第14話 婚姻の新様式
朝、保管庫B-3の鍵が、金属どうしで挨拶した。
私は婚姻記録の棚から厚い簿冊を抜き、机に置く。背表紙の金箔は古典、本文は古傷。恋は記録に弱く、噂に強い。今日は逆をやる——記録に強く、噂に弱い恋の仕様。
新しい様式の表紙に、短い見出しを置いた。
〈婚姻記録・合意更新制(試験運用)〉
一、起点の言葉(二人で一文)
二、合意の有効期間(一年)
三、更新の合図(砂時計印)
四、変更・中断の段取り(質問は紙で)
……そして端に注釈。
〈愛は私物、合意は公共。——私物は手紙、公共は掲示。〉
ノック。司書騎士ノアが、緑青の小瓶と、見慣れない形の印を持って入ってくる。
「双葉印だ」
掌にのった印面は二つの小さな葉が向かい合い、中央に極細の点——**“更新の芽”が彫られている。
「満了線の横に、この芽を落とす。——『来年も同じ温度で』**の合図」
「採用。ぬるい正気は恋にも効く」
庁舎の掲示板に、新段を立てる。
〈婚姻の新様式(試験)〉
—起点の言葉:二人で一文
—更新:一年ごと(双葉印)
—公開:“合意がある”の事実のみ/内容は私物
—中断:“合意の凍結”票(期限付き)
注釈はさらに短く。
〈“ずっと”は美談、“更新”は運用。〉
午前の鐘が一つ。最初の申請者は、皺の深い夫婦だった。手をつないでいるが、力は抜けている。
「起点の言葉が難しくてね」と夫。
「短いほど長持ちします」と私は薄紙を渡す。
〈例:『明日も隣でお茶』〉
妻が笑い、夫が頷く。二人で顔を寄せ、ゆっくり一文を書いた。
〈『朝のパンを半分こ』〉
私は緑青の印で受理し、双葉印を満了線の横に落とす。
「更新の合図は一年後。**“パンが変わったら言う”**も、私物の手紙でどうぞ」
二人は照れた顔で礼をし、扉を出るとき、自然に手を離した。握るが続く日も、離すが助かる日もある。
次に来たのは、白百合祈祷会のご婦人と、工匠ギルドの若頭。功績の取り合いで言い合っていた二人だ。
「起点の言葉に神の御名を入れたい」とご婦人。
「工具の名前を入れたい」と若頭。
私は首を振る。
「私物は便箋へ。公共に載るのは一文だけ。『一緒に何をするか』の形で」
二人は少し黙り、やがて互いの顔を見た。
「…………『壊れた椅子を直す』」
私は笑みをこらえ、受理印を押す。信仰も仕事も、ここでは運用に翻訳される。湯気が立つ。
昼前、王都新聞の編集人ブレムが飛び込む。
「“合意更新制”、紙面の温度が難しい」
「湯気で運びます。“破棄”の見出しを“更新”に言い換え、別紙に恋の文を誘導。——『気持ちは別紙』の婚姻版」
「見出しは“ずっとの代わりに毎年お茶”でいく」
「語感がぬるい。採用」
午後、帽子の青年——殿下が来る。庁舎の軒に立ち、掲示を眺めてから小さく息をついた。
「起点の言葉、練習した」
彼はポケットから小さな便箋を出し、しかし私に渡さず、胸に戻した。
「私物は私の棚に置く。——今日は公共の用で来た。王家の婚姻記録にも更新を入れたい」
「退屈で助かる決断です」
私は王家婚姻記録の補遺を開く。
〈王家婚姻:合意更新条項〉
—有効期間:一年
—更新:双葉印
—中断:合意凍結票(質問は紙で)
—公開:“合意あり/凍結”の事実のみ
殿下は頷き、少し笑った。「退屈が血筋に入る」
「文体は遺伝します」
そこへ、学究院で読み方の人をしているミレーユが駆け込む。頬に色、息は一定。
「婚姻教室、“言葉の短縮”から始めたい。『永遠に愛す』を『来年も一緒に』へ**。謝罪票の逆です」
「良い。**“短い合言葉、長い段取り”**の逆手。短い合意、長い暮らし」
殿下が目を伏せ、気配だけ柔らかくなる。私物が壁の向こうで深呼吸している。
夕刻、広場の大掲示板に新段を増やす。
〈合意更新のお知らせ(事実のみ)〉
—参照番号/満了線/双葉印
—凍結票の掲示位置(質問は紙で)
—**“謝意は別紙”**の案内
拍手は起きない。沈黙が合図だ。名は出ない。役割だけが並ぶ。
その端で、小さな騒ぎ。若い夫が、凍結票の前で拳を固めている。
「一年なんて、愛に失礼だ」
私は温度計の札を掲げ、湯気に合わせる。
「失礼は私物。公共は導線を扱います。一年は**“見に戻る”の間隔。『続ける』の点検日です」
「怖い」
「怖いは正しいの親戚。——“点検を嫌がる機械”**は壊れやすい」
夫は息を吐き、拳を開いた。隣の妻が、そっと彼の袖をつまむ。湯気が二人の間を通った。
夜のはじめ、保管庫で双葉印の試し押しをしていると、宰相補佐ギーゼルが顔を出した。
「王太后の式、新様式を**“祝辞”に混ぜたい。“永続”の語の代わりに、“更新”を入れる」
「祝辞は私物寄りです。公共の言葉に翻訳しましょう」
私は短い文案を渡す。
〈『ここに“来年も確認する勇気”を祝す』〉
ギーゼルは口角を上げる。「退屈で人を泣かせる気か」
「涙は私物**。庁舎では取り扱いません」
そのとき、窓を軽く叩く音。殿下だ。帽子の影越しに、封をした便箋を一通差し出す。
「私物。——提出先は私の棚にした」
「受理しません。受理は公共だけ」
彼は笑い、便箋を懐に戻す。
「未提出のまま、更新の練習をする。来年も、この温度で」
「双葉印、きっと似合います」
広場へ戻ると、便箋の市に新しい棚が増えていた。
〈“来年の自分へ”〉
——相手に宛てない手紙。私物の練習。
年配の夫婦が一枚ずつ取り、若い二人が笑いながら二枚まとめて持っていく。私物は自由だ。公共は導線を整える。
夜、机で運用の滑り止めを三つ書く。
一、凍結票は恥ではなく余白——“会議の延期”に等しい
二、破棄は断罪でなく畳み——“役割の解散”に等しい
三、更新は惰性ではなく確認——**“点検日”**に等しい
ノアが頷き、砂時計印を三つ、静かに落とす。印影が薄い場所は二度押し。退屈の二度押しは、だいたい正しい。
日付が変わる少し前、式典の四枠方式の初運用が終わって報せが届いた。
〈匿名枠 A-118 出席/功績枠 疫病対策隊/技術枠 図書塔装丁師/次代枠 見習い鍛冶ラウロ〉
歓呼はなかったが、頷きが多かったと記されている。
その追伸に、短い一文。
〈祝辞、文言変更:『永続』→『更新』。涙、私物で処理。〉
私は笑いをこらえ、起点の言葉の札を一枚、式次第室宛に送る。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
儀式にも台所は要る。
最後に、婚姻記録の新様式の扉裏に、鉛筆で細く書き足す。
“ずっとの代わりに、毎年うなずく。”
“愛は私物、合意は公共。”
“双葉印は、来年のぬるい約束。”
灯を落とす。双葉印の緑青が暗がりで微かに光り、満了線は刃ではなく方向を示している。
名はどこにも書かれていない。けれど、始められる。
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【小さな勝利】婚姻記録・合意更新制を試験導入/双葉印で“来年の合図”を可視化/王家婚姻に更新条項を付記/祝辞の『永続』→『更新』への言い換え成功
【次話予告】第十五話「沈黙の広場・定着」——掲示/温度計/砂時計印が街の標準へ。噂は湯気、抗議は紙、喜びは便箋。静かな定着の章。