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破天荒一代  世界ウェルター&ミドル級王者 ミッキー・ウォーカー(1901~1981)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/11/08

ミッキー・ウォーカーは世界ボクシング史上、パウンドフォーパウンドのランキングを作った時のベスト10の常連である。しかも好敵手にして悪友のハリー・グレブも、仲の良かったジャック・デンプシーもベスト10級と、まさにキラ星のようなスターボクサーに囲まれ、アル・カポネと草野球を楽しみ、自分の店でフランク・シナトラにただ働きで歌わせる男なんて、ミッキーはいったいどういう星の下に生まれたのだろう。

 フライ級からスタートしてウエルター級まで六階級を制覇したマニー・パッキャオは現代の超人と言えるかもしれない。階級が細分化され、複数のチャンピオン認定団体が乱立する現在ならば、ミニマム級からバンタム級までの六階級は体重差が十キロ以内であり、全ての王座を手に入れる可能性もなくはない。ただしフライからウエルターとなると十五キロも隔たりがあるだけでなく、身長・骨格ともに格差が顕著になり、その難易度は比較にならない。

 そういう意味ではウエルター級からヘビー級まで四階級にわたってヨーロッパタイトルを獲得したジョルジュ・カルパンティエは、ヨーロッパとアメリカではボクサーの力量差が明白だった時代の記録とはいえ、今日の世界三階級制覇に匹敵する実績の持ち主と考えても差し支えないだろう。

 しかしもっと凄い男がいた。世界タイトルこそウエルター級とミドル級の二階級に過ぎないが、パッキャオとほぼ同体格でありながら、後の世界ヘビー級チャンピオンまでぶちのめしたのだ。いくらパッキャオが超人でも、ヘビー級どころかクルーザー級のランキングボクサー相手でさえ、KO負けしなければ大健闘といっていいかもしれない。

 そんな無謀な戦いですら嬉々として臨んだミッキー・ウォーカーは、狂乱の一九二〇年代を駆け抜けた向こう見ずで常識破りのブルファイターだった。

 彼が人間の筋力と体力の限界を無視したようなファイトに果敢にチャレンジ出来たのは、空前のバブル景気の中で、誰もが能天気で「面白いこと」を追い求めて馬鹿騒ぎをやらかしていた時代の空気が成せる業だったのかもしれない。

 

 ウォーカーが生まれたニュージャージー州エリザベスのキーリーヘッドと言われる地区は、二十世紀初頭は極めて粗野な街として知られていた。少年時代のウォーカーも御他聞に漏れず喧嘩三昧の日々を送っていたが、決して貧しい育ちではない。母親方のヒギンズ家は祖父、叔父ともに優秀な建築家でサラブレッドの馬主だったこともある。中でも建築家のダニエル叔父は、アマチュアボクサーとして州のフェザー級、ライト級チャンピオンになったほどのボクシング好きで、ウォーカーが最も影響を受けた一人だった。

 一方、父のマイクは息子が世界チャンピオンになってもいい顔をしなかったが、自身はかの初代世界ヘビー級チャンピオン、ジョン・L・サリヴァンの親友で、彼のスパーリングパートナーを務めたこともあるほど腕っ節が強かった。

 一八〇センチ一〇〇キロのマイクは、サリヴァンが「お前なら世界チャンピオンになれる」としきりにプロ入りを勧めたほどの逸材だったが、人を殴ることを忌み嫌っており、決して首を縦に振らなかった。

 煉瓦工だったマイクは神父になるためにキーリーヘッドにやってきて母エリザベスと出会った。しかし荒っぽい土地柄だけに酒場でいきなり喧嘩を吹っかけられる。平和主義者のマイクは喧嘩を断るが、「この土地で暮らしてゆきたければ男であることを証明するしかない」と周囲から諭され、やむなく後日、拳で決着をつけることを承諾した。

 その時の相手は州のヘビー級チャンピオン、パット・ルーンだったが、世界チャンピオンをスパーリングでてこずらせたマイクとでは勝負にならなかった。試合開始早々、マイクの右の一撃でルーンは失神し、その瞬間、マイクはキーリーヘッドの一員となった。

 ウォーカーの天性のパンチ力は、プロにさえなれば世界ヘビー級の王座を狙えた父親譲りのものだったのだ。父子の唯一の違いは息子の身長が一七〇センチ弱しかなかったことである。


 学校では悪戯っ子だったウォーカーは十四歳で放校処分になり、様々な職業を転々とするが、どれもモノにならなかった。あとはお国のために働くしかないと希望した海軍も、年齢制限に引っかかってしまう。

 その後も艤装工や造船所作業員の仕事に就くが、小さいくせに生意気な奴と見られたのか、あちこちで喧嘩を売られてしまうため、結局はトラブルメーカーとして解雇の憂き目にあった。挙句の果てには浮浪者まで経験するが、喧嘩だけはプロボクサー相手でも負けたことがなかったため、十七歳の時、ついにプロボクサーになることを決意した。

 地元エリザベスでデビューした当初のニックネームは「エリザベス・サンダーボルト」だった。実は父のニックネームだったのだが、いかにも威勢が良さそうなので興行主が試合のポスターにそう書いたのが始まりだった。ところが、キーリーヘッドの住民たちはてっきり父のマイクがリングに上がると勘違いして大騒ぎとなり、それまでデビューを内緒にしていた父から大目玉を食うことになった。

 父は試合出場に猛反対だったが、ボクシング好きの母に押し切られて、「もし負けたらとっちめてやる」という条件でしぶしぶ同意した。(おそらくまだ親父の方が息子より強かったのだろう)

 ウォーカーのデビュー戦(一九一九年二月十日)は田舎町のセミファイナルだったが、ニュージャージー州がプロボクシングの認可に踏み切ったばかりで、エリザベスでは初のプライズファイトということで街中の評判となった。それに加えて対戦相手のドミニク・オーシニがキーリーヘッドに隣接するピータースタウンの出身ということも対戦景気をあおる要因となった。アイルランド系の多いキーリーヘッドとイタリア系の多いピータースタウンは何かにつけてライバル意識を持っていたからだ。

 試合はウォーカーの圧勝だったが、KO以外は無判定というルールに則って公式記録は無判定試合となった。小さな町だけに翌日の地元新聞のスポーツ欄のトップはウォーカーだった。たかが前座試合かも知れないが、あっという間に息子が有名人になってしまったことで、さすがの父もボクシングを続けることを黙認するようになった。

 まだトレーナーもマネージャーもおらず自己流の喧嘩殺法だけが頼りのウォーカーは、ジョー叔父とのスパーリングでジャブやフットワークを学ぶ一方で、ダニエル叔父の紹介で彼の旧友であるジョニー・アンゼスとマネージャー契約を結んだ。

 生涯の友人となったアンゼスがマネージメントした最初の試合は、プロ二戦目のジミー・マックラン戦だった。ニュージャージー州フェザー級チャンピオンのマックランは、二週間前にデビューしたばかりのウォーカーのことを単なるグリーンボーイとしてしか見ておらず、試合前の顔合わせでも完全に小馬鹿にしていたが、いざ試合が始まるとウォーカーの強打の前に二ラウンドでKOされてしまう。

 

 本場ニューヨークでのデビューは一九二〇年一月二十日、ライト級で世界タイトルを狙っていたベニー・コーエンが相手だった。ダウン応酬の打撃戦に観客席は大興奮に包まれ、途中からは椅子の上に立って応援する者も出始めた。KO決着がつかなかったため公式記録は無判定だったが、ニュースペーパーデシジョンでは満場一致でウォーカーの勝利を支持し、彼は生まれて初めての大金五百ドルを手に入れた。

 間もなく試合不履行が原因でアンゼスが去ると、ジャック・バルガーが新マネージャーとなった。ウォーカーは危篤の祖母を見舞うため当日の試合をキャンセルし、アンゼスと仲違いしたのだ。だからといってアンゼスとの友情が終わったわけではない。アンゼスはウォーカーを売り出すためにはさらなる優秀なマネージャーが必要だと考え、この諍いを機会に身を引いたのだった。

 バルガーは派手で遊び好きでギャンブルに目がない色男だったが、マネージャーとしては目先が利き有能だった。一九二一年七月十八日、時の世界ウエルター級チャンピオン、ジャック・ブリットンとのノンタイトル戦の機会を得たのもバルガーの交渉術のおかげだった。

 百戦錬磨のブリットンは一ラウンドにダウンを喫したものの、その後はウォーカーをあしらい続け、結果は無判定に終わったが、二十歳のウォーカーの前途には「世界」がはっきりと見えてきた。

 一九二二年十一月一日、ウォーカーはMSGでブリットンの世界タイトルに挑戦した。当初の賭け率は、直近の十試合が三勝四敗三無判定と不振のウォーカーが二対五で不利と見られていたが、地元エリザベスの住民や仲間たちがこぞってウォーカーの勝ちに賭けたため、試合直前には五対八とひっくり返ってしまった。

 世界戦を前にしたウォーカーの試合に覇気が感じられなかったのは、ギャンブル好きの彼のこと、下馬評では不利な自分に賭けて一儲けを企んでいたのだろう。結局当てが外れる格好になったが、試合は十二ラウンドにダウンを奪うなどほぼ一方的に攻め続けたウォーカーの圧勝だった(十五ラウンド判定勝ち)。


 一九二四年にバルガーが腹膜炎で急死してからというもの、自身でマネージメントを兼任しながらタイトルを維持してきたウォーカーだったが、放蕩が祟って借金が嵩んだため、一攫千金のチャンスを模索していた。こうして実現したのが、世界ミドル級チャンピオン、ハリー・グレブとの一戦である。

 一九二五年七月二日、ポロ・グラウンドに六万五千の大観衆を集めた一九二〇年代中量級屈指の名勝負が行われた。ちなみにセミファイナルにはデンプシーへの挑戦が囁かれている最強の黒人ボクサー、ハリー・ウィルスが出場するという豪華版であった。

 プライドの高い両者の対決は第一ラウンドから火の出るような打ち合いとなった。ひたすらストリートファイトのような殴り合いが続き、七ラウンドにはグレブのパンチを浴びたレフェリーのエド・パーディがリング外に叩き出されそうになり足を捻挫してしまった。

 こうなるとレフェリーはもはやリングの二人を制御出来ない。十四ラウンドにグレブのサミングで左目の視界を失ったウォーカーは、ラウンド終盤の猛ラッシュでグロッギーに陥りロープを背に右に左にさまよい続けた。ラストラウンドはウォーカーが挽回したものの判定はグレブに上がり、二階級制覇は成らなかった。

 興行的な大成功に気を良くしたプロモーターは、ファイトマネーを倍増して両者の再戦をオファーしたが、この激戦を気に意気投合した二人は友人となり、二度と戦おうとしなかった。お互いこれほどタフな相手と殴りあうのはもうこりごりだったからである。


 グレブ戦後に新マネージャーになったのは、吝嗇家だが凄腕で知られるドク・カーンズである。デンプシーと喧嘩別れしたばかりのカーンズは第二のデンプシーを育てるのが夢だった。

「ミッキー、君を一年以内にヘビー級チャンピオンにしてみせるよ」

 この殺し文句にイカれてウォーカーはカーンズと組むことになった。敬愛するデンプシーの手前、カーンズと組むことにためらいがないでもなかったが、デンプシーから「まあドクには未練がないが、正直言って彼は大したマネージャーだ。この世界では一番だろうな。やつは君の目玉もくり抜くが、君が困っている時は自腹で助けてくれる男でもあるよ」と後押しされ、心は決まった。

 その後、八年続いた二人のコンビは八百万ドルを稼ぎ出すが、そのほとんどを使い果たしている。

 カーンズが選んだ六度目の防衛戦の相手は三年前に勝利したピート・ラッツォだったが、練習不足と減量の失敗でタイトルを失った。自業自得ではあったが、あれほど周囲に群がっていた人々があっという間に居なくなったのにはびっくりした。元世界ヘビー級チャンピオンのジム・コーベットは数少ない例外だった。

 「さあ、ミッキー、お前の周りを見回すのは今だ。誰が本当の友人であるかをよく見るんだ」

 そして笑いながらこう付け加えた。「が、あまり気を落とすなよ。人生はこうしたものだ。俺も同じ目に遭ってきた」と。

 

 一九二六年十二月三日、シカゴでタイガー・フラワーズと対戦したウォーカーは、僅差の判定勝利で世界ミドル級王座を手に入れた。この試合でウォーカーが手にしたのはたったの一万ドルに過ぎなかったが、チャンピオンの肩書きは巨万の富を生む打ち出の小槌だった。やはりマネージャーとしてのカーンズは金儲けには天賦の才があり、二人には以前にまして華やかな世界が待っていた。

 一九二七年六月三十日にロンドンのオリンピックスタジアムで行われた英国の強豪ビリー・ミリガンとの試合の時には、キャンプ中にプリンス・オブ・ウェールズ(英国皇太子)とゴルフに興じたり、共にロイヤルボックスでエプソンダービーを観戦したりと上流社会とのお付き合いの方が忙しかったせいか、地元新聞からは酷評され、賭け率は二対一で挑戦者に傾いていた。世間からすると遊び呆けているように見えたのだろう。

 ところがキャンプには一万ドルもの費用を叩いてヨーロッパの一流どころのスパーリングパートナーを招いてみっちり鍛え上げていたのだ。そうとも知らぬノミ屋の胴元ハリー・プレストン卿は、スパーリングで古傷を四針縫う裂傷を負ったウォーカーにアドバンテージまで与え、三対一でカーンズからの賭けの申し込みを飲んだ。賭け金はファイトマネーの全額十二万ドルだった。

 欧州チャンピオンのミリガンはさすがに手強く、ダウンを奪われてもひるむことなく打ち返してきたが、ウォーカーのカウンターが冴え、五度目のダウンでついに力尽きた(十ラウンドKO)。

 払い戻し金三十六万ドルとダービーで勝った三万ドルを手にほくほくのウォーカーとカーンズがダブリンやパリで豪遊して帰国した時には、十二万ドルしか残っていなかった。軽量級の世界チャンピオンが一生かかって稼ぐ金を彼らはあっという間に使い果たしたのである。

 ニューヨークの波止場に着いた二人は仲良く六万ドルずつ分けて家路についた。


 浪費癖は相変わらずだったが、一九二八年から一九二九年までに五十万ドルのファイトマネーを手にしたウォーカーは銀行預金の三十万ドルと手持ちの金をかき集めると、百万ドルまであと一息となった。そこからギャンブルで荒稼ぎをし、十数試合をこなしたところで、ついに念願の百万ドルを金庫に揃えることが出来た。

 ウォーカーは目の前に千ドル札の束を十個並べた瞬間、ついに自分も上流階級の仲間入りしたことを実感してえもいわれぬ感動を覚えたという。ところが札束の感触を楽しんでいるうちに、積み上げた百万ドルの小ささに心が萎えてきた。財力はあっても自分は昔のミッキー・ウォーカーのままであることに気づいたのだ。そう思うと、億万長者の仲間入りをしたいという夢がいかに下らないことかがわかった。

 個性派ボクサーウォーカーの最大のウリといえば、やはり体重制限なしであらゆるボクサーと戦った常識破りの無鉄砲さにある。彼がライトヘビー級の世界チャンピオンクラスと戦い始めたのは、まだウエルター級だった一九二五年からである。

 最初に戦った現役チャンピオンのマイク・ミクティーグとは十キロの体重差を乗り越えて十二ラウンドほぼ優位に試合を進めたが、KO以外は無判定という事前の契約に従い白星とはいかなかった(一九二五年一月七日)。

 ミドル級に上げてからは体重差が縮まり、パンチの威力も増大したことで三階級制覇まであと一歩のところまで迫っている。まず、元チャンピオンのミクティーグとの再戦を一ラウンドKOで一蹴すると(一九二七年十一月一日)、わずか二十日後には前チャンピオンのポール・バーレンバッハに十ラウンド判定勝ちを収め、ライトヘビーでも十分通用することを証明した。

 翌一九二八年にミドル級王座防衛戦を挟んだ後、一九二九年三月二十八日、世界ライトヘビー級チャンピオン、トミー・ラグランに挑戦した。

 この試合は新シカゴスタジアムの杮落としとして行われたものだったが、ファイトマネーの配分が珍妙だった。何とウォーカーが勝てば一万ドル、負ければ五万ドルというのだ。これはチャンピオンベルトの付加価値を考慮したもので、勝者の報酬「チャンピオンの座+一万ドル」は五万ドル以上の価値があるという理屈である。

 試合は接戦でラグランが二対一の判定勝ちでタイトル防衛を果たしたが、判定が告げられると場内は大ブーイングに包まれた。ラグランはさしてダメージを受けていないが、ウォーカーから逃げ回ってばかりいたからだ。敗北と引き換えに勝者の五倍の報酬を手にしたウォーカーは、嬉しさと悔しさが入り混じった複雑な気持ちだった。

 ちなみにこの試合をプロモートしたラグランサイドは、入場料の五十五パーセントの取り分からセミファイナルのファイトマネーも支払わなくてはならなかったため、手元に残ったのはわずか四千ドルだった。

 公式記録でこそ黒星でも、自身の気持ちの中ではライトヘビー級チャンピオンに勝利したことを確信しているウォーカーはさらなる頂を目指す。ボクシング界最高峰の世界ヘビー級タイトルである。

 

 一九三〇年五月、一九〇センチ九十七キロのポール・スイダスキーとの試合は壮絶だった。二日酔いのままリングに上がったウォーカーは三ラウンドまでに十度のダウンを喫し風前の灯だった。しかしラウンド終了後の場内の停電のおかげで四ラウンド以降は息を吹き返す。

 その後キャンバスに何度もキスすることになったスイダスキーは判定を落とし、ヘビー級コンテンダーになる夢を絶たれたが、ウォーカーは中からほとんど記憶がなく、最終ラウンドにスイダスキーが「ミッキー、腹だけはやめてくれ。息が出来ねえや」と頼みこんできたことだけは断片的に覚えていたという。

 翌年の四月にも、同じく二日酔いでヘビー級のベアキャット・ライトと対戦して判定を拾っているが、この時は朝ホテルのベッドで目が覚めても試合のことは全く記憶になかったという。

 こんなでたらめな試合を繰り広げながらも、ウォーカーはヘビー級でも着実に地歩を固めてきた。そして一九三一年七月二十二日、ニューヨーク州公認ヘビー級チャンピオン、ジャック・シャーキーとの一戦が実現した。

 当時の世界ヘビー級チャンピオンはマックス・シュメリング(ドイツ)だったが、世間はシャーキーこそが真のチャンピオンであると認識していた。というのも、ジーン・タニーの突然の引退により行われることになったシャーキーとシュメリングによる世界王座決定戦で、四ラウンドまで劣勢だったシュメリングがシャーキーのローブローで反則勝ちを拾うという前代未聞の椿事で王座に就いたからだ。

 したがって、少なくともアメリカではボストン出身のシャーキーこそが世界ヘビー級チャンピオンであり、ウォーカーはシャーキーに勝てば、実質的に世界最強の称号を手に入れることが出来るのだ。

 賭け率は三対一だったが、これはウォーカー人気による期待値に過ぎず、実力差は十対一以上という見方が一般的だった。評論家に至っては、夜遊び好きで飲んだくれの小男が一八三センチ九〇キロのヘビー級ナンバーワンと対戦すること自体が無謀なことだと考えており、新聞各紙もシャーキー支持一色だった。そもそもニューヨーク州体育委員会が、危険であることを理由に試合の認可を渋っていたくらいだから、それも当然であろう。

 圧倒的不利という予想にもかかわらず、カーンズとウォーカーだけは自信満々だった。

 ウォーカーがこれまでに本気で恐れたのはジャック・デンプシーだけである。普段は互いの試合を観戦するくらい仲が良いにもかかわらず、とあるところからデンプシーとのエキジビションの話を持ちかけられるや、「おい、俺がどんな人間だって怖くないこと知ってるだろう?だがな、あいつは人間じゃないんだ」ときっぱり跳ねつけている。

 野獣のように獰猛なデンプシーに比べれば、基本に忠実なアウトボクサーであるシャーキーは十分に勝ち目のある相手だった。カーンズと練った作戦はアップライトで構えるシャーキーの右をはずして、左ボディブローで弱らせるというものだった。左強打に定評があるウォーカーはこれまで自分よりも大型の相手はほとんどこの手で仕留めてきたからだ。

 ウォーカーは中量級としてはタフでパンチもあったが、重量級となると全てのスケールが違ってくる。それでいて十キロや二十キロのウエート差など意に介さずに重量級相手に攻めのボクシングで渡り合えたのは、ずんぐりした体型からは想像がつかないほどスピードがあったからだ。

 スピードがあるからこそ、一見クリーンヒットを浴びたようでもピンポイントが外れているため、ダメージは最小限に抑えられる。逆に重量級の長いリーチをかいくぐって懐に入ってしまえば、小柄であるがゆえに回転の速い連打をボディに叩き込めるというメリットがある。

 同時代の世界的ボクシングライター金子文左エ門が、最もスピードがあるボクサーとしてジミー・ワイルドとミッキー・ウォーカーの名を挙げているように、上背とスピードは軽量級並みでありながらパンチとタフネスは中量級トップクラスとなると、この時代の鈍重な重量級のパンチではそう簡単には有効打は奪えない。

 一ラウンドから四ラウンドまでは接近戦でのボディブローが有効だった。シャーキーのジャブと右ストレートは的が小さいウォーカーを捉え切れず、やすやすと懐に潜り込まれてしまったが、中盤からは離れて戦うようになり、接近戦はクリンチでしのいだ。

 中間距離での打ち合いは危険だったが、ボディーを痛めつけられているシャーキーは得意の右がガードで塞がって使えないため、ウォーカーの方がやや打ち勝っていた。試合終了のゴングを聞いた時、シャーキーががっくりうなだれたのと対照的にウォーカーは勝利を確信した表情を浮かべていた。

 まずレフェリーのアーサー・ドノヴァンの採点が発表される。十一対四でウォーカーのコールに観客は大歓声で応えた。続くジャッジのジョージ・ケリーが八対七でシャーキー、チャールズ・マシゾンがドローと発表されるや観客は一斉に立ち上がってリングに罵声を浴びせ、会場は怒号の渦と化した。公式判定はドローだったが、新聞各紙はウォーカーが判定を盗まれたと書きたてた。

 ラグラン戦についでの不当判定に泣いたウォーカーにはまだチャンスが残されていた。カーンズの尽力によってすでにシュメリングとの対戦契約を取り付けていたからだ。ただ残念なことにシュメリングとの対戦が実現した一九三二年九月十六日には、チャンピオンベルトはすでにシャーキーの手に渡っていた。 

 リターンマッチでは明らかに勝ったと思われたシュメリングが判定を失ったのはわずか三ヶ月前のことで、ウォーカーはまたしても“現役”世界ヘビー級チャンピオンとの対戦を逃したことになる。とはいえ、ここでシュメリングに勝てば世界ヘビー級チャンピオンになったも同然である。

 シュメリング戦に先立ってキング・レビンスキー、パウリノ・ウズクダンといったヘビー級上位ランカーを連破したウォーカーだったが、肝心の一戦ではウェートオーバー気味で臨んだことが仇となって前チャンピオンの猛打の餌食となった。シュメリングの容貌がデンプシーに酷似していることで腰が引けたわけではないだろうが、八ラウンドに三度のダウンを喫したウォーカーはレフェリーストップされ、奇跡への階段は足元から崩れ落ちた。

 これでヘビー級の夢は諦めたが、三階級制覇には未練の残るウォーカーは、一九三四年十一月三日、世界ライトヘビー級チャンピオン、マキシー・ローゼンブルームと対戦する。しかし、スピードの衰えたウォーカーはローゼンブルームの鉄壁のディフェンスを打ち破れずに完敗。六ヶ月後の再戦では報復したが、この時はノンタイトル戦だったためタイトルの移動はなく、またしても不運に泣いた。


 一九三五年で現役を引退したウォーカーは、同年にブロードウェイにオープンしたバー「トイ・ブルドッグ」を経営する傍ら、スポーツライターからナイトクラブの司会や舞台劇まで幅広い分野で精力的に活動していた。そのうち自分のナイトクラブを持ちたくなりニュージャージー州キーンズバーグの「ワゴン・ホイール」を買い取り、経営者に納まった。この店にはニューヨークの芸人たちがやってきては一流のショーを無報酬で見せていたが、彼らは全てウォーカーの友人だった。

 そんなある日、自分の歌を聴いて貰いたいという理由でよく店にやって来ては無報酬で素晴らしい喉を披露する十七歳の若者のことが目に留まった。その小柄で痩せっぽちの少年はひ弱に見えたせいか、しょっちゅう酔客から絡まれていたが、口より手が早く見かけよりずっとタフだった。

 ウォーカーは少年の歌唱力に惹かれ、大枚を投資することにしたが、この少年こそ誰であろう、かのフランク・シナトラの若き日の姿だったのである。

 利発なウォーカーは商才にも長けていたが、もう一つ傑出した才能があった。それは絵画であった。

 きっかけはサマセット・モーム原作の映画「月と六ペンス」だった。この小説はフランスの著名画家ポール・ゴーギャンのタヒチ島での生活を題材にしたものである。ウォーカーはゴーギャンのように上手く絵を描きたい一心で自宅にアトリエまで作って独学で絵を始めたところ、やがて個展を開くほどの腕前になり、展覧会で特選も取った。しかもその絵は一万五千ドルで売れたのだ。


 リングで栄光をつかんでも、その座を失った後は友人にも家族にも去られて惨めな後半生を送ったボクサーは多い。ウォーカーのような破天荒なボクシング人生を送った者ならなおさらである。

 ウォーカーは一見、いい加減な男のようだが、かつて対戦したローゼンブルームが「気違いアイリッシュ」呼ばわりしたようなエキセントリックなキャラクターではなかった(皮肉にも映画界などで活躍したローゼンブルームの方が、後年パンチドランカーとなり寂しい余生を送っている)。

 母の生前は常に母の手縫いのトランクスを着用するほど愛情が深く、友人に対しても、自分に一杯食わせたような奴ですら金に困っていると雇ってやるなど、落ちぶれた仲間を見捨てるような男ではなかった。これはウエルター級王座を失った後に世間から受けた仕打ちが良い経験になったからだろう。

 また、良い例えではないかもしれないが、仲の良かったアル・カポネがアルカトラズに送りこまれた後もずっと文通を続けたのはウォーカーくらいのものだった。「シカゴの夜の帝王」も収監されてからはめっきり世間から忘れられた存在になっていたが、ウォーカーにとってのカポネは一緒に野球をやり、時に口論もした友人であった。だからこそカポネはギャングがボクシング界に大きな影響力を持ち八百長がはびこっていた時代にあっても、友情を利用してウォーカーに八百長試合を持ちかけることは一切なかったという。

ミッキーには意外な画才があったからよかったものの、派手な性格が災いして商売に失敗してすってんてんになった時期もあったのだ。伝説的な世界王者が生活保護の憂き目に遭いそうなほど落ちぶれながら、また別の世界で知名度を上げるなんて小説家か漫画の世界である。

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