第九十八話 経験者優遇、やる気があれば即採用
地獄の奥深く。最下層の手前で、クロムは金色に光り輝く金印に視線を落とした。これで名実ともに地獄の王となったのだが、彼の表情から窺えるのは高揚感ではなく緊張感だ。
「何だよ王。もっと堂々としてろよ」
「いや。一刻も早くお返ししたいのですが」
「それ持ってそんな嫌な顔すんのお前くらいだよな」
クロムに呆れた視線を向けて、サタンは飛んだ。黒い獣の爪を避けて振り返るが、もう敵の姿は無い。
「このちょいちょい姿消すのどうにかなんねぇの?」
「どうにもならないですね。気配も読みづらいですし」
「あいつ絶対この五百年こればっか練習してたろ」
サタンとクロムはケルベスの気配を集中して探ったが、どこにいるかが全く分からない。諦めて近くに流れるマグマの滝の下を見れば、ハルトもルシファーを探して視線を彷徨わせていた。
「そっちも消えたか?」
「はい。急に……やっぱりケルベスさんが?」
「だろうな。だが見えねぇだけでその辺にはいるはずだ。お前らできるだけオーラ消しとけ」
「オーラを消す……」
「頑張らないってことよ」
ハルトが戸惑っていると、シルヴィアがハルトの肩を優しく叩いた。ハルトの肩の力が抜けて、纏っていた白い光が消える。ルシファーはその聖なるオーラや白い翼に反応して攻撃してくるので、気配を消せば感知されない。
「どぉすっかな」
姿を消したままで仕掛けてくるかと少しの間気を張っていたが、襲い掛かってくる様子は無い。しかし、このままではこちらも攻撃できない。サタンが腕を組んで考えていたら、遠くの方から声が聞こえた。
「おーい! 魔王様いますかー?」
最終決戦の場に似つかわしくないのんびりとした声が誰のものかは、全員がすぐにわかった。何か状況が変わってルナとともに来たのだろうと誰もが考え声の出所に視線を向け、そして全員固まった。
黒い一角獣を華麗に乗りこなすふたりの男。ひとりは聖剣を携えた赤髪の剣士、そしてもうひとりは、背中に黒い翼の生えた聖夜だ。
「……まじか。すげぇな」
いち早く正気を取り戻したサタンが感嘆の声を漏らす。ルナとの契約に署名で同意したサタンは、彼が魅了の能力を手に入れるであろうことまでは予想していた。しかし、ここ下層でも滅多に出会う事のない希少種である黒い一角獣を従えてくるとは、完全に予想外だ。
「どうしてこんな事に?」
状況の全くわからないクロムが眉を寄せる。聖夜はひらりと一角獣からおりると、真っ直ぐクロムの元へ飛んで行った。彼への報告は、宣戦布告も兼ねている。勿論彼がルナに女性として興味を持っていないのは明らかだが、それでも自分の方が近いのだと言わずにはいられないのだ。
「瑠奈ちゃんと契約しました」
「そうか。似合うな」
「クロムさんならそう言ってくれると思いました」
納得したようにあっさり頷いたクロムの言葉を聞いて、聖夜は爽やかに笑った。ハルトとシルヴィアも駆け寄り、聖夜の背中の翼を興味深そうに眺める。
「悪魔との契約って、翼が生えるんですね」
「そうみたい……あ。ハルトくん後ろ」
「え? あっ」
話の途中で聖夜がハルトの後ろを指さした。ハルトが振り返ると、僅かに空気が揺らいだ気がする。これが「気配」というものかと妙に感心しながら、ハルトは力を込めて水鉄砲を撃った。
「グワァァアアアァア」
獣のような鳴き声が響き、何もないところから黒い煙があがる。しかしそちらに気を取られている隙に、ハルトの横腹が何者かに切り裂かれた。
「うわぁぁぁっ!」
「大丈夫よ」
すぐにシルヴィアが白い翼を広げ、治癒をはじめる。クロムがふたりの周りに氷の壁を作り、周囲から姿を隠した。
「攻撃には聖なるオーラを使う。気をつけないと隙を突かれるぞ」
「はいっ! シルヴィアさんありがとうございます」
「あたしがついてるから大丈夫よ。傷つくことを恐れないで、自由にやんなさい」
瞬時に塞がった傷を確認して、ハルトは水鉄砲を撃ちこんで氷の壁を割った。すぐ近くではクロムが落とした雷がケルベスの肩に当たり、彼は大きくよろけていた。すぐ隣の何もない空間に愛し気な視線を向けるケルベスの姿を見て、ハルトはそこに見えないルシファーの存在と、姿かたちが変わっても揺るがない確かな絆を感じる。しかし同情している場合じゃないと気を引き締め、再び水鉄砲を構えた。
「……ということで、ミアさんの魂を探したいのですが」
ハルトがケルベスと戦っている間、聖夜はサタンにカイルの事を説明していた。煉獄からここにくるまでにざっくりと誤解を解いておいてくれたおかげで、カイルは大人しく後方に控えている。
「地獄に堕ちた魂に会う方法は、金印を使った魂の復活だけだ」
「魂の復活って、生き返らせるって事ですか? なら結構条件が厳しそうですね」
聖夜は困り顔で考え込んだ。しかしサタンはなんて事ないように頷く。
「罪人を復活させるには厳正な審査と膨大な魔力がいる。魔力の方は俺がやるから問題ない。ミアの場合は堕ちた理由が理由だから、審査の方も問題ないだろ」
「堕ちた理由って?」
「先代勇者を殺した十三条違反」
カイルに聞こえないように、サタンは小声で言った。殺害方法が魅了で魂を抜く事だったため、彼は恋人に殺された事を知らないのだ。
多くの悪魔と魔王に剣を向けた恋人を止めるため、自ら罪を犯した魅惑の悪魔。彼女なら、確かに復活させても問題はない。
「クロム」
「継承の方法は?」
少し遠くからでも話は聞こえていたようで、クロムが飛んでくるなり金印を差し出した。サタンは金印の側面を指さしながら一本のペンをクロムに渡す。
「ここに俺の名前を刻め。書くだけじゃ駄目だ。その名を持つ者こそが真の王に相応しいと、心から念じるんだ」
「それなら誰より得意です」
クロムはペンを構え、至って普通に書き始めた。淀みない手の動きで刻まれる魔王の名。特に気合を入れて念じている様子は無いが、クロムが書き終えると、金印にはしっかりその名が刻み込まれる。それもその筈、改めて念じる必要もないほどに、彼はサタンが唯一その印に相応しいと心から信じているのだ。
「地獄は魔王のものだ」
絶対的な信頼とともに差し出された金印を、サタンはしっかり受け取った。金の瞳が前王の健闘を称えるように緩み、そして地獄の未来を背負う覚悟を持って勝気に光る。絶対的な「王」の完全なる復活を祝うように光る金印に、自然と皆の注目が集まった。
「まずい」
しかし、歓喜をもってそれを受け入れる多くの視線の中で、ケルベスだけが大きく顔を歪めて翼を広げた。魔王に全権が渡ることへの危機感が、彼を動かす。
「行くぞルシファー」
ケルベスはそれだけ言って、カラスのような翼を伴い、猛スピードで中層への階段がある方へと飛んでいった。少し遠くで姿を消したふたつの翼を見て、ハルトは焦った。
「まさかケルベスさん、天国に行く気じゃ」
「まずいわね」
「追うぞ」
クロムが黒い翼をケルベスの後姿に向けるのと、シルヴィアがハルトの腰に手を回すのは同時だった。しかしふたりが追いかけようと翼を動かす直前に、輝くような金糸の髪が目の前に現れる。
「リリィ! 今ケルベスさんが……」
「大丈夫です。こちらも準備ができたので、それを伝えに来たんです」
天使を殺そうとする悪魔が、天国へ向かっている。それはたった今起きた想定外の出来事なのに、リリィに焦った様子はない。彼女と一緒に瞬間移動してきた大きな箱の中身を見て、不思議に思ったサタンが問いかけた。
「準備ってこれか?」
「はい。きっと役に立つだろうとルークが準備していました。ケルベスさんは天使を滅ぼすのが目的だから、隙を見て天国に来るであろうことも想定済みです」
「ルーク無事だったんだね!」
「まだ絶対安静ですけど、元気にしてます」
ルークの無事を知って、皆はほっと息を吐く。リリィから簡単な報告を聞き、瞬間移動の範囲を確認している最中、サタンが手の中の金印を遊ばせながら言った。
「俺は残る。天国に行くと見せかけて潜伏する可能性もあるし、奴の部下もまだいるんだろ?」
「説得三割消滅三割、残りは姿を消しました」
「説得率三割ってとこがお前だよなぁ」
「……善処しました」
おそらくサタンが説得していたら、結果は全く違っただろう。ばつが悪そうに目を逸らしたクロムの肩に手を置き、サタンが笑う。
「お前は期待以上によくやってくれた。今姿を消している奴は全員敵だな」
「天国から戻り次第全て処分します」
「いや。こっちは俺に任せて、お前はケルベスの最期をしっかり見届けろ。ミアは最下層で間違いないな」
「ええ。彼がいなくても、彼女の復活はサタン様にお願いしようと思っていましたから」
クロムは頷いてカイルを見た。彼はばつが悪そうに頭を掻き、クロムの方をちらりと見る。
「あー、その……色々悪かった」
「別にいい」
クロムは事も無げに頷いた。しかしその隣では、サタンが厳しく眉を寄せている。
「ミアの魂は復活できるが、お前はダメだ。罪が重すぎる。今も実体ではないから、いずれ消えるぞ」
五百年待ち望んだ再会。しかし、その時間はわずかしかない。それでも会いたいのだと、カイルはしっかり頷いた。自分も生き返らせてくれとは、彼は言わなかった。
「あいつに会って、一言謝れればそれでいいんだ。その……黒い翼似合ってねぇ、なんて言っちまったし……」
「それ、絶対言っちゃだめなやつですよね」
「だよなぁ」
ハルトが何気なくとどめを刺し、カイルは頭を抱えた。見ていられなくなったリリィがカイルに慰めの言葉をかける。
「大丈夫ですよ。きっと許してくれます」
「あんたが天使か……やっぱ、ミアとは全然違うな」
怪しさの欠片もない清らかな美しさ。これが天使ならば、自分の恋人とは違いすぎる。彼は心からの納得を示し、力なく笑った。
「じゃあ、僕たちは天国に行ってきます」
「頼むぞ」
「「はい」」
天国までは距離があるので時間はあるが、ケルベスの翼も早い。一刻も早く先回りしたいハルト、リリィ、シルヴィア、クロムの四人が天国へと消えた。静かになった地獄で、聖夜がひらりと黒い一角獣に跨る。
「煉獄に戻ります。ルナちゃん心配なので」
「頼んだ」
黒い一角獣は戦闘向きではないが、宙を駆ける速度は魔物の中でも群を抜いて速い。ケルベスが悪魔しかいない煉獄で暴れることは考えにくいが、何かあっても彼ならフォローできるだろう。サタンはひらりと手を振って、地獄を優雅に駆けていく後ろ姿を見ながら小さく呟いた。
「あいつ欲しいな」
「あ?」
「いや何も。ミアはこの下の階だが、抱えて行くか?」
「冗談。走っていくから触んなよ」
カイルはサタンの指さした階段に向かって走り、そのまま駆け下りた。サタンはその少し前をスピードを落として飛んでいく。抱えられるのを拒否したのは嫌悪ではなく畏怖でもなく、ただの遠慮だろう。一刻を争う天国組とは違い、こちらには時間の余裕はあるのでサタンも気にしない。
「お前はそっちの柱の後ろに隠れて気配を消してろ。いいか、絶対紹介するまで出てくるなよ」
黒の玉座の前まで来て、サタンは前方の柱を指した。カイルが頷くと翼を緩やかに動かしながら、玉座の上に浮き上がる。金印がサタンの手の中で強く光り、その存在を主張した。
「『魂の復活』をはじめる」
サタンは最低限動けるだけの余力だけを残し、金印に全力を注ぎこんだ。その魔力は、魂ひとり分よりも明らかに多い。
「ついでだ。出てこいお前ら」
先ほどケルベスがルシファーを復活したときよりも何倍も強い光が、最下層の隅々までを金色に染めていく。地獄の業火から現れたのは、藤色の髪を靡かせた美女だけではない。何百もの悪魔たちの影がゆらりと立ちのぼるのを見て、サタンは声を響かせた。
「かつてケルベスに騙された馬鹿どもに挽回のチャンスだ! 奴の部下を全員潰して新たに地獄を立て直す。魔王について来る必要は無ぇ。ただ「人間の魂のために」働く意志さえあればいい。さぁ、準備が出来た奴から名乗りをあげろ!」
――ウォォォォォォオオオ、と地響きのような大歓声があがった。やがて金色の光が消えると、最下層はかつてないほど多くの悪魔たちで埋め尽くされる。茶髪を針のように逆立てた青年、濃紺の巻き髪や全身タトゥー。様々な姿の悪魔がいるが、ひとりひとりのオーラは今地獄で働いている者とは段違いだ。
彼らは皆、五百年前にサタンとともに働いていた悪魔。ケルベスに唆されて天使を傷つけ、十三条違反で地獄に堕ちた。その彼らの多くを、サタンは同時に復活させたのだった。
(すげぇ)
カイルは柱の陰から息を殺してそれを見ていた。魔王や悪魔は敵だと思っていた。地獄はただ人間を苦しめるためにあるのだと思っていた。しかし彼らは、この恐ろしい場所が人間のためにあるのだという。犯した罪を償う場としての「地獄」。彼らは今も昔もただ真面目に、そこで働いているだけなのだ。
(ほんと馬鹿みたいだ、俺……)
カイルは目を凝らしたが、柱の陰から目当ての女性は見つからない。藤色の髪を靡かせた絶世の美女。彼女はあの中にいるのだろうか。いたとして、大勢の悪魔を殺した自分に、また会ってくれるだろうか。
「ミア」
やがて魔王が呼びかけたその声に、カイルの心臓が跳ねた。僅かに身を乗り出すと、彼女がサタンの元にとんでくるのが見える。
「魔王様ーっ!!」
彼女は両手を広げてサタンに飛びつき、細い腕を彼の首に回している。以前ならそれを見て多大なる嫉妬に襲われたであろうカイルだが、今はただ胸が痛んだ。彼の視界の中で、彼女の背中が震えているから。そして、彼女を抱きしめるサタンの表情が、父親のように優しかったから。
「久しぶりだな」
「も。会えないかと、思っ……」
「そうだな。また一緒に働いてくれるか?」
サタンの大きな手が藤色の髪を梳く。彼女が何度もうなずいてるのを見て、カイルはそこに自分の役割は無いのだと理解した。最初から守る必要なんてなかったのだ。
(じゃあな、ミア……幸せに)
カイルは柱の陰に隠れたまま、寂しそうに微笑んだ。彼の影が薄くなり、白く光って消えていく。聖剣がカランと落ちる音にサタンが気がついたときには、もうカイルの姿はどこにもなかった。
「何だよ。気が早い奴だな」
挨拶くらいしていけばいいのに、と思いながら、サタンはただの剣と化した聖剣を拾った。驚くミアに先ほどまでカイルがいたことを伝え、最後にお節介をと付け加える。
「あいつから伝言。その黒い翼、最高に似合ってるってよ」
「ふふ。魔王様の嘘つき」
ミアは笑ったが、その目尻には密かに涙が光っていた。サタンから渡された聖剣を抱きしめると、衝撃の事実が告げられる。
「お前は後で俺と煉獄な。お前の後継者紹介するから」
「後継者!? え、待って! 私リーダークビ??」
「ははっ! さてな」
復活早々引退の危機に頭を抱えるミアを揶揄うように笑い、サタンは他の大勢の悪魔を連れて、残党狩りに向かったのだった。




