第四話
夕方。
陽が沈み始め、まだ瑠璃色が残る夕空の下。
自宅で夕飯や風呂の支度に手も付かないカミーユはベッドへちょこんと座り、思い耽りながら夫の帰りを待っていた。
自分を助けてくれたローランドに対して今までずっと身を粉にし、人を疑うことすら知らない無垢な心で誠心誠意尽くしてきた。
決して衣装を奪ったことを咎めたいのではない。結婚を申し入れる時にでも、それを正直に打ち明けて欲しかったのである。
挙げ句の果てには、大事な衣装を質屋に入れられる始末。
耕していた土地の購入資金も、それを売った金だったのだろうとは安易に想像がつく。左手薬指で輝きを放つ、肩身離さず大切にしていた結婚指輪さえも――。
窓から見える夕焼け空を、カミーユは寂しげな顔で見上げていた。
もしかしたら自分はローランドにとって至極“都合の良い嫁”であり、最初も単に体目的で近づいたのではないかと――不穏な影が揺さぶるかのように、カミーユの気持ちを湿っぽく曇らせていた。
求められること自体は嬉しい――ただ。
『愛してる』
という言葉の意味は、一体何だったのか。今までローランドから受けてきた愛情の真贋が、今のカミーユを混沌へと迷走させてしまっている。
嘘を貫かれていたことも心象的には辛い。『黙っていればバレないだろう』と思われていたのだから。
世界は色んなもので繋がっているため、ひょんなことで嘘など簡単に発覚してしまうもの。
選りにも選って隣町に衣装を売るとは。流動次第でそれがいずれカミーユの目に入る可能性があることは、普通に考えれば想定出来たはず。
浮気なんてものは、もちろん論外である。愛という感情は“自分にだけ向けて欲しい”と切に願うもの。
とはいえ結婚して畑を購入してから、徐々に帰りが遅くなっていたローランド。隣町へ行く機会のある夫が、もし他の女性と身体を重ねてたとしたら。
また、隣町から帰宅した夫のバッグを受け取ったカミーユが、中身を取り出す際に内側のポケットに“鮮やかな紐で編んだ腕飾り”を見つけたことがある。
何かしらこれ?
その時はさほど気に留めなかったものの、もしそれがカミーユへの贈り物ならすぐに渡すはず。しかし、その腕飾りは夫が付ける訳でもなく、しばらくの間バッグに仕舞われていただけだった。
今思い返せば『あれは、他の女から求愛で貰った物だったのかも知れない』とカミーユは勘繰った。
“不貞を疑う陰湿な心”まで芽生えてしまうのは、胸が張り裂けるほどの激痛が走る。だがこうなると、夫の行動全てが疑わしく思えて仕方がない。
結婚生活とは、一生をかけて二人で手を取り合って歩んでいく。そんな中、『逐一相手の言葉に対し、疑心暗鬼にならなければならないのか』と案じるだけで、途端に行末が思いやられてしまう。
言葉の信用性は、真に“過去から築いてきた潔白”の上に成り立つもの。
幸い羽衣は手元に返ってはきたが、ローランドの嘘によって“人間の欲深さ”を垣間見たカミーユは、夫に不信感を抱かざるを得なくなってしまっていた。
「はぁ……」
塞ぎ込むように溜息を漏らしたカミーユは、深く思い悩んでいた――ローランドとは“別れるべきなのか”と。
それでも、夫と過ごしてきた日々を思い返すだけでカミーユの胸は“ズキッ”と締め付けられ――それこそ弓矢に射抜かれたような鋭い痛みが襲いかかった。
気付くと彼女の太ももには、頬を伝う涙が雫となって垂れ落ちている――。
ふと窓を見遣ると、いつの間にか外はもう真っ暗。カミーユは時間を忘れて思いを巡らせてしまっていた。
ところが――どれだけ待っていても、夫のローランドが帰って来ないことに気が付く。
もしかして……。
何やら不吉なことが頭を過った彼女は、すぐさま立ち上がって家を飛び出し、焦る気持ちを胸に森の中へと駆けて行った――。
息を切らすカミーユが辿り着いた先は――ローランドと初めて出会ったあの泉だった。思い出の地であるここへ自然と来てしまったのだ。
どこにいるやも分からない夫が『この泉にいるはずだ』と思えたのは、妻である故の直感なのか。
すると――半身ほど泉に浸かるローランドの後ろ姿が目に映った。あの無造作に伸び散らかした黒髪は彼に違いない。
一体、あの人は何をしているの……?
太い木の背後に音を立てないようにゆっくりと息を潜め、気配を消しながらローランドの不審な様子を窺ってみる。
まさか……浮気相手と待ち合わせしてるのかな。性欲の強いローランドさんが隣町で出会った好みの女性と、辺鄙なここで密会する可能性は十分あり得る。
どす黒くも薄気味の悪い感情が押し寄せ、手汗で汚れた羽衣を握る手にも余計な力が入る。
夫の浮気現場を目撃して、二人の関係に“終止符”を打つ。
訝しむカミーユの左手薬指には――すでに結婚指輪が外されていた。
そんな矢先のこと。
今まで吹いていたそよ風が止むと――周りで生い茂る木の葉が擦れる音まで“スー……”と消えて、泉の周辺が静寂に包まれた。
途端にカミーユは、何かを唱えるローランドの声が聞こえたような気がした。おもむろに耳を澄ませてみると、やはり彼は何かを念じているようだ。
祈るように発していた、その言葉は――。
「……カミーユに早く元気な子供が出来ますように」
「ずっと家庭が幸せでありますように」
「俺に“嘘ついたことを……自白できる勇気”が出ますように――」
彼は泉に向かって、そんな願いを必死に捧げていた。
再び吹き始めた風が、カミーユの繊細で艶のある髪を“ふわり”と靡かせる。藍色に輝く長い髪が、薄く伸びる柔らかな唇に掛かろうとも払う気すら起きない。
ローランドさん……。
カミーユは――目眩がするほど混乱していた。思い描いていた夫の口からは、想像もしてなかった言葉が並べられていたからだ。
ローランドの猟師として鍛え上げられた逞しい体を猫背に曲げた背中も、どこか頼りなく感じるほど小さく見える。
さらに。
握りしめていた羽衣がほんのりと光って“泉の記憶”がカミーユに伝わると、ローランドが結婚してからというものの、毎晩ここで祈願していたことを知る。
彼は猟を短期集中で森中駆けずり回り、その後泉で祈っていたために帰りが遅くなっていたのだ――。