第九十五話 不正所持者に不運を齎す王の印
「あれが、堕天使」
ハルトはあの空色の手帳に描かれた愛らしい天使と目の前に現れた無表情で冷たい瞳とのギャップに驚いた。愛する人がこれほどまでに変わってしまう。もしも誰かが原因で恋人がこうなってしまったら、自分はその人を恨まずにいられるだろうか。
「ケルベスさん……可哀想に」
リリィも同じことを思ったようで、敵への同情の気持ちが口から零れ落ちた。天使だったときの彼女を知るシルヴィアは、より悲痛な面持ちで彼女を見ている。
「あいつは馬鹿よ……こんな姿のままで復活することが、あの子の望みなわけないじゃないの……」
堕天使の温度の無い濃緑の瞳がシルヴィアとリリィのいる方へ向き、ふたりは急いで白い翼を消した。ルシファーは天使を狙う。刺激させないようにする事が大事だ。
「ルシファー」
目標の白い翼が視界から消え、ルシファーは興味を失ったように視線を外した。無表情でぼんやり浮いたままのルシファーのもとへ、すぐにケルベスが飛んでくる。
優しげに愛しげに。彼女の隣に並んだ、少し欠けた黒い翼。しかし彼はもう悪魔ではなかった。赤褐色の瞳の下に鋭い牙を光らせ、身体中を漆黒の毛で覆いつくした四足歩行の獣の姿。
「ケルベスさんって……動物にも変身出来たり」
「しないわよ」
「力がうまく制御できずに魔物化する悪魔がたまにいる。理性が残ってるところを見ると、わざと暴走させたな」
サタンが舌打ち交じりに言ったところで、弾丸のように飛んできたクロムが状況を把握しようとあたりを見回す。
「……状況は?」
「見ろよ。最悪」
「魔物化? なぜこんなことに」
「法律違反がよほど嫌だったらしい」
魔物は悪魔ではない。獣に地獄法を説いても無意味。先程の十八条違反は、無かったことになる。
「振り出しに戻ったじゃねぇか」
「むしろ悪化してますが」
「あ。でも良い事もあるかもです」
「ハルトさん?」
「ほら、金印」
ハルトが伸ばした指の先を、全員の視線が追った。金に輝く丸い印が獣の首にかけられている。先程まではしっかり手に持つか隠されていたので、多少奪いやすくなっていた。
「魔王様……確認ですけど、魔物は「他種族」に」
「該当しねぇが、金印持ってる」
「金印万能すぎません?」
「最強の盾だな……っと」
魔物の鋭い牙がサタンを狙った。空中で闘牛士のような身のこなしを見せたサタンに、今度は鋭利な爪が襲い掛かる。殺すつもりで来ている敵に対し、サタンはかすり傷ひとつ負わせられない。しかし、サタンは表情に余裕をうかべていた。
「よっし金印獲りにいくぞ! ハルト、殺すつもりで行け。シルヴィアはハルトが怪我したらすぐ行けるように準備しとけ。俺とクロムは援護に回る。それとリリィ」
「はい」
サタンはケルベスから視線を外さないままリリィの頭上に栞を落とした。ひらりひらりと落ちていく虹色を、リリィが瞬間移動でキャッチする。
「これ持って一度天国行け。近況報告と、栞の加工……おい、今の医療棟の奴らでもコレ外す技術くらいあんだろ?」
「貴重な薬草保存するのと同じだから大丈夫よ。医療棟にいるファルコに頼みなさい」
「ファルコさんですね。わかりました」
シルヴィアの言葉に頷いたリリィが消えた。ハルトは右手に水鉄砲、左手に聖剣を構え、ケルベスの首の金印に意識を集中する。しかし、その聖なる光に反応したルシファーが、横から素早く飛んできた。
「! ルシファーさん!」
ハルトは咄嗟に水鉄砲を撃った。水の矢がルシファーの腕に命中し、黒い煙があがる。
「ギャァァアア」
「ルシファー!」
彼女の元へ行こうとしたケルベスの前に、クロムが氷の壁を作った。足止めをしている間に、シルヴィアがルシファーの元へと向かう。
「シルヴィアさん! 危ないです」
「大丈夫よ。ルシファー、ごめんね」
仲間だろうと敵だろうと、怪我人を放っておけないのは癒しの天使の性。シルヴィアはルシファーの焦点の合わない瞳をのぞきこんだ。ルシファーは天使の身体を引き裂こうと長い爪を光らせていたが、新緑の光が怪我した腕を優しく包むと、少しの間動きを止める。
「あたしは怪我ならなんでも治せる。だけど、あんたが本当に治したいのはこんな傷じゃないものね」
シルヴィアは悔しそうに言った。即死以外は何でも治すといいながら、その効果は身体の異常に限られるのだ。
「心は一瞬で深く傷つくのに、治すのには膨大な時間がかかる。あたしのこの力で少しでも楽になるなら、あんたに全部あげてもいいわ」
「シル! お前また……っ!」
「余所見するとは余裕だな」
シルヴィアを気遣ったクロムに、ケルベスの鋭い牙が襲い掛かった。それをクロムは余裕で躱し、ケルベスの鼻先からわずか数センチのところに威嚇用の小さな雷を落とす。サタンが後ろで眉を顰めた。
「危ねっ。もっと余裕持てよ」
「ちゃんと計算してます……あっちどうなってます?」
「あのままだとやべぇな」
サタンが小手を翳して目を細め、淡い緑色の光に包まれたふたりの姿を見る。ルシファーは完全に動きを止め、シルヴィアは凄まじい勢いで癒しの力を使っていた。
「大丈夫です。援護します」
また彼女は力を使い切って人間になってしまうのではないか。そんなサタンとクロムの不安を、ハルトの力強い声が解消する。反対方向から同じように光の出処をみているハルトは、銀色の銃を構えていた。
「ふん。あそこから撃ってもルシファーには当たらない」
ケルベスが言った通り、ハルトの目の前にはシルヴィアの大きな白い翼が広がっていて、ルシファーはその向こう側にいる。しかしハルトは余裕の表情で、銃身を白く光らせた。
「狙ってるのは、ルシファーさんじゃありません」
銀色の銃から勢いよく水の矢が飛び出した。周辺の景色が白く染まって見えるほどの聖なるオーラ。その矢は、天国一美しい翼に真っ直ぐ突き刺さっていく。
「あら。気が利くじゃない」
「お返しします」
「そういや回復機能付きだったな」
「もともと彼女の力ですから、失った癒しの力も補填できそうですね」
シルヴィアの翼が一層艶やかに、しなやかに広がったのを見て、サタンとクロムは安堵の息を吐く。ハルトはその翼越しに見えるルシファーのぼんやりとした表情がだんだんとはっきりしていくのを静かに見ていた。
「し……るばー……さま……?」
濃緑の瞳に輝きが宿った。シルヴィアは何も言わずに彼女の頬に優しく触れる。全てを許容する天使の微笑みが、彼女の心を溶かしていった。
彼女を正気に戻せても、その黒い翼までは元に戻せない。今はこれ以上罪を重ねないように、すべてが終わるまで眠らせてあげよう。シルヴィアはそのつもりだったし、それが最善だと誰もが思っていた。この場にいる、ただひとりを除いて。
「ルシファー!」
「駄目だ。行くなケルベス」
正気を取り戻した愛しい恋人。ならば一刻も早く彼女の元へと馳せ参じたい。彼女に向かって飛んだケルベスの行く手はクロムが阻んだ。射貫くような薄墨色から感じられるのは、敵に向ける憎悪ではない。かつての同僚への憐憫の情だ。
「そんな姿で会うつもりか」
「どんな姿だっていいだろう。彼女の視界に映るのなら、向けられるのが殺意だって構うものか」
「目ぇ醒ませアホが」
サタンもルシファーからケルベスを隠すような位置に動いた。恋人が自分を助けるために獣に身を堕としたと知ったら、彼女の精神的ダメージは計り知れない。
しかし、ケルベスにはそんなことまで考える余裕はなかった。五百年待ち望んだ恋人との再会。どんな姿でも、どんな状況でも良い。ただ、会いたい。
「ルシファー!!」
「……けるべす? ケルベス!」
「ちょっ、ダメ! そっちに行ったら……」
「ケルベス!?」
力の限り叫んだケルベスに、ルシファーが反応した。声の主を探して黒く染まった翼を動かし向かうが、彼はもう悪魔ではなくなっていた。正気を取り戻したばかりの濃緑の瞳が、黒い獣を見て驚愕に見開かれる。
「……嘘……どうして、こんな……」
「ルシファー」
見つかってしまったなら仕方ないとサタンとクロムが道を開け、ケルベスはその中央を飛んで行った。少し欠けた黒い翼はそのままだが、彼はもう獣の姿。彼女をその腕に抱くことはできず、ただ愛し気に鼻先を寄せる。
「私のせいなの?」
「違う。俺が望んだ」
「でも私のせいだわ」
「そうじゃない」
ルシファーは瞳を伏せ、ケルベスの黒い艶やかな毛並みに顔を埋めた。全員が静かに見守る中、空中で身を寄せ合う二人。しかし、ふとルシファーが顔を上げた。ケルベスの首から下げられている金の印。これはいったい何なのか。
「ケルベス。これは……」
「待て! ダメだ、触るな」
ケルベスは身を捩って避けようとしたが、彼女が興味深げにそれに触れるほうが早かった。ほんの少し指先に金色が触れただけのことだったが、サタンの仕込んだ「防犯システム」は強力だ。彼女の心の奥に沈ませた闇は、瞬く間に彼女自身を吞み込んだ。
「あああああああ」
「待て、大丈夫だ。俺がついてる。落ち着けルシファー」
ケルベスは落ち着かせようと彼女に身を寄せるが、四足歩行の獣の姿では彼女を胸に抱くことは叶わない。ルシファーの全身から闇が噴き出し辺りが黒く染まっていく。闇の中から再び彼女が現れた時、彼女の瞳は再び冷え切っていた。
「運命って残酷なことするよな」
サタンの残念そうな声に、全員が心の中で同意した。更に悪いことに、彼女の悲哀に同調するように、ケルベスの瞳が濁っていくのがわかる。僅かな理性が本能に押し潰されそうになるのを、彼は必死で耐えていた。
「邪魔者は……殺してやる!」
真っ直ぐクロムに向かっていったケルベス。しかしその牙が彼に届く前に、ハルトの聖剣から放たれた球が彼の鼻先で弾ける。強い光に目が眩んで、黒い獣は一瞬怯んだ。
「くっ……小癪な」
「もう少し動きを止められれば」
「いや違うな。激しく動かせ」
「え?」
クロムの言葉に、ハルトは首を傾げた。金印を奪うために動きを止めるつもりが、彼の指示は真逆だ。確認しようとサタンを見たら、彼は軽く肩を竦めた。
「わっかんねぇけど何かあんだろ」
「なら、そうします」
ハルトはケルベスの胴体を狙って水鉄砲を撃った。避けるのを見越して威力は抑え目だが、そのぶん何発も何発も、ケルベスの身体を狙った水の矢が弾けては消えていく。ケルベスは何度も迫ってくる水の矢を避けるため、滝の周辺を忙しく動き回った。
「おのれ。人間ごときが調子に乗って」
「ハルトですってば」
「名を呼ぶ価値もない死に損ないだ」
「自称マスターさんって呼んじゃいますよ」
「お前に馬鹿にされる謂れはない!」
何十発目かの水の矢を避けた時、ケルベスはハルトの隙を見つけて大きく迫った。瞬間移動が間に合わないほどその動きは素早く、ハルトは咄嗟に目を閉じる。
「グワァァァアア!」
しかし、その牙がハルトに届くことはなかった。予想していた痛みの代わりに、天井から真っ直ぐ獣の胴体目掛けて降りてきた雷の強い光が、瞼の向こうで感じられる。
「黒谷さん!?」
ハルトは目を細めて光に慣れながら、少しずつ視界を広くしていった。しかし確認しなくても、今の雷をクロムが撃ったという事は明白だ。
「はは……ははは! まさか人間ごときを庇って地獄に堕ちるとはな!」
ハルトの目の前で、身体から黒い煙をあげた獣がよろめきながら笑っている。その少し後ろではクロムが常の無表情で彼を見ていた。
金印を持つものを傷つけてはならないという法があるのを知りながら、彼はケルベスを傷つけた。普通に考えれば、彼の地獄行きが決まったと誰もが思うだろう。
しかし、ハルトもサタンもシルヴィアも、誰も悲痛な表情を浮かべていない。そこにあるのは、決して衝動に身を任せない彼への信頼だ。
「いつの間に取れたのかしら」
「激しく動かせってそういう事だったんですね」
「いつ細工したんだよ?」
「ハルトに渡した時点で、敵の手に渡る可能性は織り込み済みです」
「僕って信用ないです?」
「優しいってことよ」
ハルトを中心に降り立った四人の会話を聞いて、ケルベスは首から下げていた金印がなくなっていることに初めて気が付いた。慌ててクロムを見ると、彼の手には、吸い付くように自然に王の証がおさまっている。
金の印に取り付けられたその革紐の切れ方は、極めて不自然だった。




