第八十八話 消えた翼と残った羽根と
「先生!」
ハルトとリリィが浅黄を支える。空中に浮いていた仲間も降りてきて、浅黄を囲むように話し合いが行われた。
「とりあえず防護壁の内側に運ぶのが安全か」
「俺が運びます」
クロムが浅黄の身体を持ち上げようとすると、リリィが慌てて言った。
「あ、私が瞬間移動で人間界に降ろします! その方がいいと思うんです」
「そうね。お店の二階に寝かせとけば全部夢だと思うかも」
「そうだな。頼む」
「じゃあ行ってきますね」
思い立ったら即行動、を父の手帳で学んだリリィが浅黄とともにすぐに消えた。しかし拠点であるケーキ屋を知らないサタンは首を傾げている。
「店?」
「後で詳しく話します」
「見たらきっとびっくりするわよ」
「クロムはとても成長したからね」
ふふ、とシルヴィアとミカエルが微笑み、クロムは少し気まずそうに視線を逸らした。サタンが不思議がっている少し離れたところでは、ルナが聖夜を横目で睨んでいる。
「あなたも帰った方がよろしいのでは?」
「ここまで関わって、途中でなんか帰れないよ」
聖夜は読みかけの本にまたも視線を落としている。いつの間にかカバーがかけられており、表紙から中身を予想する事が出来なくなっていた。
「何の本ですの?」
「さあねー」
何かの役に立つかもと資料室から抜き出した一冊の本。役に立てるヒントがあるかもと立ったまま読み進めていく聖夜の肩に、ポン、と冷たい手が乗った。
「どれどれ?」
「あ」
サタンが聖夜から本を奪い、パラパラ捲る。たった数十秒で薄い本の全てのページを捲ったサタンは、呆れた溜息とともに本を返した。
「お前いい感じにイカれてんな」
「いけると思います?」
「さてな。保証はできねぇが……」
サタン聖夜だけに聞こえるように、何事かを耳うちした。その時、リリィの明るい声が聞こえる。
「ただいま帰りましたっ!」
シュッと白い翼が現れ……たような気がした。しかしいくら待っても、どこを見ても、輝くような金髪は現れない。
「リリィ?」
ハルトは嫌な予感に跳ねる鼓動を落ち着かせようと胸を押さえた。他の面々も周囲に視線を走らせたが、リリィはどこにも見当たらないのだ。
「リリィ! リリィ!?」
「戻ってきたわよね?」
「確かに声はしたな」
「でも姿は一度も見えませんでしたわ」
「いや。一瞬、見えたような気がするんだ。リリィの気配は確かに戻ってきていた」
大声で呼びかけながら走り回るハルト。翼を広げ、飛びながら探すシルヴィア、クロム、ルナの三人。ミカエルが目を閉じ、集中してリリィの気配を探った。
「どうだ?」
「駄目だ、今は感じないよ。リリィはおそらくここにはいない」
首を振るミカエルの言葉に、ピンと緊張の糸が張った。敵には姿を消せる者がいる。もしかしたら、連れ去られたのかもしれない。
「……天使の姿を消すのは、十三条違反に当たるのだろうか」
「グレーだが、黒に近い。軽い罰で済むだろうが無罪というわけにはいかねぇな。ケルベスはそんなに馬鹿じゃねぇ。実行犯はおそらく下っ端だろ」
サタンが地獄へ繋がる階段を見た時には、既に数段下りて座り込んでいる後ろ姿があった。翼のない小柄な少年がふらりと立ち上がり、そのまま下っていこうとしている。
「おい! 待て……」
「ハルト!」
サタンが声をかけようとした横を、クロムが追い越した。容赦なくハルトの両脇を掴み、天秤前まで連れてくる。
「離してください! 早く行かないと……」
「お前が走るより俺の方が速い」
「あたしはもっと速いわ。だから大丈夫、ね」
シルヴィアがハルトの蒼白な顔をのぞき込み、安心させるように手を握った。ハルトの手に握られていたのは、純白の一本の羽根だ。
「これが階段に落ちてました。リリィの羽根です」
「確かにあの子の羽根ね」
「間違いないよ」
シルヴィアとミカエルもそれを見て頷く。天使の羽根はひとりでに抜けるものではない。おそらく自分の位置を伝えるために、リリィが自ら抜いたのだ。
「階段にあったって事は、行き先は地獄だな……姫を救うのは勇者の仕事だ。気合い入れろよ」
厳しい表情に少しだけ揶揄うような笑みを乗せて、サタンはハルトを見た。リリィとの事は言っていないはずだが、おそらく見抜かれているのだろう。
「気をつけてね。煉獄は任せて」
聖夜がハルトの肩をポンと叩いた。何の武器もないのに自信満々なのはどういう事かとルナが胡乱な目を向けているが、彼は綺麗にスルーしている。
ハルトは再び羽根を見ながら、リリィと初めて会ったあの日を思い出していた。翼がなくても天使のように見えた、美しく可憐な少女。本当に天使なのだと泣きながら伝えられた時は、彼女の事を不審者に違いないと疑ったものだ。
(この羽根から、全てが始まったんだ)
あの日この羽根を手にしていなかったら、ハルトは地獄に堕ちていた。命の恩人はいつしか特別な天使に。今度は自分が助ける番だと決意を新たにしたハルトの全身が白く輝く。
「行きましょ」
ごく自然にハルトを抱えたのはシルヴィアだ。地獄に行くメンバーのうち、唯一の天使。聖なるオーラで戦う勇者に安全に触れられるのは彼女しかいない。
「悪いな。俺が抱えていきたかったが……」
「どう考えてもあたしの役目よ。こう見えても力あんのよ」
申し訳なさそうにシルヴィアを見るクロムに、彼女は余裕の笑みを浮かべた。大きな白い翼がしなやかに広がる。ハルトの腰に回された腕は細身だが筋肉がついていて思ったよりもしっかりした体つきをしていた。ハルトは改めて、彼女の身体的性別が男性なのだと理解した。それと同時に、彼女から仄かに香る爽やかな植物のような香りと化粧品特有の香りには女性らしさを感じるのだから不思議だ。
(やっぱり素敵な人だな)
頼もしさと美しさがこれほどバランスよく同居しているひとは他にいないだろうと、ハルトは心の中だけでそう思った。不安を全て消してくれるような安心感。更にクロムと魔王まで一緒なのだから、不可能は無いように思える。
(リリィ……必ず助けるから、無事でいて)
祈るように聖剣を握るハルト。ばさりと白い翼が羽ばたき、ふたりの身体が宙に浮いた。既に階段近くに移動していたサタンとクロムは、振り返ってハルト達の方を見ている。
「よっし、準備はいいな。行くぞ」
「気をつけろ」
「大丈夫よ」
「いってらっしゃい」
「煉獄の事は心配なさらず」
「全員無事で帰ってくるんだよ」
「はい。必ずリリィも一緒に帰ります」
最後のハルトの言葉を合図に、三つの翼は地獄へ下る。
ほどなくミカエルは天国の様子を見に戻り、ルナと聖夜のふたりだけが残った煉獄。その間白いタイルの上に残されたままの先代勇者の剣が再び聖なるオーラを集めてゆっくりと光っていくのには、誰も気づいていなかった。




