第10話 告白未遂
雨は予告なしに始まり、王都の石畳を一気に最適温まで冷やした。
広場の大掲示板に雨除けの布を張り終えると、私は庁舎の軒下に戻った。湯気を出すには、少し冷えた方がいい。紙は湿気に弱いが、心はたいてい乾きすぎている。
そこへ、帽子を目深にした青年——殿下が、濡れた肩を一度だけ振って立った。護衛は置いてきたらしい。
「参照番号を返しに来た」
彼の掌には、昨日広場で配っていた小札が三枚。R-074、D-112、M-021。
「返却は不要です。番号は持ち歩くと安心します」
「今日は、番号ではなく……言葉を持ってきた」
軒先の雨が線を引き、音が帳のように落ちる。殿下はポケットから封筒を出し、ためらって、しまい、また出した。
「私物の言葉だ。公共の棚には乗らない」
「受け取りは私の棚で。記録はしません」
彼は深く息を吸った。
「……好きだったと思う。いや、今も、だと思う。君が“退屈で助かる”ものを並べるたび、熱が下がって、続けるという形になっていく。それが恋なら、私はやっとその仕様を覚えたのかもしれない」
見事な私物。私は扇を閉じ、雨の向こうに視線を逃がす。
「謝罪票の出し方なら、覚えたばかりですが」
「告白票は無いのか?」
「ありません。告白は形式より失敗が役立ちます」
殿下が苦笑する。「退屈で助からないやり口だ」
私は机から小さな白紙を取り出し、見出しも何もない紙を彼に渡した。
「未提出票です」
「未提出?」
「言葉にしないで持ち帰る用。——私の棚では受け取りますが、返却もできます。返却したら、他所で使ってください」
「他所?」
「たとえば、ミレーユ様へ。私物は具体に使うのが健康です」
殿下は紙を見つめ、静かに頷いた。
「借り換えみたいだ」
「そうです。好意の借り換え。人から段取りへ、ではなく、過去から現在へ。利息は笑いで払います」
雨脚が少し弱まる。彼は未提出票を丁寧に二つ折りにした。
「……言葉は、ここで未提出にする。代わりに、手順をひとつ、教えてほしい」
「どうぞ」
「君の不在の運用方法だ」
私は扇を止めた。
「不在?」
「君がこの街からいなくなるとしたら——匿名の私になるとか、辞すとか——何を残す?」
雨が軒の端で細かく跳ね、砂時計印の上部を思わせた。私は頷く。
「では、不在運用票を作りましょう」
私は紙に四行を書く。
〈不在運用票〉
一、引き継ぐもの(参照番号・手順・鍵)
二、捨てるもの(噂・私の履歴)
三、残す温度(広場の“湯気”)
四、起点の言葉(一文)
殿下が覗き込む。「起点の言葉?」
「“始められる一文”です。“続ける”は誰でも難しい。“始める”は、短い言葉があれば足ります」
「たとえば?」
私は考え、雨の音に合わせて書く。
『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
殿下が笑う。「退屈で助かる」
「それが目的です」
彼は未提出票を胸にしまい、しばらく黙ってから言った。
「未提出のままでは、卑怯だろうか」
「卑怯は公共の語彙です。私物には不要です。——未提出は、期限前というだけ」
「満了線が来たら?」
「その時は、提出先を具体に。私ではなく、いま隣にいる人へ」
殿下は小さく息を吐き、「わかった」とだけ言った。
雨が止む。広場の石畳がぬるい光を返すころ、公開棚の前にはいつもの静かな混雑が戻った。
私は掲示を更新する。
〈便宜の終活:式典席次の四枠方式→初回運用日告知〉
〈延長理由(公開):演習地M-021→“端材即納済/補強進捗7割”〉
〈謝罪掲示:保護院の仕上げ講習→“仕上げ検査の二重化”〉
殿下——いや、今日は帽子の青年が、掲示前で小札を配る。参照番号は人の手に渡ると、安心の重さになる。
そこへ、ミレーユが走り込んできた。髪は結い上げ直され、目は昨日より仕様に寄っている。
「抽選枠、当たった子の紙の読み方を教える会をしたい。噂温計も配る」
「良い案です。参照番号はS-011にします。第三者監督、図書塔から手配済み」
ミレーユは頷き、ふと殿下に気づいて足を止めた。
殿下は彼女に向き直り、未提出票をポケットの奥に押しやって、別の紙を出す。
「助走掲示だ。再試験に向けて、段取りを書いた。君が必要なら、並ぶ」
ミレーユの頬に、湯気が立つ。「並ぶ、好き」
私は二人から視線を外し、掲示の端に温度計の札を差した。今日の広場は湯気、と。
午後、庁舎で書類の山を崩していると、司書騎士ノアが静かに入ってきた。
「“恩庫”の初回開室、喧嘩ゼロ。閲覧票二十七件」
「効力なしの部屋で、誰も勝たないからです」
「君はいつ、匿名の私を始める」
ペン先が一瞬止まった。
「期限は置いていません。合図が来たら」
「合図?」
「“私の名前が仕組みを邪魔し始めたら”」
ノアは頷く。「鍵は二つ。敵と味方が持つ」
「はい。君がどちらにも回れる人で助かる」
夕刻、広場の端で小さな騒ぎ。便箋の市に、読み上げたがる老人。
「読ませろ、わしの“ありがとう”くらい!」
私は老人の手をそっと閉じ、札を指さす。
〈読み上げ禁止——“ありがとう”は相手の私の棚へ〉
老人は唇を尖らせ、しかし封をし、私の手に渡した。
宛名は拙い字でこう書かれていた。
『石段の途中で、手を貸してくれた誰かへ。あんたの手、ぬるかった』
私は受領印を押し、胸の内側で微笑む。ぬるい手は、だいたい正しい。
夜。机に一通の封。宛名は「記録管理局」。封蝋は殿下の紋だが、文体は短く、退屈で助かる。
〈助走掲示〉
—再試験の案内/“先に困っている順”の配布/質問は紙で
—起点の言葉:『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
私は受理印と砂時計印を押す。余白に一行。
“起点の言葉は、誰の口からでも始められる”。
灯を落とす前、私は不在運用票を一枚、自分にも書いた。
一、引き継ぐもの:R-074/D-112/M-021/温度計札/砂時計印/優先順位券
二、捨てるもの:噂/もう役に立たない私の名
三、残す温度:湯気
四、起点の言葉:『参照番号はここ。質問は紙で。お茶は台所』
——書き終えて、封をする。宛先は未来。鍵は二つ。敵と味方が持つ。
窓の外で、雨上がりの風がぬるい正気を運ぶ。
扉をノックする音。グリム課長が湯呑を二つ持って入ってくる。
「告白未遂、と聞いた」
「未提出で処理しました」
「退屈で助かる」
「はい。続けるの味がします」
湯気を分け合い、今日の末尾に三行。
“私物は私の棚、公共は公開棚。”
“好きは未提出でも、手順は提出。”
“起点の言葉を残し、名は残さない。”
灯を落とす。広場の板は湯気の色で立ち、沈黙が明日の合図になる。
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【小さな勝利】不在運用票の雛形作成/殿下の助走掲示に“起点の言葉”採用/便箋の市の読み上げ未然抑止→“相手の私の棚”運用定着
【次話予告】第十一話「監査の段取り」——“退屈で助かる”を法の文体へ。温度計と砂時計印を持って、王都監査を湯気で回す。