第九十話 人生は予想外の連続(後編)
「ルナ様!」
「ルナ様だ」
周囲の悪魔が騒ぎ出す。この場にいる悪魔の中には、ルナの管轄の者もいる。班長よりもリーダーの命を優先すべきだと動きかけた黒い翼に、クレハは呼びかけた。
「彼女は「裏切者」よ。今あちら側に行けば、あなたたちも侵略者の仲間として処理するからそのつもりでいなさい」
「裏切る? 私は、あなた方の仲間だと思ったことは一度もありませんわよ」
厳しい視線でルナを睨んだクレハを、彼女は鼻で笑った。一触即発の空気の中で、悪魔たちは気まずそうにクレハの側に立つ。やはりマスターの力は強いようだ。
「すみません、リーダー……」
ぼそりと悪魔の一人が言った。悪魔たちは申し訳なさそうに頭を下げるが、ルナはそれには答えずにクレハを真っ直ぐに見ていた。
「残念ですわね。あまり悪魔が減ってしまうと、地獄の運営に差し支えますのに……あなたたちはそんな事も考えていないのでしょう? お気楽ですわね」
「ふん。あなたがいなくなれば、悪魔はこれ以上減らないのよ。天使や人間なんかと遊んでるあなたよりずっと、私のほうが役に立っているわ!」
クレハは眉を吊り上げた。自分よりも遥かに若く精神的にも未熟ながら、生まれながらの力の強さだけで「リーダー」という地位を手にしている女。地獄にたった二人しかいないその地位は、クレハが喉から手が出るほど欲しいものだ。
「あなたよりも私の方が、リーダーに相応しいはずよ」
「その火傷だらけの肌は最下層の炎で? 力が足りないのですわね、可哀想に」
「魅了を使いこなせないあなたに言われたくないわ。まだお子様だものね」
「何ですって?」
「何か?」
今にも激しい戦闘が始まりそうな不穏な空気に、他の者は身動き一つ取れない。周囲に見守られながら、ルナは肩に担いでいた大鎌をクレハに向けた。
「魅惑の悪魔が武器ですって。笑えるわね」
「そういうあなたは何の悪魔ですの? あぁ、ただの一般悪魔でしたわね。失礼」
「なめんじゃないわよ!」
蔑むような瑠奈の視線に激昂したクレハが走った。紫色の煙が彼女の全身から立ち昇り、そのままルナに向かってくる。
「毒が来ますわよ。聖夜さん、下がって」
「わかった」
聖夜は大人しく下がった。経験上、女性同士の争いに男が割って入るべきではない。それに聖夜には、他にも気になることがあったのだ。
(聖剣……カイルさん、兄さんいなくても動けるのかな)
聖夜は壁際まで下がり、天秤の前の白いタイルに転がっている聖なる剣を見た。そこには燃えるような赤い髪の剣士が、蜃気楼のようにゆらりと立っているのが見える。
しかしおそらく、他の誰にも見えていないのだろう。この場には多くの悪魔がいるが、剣に注目している者はひとりもいない。
(今僕が拾ったら……いや、取り憑かれるかも)
あれを拾ったら武器になるだろうか。そう思ってはみたものの、万が一兄の二の舞になったら目も当てられない。そんな事を思っていたら、カイルがこちらを見た気がした。聖夜が軽く手を振って応じると、向こうは怪訝な顔をする。
「見えてるんだ……あ」
もしかしたら話も出来るかもしれないと考えていると、カイルが動いた。幻のように半透明のまま、床に落ちている剣を拾ってゆっくりと構える。聖夜はその剣先が自分の方に向くのをのんびりと眺めているように見えるが、彼の意識はその先の天秤を囲む防護壁にあった。
「防護壁にいればよかったんだ……」
聖夜には武器も能力もない。力不足で自分が斬られるのは仕方ないが、ルナの邪魔になるのだけは避けたかった。今からでも行けるだろうかと考えて、先ほどのカイルの速さと自分の普段の走る速さを脳内で比べる。どう考えても間に合わない。
(逃げ足は速いってよく言われるけどなぁ……)
カイルと目が合った。彼の赤い瞳をじっと見たまま、聖夜は鞄を床に下ろした。軽く膝を曲げ、いつでも動けるよう心の準備をはじめる。
聖夜の目は今にもこちらに斬りかかろうとしている彼の姿がよく視えているが、他の人からはどんな風に見えるのだろう。やはり聖剣がひとりでに動いているように見えるのだろうか。そんな事を考えていると、階段前に集まっている黒い翼の塊の中から、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「剣が動いてるぞ!」
「え?」
「何ですって!?」
激しく戦っていたクレハとルナが同時に剣を見る。それを合図に聖夜は走った。カイルが大きく剣を振り上げながら、聖夜の方へと向かってくる。聖夜は恐怖に正面から立ち向かおうと敢えて鋭い剣の先を見つめ、それが振り下ろされるタイミングで横に飛んだ。
「聖夜さん!」
「大丈夫気にしないで!」
こちらを気遣うようなルナの声に応えるが、今彼女の方を見る余裕はない。素早く体勢を整えて防護壁を目指す聖夜の後ろから、カイルが追いかけてくる。
(やば……ぎりぎりかな)
とりあえず防護壁までいけば、ルナに迷惑をかけずにすむ。聖夜はそれだけを考えて走っていた。彼女を守って斬られるならまだしも、逃げているときに背中から刺されるなんて格好悪いのは死んでも嫌だと、その必死さが足を速める。が、しかし。
「危ないっ……きゃぁあ!」
背後で、世界一聞きたくない音が聞こえた。現実を受け入れたくない気持ちが聖夜の動きを鈍らせるが、震える身体に喝を入れて、彼は振り向いた。
「瑠奈ちゃん……?」
聖剣から聖夜を庇う位置に立って、ルナは右腕を押さえていた。そこから黒い煙があがり、白いタイルが血に染まる。致命傷ではなさそうだ。しかし、だから良かったとは思えない。意中の女性に怪我をさせた。聖夜の人生で、これほど悔やまれることは無い。
「平気ですわ。こんなのかすり傷ですもの」
「平気なわけないだろ!」
聖夜は珍しく怒っていた。それをルナは意外そうに見ている。彼女の感覚では、悪魔が人間を庇うのは当然のことだ。
「悪魔は人間よりも丈夫にできています。戦えないあなたが守られるのは当たり前の事」
「僕は頼んでない」
「頼まれないと動けないのは三流以下の言い訳ですわ」
「相手の要望を正確に把握できないのは一流とは言えないらしいよ……僕の望みは、君の無事だけだ」
彼女に当たりたいわけではないのに、自身への苛立ちから冷たい声しか出てこない。とにかく彼女の傷を確かめなければと、聖夜がルナの近くへ向かう。歩きながらカイルを見ると、彼は何故かショックを受けたように固まっていた。
「ミア……」
聖夜の耳にはっきりと、聞いた事のない名前が届く。自分だけに聞こえたのか確かめようと口を開きかけたところで、今度は横からクレハが黒い翼をいっぱいに広げて飛んできた。
「あははっ! 人間なんか庇っちゃって。ばっかみたい」
「その黒い翼は飾りですの? まさか地獄は悪魔のためにある、なんて思い上がってはいないでしょうね」
ルナは腕を押さえるのをやめて、正面からクレハを見た。毒針を構えたクレハには何の武器が有効だろう。そんなことを考えていると、聖夜が隣に立つ気配がする。
「大人しく防護壁に入っていてくださらない? あなたを守りながら戦うのは手間ですのよ」
刺々しく聞こえるだろうが本心だ。個人的な好き嫌いはどうあれ、仲間に怪我をさせる気は無い。ルナは早く行けという意味を込めて聖夜を横目で睨んだ。
しかし、彼は動かない。視線を辿るとルナの右腕、先程聖剣に斬られたあたりを見ている。
「ごめんね。僕がただの人間だから、瑠奈ちゃんに負担かけてるんだ」
聖夜はごく自然に瑠奈の右手を取って、自分の胸の辺りまで持ち上げた。エスコートのような仕草だが、毒針を構えた敵を前にする事では無い。
「あなた。何のつもりで……」
「あら、可愛いわね。お子様同士お似合いじゃ無いの。いいわよ、見ててあげるから」
クレハが笑った。その嘲笑めいた視線を受けても聖夜は少しも動じない。彼の視線がルナの瞳から傷ついた腕へ。そして傷跡を辿り、切り傷から血が滴る手の甲へと移る。
「そろそろ、ちゃんと役に立つよ」
普段通りの軽い調子でそう言って、聖夜はルナの手の甲に唇を寄せ、赤い舌で彼女の血をほんの少し舐め取った。
「聖夜、さん……?」
驚いたルナがすぐに手を引き一歩下がる。それと同時に、聖夜の全身から魔のオーラが噴き出すように勢いよく溢れた。
「何!?」
警戒したクレハが大きく下がり、階段前の悪魔たちが騒めく。ルナは茫然と、目の前の青年の背中から黒い翼が生えてくるのを眺めていた。
「へえ。羽も生えてくるんだ。お得だね」
周囲の反応とは違い、当の本人は平然としている。先ほどから読んでいた本の題名は「悪魔の契約」。サタンが授けた知恵は、契約には悪魔の血が必要だという事。契約者は地獄に堕ちる可能性があるというのも、抜かりなく把握済みだ。
「あなたっ、何てことを!」
「やったね。これで契約関係だ」
「私は同意しておりませんが!?」
ルナは眉を吊り上げて怒っている。今までの冷たい視線とは違う、はっきりと感情の籠った怒りだ。なぜ自分の許可もなく契約が出来てしまうのか。そう詰め寄られても、聖夜は微笑みを崩さない。
「魔王様の許可、貰ってるから」
「……魔王様……何てこと……」
得意げにサタンの署名付きの紙をひらりと振った聖夜の前に、ルナは崩れ落ちた。魔王の指示なら仕方ないのかもしれない。が、そう簡単に受け入れられるものではない。
「……私は本当に、あなたの事がわからない……」
長い地獄の歴史の中で、悪魔と契約した人間などいない。自ら地獄に堕ちようという人間などいないはずだ。放っておいても地獄行きになりそうな人間ならばまだしも、聖夜のオーラは天使に見紛うほどだったというのに。
「あなたは、確実に天国に行けますのに……」
「僕は、兄さんとは違うよ」
聖夜は黒い翼を動かした。契約元のルナには及ばないが、それでも一般的な悪魔とは比べものにならないほど強力な魔の気配が出ている。
「僕の点数が良かったのは、良い事をしてるんじゃなくて面倒ごとを避け続けた結果だ。特に悪い事をしてないってだけで、本当はそれほど良い子じゃないんだよ。君が望むなら天使もいいと思ってたけど、悪魔の方が役に立つならそれもいい。ほら、カエルより格好いいし」
「地獄に堕ちたりしない分、蛙の方がずっとましでしたわ」
ルナの刺すような視線を微笑みで返して、聖夜は満足そうに自身の黒い翼を見た。次に壁際に止まっている一羽のコウモリと目を合わせる。地獄のコウモリは「吸血蝙蝠」というれっきとした魔物だ。聖夜は黒い瞳を怪しく光らせ、女性を口説く時のように甘く優しく呼びかけた。
「おいで」
コウモリが真っ直ぐ飛んできて、聖夜の肩に止まった。「魅了は魔物にも有効」。ルナの能力など何も知らないはずなのに、彼はもう使いこなしている。
「あなた……本当に何者……」
もう何度目かもわからない同じ質問を、ルナは繰り返した。彼の事が理解できない。こんな人間見たことが無い。悪魔を恐れ、地獄を恐れ、天の国に近づこうとする、それが人間のはずだ。
「聖聖夜」
ルナの問いに答えながら三匹目のコウモリを腕に止めた聖夜は、もう人間とは呼べないのかもしれない。しかし彼はそれを少しも気にしていない。翼があっても無くても、纏うオーラの種類がどうあれ、自分は自分でしかないのだから。
「好きな子のためなら天使にも悪魔にもなれる。僕は、馬鹿で間抜けな「ただの聖夜」だ」
瞳が怪しく光るたび、彼の手下が増えていく。この日初めて誕生した「魔物使い」は、悪魔ではなく「人間」だった。




