第17話 匿名の私・試験運用(半日)
朝、名札を外した。糸の穴だけが襟に残る。
庁舎の扉の横、釘一本に短い札をかける。
〈起点の言葉:『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』〉
——名は置かない。合図だけ置く。今日は半日、これで回してみる。
広場は露でしっとり、温度計は“湯気”に寄っている。
大掲示板の表紙は広場標準仕様 v1.0。私は表紙の角を撫で、砂時計印のインクを温める。
まずは静かな準備運動。請願票置き場に新しい束、訂正テンプレを中段に補充、優先順位券は色弱対応の太数字版を最前列へ。
冗談には罰則がないので、端に小さく一枚だけ差す。
〈『読めなかったら台所へ。湯気はだいたい正しい』〉
温度巡回が四隅へ散っていく。袖に小さな温度計札。
「火→湯気、氷→湯気」と彼らは合言葉を胸で繰り返す。怒鳴り声の影は今朝も薄い。
窓口に一人目。屋台の菓子職人の女将。
「昨日の列、『先に困っている順』が見えにくかった」
私は無言で請願票を示す。女将はうなずき、短く書く。
一、列の見え方
二、子連れ/高齢者
三、S-012/広場標準 v1.0
四、『番号札の数字を太字に/低い台の上に掲示』
私は砂時計印で三日の満了線を置き、矢印の素案を横に添える。
言葉は少ない。合図と手が動く。
保管庫B-3では、司書騎士ノアが鍵を二つ、指の上で軽く転がした。
「匿名運用、始まったな」
私は頷き、閲覧ログの標準票をずらりと並べる。
—誰がいつ何を見たか、—何を持ち出し、どこへ戻したか。
善意は私物、ログは公共。名は書かない。役割だけ記す。
戻ると、広場の片隅で小さい火。
「抽選なんて、まだ納得がいかん!」
温度巡回の青年が一歩前に出て、胸元の札をそっと示す。
〈質問は紙で〉
私は導線図を差し出す。入口=運を薄める/出口=成績、基礎点は下限。
男は図を見て息を吐き、請願票に**“基礎点の配点説明の掲示を増やす”と書いた。
火が湯気**になる。音は小さいが確かだ。
学究院から、読み方の人ミレーユ。
「補講直行の子が三人。起点の言葉、教室に貼って良い?」
私は親指で掲示の端を示すだけ。彼女はうなずき、走って戻る。
廊下の角で帽子の青年——殿下が立ち止まり、参照番号の小札を束で持っている。
「配るの、今日もやる」
私は起点の言葉を札で指す。彼は小さく復唱した。
「参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所」
文体は相手の喉で定着する。名はいらない。
午前の半ば、請願票が四件たまった。
—雨の日の待避所(三日でテント設置)
—“匿名返却箱”の位置変更(今日中)
—“謝意便箋”の棚を仕切る(一日)
—“優先順位券”の説明札を絵入りに(五日)
私は満了線を薄く引き、次に押す場所を太く書く。退屈の線が、速さを作る。
庁舎の軒先、王都新聞のブレムが紙束を抱えて現れる。
「紙面の温度計、今日も“湯気”。見出しは**『参照番号はここ』**で統一した」
私は合図の札を軽く叩く。
「退屈で助かるな」と彼は笑い、駆けていく。名は記事に出ないが、文体は街に残る。
正午前、再縫製台で子どもが針に泣きそうになる。
私は困ったときの札を柱へ。
〈『質問は紙で。散歩してから読む』/止血→手洗い→休憩〉
手順が壁に立つと、誰も大声を出さない。怒鳴り声ゼロは伸びる。
台所へ寄って湯を足す。湯気が合図の形をして立ちのぼる。名は湯気に混ざって消える。
ノアがマグを差し出す。「半日の中間、どうだ」
「名がなくても、人は矢印で歩く」
「鍵は二つのまま」
「敵と味方が持つ」
合図の確認だけして、すぐ広場へ戻る。
王家広報の掲示が更新された。
〈見出し:参照番号はここ〉
本文は短い合言葉→段取りへ矯正済み。**“君”は消え、“みなさん”**が入る。
帽子の青年が少し離れたところで紙を配り、請願票の書き方を無言で示している。名は出ない。役割だけ増える。
その横で、祈祷会のご婦人が便箋に二語だけ。
『ありがとう』
便箋は私の棚へ落ちていく。公共は受理しない。区別が温度を保つ。
午後の鐘が一つ。学究院から誤集計の訂正が一件届く。
私は訂正テンプレを掲示に挿し、二人照合+逆順照合の紙を横へ。
謝罪票は短い。直し方は長い。
広場にざわめきは起きない。沈黙の合図が一瞬だけ濃くなる。
恩庫をのぞく。空額の裏に型紙だけが眠っている。
学童がガラス越しに問う。「ここに“誰の名前”もないの?」」
私は起点の言葉を指で示す。
「名の代わりに合図**を残すの」
子どもは頷き、携帯版・噂温計をポケットにしまった。
戻る途中、工匠ギルドの若頭が走り寄る。
「列の台、低いほうが見えるらしい。請願票、もう実装に回す」
私は親指を立て、満了線の右に小さく**“前倒し”**と書く。退屈は前倒しに向いている。
庁舎の前で、匿名返却箱の位置を一歩右へ。影がかからない。迷いが減る。
誰も私を見ない。名がないからだ。けれど合図に目が行く。
——それでいい。起点の言葉が、人の動きの最初の矢印になる。
半日の終わり。温度ログをまとめる。
—火:0(外野の高声→紙で回収)
—氷:0
—湯気:全域
—請願票→実装の平均:“三日”見込み→一件は“前倒し”**
—謝意便箋:9通(私物)
—誤集計の訂正:1件(二人照合+逆順照合導入)
私は大掲示板の下端に小さく付記する。
〈“名がなくても、起点があれば始められる”〉
そのとき、帽子の青年が横に立ち、同じ方向を見た。
「匿名でも、退屈で助かるは動くんだな」
「退屈は仕様。名は飾り」
彼は短く笑い、参照番号の小札を束ごと子どもに渡す。「配ってくれ」
子どもは走り、札は手から手へ。安心の重さが軽やかに分散する。
庁舎へ戻り、襟の糸穴に指を添えた。
名札は机の引き出しへ。鍵は二つ。敵と味方が持つ。
私は日誌に三行。
“合図があれば、名は要らない。”
“質問は紙で。湯気で運ぶ。”
“退屈で助かる——半日、稼働。”
灯を落とす。沈黙の広場は静かな混雑に戻り、起点の言葉だけが薄く光っていた。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
——次は、届を出す番だ。