第八十六話 大切なもの
「浅黄先生」
ハルトが、出来たばかりの聖剣を携えて前に出た。浅黄がハルトの方を向き、クロムが翼を動かし飛びあがる。
「リリィ。下がってて」
「はい。ハルトさん、気を付けて」
リリィもその場で飛んで、空からハルトを見守ることにした。浅黄は飛べないので、空中が最も安全なのだ。
「あの……先生、前言ってましたよね。巨大なシャボン玉作ってみようって。あの時僕、先生は凄いなって思ったんです。僕の適当な思い付きも、真剣に考えてくださって」
ハルトは浅黄に語り掛けながらゆっくりと歩いた。返事が返ってくるとは思っていないし、おそらく聞いていないだろうとも思っている。しかし、話をせずにはいられなかった。この「聖剣」を見て真っ先に思い出したのは、浅黄と結成した昔の遊び同好会の事だったからだ。
「正直、同好会の事は僕もノリで提案してしまって、面倒だとばかり思ってたんです。でも先生がとても親身になってくれて、そんな自分を反省しました。だから先生は、学校の人気者なんですよね」
ハルトは浅黄の前で止まった。浅黄はやはり無表情だ。こんな顔を見たのは初めてだなと改めて思った。彼は怒っている時以外はいつも笑顔なのだ。
「勇者は先生の夢だった。けど、これは違うと思いませんか? 先生は、「大切なもの」を守るために勇者になりたいんでしょう?」
浅黄の肩がピクリと動いた気がした。言葉が届いているのかと一瞬思ったが、表情は何も変わらない。浅黄はハルトに聖剣を向けた。ハルトも構えようと思って、そして我に返る。
(あ……どうやって構えればいいかわかんないや)
とりあえず、丸い剣先を浅黄に向けてみる。薄い膜がふるふる揺れた。果たしてこんなもので本当に戦えるのだろうか。不安になるハルトの頭上で、サタンが叫ぶ。
「来るぞ!」
浅黄が白いタイルを蹴った。ハルトが瞬きひとつする間に、もう浅黄はハルトに向けて聖剣を振り下ろしている。ハルトは反射的に剣先を空いている左手で持ち、横に構えて浅黄の剣を受けた。
「え?」
普通の剣同士なら、ガキンと音が鳴り火花が散るところだが、ハルトの剣ではそうはならなかった。浅黄の聖剣を受けた瞬間、ハルトの剣からふわりとオーラの玉が出る。中にはキラキラ輝く先代勇者の聖なるオーラ。浅黄の聖剣を纏う白い光が、少し薄くなった。
「武器も色々あるものだねぇ」
「衝撃を吸収してオーラを奪うのか……すげぇな」
「オーラが全部消えたら先代勇者も消えますかね」
「さあな。執念凄そうだし無理じゃね? ああいうの何、霊っつぅの?」
「聖夜くん詳しいんじゃない?」
「怨霊ですか? 霊媒師がいれば話せる事もあるんですけど」
「死者の魂との違いがわかりませんわね」
「あいつの魂はまだ最下層にあるはずだから、たぶん別物だな」
空中にふわふわ浮かぶ球体を見ながら、皆は好き勝手話している。下ではハルトが浅黄の剣を受けていて、そのたびに、きらきらした球体が何個も空に飛んでいった。
「綺麗ですね」
リリィが球体をひとつ持って、サタン達の元に合流した。サタンが興味深そうにそれを覗き込む。
「触れんのか」
「そうみたいです」
「ふうん」
「サタン様! 俺が試しますから下がっててください」
率先して触れようとしたサタンを止めて、慌ててクロムが前に出る。この雰囲気も久しぶりだなぁと思いながら、シルヴィアが言った。
「そういえばあんた補佐だったわね」
「今はお前が王だろ。お前が下がってろよ」
「仮です」
サタンからの揶揄いの眼差しにも目線を合わせないクロムは、余程王という立ち位置が嫌なようだ。継承の手続方法さえ知っていれば今すぐ返すのにと苛立ち気味に、聖なるオーラの球に触れる。
――パンッ
「お」
「割れましたわね」
「あんた平気?」
「別に何とも。ただ見えづらいな」
クロムが眩しそうに目を細めた。どうやら目眩し程度の効果はあるらしいと全員が頷いた。空気中に散った聖なるオーラは近くにいたリリィの翼に吸い込まれていき、翼が一瞬白く光る。
「「お気持ち」をもらった時と似た感じがします」
「成程な」
サタンは再びハルトと浅黄を見た。かつて最強と謳われた剣士が乗り移っている浅黄と違い、ハルトはただの高校生だ。クロムの修行で最近めきめきと体力も向上し動きもスムーズになってきたが、剣士に一撃入れるまでには至らない。しかし、じわじわと聖なるオーラを削っているおかげで、先代勇者の聖剣からは、確実に白い輝きが失われていくのだった。
◇
(これは……何だ?)
浅黄は、夢を見ているような心地の中、薄目を開けた感覚で前を見た。ぼんやりとした視界が激しく揺れていて、乗り物酔いをした時のように気持ち悪い。
(おかしいな。身体を動かした覚えは無いのに)
一度目を閉じて、再び開ける。視界に剣が閃き、何かに当たる感覚がした。しかし激しい衝撃は無い。何かふわふわした弾力のあるものを斬ったような、柔らかく押し戻されるような感覚が手のひらから伝わる。
(不思議だ。ちゃんと感覚はあるのに、身体が動かない……いや、自動的に動いているのか?)
自分で身体を動かそうとするが、金縛りにあったように動けない。しかし足からは固いタイルを踏んだ感触が、手からは聖剣の柄の感触と何かに当たっては押し戻される感触が、しっかりと伝わってくる。
ぼんやりとした視界では、先ほどから自分が何に斬りかかっているのかがよく分からなかったが、次第にそれも見えてきた。浅黄の目が、驚愕に見開かれる。
「水島くん!?」
声を出したつもりだったが、半開きの唇は浅い呼吸を繰り返すだけだった。おそらく表情も出ていないのだろう、慎重に剣を受け止めているハルトからは、何の反応もない。
(なぜ、僕は水島くんと戦っているんだ?)
浅黄は気を失う以前の事を思い出した。氷塊に出口を塞がれて少し経った頃、階段下から多くの悪魔が登ってきたのだ。
最初は慣れない剣を振り回すだけで必死だったが、次第に身体が別人のように軽くなった。ずっしりと重かった剣が悪魔たちを斬るたび白く光り、しっかりとした手ごたえがやがて豆腐を斬るように軽く、走る速度も飛びあがる高さも、体操選手のように軽やかに。
(そうだ……紅葉さんはどうしたんだ!? さっきまで一緒にいたのに)
いつの間にか消えていた彼女を探そうと思うが、当然ながら視線はハルトと彼の持つ奇妙な武器に固定されて動かせなかった。諦めて彼を観察すると、水島ハルトは眉を下げ、どこか気の毒そうな表情でこちらを見ている。
「同好会でシャボン玉。帰ったら絶対作りましょうね」
剣が交わるたびに、ハルトの奇妙な武器からシャボンのような球体がふわふわ浮かぶ。浅黄はそれを見て、そういえば以前にそんな提案をしたことを思い出した。せっかく同好会を作るのだから高校生らしく何か学びになることをと思い一晩考えたものだ。
しかし、それも彼や学生のためというよりは、そうすることが教師らしいような気がしただけだ。一体自分の意志というものはどこに存在するのか。浅黄は自分にうんざりした。今なんて、自分の意志どころか自分の身体を自分で動かしてすらいないのだから。
(勇者、か……聖剣を手にしたら、何かが変わると思っていたのに)
白く輝く聖剣の光が、シャボンのような球に包まれ飛んでいく。素早い動きで斬りかかる浅黄に対し、のんびり受けているだけに見えるハルト。しかし、ハルトの方が圧倒的に勇者らしいと、浅黄はそう思った。
「先生」
ふわりとまた球が飛んだ。魔王の手先だと思っていた教え子は、一度もこちらに敵意を向けない。守るために戦う。以前そんな話もしたなと思った時、ハルトがふと真剣な表情を向けた。勇者になって何を成すか。そんな話をしていた時と同じ顔だ。
「先生の大切なものって、何ですか?」
ハルトの問いかけに、浅黄は動揺した。唇が動かないという意味ではなく、その問いには答えられない。だって、本当は大切なものなど何ひとつないのだ。
(……数字。未だに正体もわからないただの数字が何より大切だと答えたら……彼は幻滅するだろうか)
聖剣を持つ手にはめられた、茶色の革手袋が視界の端にちらちら映る。その下の数字が気になって仕方ない衝動を、何度やり過ごしたことだろう。どこにいても、誰と話しても、何をしていても、何もしていない時でさえ、真っ先に気になるのはいつだって、今の自分の評価だけ。
「数字……数字が……もう、嫌だ……」
どうして自分はこうなのか。解放されたい、助けてほしい。
氷のような無表情の下で、いつしか浅黄は泣いていた。




