Ⅴ.無名乙女 2
2
幼い頃は、男の子も女の子も同じ仕立てのワンピースを着て育てられる。それは彼の国では当たり前の習慣だった。けれど、ハワードの場合は。
「かわいいわ、ハワード」
それは誰の声だったか。
懐かしい、甘い声。
「かわいいわ、ハワード。あなたにはこっちの服が似合うわ」
「そうですわね、奥様。こちらのスモックはいかが?」
子供用の服飾店で、母と服を選んでいた時のことだ。店員の勧めで、母は女の子の服を選んだ。そして次の日曜日、ハワードはその服を着せられて両親と公園に散歩に出かけたのだ。父親も、かわいらしい息子の姿を面白がっていた。
すれ違う人の会話が聞える。
「見て、あの子かわいいわ」
「ほんと、天使みたい」
自慢気な両親。特に母親が喜んでいた。
公園で散歩していた時、知己に声を掛けられたこともあった。
「おや、フィリップスさん」
「おお、お久しぶりです」
「よい朝ですな」
「よい朝です」
「お散歩ですかな」
「ええ、いい天気ですね」
「おや、かわいらしい。娘さんですかな」
「ふふふ、ありがとうございます」
「お幾つですか」
「三歳です」
「本当にかわいい。将来美人になりますぞ」
道行く人は誰もハワードのことを男の子だとは気づかなかった。そして、両親のこんな言葉を鮮明に覚えていた。
「私はね、ほんとうは女の子が欲しかったのですよ」
「ああ。そうだったね」
「もう一人娘が生めれば」
「無茶を言っちゃいかんよ。君の心臓は二度目の出産には耐えられない。お医者さまに言われたろう」
「ええ。でも、私は」
「私たちにはハワードがいるじゃないか、お前」
「そうですわね」
「さいわい、ハワードはこんなにかわいらしいのだ。女の子の服を着せて上げようよ。それで我慢なさい」
「そうですわね」
子供には聞えないと思ったのだろうか。だが、その言葉はハワードの心に深く刻みつけられた。
(ぼくは女の子にならなくちゃいけないんだ。お母さまのために)
だからハワードは進んで女の子の服を着た。普段も、外出の時も。
何かの機会に親戚が集まった時もそうだった。
大人たちがサロンで寛いで談笑してる時、子供たちだけで遊ぶことがあった。
いとこたちは皆ハワードが男の子だということを知っていた。けれど、ハワードは女の子として扱われ、皆もそのことに疑問を持っていなかった。
かわいらしい容姿のハワードは男の子にも女の子にも人気があった。けれど、遊ぶ時は男の子たちの戦争ごっこではなく、女の子たちに混じっておままごとをし、人形遊びに夢中になった。
五歳の夏に、いつものように親戚の集まりがあった時のことだった。
いとこたちに混じって、遠縁の男の子が初めて遊びに来ていた。一つ歳上のその子は、かわいいハワードに夢中になった。
その男の子は、遊んでいる子供たちの輪からハワードを連れ出して、階段の影でキスをした。恋人になってよ、と言う彼に、ハワードは深く考えずにイエスと答えた。
それからしばらくしてその子から手紙が来た。文法も綴りも間違いだらけのたどたどしい文字で、自分がいかにハワードの事が好きか、ということが書いてあった。
ただ、その手紙のあて先は『フィリップス家のかわいい女の子へ』と記されており、追伸として、よければ名前を教えて欲しい、とあった。
ハワードはそれを読んで少なからず感動した。頭のいいハワードは、相手が大人の助けを借りずに、独力で住所を調べて手紙を書いたのだ、と理解したのだ。
うれしくなったハワードは丁寧な返事をしたためた。早熟な彼はすでに大人顔負けの美文を書くことが出来たし、詩を創ることも出来た。
だから、自分も相手のことが大好きだと書き、あの夏の日の思い出を描いた自作の詩を添えて返信した。むろん署名は『ハワード・フィリップス』と美しい筆記体で記した。
けれど、その男の子からの返事はついに来なかった。
翌年の親戚の集まりに、その男の子はやって来た。再会を喜んだハワードだったが、その想いは相手のよそよそしい態度と、ひどい言葉に傷つけられた。
「なんだよ、男のくせにそんな格好して!」
髪を引っ張られ、乱暴に突き飛ばされた。いとこたち、特に女の子たちはその男の子に猛然と食って掛かった。
「この子は女の子と同じなのよ! 女の子に手を上げるなんて最低だわ!」
けれどハワードは、誰の手も借りずにすっくと立ち上がると、涙を溜めた目でその男の子を睨み、つかつかと近づくと、平手打ちを喰らわせた。
泣きながら走っていったその子は、いとこたちの告げ口(突き飛ばして転ばせた女の子に引っぱたかれた)で、両親から折檻されたという話だった。
そんなことがあったものの、ハワードは何不自由ない幸せな生活を送っていた。両親に愛され、友達は少なかったけれど、本を最良の友として。
そして。
六歳の秋に、母親が死んだ。
元々心臓が弱かったのだ。流行り病から肺炎を起こし、あっけなくこの世を去ってしまったのだ。
ハワードの父親は妻の死を嘆き悲しみ、仕事も手につかないほどだった。すべてに意欲を失った父親は、酒に救いを求めた。
日毎夜毎増えてゆく酒量は、ささいなきっかけ一つで、いつ暴発してもおかしくないところまで父親を追い詰めた。
ある夜、父親を元気付けたくて、ハワードはお気に入りのドレスを着て父親の前に立った。かわいらしい姿で、懸命に笑って見せる。
その天使のような姿を見て、父親はものも言わずハワードを殴りつけた。唇が切れ、血を流しているハワードを怒鳴りつける。
「そんな格好をするな! 母さんが買った服など着るんじゃない!」
かわいらしい服は、妻との幸せな時間をどうしても思い出させる。幸せだったあのころ、もう戻らない黄金の時間を。
(ぼくは男の子にならなくちゃいけないんだ。そうしないとお父さまが悲しむんだ)
半ズボンとジャケットを着たハワードは、それでもかわいい男の子として皆から愛された。
妻を亡くした父親を心配して、親戚たちがやって来た。大人同士の難しい話は分からなかったが、どうやら生活能力を無くしていた父親に代わり、ハワードを誰が引き取るのかということを相談していたらしい。
かなりの資産を持っていたフィリップス家は、働かなくても何年かは食べていける。だが、そんな生活が長続きしないことは明白だった。
気の毒な親子につけ入って、財産をどうこうしようと考えるものは親戚には一人もいなかった。ただ、父親の素行と、幼いハワードの養育については皆が頭を悩ませていた。
いとこたちもハワードに同情的だった。女の子たちは、ハワードが女装をやめてしまったことを悲しむと同時に、身近に『悲劇の王子様』が現れたことに背徳的な悦びを感じていたようだった。
男の子たちは、すっかり沈み込み、笑わなくなったハワードをなんとか笑わせようとゲームに誘ったり、外で遊ぶように声をかけた。けれど、ハワードは弱々しく微笑み、首を振るばかりだった。
二度目の悲劇はその冬に起きた。
父親は、すべての憂いを消し去る手段を45口径のコルト・リボルバーに見出したのだった。
その時のことをハワードはよく覚えていなかった。
ある夜、父親の部屋で銃声が轟き、使用人たちが走り回る音が聞えた。覚えているのは医者と、警官と、そして親戚たちが入れ替わり立ち代り家に来て、何かを話していることだけだった。
ハワードは何を聞かれ、自分がどう答えたのか、よく覚えてはいなかった。ただ、大人たちのこんな言葉を、途切れ途切れに思い出せるだけだった。
「お父さんは何か言っていなかったかい」
「頭部貫通銃創だ」
「ええ、毎晩のように飲んでいましたわ」
「ハワード君、大丈夫かい」
「アーミーモデルだ。従軍経験が?」
「弾倉に一発だけです。事故とは思えません」
「遺書もないなんて」
「養育権は」
「この場合、遺産の相続はですな」
「ハワード君、しっかりしたまえ」
「後見人を立てないと」
「まあまあ、かわいそうに、お母様に続いてお父様まで」
「埋葬許可は」
「灰は灰に。塵は塵に」
「アーメン。魂の安からんことを」
「アーメン」
「ハワード、ハワード・フィリップス」
名を呼ばれた少年は虚ろな表情で顔を上げた。
そこには優しい笑顔があった。皺だらけの老婆の顔。見覚えがあった。
「ハワード、わたしと一緒に来る?」
その問いに、半ば放心状態の少年は答えた。
「はい、お祖母さま」
そうして、ハワードは母方の祖母の屋敷に引き取られた。
ふさぎこんでいる孫を元気付けたくて、祖母はいろいろと手を尽くした。玩具を買いあたえ、旅行にも連れ出した。けれど、すでに老境に入った祖母には両親の代わりは勤まりそうになかった。
だが、孫が早熟で本が好きなことを見い出した祖母は、亡夫の書斎をハワードに開放した。ハワードは目を輝かせ、書架の本を片っ端から読み漁った。
何かひとつでも興味を持てるものがあるのならそれで良いのかもしれない。祖母はそう思い、孫の自由にさせていた。
しばらくして、ハワードは屋根裏の使っていない部屋で、祖母の姿見を見つけ出した。それは全身を写すことが出来る鏡だった。
祖母からその鏡をもらい受けると、使用人に言って書斎に運ばせる。そしてその鏡の前で、以前に母に買ってもらった女の子の服を着て見た。
身体の成長の遅いハワードは、まだその頃の服を着ることができた。そうして女の子の服を着て鏡の前に立つと、母親が生きていた頃のことが鮮やかに思い出されるのだった。
いや、ともすると母親はただちょっと席を外しているだけで、死んでなどいないのではないか、父親とお出かけしているだけなのではないか、とさえ思えたのだ。
少年は次第に書斎から出なくなった。夜通し本を読み、昼間も本を読み続ける。そして鏡の中の自分に話しかけ、これまで読んだ本の内容を元にでたらめな物語を作っては、その幻想の中を生きた。
虹の湖のほとりの尖塔のあるお城。地下世界に広がる子供だけの王国。そして皮肉屋の宰相が王様をからかう滑稽な話を。それらはハワードにとって現実と代わらないくらいの現実感を持っていた。
そうして、少年はこう思うようになった。
間違っているのだ、と。
母親が死んでしまうなんて間違っている。
父親が死んでしまうなんて間違っている。
ぼくが男の子だから、あの子はぼくのことを嫌いになったの? ぼくは大好きだったのに。キスまでしたのに。
ぼくは男の子の服は嫌いだ。半ズボンも嫌い。スカートが好き。ふわりとしたレース、柔らかな肌触り。
ぼくが男の子だなんて間違ってる。
そうだ、ぜんぶ間違っているんだ。
現実が間違っているんだ。こんな現実、ぼくはいらない。あの幻想の王国こそが正しいんだ。そこには女の子のぼくがいる。泣き虫でも、引っ込み思案でもない、元気で、勝気で、男の子なんかに負けない強い女の子が。
「なにを言ってるのよ、ハワード・フィリップス」
呆れた声が虚空を切り裂いた。
「現実が間違ってる? 幻想の王国がすべて正しい? はん、そんなの逃げじゃないのさ」
それは誰の声なのか。
「じゃあ聞くけど、その幻想の王国ではすべてがうまく行くの? あなたは現実から逃げるためにこの幻想の王国を創り、逃避した。けっこうなことね。万々歳だわ。
でもね、いまこの幻想の王国、あなたの夢は崩壊しかけているわ。ええ、そりゃあ、あの黒の女王のせいでしょうよ。でもね」
静かに、諄々と諭すように、
「この夢の世界が壊れたら、あなたどこへ行くのよ。また新しい世界を創る? その世界が壊れないという保障はあるの? あなたは失敗するたびに新しい世界を創ってそこに逃げ込むつもりなの? いったいいつまでそんなことを繰り返すつもりなの?」
その力強い、凛とした言葉。
「しっかりなさい、ハワード・フィリップス! 戦うのよ。今日戦わない者が明日戦えるわけがない。この世界を守れないものが、次の世界を守れるわけがない。この世界を守りなさい。自分の理想の世界を。自分自身を」
言葉が、鋭い刃となって虚空を切り裂く。霧に包まれた少年の心に日が差して行く。
「私が何のために生まれてきたか分かってるの? いいえ、あなたはなんのために私を生んだの? 自分にとって都合のいい世界に、ぬるま湯のような逃げ場所に、どうして私のような、弱い自分を責め、引っ張り、勇気付ける存在を創ったのよ。さあ、お言い、ハワード・フィリップス! なぜ私を生んだ! 強い私をなぜ望んだの!」
「ぼくも、強くなりたかったから」
そうつぶやいたハワードは、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。
真っ白なシーツ。ふかふかのベッド。
(どこなの、ここは。お母さま?)
(ここはどこ? お祖母さま?)
(違う。ここは両親と暮らしたあの家でも、お祖母さまの家でもない。ここは、ここは)
そして、自分が誰かと手を繋いでいることに気づいた。
「やっと起きた」
そう言って微笑む自分そっくりな顔。
「無名乙女・・・」
それはあの少女だった。
ハワードを幻想の王国に誘い、数々の冒険に引っ張り回し、そして黒の女王に捕まった、彼の分身。その少女が同じベッドの中、少年の隣に寝ていたのだ。
「あなたはようやく私を見つけてくれたわね。あなたの中の私を。強い自分を」
「ぼくは」
少年の唇を少女は指で押さえた。
「今は何も言わなくていい。今は行動の時だわ」
そう言って、勢い良くかけ布団をはね上げる。
「うわっ」
「さあ起きるのよ、ハワード・フィリップス!」
そこはカダス亭の階段都市支店の二階にある部屋だった。さっきまでオータム爺とレッドシープ大尉と一緒にいた部屋に良く似ている。だが二人の姿はなかった。そういえば、確かもう一部屋用意したとモーラは言っていなかったか。
「あ、あのさ」
「なによ」
「なんで二人とも裸で寝ていたの?」
上気した頬で、少女は言った。
「人は裸で生まれて来るものよ」
首を傾げているハワードに、
「私たちは再び生まれたのよ。いいえ、これから何度でも生まれるわ」
「あのさ」
「今度はなに」
自らの裸身を隠そうともせずに少女は言った。
「どうして君がここに。捕まったはずなのに」
「だから、あなたが助け出してくれたんじゃないの、今」
呆れてそう言う。
「外側からではなく内側から。あなたの心の中から、深い所で繋がっている私をたぐり寄せてくれたんでしょ」
そう言われるとそんな気がしなくもない。ハワードは頭を一つ振って、深く考えないことにした。
「じゃあ納得したところで」
少女は元気良く言った。
「服を出してよ?」
ハワードが無名乙女を連れて隣の部屋に行くと、椅子に掛けていたレッドシープ大尉とオータムが驚いて立ちあがった。
「これはこれは」
大尉は目を丸くしている。
「いやはや」
オータムはうれしそうに目を細めた。
そして二人は異口同音に、
「そっくりですな」
「そっくりじゃ」
遠い王都で捕らわれたはずの少女がここにいることについては何の疑問もないようだった。
二人の子どもはおそろいの服を着て、手を繋いで戸口に立っていた。かわいらしいブラウス、スカートは動きやすい短めのプリーツで、すらりとした足が伸びている。靴は革のバレーシューズだった。
「テニエルの絵にありそうな」
というのがレッドシープ大尉の感想だった。
「ぼくらの戦闘服です」
と、ハワードは答えた。声の調子から、右側がハワードだと分かったらしい。オータムは、そちらに向かい、
「うむ。よくぞ救い出した。大したものじゃ」
やや困惑しつつ、レッドシープ大尉は、
「うーむ、しかしこれはまったく見分けがつきませんな」
「まったくじゃ」
「スカートをめくって見なければわかりませんな」
二人は声を揃えて、
「えっち!」
オータムはからからと笑った。
「ではこれで準備万端整った、ということかの」
「そうですな。では自分はこれより陣に戻ります。直ちに進軍の手はずを」
「よろしくお願いします」
そういうハワードに、
「おお、そうだ忘れるところだった」
「なんですか、大尉」
「うむ。実は装備の運搬に鉄道線路を使いたいのです。いや、中央鉄道管理局の許可は得ていますが、国内での運行には国王の許可がいると」
「相変わらずのお役所仕事じゃな」
オータムがこっそりつぶやく。
ハワードは大きくうなずいた。
「国内での鉄道の使用を全面的に許可します」
「はっ」
レッドシープ大尉は敬礼すると、
「これより騎兵大尉ジョン・グレイ・レッドシープは進発し、部隊を先導、進軍を開始いたします」
駆け足で部屋を出て行こうとするのを、オータムが呼び止めた。
「あー、待たれよ」
「何ですかな」
「指揮官は誰じゃ。差し支えなければお教え願いたい」
大尉は直立不動の姿勢を取ると、
「畏れ多くも、アンジェリカ陛下が親率あそばされます」
「なんと。姫将軍御自ら御出馬とは」
「はい。わがアンジェリアン国の偉大な女王にして王女、三権の長にして三軍の長、司祭にして巫女、神聖不可侵の姫将軍閣下です」
その矛盾した肩書きに、少女は「民主主義の敵だわね」とつぶやいた。大尉は聞えなかったふりをして、
「ではこれにて御免」
と身を翻し、部屋を出る。だだだっと階段を駆け下りる音が聞えた。
「やれやれ、騎兵というのは騒がしいものよのう」
老人はそうひとりごちると、
「さて子どもたち。我らも出発しようかの」
「はい」
ふと窓の外を見たハワードは、渓谷の上空を上昇して行く天馬の姿を認めた。
「あ、ホーカー号だ」
その言葉につられて少女と老人も窓外に顔を向ける。
「大尉殿、相変わらずの乗り手ぶりじゃな」
だが、その言葉が終わらないうちに、突然の発砲音が渓谷に木霊した。それは舷側砲の一斉射撃の音だった。
「なにごと」
窓を開けて空を見る。上空には黒色の帆船のシルエットが、渓谷全体に被いかぶさるように浮かんでいた。
「デバステーター号じゃと! なぜここに」
「見て!」
無名乙女が指差す先には天馬ホーカー号の姿があった。ハワードは、
「よかった。無事だ」
だが、デバステーター号は再び舷側砲を発射した。大気が鳴動し、建物がびりびりと振るえる。二十門以上の一斉射撃だった。
しかし、天馬はそれを避けた。レッドシープ大尉の手綱さばきで高度を低く取り、ほとんど水面すれすれまで降下した。
第三斉射により、谷川にいくつもの水柱があがる。その水柱の間を縫って、ホーカー号は矢のように突き進んでいた。
しかし、続く第四斉射が放たれると、ホーカー号は幾つもの水柱に囲まれた。水煙が消えると、そこには何もなかった。
「まさか大尉さん」
「きゃあっ」
ハワードと少女はぎゅっと手を握り合った。
デバステーター号は砲撃を中止すると、その巨体を渓谷にねじ込むように降下した。ホーカー号が最後に見えたあたりで空中停止する。
「どうしよう、オータム爺さん、どうしよう」
ハワードは口に手をあてて、おろおろとした。
さすがのオータムも青い顔をして、
「これ、慌てるでない、慌てるでない」
と繰り返すことしか出来なかった。
そんな混乱の中にあって、無名乙女は冷静に、
「王都へ向かいましょう」
と告げた。
「しかしのう、」
「最初の計画ではどこでアンジェリアン軍と合流する予定だったの?」
「虹の湖の対岸じゃ。そこに砲兵陣地を置くと聞いた」
「わかったわ」
毅然として、
「私たちもそこへ向かいましょう」
「しかし、大尉からの連絡がないと援軍は夢境の山脈を越えられないのじゃぞ」
「いいえ、そんなことはないわ」
その声は部屋の外から聞えた。
店長のモーラが戸口に立っていた。
「あの人はかならず本隊に連絡をつけるはずよ」
「いや、しかし、」
大尉は今しがたの砲撃で、とはさすがにいえない。
モーラは不敵にわらった。
「今の砲撃なら見ていました。だいじょうぶ、あの人は約束をたがえるようなことは絶対にしないわ。ええ、たとえ霊魂だけになっても本隊に連絡をするはず」
そのあまりに自信たっぷりな様子に、ハワードはついこう言った。
「根拠はあるのですか」
モーラは誇らしげに、
「あるわ」
少年少女と老人は呆気に取られてまじまじとモーラを見つめた。
「そうね。あえて言えばあたしの愛した男だから、とでも言っておきましょうか。そう、それともう一つ」
やや複雑な笑みを浮かべて、
「あの人はアンジェリカ陛下に絶対の忠誠を誓っているの。あの姫将軍の許可がなければ死んだりしないわ。そして」
今度ははっきりと微笑み、
「アンジェリカ陛下は私に約束したもの。レッドシープ大尉には死ぬことを許可しない、て」
なにやら訳ありの人間関係を感じて、二人の子供は顔を見合わせた。
窓の外では、デバステーター号がぐんぐん上昇していた。が、渓谷の上空、ちょうど谷全体に蓋をする位置で静止する。そして甲板からは、あの有翼の小鬼たちが飛び立つのが見えた。
ハワードと少女は窓の影に隠れた。
「攻撃してこないでしょうか」
というハワードに、オータムは、
「心配いらぬ。ここは諸外国の領事館があるでな。奴らとて手は出せぬ。じゃが、おそらくは外部との連絡を封じるために陸路、水路、空路の封鎖ぐらいはするじゃろうな」
言っている間にも、窓のすぐ前を小鬼が横切って飛んで行った。オータムは素早く窓を閉じ、カーテンを引いた。
「そんな。じゃあどうするんですか」
「なあに」
オータムはにやりと笑った。
「そのためのカダス亭じゃよ」
「?」
そしてモーラに向かい、
「ではお願いできるかの」
「ええ、準備はできているわ。こっちよ」
モーラに案内されて、一階に降りる。あれだけの騒ぎがあったのに、店内の様子は先ほどと変わりがなかった。
「みんな自分には関係がないと思っているのでしょ。まあ実際そうなんだし」
そして厨房に通された三人は、物置らしい小さな部屋に通された。予備の調理用具が置いてあり、子供ふたりと老人が入っただけで一杯になってしまった。
「じゃ、・・・あたしによろしく」
謎の言葉を残して物置のドアを閉める。そしてまたドアが開いた。
「さぁ、出て」
少年は不安になって訊ねた。
「なにか問題でも?」
「いやね、着いたのよ」
「着いた?」
厨房から出てあたりを見回す。微妙な違和感があった。ウェイトレスのシノが忙しそうにテーブルからテーブルへと走り回っている。カウンター席にはゴム引きのレインコートを着て、傍らに銛を立てかけた男が酔いつぶれていた。
「ここって、」
二人の子供は手を繋いで店の外に飛び出した。看板には《カダス》とだけ書かれている。空には黒い帆船も、小鬼たちもいない。それよりなりより、そこは階段都市などではなかった。奇妙なオブジェのようなアーチのある辺境の町。最初に訪れたあの町だったのだ。
驚きのあまり言葉もない二人に、遅れて店の外に出て来たモーラが説明した。
「言ったでしょ、うちはドッペルゲンガー・チェーン店だって。すべての店の物置は繋がっているのよ」
「すべて、て、二軒だけではないんですか」
ハワードがそう訊くと、
「二軒だけよ。この国では」
「あの、他の国を入れると」
「うーん? 他の幻想宇宙とか時間軸違いとかを含めると、無量大数は軽く超えるわね」
「その店すべてにモーラさんがいるの?」
少女がそう聞くと、モーラは当たり前のようにうなずいた。
「あの、だったら大尉さんもあれを使った方が早かったのでは」
「そんなことないわ。こんなところに出ても遠回りだし。それに、あの人は軍人だから。国境侵犯とかいろいろ面倒くさいことになるのよ」
そしてモーラは、苦笑しつつ、
「今さらこれくらいのことで驚かないの。だいいち、あなただって捕らわれていた王城から階段都市の支店まで移動してるじゃないの」
「それとこれとは」
「あー、よろしいか子どもたち」
いつの間にか出て来ていたオータムが咳払いをして、
「そろそろ次の段階に進むべき時じゃぞ」
「そうだわ。虹の湖の対岸まで行かないと」
ハワードは手を挙げて提案した。
「この前のように鉄道を使ってはどうでしょう」
「うむ。とりあえず行ってみようかの」
三人はモーラとカダス亭に別れを告げて町外れの停車場へと向かう。
だが、駅舎には人影はなく、車庫にもあの軽便鉄道の姿はなかった。
「さて、困ったのう」
たが、ハワードは草に覆われた引込み線見つけた。その錆びた線路を辿ると、一台のトロッコが放置されているのに気づいた。
オータムを呼ぶと、
「おお、保線用のトロッコじゃな。よし、ならばこいつを拝借しようかの」
当然のように老人はでん、とトロッコに乗り込む。ハワードと無名乙女は鉄のバケットのような形をしたトロッコを押した。
幸い、山脈沿いの辺境地帯の方が標高が高いようだった。最初は辛うじてのろのろと動く程度だったが、すぐさまスピードが増していった。二人はトロッコに飛び乗り、バケットの縁に腰を下ろした。
短いブラウンの巻き毛が風に弄ばれ、短いスカートをはためかせる。ハワードは足を揃えてスカートの端を押さえた。
対照的に無名乙女はスカートがまくれてしまうのにも頓着せず、風を全身で受け止め、気持ち良さそうにしていた。
トロッコは平原を横切り、なだらかなカーブを描いて王都へと突き進んだ。途中、以前デバステーター号に停車させられた場所も通ったはずだったが、特徴のない平原のただ中だったので、そこと知ることは出来なかった。
やがて、遠くに王城の白い尖塔が見えてきた。そして虹の湖の汚れた湖水も。
「そろそろじゃ。ブレーキをうまく使うのじゃぞ」
二人の子どもはトロッコの中央についているブレーキレバーをそろりそろりと動かす。車輪から火花が散り、鉄が焼ける匂いがした。
「ゆっくり、ゆっくり、あせってはいかんぞ」
徐々に、徐々にスピードを落として行く。目的地まではかなりあると思っていたのに、制動距離は意外に長かった。やがてトロッコは王都の反対側、湖に沿ってカーブしている線路の上で停車した。
三人はトロッコから降りて対岸を観察してみた。湖にはむろんデバステーター号の姿はない。王城の様子も、詳細は分からなかったが何の動きも無いように見えた。
ハワードと無名乙女は、しっかりと手を繋ぎ、並んで立っていた。その二対の瞳はじっと王城に向けられている。
「あら」
少女は目をこすった。
「どうしたの?」
「うん、レッドシープ大尉の天馬が見えたような気がしたんだけど」
「え、どこに」
「王城の上空、うんと高い空に」
「見えないよ」
「うん。気のせいだったかも」
大尉に生きていてほしい、その気持ちが幻を見せたのではないか。ハワードはそんな風に考えた。
再び沈黙が落ちる。
「子どたちよ」
しばらくしてオータムが語りかけた。二人は同時に振り向いた。やや緊張した面持ちだった。
「黒の女王めを倒す算段はあるのかの」
ハワードは答えた。
「たぶん」
無名乙女が続ける。
「あの女の正体を言い当てれば、力を失うと思うの」
「ほほう」
オータムは感心したように、
「その方法は誰かに聞いたのかね」
二人は首を振った。
「わしも妖怪変化には多少の知識があっての」
「そうなんですか」
「うむ。妖怪退治の方法にもいろいろあるがの。正体を言い当てると逃げ出したり、力を失う、ということは確かにある」
自分たちの考えが裏付けられたと思ったハワードと少女は、ほっとして表情を緩めた。
「じゃが、それは正しく言い当てられた時じゃ。間違っていては何にもならぬ」
それはそうだ、と子供たちはうなずいた。
「で、じゃ。ひとつ良いものを渡してしんぜよう」
「なんですか」
「なに?」
うむ、と老人はうなずき、懐の本から小さな丸い板を取り出した。
「この銅鏡にヤツを映して見れば良いのじゃ。その正体がたちどころにわかるぞよ」
「ありがとうございます、オータム爺さん」
「ありがと」
鏡を受け取った二人は、並んだまま思わず覗き込んで見た。
「何が見える?」
愉快そうに訊くオータム。
二人の子供は戸惑ったように顔を上げた。
「あの、普通の鏡みたいですけど」
「二人並んだ姿が見えるだけよ」
不満そうな少女の声に、老人はふぉっふぉっふぉっ、と笑った。
「そりゃ、お前さんたちには裏表がないからの。見たままの存在だからじゃろ」
だまされたと思ったのか、少女は鏡をかざして、
「じゃあ、お爺さんの正体は、と」
「わぁ、こらこら、鏡をこちらに向けるでない。わしの正体なんぞ見ても何も面白いことなんぞないぞ」
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
「やめい! プライバシーの侵害じゃぞ! これ、見るなと言うに」
ハワードは心配になって、
「止しなよ、嫌がってるじゃない」
「ふふーん、機能チェックは必要でしょう? いざという時に役に立たなかったら大変じゃない」
が、鏡に映ったオータムを見た無名乙女は、はっと胸を突かれたような表情を見せた。そして鏡をハンカチに包んでポケットにしまうと、一言「ごめんなさい」と言った。
「いいや、いいのじゃ」
オータムは優しい笑みを浮かべている。少女はハワードの手を離し、老人に抱きついた。
「ごめんなさい」
もう一度つぶやく。
オータムは少女の頭を撫でながら、
「何、気に病むことはない。幽霊となった今は、不自由な手に泣くこともない。今の境遇には満足しておる」
ハワードは黙って二人を見ていた、思うところはあったけれど、言うべきではないと考えたのだ。
その視線がふと、遠く、王城とは反対の方角に向けられた。
土煙を上げて、何かが近づいて来る。
乗り捨てたままのトロッコが、規則正しく振動している。それは線路を伝って来ていた。なにか巨大なものが線路上を近づいてくる証拠だった。
そしてまた空には、小さな白い点のようなものが幾つもきらめいている。渡り鳥の大群かと見えるそれは、徐々に大きくなっていった。
オータムと少女もそれに気づいた。
「来おったな」
老人は目を細めてつぶやいた。
「アンジェリアン軍団じゃ」
Ⅵ.大いなる帰還 1 につづく