第八十七話 隠れた数字は努力の証
(あれ?)
浅黄の剣を受けながら、ハルトは首を傾げた。今まで迷いなく斬りかかってきた彼の手が、少し震えているように思えるのだ。
「先生! 浅黄先生!?」
もしかしたら、意識が戻る前触れかもしれない。そう思って、ハルトは何度も浅黄の名を呼んだ。それを見ていた聖夜が、空から叫ぶ。
「カイルさんがちょっと薄くなってる! 兄さん戻ってくるかも!」
「お。やるなハルト」
「ハルトさん、もう少しです!」
サタンが感心したように腕を組み、リリィが励ますように大きく手を振った。ハルトは浅黄を注意深く観察する。氷のようだった無表情が辛そうに歪んでいるように見えた。
「先生!」
――ダンッ、と浅黄がまた白いタイルを蹴る。振り下ろされた剣を自分の聖剣でふわりと受けながら、瞬時に自分の正面に来た浅黄の顔をハルトは見た。心なしか浅黄の視線が左手の革手袋に注がれている気がして、ハルトは初めて疑問に思った。
(……先生、どうしてこの手袋付けてるんだろう?)
思えば彼と知り合ってからというもの、ハルトは浅黄が手袋を外している場面を見たことが無い。浅黄は左利きなので、チョークで汚れるのが嫌なのかと最初は思っていたが、職員室でも廊下でも準備室で珈琲を飲んでいる時も課外活動の時でさえ、浅黄の手にはいつでもこの革手袋がぴったりと嵌っているのだ。考えてみれば、少し異常である。
(どうしよう……すごく気になってきた)
今まで気にしたことが無かったくせに、戦闘の最中にそんなことが気になるなどやはり自分は勇者らしくないのではないか。そんな事を思いながら、ハルトは浅黄の革手袋をちらちら見た。その様子を空から見ていたクロムが不審に思い声をかける。
「どうした?」
「あ! えぇと……」
ハルトは大きく後ろに跳んで浅黄から距離を取り、浅黄から意識を離さないままにクロムの方を少しだけ見た。注意力散漫だと怒られるかもしれないと思った気持ちを見透かされたのか、クロムの眉が不審げに寄せられ、浅黄を囲むように氷の壁が出来あがった。
「……別に、戦闘中に新たな発見をするのは注意力不足とは言わん。何があった?」
「あ、あの。浅黄先生の手袋が、ちょっと気になって……」
「手袋?」
全員の視線が、聖剣を振り上げて氷の壁をガンガン壊している浅黄の手袋に注がれた。聖剣の白い輝きが少なくなるにつれ、一撃の威力も弱くなってきている。彼が氷を割るまで、少し時間が稼げるだろう。
「あー、確かにしてんな」
「人間界で流行しているわけではないのかい?」
「そんな流行無いわよ。今は夏だし、しかも片方だけでしょ? 言われてみれば変わってるわね」
「食事の時も頑なに外そうとしないらしいと、学校でも噂でしたわ」
「そうそう! 僕も気になって聞いてみたんだけど、なんかどうしても外せないらしいよ。確か……」
最後に口を開いた聖夜が記憶を辿るように斜め上を見て、それから続きを口にした。
「自分が自分でいるために必要。なんだって」
「自分が自分でいるため……」
ハルトは自分の左手を見た。そこには、地獄行きを示す数字がしっかりと刻まれている。
(……まさかね……)
もし先生の目に数字が見えていたとしたら、手袋で隠そうとする気持ちはハルトにも痛いほど理解できる。一度は首を振ってその想像を打ち消そうとした。しかし何度考えても、思いつくものがそれしかないのだ。
――ガッシャァァン
氷が割れる。また浅黄の無表情が迫ってきた。ハルトは自身の剣から左手を離し、浅黄の眼前に手の甲を見せつけるように押し出した。極めて危険な行為だが、そうしなければならないような気がした。
「数字。見えてますか?」
聖剣を振り上げたまま、浅黄の動きがぴたりと止まる。焦点の合わないはずの瞳が、少し揺らいだように見えた。
「先生」
ハルトは、浅黄の表情の変化を少しも見逃すまいと神経を集中させた。変わらず無表情に見えるが、よく見ると口元が何か強い感情を押し殺したときのように歪んでいる。ハルトは数字が初めて見えた時のことを思い出し、ゆっくりと浅黄に話しかけた。
「やっぱり見えるんですね。数字……すごくちょっとした事で動くんですよね。僕も最初は、数字が減るのが怖くて動けなくなりました」
ハルトは言った。浅黄は未だに剣を振りあげたままだが、その手が震えている。言葉は届いているのかもしれないと少し希望を抱きながら、ハルトは続けた。
「数字がずっと見えてるのって、怖いんです。一人でいても、常に誰かに見られてる気がして休めなかったり。疲れててぼうっとしている間に減ってたら、何で減ったのかずっと考えちゃったり。いい事して元に戻す事は出来るけど、数字が増えたら余計に、また減るのが怖くなるんですよね」
空の上で全員が見守る中、ハルトは正直な意見を口にした。このプレッシャーはおそらく、実際に経験した者にしかわからないだろう。浅黄がもし意識を取り戻したら、一晩中でも語り合いたいほどだ。
「でも、僕は凄く恵まれてるんです。だって、皆が助けてくれたから」
ハルトはちらりと上空の仲間たちを見た。ハルトの視線が外れたと同時に、また浅黄が動く。一歩踏み込んで振り下ろされた剣を、ハルトは今度は受けなかった。大きく横に跳んだハルトのいた場所に剣が当たり、ガキンッという固い音とともにタイルがいくつも割れて破片が飛ぶ。
(痛っ!)
その破片のひとつがハルトの腕に当たり、小さな傷が出来た。しかしハルトは気にせず浅黄に向かって走り、彼に向かって自分の聖剣を振り下ろした。
ポワン。と、およそ戦闘中とは思えない音が優しく響く。聖剣から出た白い輝きが浅黄に降りかかり、彼を捉えるように、透明な膜が囲っていった。
「リリィに説明してもらって、黒谷さんに拾ってもらって、シルヴィアさんに優しくしてもらって、ルークとミカエル様に心配してもらって。だから僕は、こんなにマイナスでも数字を気にせずいられるんです。先生はそれをたった独りで……平気なはず無い。きっと、すごく辛かったはずです」
「ハルトさん……」
ハルトの心に同調したリリィが眉を下げて悲しそうに呟く。仕方がなかったとはいえ、カウンターが見えるという事が人間にとってどれほどのプレッシャーを与えるのか、想像もしていなかったのだ。
「数字ってこれの事?」
「あなたにも見えるんですの?」
「はっきり見えたのはこっち来てからだよ。前はたまーに……ラッキーナンバーにしては何か桁多いし、不思議だったんだよね」
「能天気なのもたまには役に立ちますわね」
「瑠奈ちゃんの役に立つなら常に快晴にしと……うわっ! ごめん待って揺らさないで!」
「あんた息するように口説きにいくのやめなさいよ」
瑠奈に降り落とされる寸前の聖夜に、シルヴィアが突っ込む。隣ではクロムとミカエルが、サタンとカウンター制度の反省点を話し合っていた。
天秤が現役だった頃は生きている人間と触れ合う機会などほとんどなかった彼らは、カウンター制度を始めるにあたり、人間界の法律や規律についてかなり勉強したつもりだ。
しかし、それでも全てを把握するには至らない。崩壊寸前の天国や地獄を立て直しながらの新制度、イレギュラーにまで手が回らなかったのは事実だ。
「数字が見える人間にかかる精神的影響というのは想定しきれていませんでしたね」
「ハルト君が特別なケースだと思っていたが、他にも見えている人がいるとは……こちらのフォロー不足だ。申し訳ない事をしたよ」
「天秤も改正印もねぇ中でお前らもよく頑張ったと思うが、数字だけ見えてんのに説明もフォローもねぇってのは、相当精神に来るだろうな」
「そしてそんな厳しい状況の中で、相当な努力を重ねてきた。彼は間違いなく、素晴らしい人間だよ」
ミカエルが、聖なるオーラの球に閉じ込められている浅黄に慈悲深い笑みを浮かべる。彼の人生そのものを肯定するようなその言葉に、聖夜をのぞく全員が頷いた。彼らには手袋の下の数字が、はっきりと見えているのだ。
「もう大丈夫ですよ」
リリィが純白の翼を動かし、ふわりと降りた。優しく穏やかに輝く蒼い瞳に真っ直ぐ浅黄だけを映して、死者を迎えに来る天使本来の姿のように。
「浅黄さん」
ハルトが大きく下がって後ろから見守る中、リリィはオーラの球に手を入れた。球がパチンと割れて聖なるオーラの破片が飛び散り、ダイヤモンドダストのようにきらきら光ってゆっくりと二人の頭上に降り注ぐ。
「あなたは絶対に天国に行けます。だって、こんなに頑張っているんですから」
リリィは微笑みながら、浅黄の左手に触れた。カラン、と聖剣が足元に落ちたが、それに目を向ける者はいない。全員が、呆けたようにリリィを見る浅黄の表情に注目する中、リリィは優しく丁寧に、彼の革手袋を外していった。
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大量殺人を犯しでもしない限り地獄行きにはならないであろうその数字は、彼の努力の積み重ね。それを見て、浅黄の瞳に輝きが戻った。
「僕は……この、数字、は……」
「浅黄さんの頑張りの証です」
リリィは浅黄の手を取って、数字がしっかり見えるように浅黄の前に差し出した。ミカエルが指を鳴らすとそこら中に飛んでいたオーラの球がいっせいに割れ、光のシャワーが降り注ぐ。大広間の端から端までを繋ぐように架かった虹は、天国の王からのささやかな贈り物。
「綺麗だ」
浅黄の目から涙が零れる。光が降り注ぐ中、天使の手を取り向かう先は天国か。
「僕は……死んだのか?」
「いいえ。先生の人生は、ここから始まるんです」
ハルトが少し前に出て、浅黄に笑いかけた。数字を気にしなくてもいい人生が、この先に大きく広がっている。天使や悪魔にとってはただのシステム変更に過ぎない「数字の廃止」。けれど人間にとって、それは人生を変えるほどの大きな変化だ。
「この数字はもうすぐ消えてなくなる。外から見える部分だけを気にするんじゃなくて、何が良い事か悪い事か、全部自分の心で決めるんです。間違えることもあるかもしれないけど、それで良いんです。天国も地獄も、僕たち人間が、自分らしく生きた先にあるものだ」
天国も地獄も人間のためにある。しかし、そこは生きている時ではなく、死んで魂になってから初めて関わるべき場所だ。天使と悪魔が違うように、「人間」も、彼らとは全く違う生き物なのだから。
そして、生身の人間でありながら唯一死後の世界と関われる「勇者」という存在がどんなに特殊なものなのか。ハルトは今、自分の役割が初めてちゃんと理解できた気がした。
「先生すみません。勇者は、譲れません」
ハルトは浅黄に向かって頭を下げた。浅黄は笑って首を振る。それは生徒を見守る時の優しい笑顔と同じものだが、ハルトが苦手だと感じた作ったような胡散臭さはもう感じない。あたたかい、自然な笑顔だ。
「勇者は君にこそ相応しい。点数稼ぎではなく、僕は心からそう思うよ」
数字から解き放たれた浅黄の最初の言葉は、ハルトの心を勇気づけた。しっかり頷くハルトを見て安心したのか、浅黄はそこで、力尽きたように目を閉じた。




