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Ⅱ.辺境にて 2


 他愛もない話をしながら歩いていたからなのか、意外なほど早く目的地に到着した(ような気がした)。ハワードには小さな町が忽然と荒野に現われたように思えた。


 そこは町といっても、低層の石造りの家が百軒足らずの本当に小さな町だった。


 町の中心には大通りがあり、その両側には十軒ばかりの店が連なっている。アメリカの西部開拓時代を思わせる質素なたたずまいだった(むしろ十軒も店があること自体が驚きだった)。


 町の入り口には得体の知れないアーチ状のオブジェが立っていた。人工物というよりも、巨大な蛇かドラゴンを剥製にして、そのまま大地に頭と尻尾を突きたてたように見えた。


 アーチをくぐる時、ハワードは背中が一瞬ひやりとしたような気がした。


旧きもの(オールドワンズ)どもの遺構よ。霊的な結界の一種ね」


 少女はハワードの耳元でそっとささやいた。


「ゲートの中はカーニバルよ」

「カーニバルってなにさ、わぁ」


 ハワードの目に、アーチをくぐるまでは見えなかったものが見えて来た。この町にいるのは人間だけではなかったのだ。


 二本足で歩く、人間くらいの大きさのカエルと、やはり直立して歩く毛むくじゃらの猿人が肩を組んでいた。二人(?)とも酒瓶のようなものをぶら下げて、よたよた歩いていた。どうやら酔っているらしい。


 半ば腐った、これは元・人間らしい生きた死体が、よろよろと歩いている。そうかと思うと、完全な白骨が関節をカタカタ鳴らしながら通り過ぎて行く。


 そして、円筒形の体で、頭と思しき場所の周囲に幾つもの目玉がぐるりとついているウミユリ状の生物が、足もないのにゆらゆらと揺れながら大通りを行き来していた。


「ええと、これって」

「みんな辺境に流れて来た無法者たちよ。中には黒の女王(クイーン・クロノ)の圧制から逃げ出したものもいるでしょうけど」

「知ってるの?」

「話しに聞いているだけ。私も来たのははじめてよ」


 それら百鬼夜行の巷を、二人の子供はしっかりと手をつないだまま店の看板を一つ一つ見てまわった。店ごとに看板の文字が異なっていることがハワードには興味深かった。


「これは英語、こっちはフランス語。ドイツ語、ラテン語。これは何だろう。中国語かな、それとこっちのは?」


 複数の言語を知っているはずのハワードにも読めない看板がいくつかあった。


「ああ、エノク語ね。それとこちらは神聖文字。あら、汎銀河語(パンギャラクシー)もあるわ。宇宙的ね」


 そしてようやく目指す店を見つけた。煉瓦づくりの質素な二階屋だった。幸いなことに、『カダス』というその店の看板は素っ気無いゴチック体のローマ字で刻まれていた。


 ドアを押し開き、店内に入る。


「あ、ランプだ」


 ハワードはうれしそうにつぶやいた。


 店内には、馬車のものらしい大きな車輪が天上から水平に吊るされ、そこにシャンデリアのようにオイルランプが幾つも掛けてあった。


 暖かなオレンジの光の中で、異形のものたちが杯を手に賑やかに呑み喰いしていた。


 見たところ、客の半数は人間ではないようだった。


 毛むくじゃらの獣人は骨付きの肉にかぶりつき、黒ずくめで牙の生えた顔色の悪い男は、ワインとは違う何か赤い液体を啜っていた。


 凄惨なのは窓際の席の腐った体の二人連れで、テーブルの上の生肉をくちゃくちゃと音を立てて食べていた(時おり間違えて、自分の腕も齧ってしまっていた)。


 中央のテーブルには、なにか巨大なゼリー状の塊がぶるぶると振るえている。目を凝らしてよく見ると、半透明のその体の中には何匹も魚が取り込まれており、泳ぎまわっていた。


 が、それらの魚は徐々に解けているようだった。生きたまま消化しているらしかった。


 テーブル席はすべて埋まっていたので、二人は店の奥のカウンター席の隅に並んで腰を下ろした。


 すぐさま、ウェイトレスらしい小柄な少女が注文を取りにやって来た。


 艶やかな黒髪をおかっぱに切りそろえ、白いキモノをまとった東洋的な顔立ちの子だった。ただ、人間ではないらしい。なぜならその頭には三角形の耳がぴょこんと飛び出し、お尻にはふさふさした金色の尻尾があったからだ。


「いらっしゃいませぇ。何をさしあげましょう」


 くりくりと良く動く目でにこやかに笑いかける。小動物めいた愛嬌のある子だった。


「ええと、モーラさんをお願いできます?」


 少女がそう言うとウエイトレスは驚いて、トレイを胸に抱いて、ぴょん、と飛び上がった。


「て、店長を食べるのですかぁ。わあ、」

「いや、そーじゃなくて」

「当カダス亭のモットーは、『お客様の望む料理は何でも』ですぅ。あわわ、でもでもぉ、店長を食材にしちゃうとぉ、料理をする人がいなくなっちゃうですぅ。うちは店長とあたしだけでやってますからぁ」

「いや、だからね、オーダーじゃなくて」

「困ったですぅ。でもでもぉ、店の信用に掛けてオーダーは必達ですぅ。わかりました、わたし、がんばっちゃいますぅ。味付けには自信がないけどぉ、塩と胡椒をもみ込んであぶり焼きにするですぅ」

「違うって、あのね、私たちはモーラさんに」

「でもぉ、ほんとに店長でいいんですかぁ? 店長は骨ばっていてきっと硬いですよぉ。あ、スープの出汁にはいいかもですぅ」

「だから話を聞きなさいって、この動物(ケモノ)娘!」


 痺れを切らした少女が声を荒げる。けれど、騒がしい店内ではその声も喧騒に飲み込まれてしまう。


「シノや」


 カウンターの奥から、湯気の立っている皿を持った白い調理服の女性が姿を現した。


 ひょろりと痩せた、背の高い女性。頬にはソバカスが散っていた。真っ赤な巻き毛を料理人らしく短く刈り、白い帽子を被っていた。快活そうな若い女性だった。


「これを三番テーブルにお願い」

「ああっ、店長ぉ、いまとんでもないオーダーがはいりましたですぅ。店長のソテーですぅ。さもなくばスープですぅ」


 しかし女主人は少しも慌てず、


「聞えていました。シノ、お前はもう少し落ち着かなくてはダメよ。お客様のお望みが何なのか、どうすればお客様が喜ぶのか、それを見極められないようではウェイトレス失格だわ」

「はううう」


 しょげ返るウェトレスに、


「さ、これを三番テーブルに。こちらのお客様はあたしが」

「はいですぅ」


 そしてモーラはカウンター越しに二人の子どもと向き合った。


「店長のモーラです。あたしになにか用事があるとか」


 ハワードは、


「はい、実はレッドシープ大尉にご紹介をいただきまして」

「あらあら」


 モーラの顔がぱっと明るくなる。


「そうなの、あの人から。あたしを頼れって?」

「はい」

「まあ、うれしいわ。それにしても相変わらず子どもに好かれる人だこと」


 二人の子どもは自己紹介した。


「ぼくはハワード・フィ・・・ハワードです」

「わたしには名前はないわ」


 なにやら挑発的な少女の様子に、ハワードは不審そうにパートナーの顔を見た。少女は不機嫌そうな顔でハワードを見つめ返した。


 モーラは優しく微笑むと、


「そうだわ、あなたたちお腹はすいていない?」

「いえ、あの、」


 少女が答えるよりも早く、


「そうだ、シャンタク鳥のスープはいかが?」

「いえ、私は」

「いただきます」


 謝絶しようとした少女は、ハワードの返事を聞いて、きっとなって睨んだ。


「待っててね」


 モーラはウィンクすると後ろの棚からカップを二つ取って、カウンターの中にしつらえてある大なべの蓋を開け、お玉で黄金色のスープを注いだ。


「なによ」


 少女はハワードの足をこっそり蹴飛ばした。


「女の人にいい顔して」

「別にいい顔なんか」

「いやらしい」

「なんでさ」


 半ば睨んでいる少女に、ハワードは困ったような笑みしか返せなかった。


「さぁどうぞ」


 カウンターに置かれた二つのカップをめいめいが手に取る。


「ありがとう」

「いい香りだわ」


 少女はつぶやき、湯気の立つ液体を一口すすった。ハワードもカップに唇をつける。

「!」


 それはこれまで感じたことのない味わいだった。透き通るようでいて、濃厚な舌触り。馥郁たる香りと、甘露のごとき喉越し。舌といわず、喉と言わず、体全体に広がるような豊かな滋味。


「おいしい……」


 少女は半ば陶然としてつぶやいた。そしてモーラの顔見る。料理人は幸福そうな笑みで子どもたちを見つめていた。


「すごくおいしいです、モーラさん」


 ハワードもうっとりしてそう言った。


「気に入ってもらえてうれしいわ」


 モーラはカウンターに両手をついてにっこりと笑った。


「このシャンタク鳥のスープはね、幻想大陸広しと言えども、カダス亭でしか飲めないのよ」

「すてきだわ」


 少女はさっきまでの態度はどこへやら、今やほとんど崇拝の視線でモーラを見つめていた。


「それでなんですって?」


 モーラに促されて、少女ははっと我に返った。


「そうだ、あのう」


 ちょっと言いよどみ、


「私たち、王都(キャッスル・シティ)へ行きたいのです」

王都(キャッスル・シティ)へ?」


 少し驚いたように店長は片眉をピクリとさせた。


「いったい全体なんだってあんなところに?」


 ハワードはその言葉を聞きとがめた。


「あんな、て言われてしまうようなところなんですか」


 モーラは微苦笑して、


「そういうところになってしまったのよ。ちょっと前までは美しい湖のほとりにある、優美なお城のある麗しの都だったのに」


 ハワードと少女は顔を見合わせた。


「前王フィリップス陛下――その名に幸いあれ!――の御世では、豊かで平和な街だったのよ。そのころはこの店も城下にあってね。とても繁盛していたの」

「今でも繁盛していますよ」

「ありがとう。もともとあたしも他の夢世界から流れて来たのだけど、この国は、あの町はそんなあたしを暖かく受け入れてくれたの。ほんとに、この国とフィリップス陛下には感謝しているのよ」


 モーラの声が聞こえたのか、カウンター席でグラスを傾けていた男(どういう訳かゴム引きのレインコートを着て、傍らに銛を立て掛けていた)が話に入って来た。


「おう、フィリップス陛下の話たぁうれしいねぇ。おいらも混ぜてくんな」

「よしなよ、あんた。酔ってるじゃないの」


 モーラにそう言われたのに、男はかまわず続けた。


「てやんでぇ。おいらぁなぁ、こう見えても元は王都(キャッスル・シティ)の虹の湖の銛打ちよ。湖の星魚(スターフィッシュ)を打たせりゃ国一番だったんだぜ。王城(キャッスル)の玉座の間の床に埋め込まれた特大の星魚(スターフィッシュ)な、ありゃあおいらが仕留めたんだ」

「また始まっちゃったよ、星魚(スターフィッシュ)自慢が」

「いいぞ、もっとやれ」


 いつの間にか周囲には人だかりができていた。もっともそれは人語を解すると思しき人の姿をした者たちだけだった。人外らしきものたちはそれぞれのテーブルで静かに飲み食いを続けていた。


「まったくなつかしいぜ。あのころはよう、いくらでも星魚(スターフィッシュ)がとれたものをよう。それがあの黒の女王(クイーン・クロノ)のせいで、湖はどぶ泥の汚らしい有様になっちまいやがって」

「とっつあんはそれでこんなところまで流れてきたんだろう」

「おや、こんなところとはごあいさつだね」

「店のことじゃねぇって」

「まったくよお。陸に上がっちまったら銛打ちもおしまいよ」


 レインコートの男はなさけなさそうに鼻をすすった。


「とにかくだ、あのころはよかったってぇ話だよ」


 レインコートの男は続けた。


「フィリップス陛下はよぉ、いつだっておいらのことを見ていてくださってよお」

「おいおい、陛下がしがない銛打ちなんぞ気にかけるもんかね」

「いや、おいらにゃちゃんと分かってる。城の大広間の展望台から、陛下はよく湖を眺めておられたもんさ。辛い事がおありのとき、お寂しい時、おいらの仕事ぶりを見て気をまぎらわしていたものよ」


 そう聞いてハワードはおぼろげに思い出した。


 寝付かれない夜、湖で銛を打つ孤独な男のことを想像して気を紛らわしていたことがあった。


 想像の中の男は確かにレインコートを着て、ひとりボートにたたずんでいたものだ。もっとも、彼の獲物がなんだったのかハワードにはわかなかったのだが。ただ孤独な男を想像しただけだったのだ。


 そうか、彼は星魚(スターフィッシュ)打ちだったか、と少年は得心した。もっとも星魚(スターフィッシュ)が何なのかという疑問はあったものの。


 この世界を創ったのは確かに少年だったが、どうやらこの世界には造物主(クリエイター)である自分も知らない、なにか自律的な働きがあるらしい、と察せられた。


「ホントによぉ。黒の女王(クイーン・クロノ)さえ現われなければ、今も湖はきれいなままだったろうによ」


 銛打ちは憤慨して、


「あのいまいましい軍艦が虹の湖を定置港にしてからと言うもの、見る見る水が濁りやがって。星魚(スターフィッシュ)もどっかにいっちまった。あの船、あの黒い幽霊船のせいでよお」

「わかるぜ、とっつぁんよお」


 と別の誰かが続けた。


「あの黒の女王(クイーン・クロノ)の子供狩りのせいで、街からは子どもの明るい笑い声が聞えなくなっちまった。子どもは希望なのによぉ」

「知ってるか、あの黒の女王(クイーン・クロノ)はな、なんでも喰らわずにはいられない“貪る女王“なんだと」


 また別の誰かが声をひそめて言い募る。


「次元から次元、宇宙から宇宙を渡り歩き、喰らい尽くして行くんだそうな」

「あんな女にかかっちゃ、我らが『少年王』などひとたまりもなかったんだろう」

「ああ、ご本人も気づかぬまま、夢を奪われてしまったんだと」

「おいたわしい」

「フィリップス陛下は今はどうしておられるのか」

「きっと汚らわしい現実世界に囚われ、ご自分が王だったことも忘れて、世間の塵埃にまみれる日々を送っておいでなのだわ」

「ああ、なんて不憫な」

「出来ることならお救い申し上げたいぜ」

「まったくだ。あの宰相の裏切りさえなければ」


 聞いているハワードは、妙な居心地の悪さを感じて椅子の上でもじもじとお尻を動かしていた。黙ってじっと聞いていた少女は、皆の話が一段落すると、良く通る声でこう言った。


「フィリップス陛下は必ず戻ってこられるわ」


 その言葉に、一瞬店の中がシンとなる。


「ちょ、ちょっと」


 ハワードが小さな声で少女の袖を引っ張って、


「よしてよ」


 だが、少女は構わず続けた。


「そして王の手により王都(キャッスル・シティ)は奪還される。湖は輝きを取り戻し、街には子どもたちの笑い声がかえってくるのだわ」


 凛として言い切るその声に、皆はため息ともつかない呟きを漏らした。


「そうなればどんなにいいか」

「ああ。だがあの黒の女王(クイーン・クロノ)には勝てないよ」

「何しろ魔女だからな」

「ああ、それにあの黒の軍団(ダーク・コープス)には誰も歯が立たない」

「このまま滅ぶのさ、この国も」


 だが、少女は続けた。


「いいえ! フィリップス陛下は必ず戻る! みんな、今のままでいいと言うの? この国が食い尽くされたら、次は隣の国が、別の誰かの夢が食われていくのよ。そうしていつかこの幻想大陸(ドリームランド)が、幻想宇宙が! 汚され、虫食いだらけにされ、虚無の海に沈んでしまう! そうさせないためにフィリップス一世陛下は戻ってこられるのよ!」

「そいつはとびきりの“夢”さね」

「ああ。いい夢だ。虚無に還る前の極上の夢だ」

「我ら、この夢見の館にて見る最後の夢だ」

「嬢ちゃんや、気持ちは分かるがの。あの黒の女王(クイーン・クロノ)というのはそれはそれはおそろしい女なのじゃ」


 少女はそうまで言われて、悔しそうに唇を噛んだ。


 だが、


「なんだいなんだい、黙って聞いてりゃ、みんなずいぶんと諦めがいいじゃないか」


 そうタンカを切ったのはモーラだった。


「あんたら、それでも陛下の臣民かい。こんな小さな女の子が希望の声を上げてるってのに。元気づけてやろうという漢気のある奴はいないのかい。この国生まれの者は陛下の直接の子孫じゃないかね。そうでない外の夢次元のものも、陛下の自由の国に惹かれてこの王国に来たじゃなかったのかい」

「そうは言うけれどよ」


 誰かが不服そうに、


「フィリップス陛下は今どこにいるのさ? きっともう奴に食われてしまったのさ」

「食われてなんかいるもんかい」


 モーラは大いに反論した。


「もし食われていたら、この幻想世界はとっくに消滅している。それに、知ってるかい」

「なにをさ」


 モーラは自信たっぷりに、


「なんで黒の女王(クイーン・クロノ)が子ども狩りをしているかをさ」

 

 顔を見合わせる酔客たち。ハワードと少女も互いの顔を見た。


「あたしはこう見えてもいろいろとつてがあってさ」

「知ってるぞ、隣国にいた頃付き合っていた、あの髭の兵隊さんだろ」

「ひゃっひゃっ、色仕掛けかの」

「なんとでもお言い」


 冷やかしをぴしゃりと黙らせて、


黒の女王(クイーン・クロノ)が本当に探しているのはフィリップス陛下その人なのさ」

「なんだって?」

「そりゃいったいどうゆう」

「こういうことさ。造物主(クリエイター)であるフィリップス陛下が、もし万一死んだり、夢を失ってしまったら、この世界はたやすく崩壊してしまうだろ」

「ま、夢とは儚いモンだからよ」

「だからさ、そうなる前にフィリップス陛下から言質を取りたいのさ。ひとこと、以後この国はお前に任す、と言ってもらえば、自らが正式な王となれる。名実共にこの王国を我が物に出来るってことさ」

「ということは、つまり」

「フィリップス陛下はまだ、」


 その時だった。


 バタン、と荒々しい音を立てて入り口のドアが開いた。


 客たちはいっせいに振り返る。


 戸口に立つものを見て、誰かが「ひいっ」と声にならない悲鳴をあげた。


 そこにいたのは巨大な、仔牛ほどもある黒い犬だった。鋭い爪のある逞しい四肢をふんばって戸口を塞いでいた。


 ただの犬ではない。その首は三つあった。三つの頭のそれぞれのあぎとからは真っ赤な舌がだらりと下がり、六つの目は地獄の業火のごとく爛々と光っていた。


 しかし、真に恐ろしいのはその瞳に野生の崇高な輝きがなく、冷酷で残忍なある種の知性が宿っていることだった。


三頭犬(ケルベロス)・・・」


 それは地獄の番犬とも呼ばれる伝説の怪物だった。


 向かって一番左の頭が、よく通るテノールの声を発した。理知的な声だった。


「女王陛下の命による臨検である」


 続いて中央の頭がカウンターテナーの裏声(ファルセット)で、不気味な抑揚をつけて、


「この店に子どもがいるとの通報があった。どこにいる」


 そして一番右の頭がバスの重低音で凄みを利かせた。


「隠し立てするとためにならぬぞ」


 モーラはカウンターの内側で腕組みをして無礼な闖入者を睨みつけた。


「おや」


 皮肉な笑みを浮かべて、


「犬はお断り、という貼り紙が読めなかったのかしら」

「そのようなものはなかったぞ」


 甲高いファルセットが答える。


「風で飛んだのかしら」

「くだらぬ世迷言、許さんぞ」


 低音の唸りが応じる。


「我らの用件は分かっていよう。子どもを出せ」


 静かなテノールの声が告げる。


「子どもですって? こんな店に子どもなんて来るもんですか。ここは紳士と淑女のための大人の社交場よ」


 そうだそうだ、と幾人かの客が唱和したが、ケルベロスの一睨みで口を閉じた。


 ハワードと少女は、入り口のドアが開くと同時にモーラに促され、カウンターの内側に身を隠していた。なぜかウェイトレスの少女もハワードの腕にすがって一緒に隠れていた。


 ケルベロスの真ん中の頭は、顔をあちこちに向け、クンクンと鼻を鳴らした。


「匂うぞ匂うぞ。子どもの匂いだ」


 モーラは顔色一つ変えない。客たちは浮き足立ってキョロキョロと視線を泳がせた。


 やがて真ん中の頭は勝ち誇ったように、


「わかったぞ。カウンターの後ろだ!」


 だんっ、と太い足を一歩踏み出す。今にも飛び掛かりそうな勢いだった。


 しかしモーラは少しも慌てず、ハワードの隣で小さくなっていたウエイトレスのシノの襟首を掴んでひょいっと持ち上げた。


「子どもってうちのウェイトレスのことかしら」


 ケルベロスの三対の目に射すくめられて、シノはガタガタと震えながら、涙目でお愛想笑いをした。


「い、いらっしゃいませぇ」

「この子、幼く見えるけど、百歳はとうに越えているはずよ。なにしろ化け狐ですからね」


 三つの首は何事かひそひそと話し合うと、


「邪魔をしたな」


 テノールの声でそういい捨てると、器用に後ろ足でドアを閉じて行ってしまった。


 ほっとした空気が店の中に流れた。


「やれやれ、一時はどうなることかと」

「けっ、女王の()め」

「それにしてもこんな辺境にまで黒の軍団(ダーク・コープス)の奴らが来るとは」

「こりゃあ、さっきの話もあながち嘘とは」


 そんなささやきが交わされる。ハワードは立ち上がり、


「ありがとうございますモーラさん」


 モーラはシノを下ろして、にっこり微笑んだ。


「子どもを守るのは大人の務めだわ。それに、特別な子どもは特にね」


 とウィンクする。少女は、


「モーラさん、あなたはもしや気づいて、」

「レッドシープ大尉があたしにあなたたちを託した訳が分かったわ」


 そして、客たちに向かって、


「さあさあ、すっかり辛気臭くなってしまったわね。ゲン直しに店から全員に奢るわ。シノ、ラム酒の樽を開けて」

「はいですぅ」


 そしてグラスが行き渡ると、モーラは自らも杯を持ち、高々とかかげた。


「フィリップス陛下に!」


 客たちもそれぞれの方法で賛意を示す。声のあるものは唱和し、そうでないものはただ杯と杯とをカチリと合わせた。


「フィリップス陛下に!」


 そして賑やかに飲み食いを始める。


 モーラはシノに「しばらく店をお願い」と言い置いて、ハワードと少女の肩を抱いて厨房の奥へと連れていった。


「正面から出るのは危ないわ」


 そっとささやく。


「裏から出るの。こっちよ」


 厨房の奥はなにやら巨大なボイラー室のようになっていた。入り組んだ配管と、むっとする蒸気に満ちた部屋だった。


 小さな店だったはずなのにどうしてこんな大きな部屋が、とハワードは不思議に思った。


「どこの店でもね、バックヤードというものは目立たないようにしているのよ」


 モーラはハワードの表情から疑問を読み取ったらしい。そう言った。


「それに、当店の場合はいささかの秘密もあるしね」

「秘密?」


 部屋の中央にでん、据えられているのは巨大な釜に見えた。差し渡し三十フィートはありそうな大釜だった。


 そしてその大釜の中には、馬のような頭を持つ、象ほどの大きさの巨大な鳥が、気持ち良さそうに目を細めて金色の湯に浸かっていた。


「あの、もしかして」


 ハワードが恐る恐る訊ねる。


「そうよ。シャンタク鳥よ。さっきのスープはね、この鳥を生きたまま煮て作るの」


 ハワードと少女はなんとも言えない顔で、どう見ても快適そうに風呂に入っているようにしか見えない

怪鳥を見た。その体は羽毛ではなく、びっしりと金属質の鱗に鎧われていた。


「まあね。ギブアンドテイクなわけよ。この子は風呂が好きなの」


 そして、怪鳥に向かって声を掛ける。


「湯加減はどう?」


 シャンタク鳥は片方の翼を湯から出し、「クワァッ」と一声鳴いた。


「よかった。楽しんで行って」

「クワァッ」


 二人の子供は、『あんなの飲んじゃったんだ』と顔を見合わせて口を押さえた。


 いくぶんげんなりしながら、ハワードと少女はモーラについてさらに奥へと進んだ。そこは小さなオフィスのようで、書物机とキャビネットが置いてあった。


 モーラは二人の子供に向かって、あらたまってこういった。


「さて、あたしは詳しい事情は何も聞かないわ。あなたたちの正体とかもね」

「モーラさん、ぼくらは」

「あー、言わなくていいから。知らなければたとえ拷問に掛けられても何も話せないからね」

「ありがとうモーラさん」


 モーラは片目をつぶって見せた。


「さて、王都(キャッスル・シティ)へ行きたいのだったわね?」

「はい」

「なら、鉄道を使うといいわ」

「鉄道?」

「ええそう。町の外れに停車場(ステーション)があるわ」


 ハワードは首を傾げた。


「あの、でも鉄道は廃止されたって」

「そうよ。でも線路や機関車が撤去されたわけではないわ。停車場(ステーション)には今も機関車があるし、鉄道員もいるはずよ」

「そうなんですか」

「ええ。鉄道機関自体は女王の支配下にはないの。運営しているのは幻想空間の中央鉄道管理局だから。女王はただこの国での運行許可を取り消しただけ」

「でも、許可がないんじゃ」


 不安そうにそう言う少年に、モーラはいたずらっぽく、


「運行の許可を出せるのは王様だけなの。その意味、分かるわよね?」


 少女は、あっ、と声を上げた。


「つまり、そういうことなんですね」

「ええ」


 しかしハワードはキョトンとして、


「なに、何のこと」

「にっぶいわねえ、」

「なにがさ」

「なにがじゃないわよ」


 そして女性二人はクスクスと笑った。


「さ、もう行った方がいいわ」


 モーラはそう言って二人の肩に手を置いた。そして、そのままぎゅっと抱きしめる。かすかにスパイスの香りがした。


「気をつけてね。みんなあなたたちに期待しているの。あなたたちは最後の希望なんだから」

「わかっていますモーラさん」


 少女は殊勝にうなずいた。


「かならず」


 二人はモーラから停車場(ステーション)への道を聞くと、裏の勝手口から外に出ようとした。


 が、ふいにハワードは立ち止まり、ポケットに手を入れた。


「あの、モーラさん」

「なに?」

「ぼくらお礼をしていませんでした。それにスープの代金も」

「いいわよ、そんなの」


 ハワードは首を振った。


「でも、それじゃあ」


 少女はハワードの袖をそっと引いて、耳元で囁いた。


「左のポケットよ」


 少年は言われるままにポケットに手を入れた。そしてすぐに手を出す。そこには縞瑪瑙(アゲート)があった。先刻ヴェインに渡したものと同じ色と形をしてい


「まあ」


 モーラは少年の手からその貴石を受け取ると、


「うん。いいわ、じゃあ代金はこれということしましょう」


 そしてその石を目の前にかざし、


「あなた知ってるの。この石の価値を」

「いえ、あのう」

「この石はね。これ自体が一つの宇宙なのよ」 


 モーラは蠱惑的な瞳で縞瑪瑙(アゲート)とハワードとを交互に見た。


「宇宙を創れるのは“夢見るもの(ドリーマー)”だけ」


 そしてもう一度ふたりの子供を抱きしめると、それぞれの頬にキッスした。


「忘れないで。まっすぐに停車場(ステーション)に行くのよ。いいわね」

「はい」


 そして少年と少女は手を繋ぎ、勝手口から外に出た。そして裏道を通り、街外れへと向かうのだった。

Ⅲ.荒廃させるもの 1 につづく

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