第19話 履歴の一行
朝、保管庫B-3の最上段から、金箔の薄れた箱を下ろした。蓋には細い字。
〈履歴:アーデルハイト〉
箱は重くない。重いのは意味のほうだ。今日は、ここから名を外し、型紙だけを残す。
机に薄紙を広げ、肩書の頁をめくる。
〈任命:査定官〉
〈異動:保管庫B-3〉
〈功績:制度改革〉
私は鉛筆で、役割語にすべて置き換える。
—受理印を押す人
—鍵を二人で持つ場所に通う人
—温度計と砂時計を持ち歩く人
名はどこにも書かない。名は便箋の市へ、仕様は公共棚へ。
扉を軽く叩く音。司書騎士ノアが入ってきて、緑青のインクを小皿で温めた。
「最後の行、書くか」
「はい。二行置きます」
私は深く息を吸い、最終頁の余白に鉛筆でゆっくり書いた。
「私は私を、記録に残さない。」
続けて、起点の言葉をもう一度。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
ノアが頷き、砂時計印を左下に押す。印影は淡く、しかし十分。退屈の二度押しは不要だ。
廊下に出ると、グリム課長が背を壁につけて立っていた。
「履歴は空白になったか」
「行が二つ残りました。合図と退場の意思です」
「退屈で助かる。——恩庫に持っていけ」
「効力なしで陳列します」
恩庫の扉を開け、ガラスの空額の裏へ薄い封を差し入れる。封には宛名も差出人もない。
札を添える。
〈空額裏・参考資料:“名なしの履歴”/効力なし〉
男の子がガラスのこちらから覗き込み、声を潜めて聞く。
「どうして“名前”をかくさなきゃいけないの?」
「隠すのではなく、分けるの。名は私物、仕様は公共。——橋は合図で渡る」
少年は頷き、ポケットの噂温計を見てから、そっと戻した。
広場へ出る。大掲示板の一角に、昨日差した退職届(仕様)が明るい紙色で立っている。
温度巡回の若者が新しい温度ログを貼り替え、請願票の束は太字になった数字で読みやすい。
王都新聞のブレムが駆け込んでくる。
「見出し、“履歴の一行——名を出さず、合図を残す”でいく。紙面の温度は?」
「湯気。別紙に感想を誘導。便箋の市の**“未来の自分へ”**棚も隣に」
「了解。退屈で助かる記事にする」
午前の鐘が一つ。学究院の門前では、読み方の人ミレーユが黒板に二行を書いている。
“終わり=叙述、引き継ぎ=手順”
“名=便箋、合図=掲示”
受験生の少女が手を上げる。「先生は“名”を残さないの?」」
ミレーユは笑い、指で胸をとんとん。
「私物には残すよ。公共の紙には合図**だけ」
文体は跳ね足で広がる。良い伝播だ。
昼前、宰相補佐ギーゼルが歩幅を変えずに現れ、退職届(仕様)をじっと読む。
「“名の戻し方:三日=公開→暫定→再掲示”、うむ。短い三本だ」
「火を上げずに戻れる導線です」
「鍵は二つのまま?」
「図書塔・ノアと宰相補佐・ギーゼル。敵と味方で一つずつ」
彼は鼻で笑い、ほんの少し目尻を緩めた。「退屈で助かる」
そのとき、帽子の青年——殿下が参照番号の小札を抱えてやって来る。
「配布の役、今日もする。起点の言葉を先に言う」
彼は静かに口にした。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
王家広報も同じ見出しで更新され、本文は**“短い合言葉→段取り”の順に統一された。“君”は消え、“みなさん”が定着する。——文体が遺伝**した。
請願票は昼までに七件。
—雨天待避の増設→テント配備(前倒し完了)
—匿名返却箱の位置→影の出ない場所へ移設(完了)
—抽選の配点資料の読み方→掲示に「読み方の人」出張欄増設(S-012-c)
私は満了線の右に小さく**“前倒し”を二つ付記し、温度ログに怒鳴り声ゼロ**の線を一本伸ばす。退屈は速い。
午後、再縫製台で針山が足りなくなる。
工匠ギルドの若頭が請願票を持って走る。
「端材のコルクを使って針山を量産。“短い三本”でやる」
—一本目:材料集め(本日)
—二本目:組立(明日)
—三本目:検査+配布(明後日)
私は砂時計印を三つ並べ、満了線を短く切る。短い三本は、だいたい倒れない。
祈祷会のご婦人が、婚姻の新様式の棚の前で双葉印を眺める。
「“更新”の言葉、思ったより優しいのね」
「“永続”は美談、“更新”は運用。点検日は、だいたい優しい」
彼女は便箋に二語。『来年も』。便箋は私の棚へ落ちる。
夕刻、王都監査の中間報告(K-010)・第三回を屋外で。
ラウル補任監査官が遅い正確を淡々と述べ、私はダッシュボードの丸を指す。
質問は紙で、子どもは絵で。
“誰が悪い”の声は上がらず、“どこが滑る”の指が増える。
報告の最後、ラウルが短く言う。
「“名なしの運用”、本日も支障なし」
広場に拍手は起きない。沈黙が合図だ。
日暮れ。王家邸の台所から別紙:謝意が届く。
〈“『お茶で起動』を掲示にした。朝の広報会議が湯気で始まる。
ありがとう——台所の先生へ〉
私は受け取り、便箋の市の**“宛先:台所”棚へ差し入れる。公共は段取り**だけを掲げておく。
夜の前、最後の用事。大掲示板の最下段に小さな札を一枚、釘で留める。
〈“名がなくても、起点があれば始められる。”〉
その横で、帽子の青年が小札を配り終え、深く息を吐いた。
「寂しくはないか」
「寂しさは私の棚へ。公共には続くだけ置く」
彼は頷き、視線を掲示の起点の言葉へ滑らせる。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
「橋は渡れているな」
「双葉印で戻り方も書いてあります」
庁舎に戻り、名札の封をもう一度確かめる。宛先は未来、差出人は空白。
鍵は二つ。図書塔・ノアと宰相補佐・ギーゼル。敵と味方が持つのが仕様。
私は日誌の末尾に三行だけ。
“私は私を、記録に残さない。”
“合図を残せば、街は歩ける。”
“退屈で助かる——ここまで引き継ぎ完了。”
灯を落とす。沈黙の広場は静かな混雑のまま、番号で明日に向いている。
——次は、エピローグ。声は祝砲、一度だけ鳴らして終わる。
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【小さな勝利】“名なしの履歴”を恩庫の空額裏へ陳列(効力なし)/王家広報の文体が起点の言葉→段取りで定着/抽選配点の読み方の出張欄(S-012-c)新設/針山の短い三本で現場前倒し
【次話予告】エピローグ「沈黙の広場は明日へ」——怒鳴り声ゼロが常態に。双葉印が季節になり、退屈で助かるが街の口癖のまま、静かに幕を引く。