第12話 白紙の私
朝、庁舎の鍵穴に金属の冷たさが残っていた。
私は保管庫B-3の扉を開け、棚の最上段からひとつの箱を下ろす。蓋に細い字でこうある。
〈履歴:アーデルハイト〉
箱の中身は薄い紙束。任命、異動、受理印の写し——役割の足跡。今日はこれを整理する。捨てるのではない。外すのだ。名と仕組みの結び目を、いったん解いて型紙に変える。
机に紙束を置き、見出しを重ね替える。
〈役割だけ版〉
一、受理印の押し方
二、参照番号の振り方
三、温度計の設置基準
四、砂時計印の満了線の引き方
五、優先順位券の配布ルール
——名は、どこにも書かない。
ノック。司書騎士ノアが静かに入ってきた。
「“白紙の私”の準備か」
「はい。匿名の私を運用するための、引き継ぎの型紙を作ります」
「鍵は二つ、でいいな」
「敵と味方が持つ。あなたはどちらにも回れる人」
ノアは頷き、鞄から厚手の簿冊を出した。
「閲覧ログの標準化案。誰がいつ見て、何を持ち出し、どこへ戻したか。——人の善意に頼らない版」
「採用。善意は私物、閲覧は公共」
庁舎の掲示板に新しい段を立てる。
〈役割の引き継ぎ掲示〉
—鍵(誰と誰)
—紙(何と何)
—合図(どの温度で)
—期限(砂時計)
注釈は短い。
〈“続く”は、名ではなく仕様で担保する。〉
午前の鐘が一度。帽子の青年——殿下が広場から上がってきた。
「不在運用票、読み返していた」
「起点の言葉は、覚えましたか」
「『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』。——口に出すと、胸が平らになる」
「平らは続くの親戚」
私は箱から一枚抜き、殿下へ差し出した。
〈“名を外す段取り”〉
一、名を付けない説明書
二、名の代わりの合図(札・印・矢印)
三、名の戻し方(緊急時だけの復帰手順)
殿下は黙って読み、紙を胸に当てて頷いた。
そのとき、受付で小さな騒ぎ。白百合祈祷会のご婦人と、工匠ギルドの若頭が、誰の功績かで言い合っている。
「祈祷があったから寄付が集まったのです」
「抽選と参照番号が効いたんだ」
私は二人の間に温度計札を掲げる。
「火→湯気に落とします。“誰の”は私物、“どうやって”は公共。——功績板を役割だけで作り直します」
広場の大掲示板に新段を追加。
〈功績の可視化(役割のみ)〉
—設計:参照番号・札
—実装:講習・抽選
—運用:検査・監督
—支援:祈祷・寄付
名は出ない。名は各自の便箋の市で。
昼前、王都新聞の編集人ブレムが駆け込む。
「“白紙の私”特集、読者が不安がるかもしれん。名が消えるのは寂しいと」
「名は私物で持てます。公共は仕様を掲げます。——“白紙”は忘却じゃなく、余白です」
「見出しは“白紙は忘却ではなく余白”でいく。語感がぬるい**」
保管庫に戻ると、グリム課長が腕組みで待っていた。
「退職届の下書きが必要だ」
「まだ退きません。引き継ぎを先に」
「分かっている。“退職届の型紙”を作れ。君じゃなくても使えるやつ」
私は紙を取り、見出しを書く。
〈退職届(仕様)〉
一、引き継ぎ完了番号
二、残課題の所在(参照番号)
三、鍵の返納先(二者)
四、起点の言葉の掲示位置
五、“名の戻し方”(緊急時のみ)
課長が口角で笑う。「退屈で助かる。——君の名は、どこまで外す?」
「噂に残るぶんまで。紙からは外します」
午後、沈黙の広場。恩庫の扉の前に、年配の書記が椅子を置いていた。
「記念陳列、閲覧者の涙は私物で処理します」
「ありがとうございます。公共は鼻をかむ紙まで用意できません」
扉の中、古い借りの帳の隣に、空の額縁をひとつ立て掛けた。
札にはこう書いた。
〈空額——ここには誰の名も飾らない。型紙だけ残す。〉
空白は軽い。今日はそれを重さとして提示してみる。
そこへ、ミレーユが子どもたちを連れてくる。手には携帯版・噂温計。
「抽選枠の読み方教室、S-011を運用中。——先生を名乗っていいか、少し怖い」
「役割を名乗ってください。名ではなく。——“読み方の人”」
子どもが指をあげる。「名前はどこに行くの?」
「便箋の市へ行きます。ありがとうと一緒に」
子どもは納得の顔で頷き、噂温計をポケットにしまった。
夕刻、演習地M-021から使者。
「補強試験片、基準内。満了線の上は達成、下の余白は早めに消化できる」
「了解。“早め”の報告はぬるいのに温かいです」
公開棚の延長理由(公開)の欄に、“余白の前倒し”を加える。
殿下——帽子の青年が横で小札を配りながら、私に視線を寄越す。
「名を外すのは、寂しいか」
「寂しさは私の棚にしまいます。公共は続くを優先」
「君の名を、私は私の棚にしまって良いか」
「私物はご自由に」
彼は短く笑い、湯気が立つ距離を保った。
夜。庁舎に戻り、最後の仕上げ。
私は自分の履歴のページを開く。肩書を一行ずつ役割語に置換する。
〈任命:査定官→“受理印を押す人”〉
〈異動:保管庫B-3→“鍵を二人で持つ場所に通う人”〉
〈功績:制度改革→“温度計と砂時計を持ち歩く人”〉
——最後に、空白の欄を残す。
「私は私を、記録に残さない」の一行はもう書いてある。
その下へ、起点の言葉だけを再び。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
名がなくても、これだけで始められる。
グリム課長が湯呑を二つ置き、窓の外の大掲示板を顎で示す。
「殿下が、“起点の言葉”を台詞の先頭に置く訓練をしている。退屈で助かる君の口癖が、王家の文体に滲んだ」
「文体は運用の影です」
「それが街の標準になるまで、君は名を外したままでいられるか」
「合図が鳴るまで」
「合図?」
「“名がなくても動く”が退屈に定着したら、です」
階下から足音。宰相補佐ギーゼルが珍しく慌てている。
「式典の四枠方式、初回運用が明日に繰り上がった。王太后の体調だ。匿名枠の抽選、今夜やる」
「了解。抽選器と参照番号札を用意します。温度計は“湯気”で固定。質問は紙で」
ギーゼルは肩で息をし、ふっと笑った。
「退屈で助かる。——助かる、のほうが大きい」
夜更け。広場に照明が立ち、匿名枠の抽選器が回る。
子どもの手が番号玉を一つ掬い上げ、私は緑青の印で札に押す。
〈匿名枠 当選:参照番号 A-118〉
名はない。拍手も小さい。沈黙の合図が、夜を一段平らにする。
私は掲示の端に小さく付記した。
〈“名がなくても、始められる”〉
庁舎へ戻り、白紙の私の箱に蓋を戻す。
箱の上に、薄い封筒を一つ置く。宛先は未来、差出人欄は空白。
封の内側には短い一文だけ。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
鍵は二つ。敵と味方が持つ。私は灯を落とし、ぬるい正気で深く息を吐いた。
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【小さな勝利】役割の引き継ぎ掲示/功績の可視化(役割のみ)へ移行/退職届(仕様)テンプレ作成/匿名枠の初回抽選を湯気で安全実施
【次話予告】第十三話「試験の再編」——公開試験を常態に、抽選+基礎点の標準化。“名がなくても始められる”街で、受験の導線を磨く。