雪解け
ランドセルの蓋をしめ、黄色い帽子を被る。
部屋の扉を開ける前に、深呼吸をした。
けれど、不安な気持ちは収まらない。部屋を出て、玄関へ向かう。下駄箱から靴を取り出し、玄関で靴を履こうとしたが、なかなか動けない。玄関で座り込んでいると、二階からどたどたと足音が聞こえた。
「花菜?どうしたの。早くいかないと、登校班のみんなに迷惑がかかるわよ」
寝ぼけた妹を抱えて、母が二階から降りてきた。妹はまだ眠いのか、母の腕の中でうつらうつらとしている。
「――今日学校休みたいなって」
そう溢すと、母の眉が八の字になった。ひゅっと、腹の底が冷える思いがした。
「もしかして、何かつらいことでもあったの」
母の声が、優しいけれど、何かを探っているようなものになる。眠気が覚めたのか、妹が不思議そうに母の顔を覗き込んだ。
「そうじゃなくて。――ただめんどくさいなって」
また、嘘をついてしまった。顔がくしゃりと歪みそうになったが、おどけた顔をしてみせる。
「なんだ、心配して損したじゃない。ただ面倒くさいなら行ってきなさい」
そう答えると、母はほっとした表情になった。上手くごまかせたみたいだ。罪悪感で胸がちくちく痛んだ。
学校に行きたくない、と思うようになったのはいつ頃からだろう。きっかけは、学習発表会に向けて劇の練習をしていた時。緊張で声が裏返ってしまい、間抜けな声を出してしまった。
それをきっかけに、クラスの男子からからかわれることが多くなった。最初は失敗をからかうだけだったのが、鬼ごっこやドッチボールをしたとき、集中的に狙われたり、後ろから髪の毛を引っ張られたり。だんだんエスカレートしていった。
「休んじゃ駄目かな……。熱はないんだけど、今日はさぼりたい」
体育でドッチボールがあるから、今日だけでも休みたい。もちろん明日はちゃんと学校に行く。
「そんなんじゃさぼり癖がついちゃうわよ」
母は壁の時計をちらと見た。時計の針は七時二十五分を指していた。
もう登校班の皆が集まっている時間だ。遅れたら、みんなに迷惑がかかる。
「うー……」
呻くと、母がぽんぽんと肩に手を置いた。
「ほら、しゃんとしなさい」
「……わかった。学校に行くよ」
私は覚悟を決めて、靴ひもを結んだ。
「じゃあ、行ってきます」
私は立ち上がり、玄関のドアを開けた。
「気をつけてね。いってらっしゃい」
「お姉ちゃんいってらっしゃーい」
妹がふるふると手を降った。玄関の戸が閉まっていく。その隙間から、母が妹を再度抱えなおし、リビングの方へ走っていく姿が見えた。
私も登校班に遅れないように、急いで家を出た。
外では、膝の上ぐらいまで雪が積もっていた。歩道は除雪の雪で埋まっており、車道を歩くしかなさそうだ。
山肌は雪に覆われ、白に染まっている。斜面に生えている木々は、すっかり葉が抜け落ち、代わりに雪が枝の上に積もっている。冷えた風が木を揺らし、細かい雪が舞い散った。
季節は一月。消化試合の三学期が始まった。クリスマスもお正月も終わってしまい、行事らしい行事は3月まで何も無い。私はただただ、来年のクラス替えが待ち遠しくて仕方がなかった。
学校につくと、時間がやや早いからか、教室にいる人はまばらだった。ひっそり辺りを見渡すと、まだ谷岡くんは来ていないみたいだった。ほっと息をつく。
谷岡くんが教室に来る前に、早く図書室に行こう。
小学校は、南北に校舎が三棟並んで建っている。私たち三年生の教室は、南館二階にある。図書室はその真反対、北館の一階の奥まった場所にある。普通に歩いても五分以上はかかる場所である上に、冬はやたらと寒い。
でも、朝のこの時間帯は誰もいなくて、いつもより空気が透き通っているような気がする。しんとした空気の中で、沢山の本を独り占めできたような気分になる。そんな図書室が好きで、毎朝必ず通っている。
廊下に出ると、きんとした寒さが肌を刺した。教室は寒かったけれど、廊下はそれ以上だ。コートを着たまま行けばよかった。教室に戻ろうかとも思ったけど、もたもたしていると時間が無くなる。急ぎ足で図書室へ向かった。
図書室の戸を開けると、廊下よりは幾分か暖かかった。いつも通り、誰も来ていないようだ。
貸し出しカウンター横の掲示板を見ると、来週新刊が入荷されるとお知らせが載っていた。お目当ての本がある棚を見ると、ずっと読みたかった本が返却されていた。
人気シリーズで、予約しないと絶対借りられないのだ。嬉しいことに、まだ読んだことの無い巻だった。司書の先生がいないので、朝は本を借りられない。絶対昼休みに借りにこよう。
時計を見ると、八時十分だった。授業に遅れないよう、早足で教室に向かった。
教室に戻ると、いつもなら予鈴前に来ている先生がいなかった。今日は特別寒いから、寝坊でもしたのかな。
ホームルームを知らせる鐘がなっても、先生は現れなかった。クラス内で、先生を職員室へ呼びに行くか行かないかの会議が始まった。谷岡くんは行かなくてもいいと主張していたけれど、呼びに行かないと絶対後で叱られる。
あれこれ議論している内に、先生が教室の戸を開けて、やってきた。席を立っている子もいたが、蜘蛛の子を散らしたように、みんな机に座った。
「もう授業始まってるぞ」
先生が笑ったように言った。教卓に荷物を置くと、先生は黒板に文字を書き始めた。
「さて、ホームルームの前に、みんなに転校生を紹介します」
教室がざわざわとし始める。
「みんな静かにな。さあ、入って」
先生の言葉と共に、がらがらと教室の戸が開かれた。そこに、知らない女の子が立っていた。
女の子は頭の高い位置で一つにくくった髪をゆらめかせ、すっと教壇の上に経った。
「今日からみんなと一緒に勉強をする、佐々木夏希さんだ」
「初めまして。父の仕事の関係で、東京から来ました。前の学校では手芸部に入っていました。よろしくお願いいたします」
彼女はぺこりと一礼した。
凄いなぁ。私はリコーダーのテストで前に出るたび、びくびくとしてしまうのに。
「佐々木さんのお父さんは写真家で、今学期の間だけこの学校に通う予定だ」
「短い間ですが、よろしくお願い致します。話すのが好きなので、たくさん話しかけてくれると嬉しいです」
はきはきと自己紹介をする彼女の姿が、とても印象的だった。
午前中の授業が終わると、早速、朝気になった本を借りに行くことにした。廊下は走るのは禁止なので、早足で向かった。
早めに教室を出たお陰か、本は無事残っていた。
「これ、お願いします」
司書の先生に図書カードを渡し、本の貸出処理をしてもらう。
早く続きが読みたくてたまらない。暖房が入っていても、図書室は少し肌寒い。確か今日は3年生が体育館を使える日だ。となると、恐らく谷岡くんは教室にいないはずだから、一旦戻ろう。
浮ついた足取りで教室へ向かう。早速本を読もうと、自分の席に戻ると、おかしな点に気づいた。
机の上に置いたはずの筆箱がない。昼休み前にはあったのに、どこにいったんだろう。自分の机の中や、ロッカーの中。思いつく場所をあちこち探すが、見つからない。
午後の授業の予鈴が鳴る。もう昼休みが終わってしまう。
「田浦さん、どうしたの?」
途方に暮れていると、夏希ちゃんに声を掛けられた。
「筆箱、机の上に置いてたのに無くなっちゃって」
「そっか。じゃあ私は後ろの方をさがしてみるね」
そう言うと、彼女はロッカーの方へ歩いていった。
「あ、ありがとう」
遅れてお礼をいいつつ、見落としていないかもう一度思い当たる場所を探す。
それにしても、全く見当たらない。友達から貰ったものなのに、どうしよう。そんな時、後ろの方から誰かが言い争う声が聞こえた。
「佐々木さん、あいつの事なんかほっといてもいいよ」
夏希ちゃんと谷岡くんだ。
「なんで? 二人で探したほうが早いじゃん」
夏希ちゃんは冷たく返した。
「田浦、多分どっかに落としてきたんだろ」
谷岡くんが負けじと言い返した。さっきまで騒がしかった教室が、テストの時みたいにしんと静まり返っている。
でも、夏希ちゃんはそんな空気に怯むことなく、谷岡くんを問い詰めた。
「あんたには関係ないでしょ。――もしかして田浦さんの筆箱隠したの? 」
「俺がやったっていう証拠でもあるん?」
そういう谷岡くんの顔はにやにや緩んでいた。 彼は人をからかう時、こういう顔をする。
もしかしたら、筆箱は恐らく彼が隠したのかもしれない。
両者の睨み合いが続くかと思われたその時。夏希ちゃんが、谷岡くんの頬を抓った。
「いって! なにすんだよ」
「あんたがこの子の机に近づいて、こそこそしてるの、私見たんだけど」
「だからって俺は、――って引っ張らないでいたい」
谷岡くんの頬がさらに伸びる。
「柱の近くの、体操服の、裏に!」
彼は参った参ったという風に、隠し場所を吐いた。
夏希ちゃんは手を離すとともに、私のほうへ振り向いた。思わずびくっとしてしまう。
「陽菜ちゃん、体操服の裏側だって」
けれど、彼女は私の怯えた様子気にすることもなく、体操服置き場に歩いて行った。私も慌てて彼女の後を追う。
筆箱は、体操着袋をかけるラックの裏に隠してあった。どれだけ探しても見つからないわけだ。筆箱の底には、大きい埃がついていた。
去年の誕生日、友達から貰ったものだったのに。少し悲しい気持ちになっていると、夏希ちゃんは、筆箱の底についた埃を払って、手渡してくれた。
「はい、どうぞ」
「ごめん」
夏希ちゃんから筆箱を受け取る。
「悪いのはあいつらだから、謝らなくていいよ」
彼女はそう言った。
「えっと、ありがとう。夏希ちゃんは、かっこいいね」
「そ、そうかな」
お礼をいうと、彼女は少し照れたように笑みを浮かべた。
今日の授業も大詰めを迎え、6限目の体育。ドッチボールのチーム分けで、谷岡くんと別のチームになってしまった。
また、皆から鈍臭いと言われたらどうしよう。不安で押しつぶされそうな中、試合が始まった。
先行は谷岡くんチーム。早速私に向けてボールを投げてくる。目では見えるのだが、早すぎて避けられない。
諦めかけたその時、夏希ちゃんが私に飛んできたボールをキャッチし、谷岡くんに投げ返した。
返されたボールは、唖然としている彼の膝にそのまま命中した。谷岡くんはアウトになった。
「夏希ちゃん、凄い!」
わっとクラスの女子たちから歓声が上がる。
すっかり出鼻をくじかれた谷岡くんは、
「お前ら絶対当ててやるからな!」
と意気込んでいた。
その後外野に出てきた谷岡くんに、夏希ちゃんも私も球を当てられてしまい、負けてしまった。だが、不思議と心がすっきりしていた。
授業が終わり、夏樹ちゃんにお礼を言おうと思ったが、他の女子に囲まれていて中々話せなかった。しばらく待ってみたが、まだ時間がかかりそうだった。今日は諦めて、お礼は明日伝えよう。私はとぼとぼと家路についた。
私の家は山のやや上の方にあって、学校は山のふもとに位置している。帰り道は上り坂で、傾斜がややきつい。一年生の頃は、体力がなくて毎日下校が大変だった。
「ま、待って」
坂を登っていると、後ろから呼びかけられる。振り返ると、夏樹ちゃんが息を切らしながら歩いてくるのが見えた。
「あの、田浦さん、もし良かったら、スキー場までの道を、教えてほしいな。道が、わからなくて」
冬の間彼女の一家は、スキー客向けのそのコテージを借りて暮らしているとのことだった。確かそこは、私の家へ帰る道の途中にあったはず。
「その辺りなら、私の家も近いし。……良かったら一緒に帰ろうよ」
勇気を出して、誘ってみた。
「いいの? ありがとう」
良かった、断られなくて。夏樹ちゃんはにっと白い歯を見せた。速度を落とし、夏希ちゃんのペースに合わせる。
話を聞くと、同じ登校班だった。私は集合時間や班のメンバーについて教えてあげた。
「田浦さん、色々教えてくれてどうもありがとう」
「ううん、こちらこそ。お昼に助けてもらったし。分からないことがあったら、何でも聞いてね」
「――あの、田浦さん。これから下の名前で呼んでもいいかな」
「いいよ」
そう言うと、夏希ちゃんはにこにこ笑顔を浮かべてくれた。曲がり角で、大きく手を振った姿が、印象的だった。
「花菜ちゃん、ありがとう。じゃあ、私のことを夏希って呼んで欲しいな」
「うん! 夏希ちゃん明日からよろしくね」
そして、私は夏希ちゃんと仲良くなった。
あの日以降、谷岡くんたちからちょっかいを出されそうになると、夏希ちゃんが庇ってくれた。谷岡くんはわたしに興味が無くなったのか、一週間ほどするとからかわれなくなった。
次の週、夏希ちゃんを誘って図書室へ行った。彼女も本好きで、歴史物や伝記ものが好きらしい。
新しく入荷した本の背表紙を眺めていると、一冊目を引く本があった。
気になって手に取ると、それは、『秋の動物たち』と虹色の文字で綴られた、動物の図鑑だった。表紙は薄茶色で、背景にはどんぐりや松ぼっくりなどが描かれている。
きらきらとした文字が目に眩しい。どきどきしながらページをめくる。冬に向けて木の実を集めるリスや、熊の冬眠前の様子などが紹介されていた。図鑑の中の動物たちは、今にも動き出そうな姿で生き生きと写し出されている。
「あれ、その本……」
夢中になって眺めていると、夏希ちゃんがはたと本を指さした。
「夏希ちゃん、これ見て見て。すごく写真が綺麗だよ」
ページを開いて見せた。
「……あのね、それ、パパの本なんだ」
夏希ちゃんは恥ずかしげに呟いた。驚いて表紙の名前を見ると、『 写真:佐々木孝介』という名前が記されていた。
「ほんとだ!名前が一緒だ」
図鑑の写真を撮っているなんてかっこいい。ごろごろしてばかりの私の父とは大違いだ。
「パパの写真、綺麗でしょ」
夏希ちゃんは誇らしげに写真を見つめていた。
「そうだ!もし良かったら明日うちに来ない? パパの写真も見せてあげるよ 」
「えっ、良いの」
「うん、家にいっぱいあるから」
それは是非とも見たい。私は夏希ちゃんと遊ぶ約束をした
次の日の放課後、私は本棚からおすすめの漫画をボストンバックに詰めた。準備していると、母がこれを持っていきなさいとお菓子を手渡してくれた。
家の外に出ると、除雪が進んだようで、歩道が歩けるようになっていた。私の家から歩いて5分。夏希ちゃんが借りているコテージに着いた。インターホンを鳴らすと扉が開いて、夏希ちゃんと彼女のお母さんが迎え入れてくれた。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
夏希ちゃんのお母さんは、とても綺麗な人だった。髪は肩まででと短く、肌は日に焼けて小麦色だ。体が引き締まっていて、何かスポーツをやっていそうな雰囲気だった。
靴を脱ぎ、中へ入る。
「あの良かったらこれどうぞ」
持ってきたお菓子を、夏希ちゃんのお母さんに手渡す。
「ありがとう。後でジュースと一緒に持っていくね」
「ありがとうございます」
夏希ちゃんのお母さんは、台所へ消えていった。会話が終わると、早く早くと言わんばかりの夏希ちゃんに手を引かれ、二階へ連れていかれた。
「花菜ちゃん、早く来てよ」
テレビの前の机には、アルバムが置かれていた。
「これ、パパの撮った写真だよ」
夏希ちゃんはアルバムを開いて見せてくれた。その中には、色んな動物の姿が収められていた。ソファに腰掛け、アルバムを一緒に眺める。
「これが一番可愛いんだ」
夏希ちゃんはリスが巣穴で寝入る写真を指さして言った。
その後、他の写真も見せて貰ったが、どれも動物園では見たことない、初めて見るものばかりだった。
しばらくして、夏希ちゃんのお母さんがジュースを持ってきてくれた。
「あら、パパの写真見てるの? 」
彼女はアルバムを覗き込んだ。
「色んな動物を撮ってて凄いですね」
私が褒めると、彼女は首を横に振った。
「この前なんか、熊と鉢合わせたって聞いて、卒倒しかけたわ。危なっかしくてもう気が気でないわよ」
「ねー」
夏希ちゃんがすかさず肯定した。だけど、二人とも口ではそう言いつつも、優しい顔で笑っていた。
夏希ちゃんとそれから何回も遊んだ。段々畑のあぜ道探検をしたり、本の感想戦をしたり、かまくらを作ったり。とにかく楽しい日々だった。そうしてあっという間に一月は過ぎていった。
2月の中旬。私の家で、一緒にバレンタインのチョコ作りをすることになった。作るのはブラウニー。湯煎でチョコを溶かしていると、家の電話が鳴った。
「はい、もしもし。あぁ、佐々木さんどうも」
母が電話に出る。相手は夏樹ちゃんのお母さんみたいだ。
「えっ。そんなまさか。――どうかお気をたしかに」
母が素っ頓狂な声を出す。何かあったのだろうか。
「――夏希ちゃんのことは任せてください。また後で」
母は電話が終わると、小走りで台所へやってきた。
「夏希ちゃん、落ち着いて聞いてね。――夏希ちゃんのお父さんが、山で遭難されたみたいなの」
「えっ……」
夏希ちゃんは持っていたボウルを床に落とした。金属の音が、静まり返った台所に響く。
「あっ……ごめんなさい」
夏希ちゃんはすぐさまボウルを拾って、流し台に戻した。
「気にしないで、大丈夫よ」
母はそう言ったけど、夏希ちゃんは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「中身も零れてないし、大丈夫だよ。それより今は夏希ちゃんのお父さんのことだよ」
床に飛び散った水を拭こうとする夏希ちゃんを一旦止め、椅子に座らせた。
「お母さん、それでどうしたの? 」
「夏希ちゃんのお母さんも捜索隊に参加されるらしくて。家に誰もいなくなるから、うちに泊めて欲しいとお願いがあったの。うちは問題ないけれど、夏希ちゃんは大丈夫? 」
「……大丈夫です。よろしくお願いします」
夏希ちゃんはぺこりと頭を下げた。
十分後、家の呼び鈴がなった。夏希ちゃんのお母さんだった。あの小麦色の肌が、舞子さんみたいに白かった。
「ママ、パパは?」
夏希ちゃんは恐る恐る尋ねる。
「分からない。いつもなら、遅くなる前に必ず連絡をくれるのに……。もう5時間も連絡が取れてないの」
夏希ちゃんのお母さんは、今にも倒れそうだった。
「ママ、パパはきっと大丈夫だよ」
夏希ちゃんはお母さんを抱きしめた。
彼女のお母さんの目から、涙が一筋流れ落ちた。
「私は大丈夫だから、パパをお願い……」
そう言って夏希ちゃんは弱々しく微笑んだ。
「夏希――分かった。パパのことはママに任せて」
夏希ちゃんのお母さんは、深く息を吸うと、すっと立ち上がった。
「田浦さん、ご迷惑をおかけしますが、夏希をよろしくお願い致します」
「任せて下さい」
私の母が返事をした。
「ママも気をつけてね」
「夏希。パパと一緒に戻ってくるから、ちゃんと良い子にして待っててね」
夏希ちゃんはこくりと頷いた。
こうして、夏希ちゃんのお母さんは行ってしまった。玄関の外では、ちらちらと雪が降っていた。夏希ちゃんは泣かなかったけれど、後ろ姿はとても頼りなさげだった。
一旦ブラウニー作りは中断し、夏希ちゃんに私の部屋まで来てもらった。彼女は不安げに、窓の外を眺めていた。
「夏希ちゃん、本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
夏希ちゃんは力なさげに笑った。
「……無理して笑わなくてもいいんだよ」
「だって辛い時ほど、笑った方がいいってパパがいってたから」
「でも……」
夏希ちゃんの目には、涙が溜まっていた。
「パパ、大丈夫かなぁ……」
「きっと、大丈夫だよ。今までも大丈夫だったんでしょう?」
私は夏希ちゃんの頭を撫でた。彼女の顔がどんどんしわくちゃになって、大きな涙粒が目からぼろぼろ落ちた。私はただ夏希ちゃんが泣き止むまで、そばに居た。
どれぐらい時間が経った頃だろうか、揺さぶられて、起きる。いつの間にか、二人とも寝ていたみたいだ。
「夏希ちゃん、お父さん見つかったって」
夏希ちゃんのお母さんから、電話があったらしい。彼女は跳ね起きて、固定電話の側まで掛けていく。
「無事見つかってよかった……」
夏希ちゃんは、その後一言二言話すと、泣き笑いな顔で受話器を置いた。
夏希ちゃんのお父さんは、命に別状はないが、背骨と足の骨を折る大怪我を負ったらしい。ヘリコプターで隣県の病院まで搬送されたとのことだった。
「無事見つかってよかった」
次の日の早朝。夏希ちゃんは彼女のお母さんに連れられて、帰って行った。
翌日、そしてその翌々日も彼女は学校に来なかった。
もう谷岡くんたちは私に見向きもしない。からかわれることも無く、静かで平穏な日だ。でも、夏希ちゃんがいない学校は何となく面白くなかった。夏希ちゃんは大丈夫だろうか。私はただ、待つことしか出来なかった。
三日後、夏希ちゃんは登校してきた。夏希ちゃんは、彼女のお父さんの入院先へ行ってきたらしい。
「足を挫いて、動けなかったみたい。あと数時間発見が遅れてたら、危ない状態だったんだって」
まあ、本当に見つかってよかったと、夏希ちゃんは息をついた。
夏希ちゃんのお父さんは下山途中、数メートルほど滑落してしまったらしい。登山用ヘルメットと足から着地したおかげで、頭は何とか守れたが、背骨と足首の骨を折る大怪我を負ってしまった。そのため、今はベット上で暇を持て余しているそうだ。
「パパ、早く写真を撮りたいってぼやいてた。まあ、完治するまで許さないって、ママがつっこんでたけど」
夏希ちゃんは苦笑していた。話を聞く限り、思っていたよりみんな元気そうだ。
春になる前、私たちは色んなことを話した。たわいの無い話だったり、将来の夢だったり。夏希ちゃんと話すのはいつでも、楽しかった。来年度も、一緒に居られたら良いのに。
春が駆け足で近づいてくる。夏希ちゃんのお父さんも無事退院したが、身体に若干の痺れが残ったらしい。春から東京に戻って、ゆっくりと治療に専念するらしかった。夏希ちゃんとの、お別れの日が近づいてくる。
最後の夜、私の家でお泊り会をすることになった。楽しい時間はあっという間に過ぎ、夜になった。私の部屋に敷布団を二枚敷いて、隣り同士で寝る。
オレンジ色の淡い光の下で、蛍光灯の長い紐がゆらゆらと揺れている。湯たんぽがじんわりと冷えた布団を温めていく。意識がだんだんぼんやりとしてきたところで、夏希ちゃんが私を呼んだ。
「ねえ、花菜ちゃん」
「なに」
はっとして起きる。
「ごめん、起こしちゃったかな」
「ううん、全く寝てないよ」
「それなら良かった」
夏希ちゃんは、薄暗い中私をじっと見つめた。
「あのね、パパが遭難したとき、一緒に泣いてくれてありがとう」
「私は何もしてないよ」
そういうと夏希ちゃんは、首を横に振った。
「そんなことないよ。――あの時泣いてもいいって言われて、心が凄く楽になったんだ。本当にありがとう」
お礼を受けて、少し恥ずかしかったけど、それ以上に温かい気持ちになった。
「ねえ、今日はこのまま朝まで話そうよ」
「えー、絶対寝ちゃうでしょ」
さっきも、寝ちゃいそうだったし。
「それじゃあ、手を繋いで寝ようよ。どっちかが寝そうになったら手を抓るの。それなら朝まで起きられるでしょ」
そう言って夏希ちゃんは手を差し出した。
私は手をきゅっと手を握り返した。彼女の手はほんのり温かかった。妹が生まれる前は母と一緒に寝ていたけど、今は一人で寝ている。久々に誰かと布団に入って、暖かいなあと思った。
このまま、明日が来なければいいなと思う。眠りそうになったら、互いの手を抓ねりあった。しかし、そんな努力も虚しく、二人ともいつしか寝入ってしまった。
そして、朝になった。
「今日のお昼ぐらいにお迎えにいらっしゃるって」
夏希ちゃんと歯を磨いていると、母がそう言った。あともう少しで、彼女はいなくなってしまう。私達は時間ぎりぎりまで遊んだ。
お昼頃、夏希ちゃんのお母さんがやってきた。夏希ちゃんは桃色のもこもこのポンチョを羽織り、リュックを背負った。新幹線の駅は遠いので、私の家の車で移動することになった。
駅の入口に、車椅子に乗った男の人がいた。夏希ちゃんはその人の元へ駆け寄っていく。
「お父さん!」
男の人は、夏希ちゃんのお父さんだった。
「はじめまして」
「いつも夏希と仲良くしてくれて、ありがとう」
そう言って笑った顔が、とても夏樹ちゃんにそっくりだった。
「そうだ、二人とも写真を撮ってあげよう」
「あなた!」
「両手はちゃんと動くし、問題ないよ。最近撮影していないから、これもリハビリだと思って協力してくれないかな。なぁ、いいだろう?」
彼はちらと夏希のお母さん――もとい妻を見た。最後の日だからと夏希ちゃんのお母さんは特別に許可してくれた。
「それじゃあ、パパ。綺麗に撮ってね」
「二人とも、撮るよ。はいチーズ」
夏希ちゃんと2人並んで写真を撮って貰った。
列車の時間が迫る。夏希ちゃんはもう列車の中に乗り込んでしまった。汽笛が鳴り、駅のホームから列車が動き出す。夏希ちゃんは窓から、大きく手を振っていた。
「またね!」
私も一生懸命手を振る。
「うん!また遊ぼうね!」
涙が零れそうになったけど、ぐっと目の端に力を入れて堪えた。最後は笑顔で、送り出したい。
夏希ちゃんの姿が遠くなる。列車を目で追うけど、木々の向こうに消えてしまった。列車が通り抜けたホームの向こう側で、新芽が揺れていた。新しく妹も入学するけど、もう、彼女は学校にいないのだ。
あれから二週間後、夏希ちゃんからお手紙が届いていた。
夏希ちゃんは今、お父さんのリハビリに付き添っているらしい。以前より回復してきたとのことだった。落ち着いたらまたこちらへ遊びに来ると書かれていた。
手紙の他に、包装紙で包まれたものが入っていた。包みを開けると、この前、夏希ちゃんのお父さんに撮ってもらった写真が入っていた。
私も夏希ちゃんも写真の中で楽しそうに笑っていた。またこんな風に笑い合える日を心待ちにしながら、引き出しから返信用のレターセットを取り出した。




