校では学ばなかったが、そういった法律があるとは聞いていた。
本棚に法律書はあった気がするが、通っていた学校の勉強ですら一杯一杯だったので、開く気すらもなかったものだ。
「そして、貴族法に第七章の71条では、『後継者が未成年だった場合、適切な後見者がいることを前提に、爵位を世襲することを認める』と」
ここでウィルマの隣に座るリヒトが、生真面目そうな顔に似合わない、毒々しい笑みを浮かべる。
「デレック・グーテマン。既に子爵は私ですよ」
そんな馬鹿な、という声は震えていた。
「お祖父様は大層お嘆きで、もし貴方が母上に離縁を言い出したならば、すぐさま家から叩き出しても構わないと」
デレックが声を出そうとしても、息ばかりが吐き出され、喉元を乾燥した風が通り抜けてく感覚になる。
横でルドヴィカが何やら言っているが、それが耳に流れてきても、理解するより先に垂れ流されていく。
前のめりになった体が今にも崩れ落ちそうだった。
「デレック様、ご心配なく。
私達はお義父様が罪悪感を持たれたりしないよう、穏便に処分したいと考えております」
微笑みを浮かべるウィルマだが、穏便としながらも処分という言葉は相応しくない。
背筋に伝う冷や汗を感じながら、デレックは瞬きを忘れて正面を見る。
「今まで一切働いたことのないデレック様を放り出しても、早々に路頭で物取りに遭って道端に転がっていそうですからね。
その際に起きるであろう処理なんて、とにかくお断りですので」
「子爵家から放逐されたデレック様が生きていけるよう、個人資産はそのままといたしました。
とは言っても、長らく享楽に耽られていたことへの請求は、デレック様の個人資産の方から出していますので、結婚した際に確認した時よりは目減りしていると思いますけど」
ここにきて尚、貼り付けた笑みのままでいられるウィルマが薄気味悪く感じ、デレックは自身の両腕を擦る。
いや、寒さを感じるのは、危うい自身の立場のせいかもしれないし、単に飲んでいた酒が抜けてきたからかもしれない。
だが、ウィルマは気にした様子も無く、会話を続けていく。
「そちらの、ルドヴィカさんでしたっけ。彼女以外を住まわせていた、あのアパートメントの一室も老後くらいまでは暮らせるだけのお金を払っておきました。
そこに住んでいる娘に暇を告げて叩き出せば、お二人住めるかと。
手狭かもしれませんが、そこはまあ、二人の愛の巣としていつだって一緒にいられるのだと前向きになっていただければ」
途端にルドヴィカが「他の愛人ってどういうことよ⁉」と叫び声を上げる。
小さな籠の中の鳥だったせいで、何も知らないようにしていたのに。
煩いと言うデレックの言葉が耳に入らないのか、喚くだけになったルドヴィカに我慢ならなくなって手を上げる。
見る間に頬を赤く染めながら、呆然とデレックを見上げた彼女は、のろのろとウィルマ達を見た。
ウィルマは肩をすくめてみせる。
「貴女が誑かしたのは、そういう男ですよ。
今からでも身請けを辞退されるならお好きなように。
子が不要になるならば、医者も手配しましょう」
ルドヴィカの判断は早かった。
すぐさま立ち上がって、仕返しとばかりにデレックの頬を殴る。
重い音が響いた後、「金輪際あたしを指名するんじゃないわよ、このクズ野郎!」とヒステリックな声を残したルドヴィカが、足取り荒く部屋を出て行った。
ウィルマが使用人へと視線を向ければ、心得たようにルドヴィカを追って部屋を出ていく。
そこまで確認した彼女が、デレックへと向き直る。
「あっという間にデレック様の未来は消え去ってしまいましたね」
声は優しげでありながらも、淡々とした事務的な雰囲気を持ち合わせている。
ルドヴィカに気を取られて気づかなかったが、扉の近くに置かれた大きめの鞄が二つ。
デレックの視線の先に気づいたのか、ウィルマが笑みを浮かべたままに鞄を指し示す。
「そちらがデレック様のお荷物ですわ。
家具は子爵家の所有物ですので、持ち出しは認めません。
礼装はいらないでしょうし売り払っておきました。そのお金を個人資産に入金したのは最後の情けです。
鞄に明細が入っているので後でご確認ください」
「これはグーテマン子爵への乗っ取りだ!
俺の父親にも股を開いたか! この娼婦が!」
声を荒げて罵声を浴びせるウィルマの横で、実の父であるはずのデレックに対して、生意気な視線を向けてくるリヒトの反抗的な態度も気に食わない。
「実の父親に対して、何て言い様なのでしょう。
お義父様はグーテマン子爵家の存続の為に、デレック様と決別されると判断されただけですのに」
思案気に頬へと手を添え、ウィルマの瞳が光を失いながらデレックを見据えた。
「長らく帰ってこない愚かなデレック様に見切りをつけるのは当然のこと。
これはお義父様だけではなく、リヒトも、私も同じです」
「このクソ女が!」
立ち上がるデレックを見て、使用人達が取り囲んでくる。
退けと叫びながら使用人を押し除けようとするも、酒と女に溺れた不健康な体は、瞬く間に床へと標本のように縫い止められた。
視界にあるのはウィルマのアフタヌーンドレスの裾。
余りの屈辱にブルブルと震えるが、使用人達を撥ね除けられる腕力などデレックにはない。
「元が貴族だと思えない語彙力が失われた言葉に、もはや呆れしかありません。
貴方のサインは不要なので事前に説明しませんでしたが、グーテマン子爵家からも除籍されていますので、さっさと出て行ってください」
デレックが口を開けて、呆然とした様子のままに固まる。
思考も動きも止まり、まるで一つのオブジェと化したデレックだが、グーテマン子爵家の使用人達は容赦なく叩き出そうと、荒々しく腕を引いて立ち上がらせる。
「ここに来た時には、貴方はとっくに平民だったのに。
本当に愚かな人」
なあ、とか細い声が聞こえた気がするが、ウィルマは聞こえなかったふりをする。
子爵であるリヒトが屋敷の外へ追い出し、煩いようなら警邏に連絡して引き取ってもらうように言い付ける。
すぐに使用人達は抵抗するデレックの体を引き摺り始めた。
救いを求めるような顔がウィルマに向けられて、ここでようやくウィルマが満面の笑みを浮かべる。
「さようなら、世界で最も不要な人」
絶望に染め代わるデレックの顔は程なくして部屋から消え失せ、ようやく我に返ったらしい叫び声が閉められずにいた扉の向こう、廊下の方から聞こえる。
あの調子だと、当分は子爵家に押しかけるか、リヒトに害を為そうとするはずだ。
暫くはリヒトに護衛を付けておいた方がよいだろう。
本当に最後まで面倒な人だった。
まあ、彼の言葉の中には、唯一当たっていたこともあるのだが。
ウィルマが前子爵と関係を持ったのは事実だ。
当時、デレックと再び夜を共にすれば、手加減の無い不条理な暴力を振るわれることは目に見えていた。
だが、ウィルマにはグーテマンの子を生む義務がある。
貴族の妻として、それから逃げることは許されない。
だから前子爵にお願いしたのだ。
あの男と金輪際、寝室を共にしたくない。
グーテマン子爵家の血を引く子を授けてほしいと。
前子爵は大いに悩んだが、デレックの暴力的な態度が改まらないことも理解したし、ウィルマが受けた暴力の結果も見ている。
最終的には、デレックに疑われない時期の間だけとして、それでもウィルマに子ができなければ、すみやかに遠縁から養子を迎えることを条件にして同意してくれたのだ。
故人であった前子爵夫人には申し訳ないと思ったが、紳士的で配慮も行き届き、そして大人の魅力に溢れた前子爵はリヒトの父親として申し分なかった。
そうして生まれたリヒトを見て、ウィルマ似だと前子爵は口にするが、ウィルマからすれば前子爵似でしかない。
リヒトにある慎重さは、義父に閨を求めた大胆さを持つウィルマに無いものだ。
誰に似たかなんて、家令や長らく働く使用人達は理解している。
そういうことだ。
リヒトを一緒に育てて十数年を共にしている間に情でも湧いたのか、リヒトが成人して後見者が不要となったときには、後妻としてウィルマを迎えることになっている。
今から楽しみで仕方がない。
邪魔者をようやく排除し、大切な人々だけが残った屋敷での生活に胸を馳せ、ウィルマは前子爵に報告しようと歩き出した。




