第16話 手順を愛の形に
朝の広場は、湯気の色をよく知っている。
大掲示板の端に、薄い新段を差し込む。
〈家内手順・公開雛形(任意)〉
一、起点の言葉(暮らしの合図)
二、分担の役割(名ではなく、手)
三、満了線(終わらせる工程)
四、余白(気分でやる工程)
注釈は短い。
〈恋は私物、暮らしは手順。——橋は合図で渡す〉
庁舎に戻ると、帽子の青年——殿下が扉の前に立っていた。姿勢はまっすぐ、息は一定。
「家内の段取りを、起点の言葉から作りたい」
「退屈で助かる決断です。私物を手順に訳す練習から」
私は白紙を四枚取り、見出しを置く。
〈朝/昼/夕/困ったとき〉
「それぞれに短い合言葉を置きます。——冗談には罰則がないので、少しだけ混ぜると長持ちします」
殿下は口角だけで笑い、羽ペンをとった。
朝:『お茶で起動』
昼:『参照番号はここ』
夕:『片づけは満了線』
困ったとき:『質問は紙で。散歩してから読む』
「散歩?」
「火が出やすい時間帯に風を通します。湯気を保つための小手順」
「退屈の工夫だな」
「はい。退屈は平和の親戚です」
殿下が去ると、すぐに広場へ。家内手順・公開雛形の下で、若い夫婦が札を一枚ずつ見比べている。
「役割を名で書かないの、くすぐったい」
「名は便箋でどうぞ。公共に載せるのは**『誰でも代わりに読める言葉』」
二人は顔を見合わせ、笑って書いた。
〈朝:『パン切る人/茶を淹れる人』(交代制)
夕:『片づけは満了線→余白で歌』〉
歌は公共に向かない。だが、余白に入れれば仕様**を壊さない。運用は、だいたい二色刷りだ。
午前の鐘。王都新聞の編集人ブレムが駆け込んでくる。
「特集、『手順を愛の形に』でいく。紙面の温度は?」
「湯気。私物に踏み込みすぎないよう、導線だけを描いて」
「見出し下に“謝意は別紙”の小段をつける」
「採用。“ありがとう”は便箋の市へ」
庁舎の台所で、司書騎士ノアが双葉印の試し押しをしていた。
「家内の合意更新にも双葉印を?」
「私物寄りですが、雛形としては有効です。——**『来年も同じ冗談を言う』**に印を」
ノアは頷き、印面を温めた緑青にそっと沈める。退屈の二度押しは、だいたい正しい。
昼前、読み方の人ミレーユが子どもたちを連れて「家の掲示」の授業を始めた。
黒板に三行。
“短い合言葉、長い片づけ。”
“名ではなく手。”
“困ったら紙、歩いてから読む。”
子どもが手を上げる。「怒ったときは?」
「『口を閉じる満了線』を置きます。“一分黙る”」
教室に小さな笑い。笑いは手順の取っ手。持ちやすくなる。
午後、沈黙の広場に請願票が一枚。
〈“王家の広報、急に優しくなって読めるようになったが、少し“君”が多い”〉
私は温度計札を湯気に合わせ、返札を書く。
〈“君”は私物の語。公共では**“あなた(複数)”または“みなさん”へ。——文体の矯正〉
王家広報は夕刻には修正され、“参照番号はここ”が見出しに落ち、本文は短い合言葉→段取り**へ整う。退屈で助かるが、ちゃんと伝染する。
その頃、殿下は王家邸の台所にいた。——と、後に届いた謝意の別紙に書かれていた。
〈別紙:謝意
“台所でやっと、『お茶で起動』を言えた。朝の湯気が人を静かに同じ方向へ向けるのを、今日は自分の手で確かめた。
ありがとう——台所の先生へ”〉
私は別紙を便箋の市の**“宛先:台所”の棚に移し、公共の棚には段取り**だけを残す。
午後の終わり、祈祷会のご婦人がやって来た。
「家内手順に、祈りの時間は入る?」
「入ります。——ただし、同意の欄に**“個別可”を入れてください。強制は火です」
ご婦人は頷き、家内雛形の下にさらりと書いた。
〈『祈る人は祈る。祈らない人は静かに湯を足す』**〉
二色刷りの暮らしが、また一段だけ滑らかになる。
夕刻、再縫製台で小さな事故。針の先が指をかすめ、子どもが泣く。
私は**“困ったときの手順”を掲示板から外して持って行き、現場の柱に貼った。
〈“困ったとき”:『質問は紙で。散歩してから読む』**
—止血→手洗い→休憩→再開は本人の合図〉
手順が壁にあると、誰か一人の名に頼らずに済む。怒鳴り声ゼロのまま、作業は湯気で続いた。
日暮れ、広場の中央で**“家内手順の市”を開く。
——と言っても、売り買いはしない。短い合言葉と段取りの見本を並べるだけだ。
〈『洗濯は満了線→干す→余白で歌』〉
〈『ご飯は“基礎点”=米と塩→“抽選”=副菜→“出口”=片づけ成績』〉
〈『怒りの満了線:一分。次の段取り:水』〉
人々は札を手に取り、名を裏に書かず、家での役割に訳す。標準仕様が生活臭を帯びていく。
王都新聞のブレムが横でうなずく。
「見出し、“台所で始まる合意”にした」
「語感がぬるい**。採用」
その合間、学究院から報せ。公開試験の苦情票が請願票に置き換わり、“次に押す場所”の提案が増えた。
例:〈“基礎点でつまずいた”→“読み方教室の早朝枠を増やす”〉
私は参照番号を振り、砂時計印で一週間の満了線を置く。怒りは導線で薄まる、の実例がまた一つ。
夜、庁舎。司書騎士ノアが黒板の前でチョークを鳴らす。
「“匿名の私”の予行演習、やるか?」
「はい。——名を外した家内手順が街にどれだけ残るか、合図の確認を」
二人で起点の言葉を黒板のいちばん上に書く。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
その下に家内手順の短い列を並べる。
合図は十分。名はなくていい。
ノアが湯呑を二つ置き、ふと言う。
「殿下、“困ったとき”の掲示を自邸にも貼ったそうだ。散歩してから読むが、王家の文体に」
「文体は遺伝し、運用に戻る。——橋は合図で渡る」
「橋、か。愛の形は意外と退屈だな」
「続けるの形とも言います」
扉を叩く音。帽子の青年——殿下。
彼は便箋を一通、胸の内側にしまったまま、公共の棚に短い段取りだけを置いた。
〈王家・家内手順(抄)
—朝:『お茶で起動』
—昼:『参照番号はここ』
—夕:『片づけは満了線』
—困ったとき:『質問は紙で。散歩してから読む』〉
「謝意は別紙にした」
「受理しません。私物は私の棚でどうぞ」
殿下は頷き、ふと笑って言う。
「今日の“手順”で、誰かが安心の重さを持てるなら、それでいい」
「番号はお守りになります」
彼が去り、静けさが戻る。私は日誌の末尾に三行だけ書いた。
“恋は私物、暮らしは手順。”
“合図で渡る橋、双葉で戻る約束。”
“謝意は便箋、段取りは掲示。”
灯を落とす前、家内手順・公開雛形の端に、鉛筆で小さく足す。
『冗談には罰則がない。夕食後、一つだけ言う』
ぬるい正気が台所から上がり、広場へ薄く広がっていく。名はどこにも書かれていない。けれど、始められる。
――――
【小さな勝利】家内手順・公開雛形を導入/王家広報を家庭文体へ矯正(“君”→“みなさん”)/困ったときの合図の標準化→現場事故を湯気で処理/謝意は別紙の運用が台所へ定着
【次話予告】第十七話「匿名の私・試験運用」——名を外したまま職務が回るかを半日実験。合図と起点の言葉だけで、沈黙の広場を動かす。