第18話 退職届(仕様)
朝、鍵束の重さを量り直した。敵と味方で一つずつ——指に置くと、重さは同じで、意味だけ違う。
保管庫B-3の卓に薄紙を広げ、見出しを短く据える。
〈退職届(仕様)〉
一、引き継ぎ完了番号
二、残課題の所在
三、鍵の返納先
四、掲示位置(起点の言葉)
五、名の戻し方(緊急時のみ)
私は欄を埋めていく。
一、R-074/D-112/M-021/S-012/K-010(受理印の影は薄緑で揃える)
二、温度ログの更新・請願→実装の中央値・家内手順の市の在庫補充
三、図書塔・ノア/宰相補佐・ギーゼル(敵と味方=どちらにも回れる二人)
四、広場中央・大掲示板の最上段
五、第三者監督の合意+参照番号の臨時付与(満了線は三日)
端に砂時計印を沈め、満了線を細く引いた。印影が心許ない場所は二度押し。退屈の二度押しは、だいたい正しい。
ノック。司書騎士ノアが入ってきて、無言で閲覧ログを一冊置く。
「閲覧の足跡は揃った。善意に頼らず回る」
「採用。善意は私物、運用は仕様」
ノアは頷き、鍵の片方を私の掌に一度だけ触れさせ、すぐ引っ込めた。引き継ぎの感触は、紙より短い。
廊下でグリム課長が腕を組んで立っていた。
「退職届、刃じゃなくて方向になってるか」
「はい。“終わり”ではなく“始め方の残し方”です」
「退屈で助かる。——署名は?」
「署名のない署名で」
私は空欄に役割名だけを書いた。〈受理印を押す人〉。名は置かない。
広場へ出る。大掲示板の最上段に、退職届(仕様)を差し込む。
その右に起点の言葉の札をもう一枚。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
——名の代わりに、合図だけを明るく置く。
温度巡回の若者が近寄り、目で読む。
「“名の戻し方:三日”」
「緊急時だけ。第三者監督の合意が鍵」
若者は頷き、袖の温度計札を弾いた。「火→湯気で守る」
そのとき、王都新聞のブレムが帽子を斜めにしながら走ってくる。
「見出し、“退職届(仕様)——届は刃でなく方向”でいく。紙面の温度は?」
「湯気。別紙に私物は誘導。便箋の市の棚を隣に置いて」
「退屈で助かる記事だな」
「退屈は維持費、混乱は修理費です」
彼は笑い、速記の線を引いて去った。
祈祷会のご婦人が掲示の前で立ち止まり、小声で言う。
「“名が消える”のは寂しいね」
「名は便箋の市へ。公共は合図で動きます」
ご婦人は頷き、便箋に二語だけ書いて落とした。『ありがとう』。寂しさは、だいたい私の棚で温度が合う。
昼前、学究院から読み方の人ミレーユ。
「**“退職の読み方”を子どもに説明したい。“終わり”と“引き継ぎ”**の違い」
「黒板に二行だけ」
私は小札を渡す。
“終わり=叙述/引き継ぎ=手順”
“名=便箋/合図=掲示”
彼女は笑い、走って戻る。文体は跳ね足で伝播する。
午後、宰相補佐ギーゼルが庁舎に現れ、届を一読して鼻を鳴らした。
「鍵の返納先に私の名がある。——敵と味方、ね」
「どちらにも回れる人に鍵を持ってもらうのが仕様です」
「退屈で助かる。名の戻し方の三日、短い三本に分けろ」
「一日目:状況公開/二日目:暫定運用/三日目:再掲示——で」
ギーゼルは満足そうに頷いて、鍵の片割れをポケットにしまった。
**恩庫**を開け、空額の裏に小さな封を差す。
〈添付:運用残置メモ〉
—温度ログの書式/請願票の見本/家内手順の冗談欄
効力なし。記念だけ。過去は陳列、現在は運用、未来は仕様書。
夕刻、帽子の青年——殿下が広場に立つ。
「“名の戻し方”、試さないで済むように回す」
「質問は紙で。合図は短く」
彼は参照番号の小札を配り、王家広報の見出しは今日も**『参照番号はここ』。“君”は消えたまま、“みなさん”**が定着している。
その横で、工匠ギルドの若頭が請願票の**“次に押す場所”を自筆で太く直す。
「低い台の件、前倒しで実装した」
私は掲示の余白に“前倒し:完了”**と付記し、砂時計印を上から軽くなぞる。満了線が温度を保つ。
日が落ちる。沈黙の広場は静かな混雑へ戻り、怒鳴り声ゼロの札が一日分伸びる。
私は庁舎に戻り、机の引き出しから名札を取り出す。裏面の布を指で撫で、封筒に入れた。宛先は未来。差出人欄は空白。
封をして、鍵を二人に渡す。図書塔・ノア、宰相補佐・ギーゼル。受け取る手の温度は同じで、役割だけが違う。
最後に、退職届(仕様)の右下に双葉印を落とす。
〈更新:必要なら、誰でも同じ温度で〉
掲示を見上げ、私は日誌の末尾に三行。
“届は刃でなく、方向。”
“名は便箋、合図は掲示。”
“鍵は二つ——敵と味方。”
灯を落とす。起点の言葉だけが薄く光る。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
——次は、履歴の一行を置きに行く。