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第八十一話 茶色い革に隠した素顔

「まだ先は長そうですね」


 浅黄は振り返ってクレハを見た。彼女は先程から何故かずっと、浅黄の後ろを歩いている。


 歩く速度が早すぎるわけではない。むしろ遅くしている。彼女の靴もしっかり確認したが、そんなにヒールは高くなかった。強いて言えば時々脚を気にするような素振りはあるが、歩くのに影響があるほどではないように見える。


 しかし、どんなに速度を緩めても、振り返って立ち止まっても、彼女は頑なに浅黄と並ぼうとはしなかった。


「疲れましたか?」

「いえ。全然」

「先に行ってください。後ろで何かあったら、対処が遅れてしまいますから」


 浅黄は手のひらを前に差し出し、クレハを促した。実際その方が守りやすいし、彼女の歩行速度に合わせられるから無理させることもない。いつまで続くかわからない、先が見えない長い階段。普段からよく動いている浅黄でさえ辛いのだから、女性であるクレハは体力的にも精神的にももっと辛いはずだと、浅黄はそう思っていた。


「いえ、いいんです。私はずっと後ろをついていきますから。浅黄さんの後ろ姿を見ていた方が、安心するんです」


 しかし浅黄の気遣いに、クレハは首を振ってそう答えた。実際彼女が後ろを歩くことに拘るのは、今にも地獄から階段を上がってくるかもしれない悪魔に素早く対処できるポジションを確保するためだ。自分が悪魔だと浅黄に知られたら聖剣で斬られてしまうかもしれない。いつでも自分を簡単に殺せる存在と二人きりでいる緊張感に、クレハはそっと胸を押さえた。


「大丈夫ですか?少し休んで……」

「いいえ。早く行きましょう。きっともう少しで着きますよ」

「そうですか? 紅葉(クレハ)さん。先ほどから聞きたかったことがあるのですが……」

「何ですか?」


 浅黄は階段を二段下がり、クレハに並んだ。なるべく浅黄の間合いに入りたくないクレハは身構える。見えないように消しているはずの黒い翼が本当に消えているか、思わず後ろを確認してしまうほどに緊張していた。


「? 後ろに何か?」

「え!? いいえ! 何でもないです!」


 不思議そうにクレハの背後を確認する浅黄に、クレハは激しく首を振った。浅黄はあまり勘の鋭い方ではないので何とか誤魔化せているが、いつボロが出るかわからない。


「それで、あの。聞きたかったことって」

紅葉(クレハ)さん。もしかしてあなたは、ここがどこだか知っているんじゃないですか?」


 浅黄はクレハの目を見て言った。クレハの動きがピシリと止まる。どう考えてもここで浅黄と会うのは不自然なので、いつか聞かれるとは思っていた。しかし、どう答えれば誤魔化せるのか、クレハはまだ良い言い訳を考えられていなかった。


「……いいえ。目が覚めたらここにいたんです。もしかしたら、まだ夢を見ているのかもしれないですね」


 クレハは咄嗟(とっさ)にそう言った。こうなったらもう、全てを夢のせいにして乗り切るしかないと思った。浅黄もそれで納得したように頷く。この一連の出来事は夢かもしれないと、浅黄もうっすら思っていたのだ。


「やはり、夢かもしれないですね」


 浅黄はまた階段を上り始めた。クレハはちらりと後ろを振り返り、階段を上ってくる悪魔がいないかだけを確認して後に続く。


「火傷はまだ痛みますか?」


 しばらくして、浅黄が不意に切り出した。辛いことを思い出させるのは酷だろうと今まで黙っていたのだが、やはり気になるし夢ならば少し踏み込んでもいいかもしれないと思ったのだ。クレハはそれを聞いて、前回会った時の浅黄との会話を思い出した。正直あの後のハルトとの出会いの方が記憶に残っている。そして痛みも、聖水で焼かれた脚の痛みが火傷の痛みを上回っていた。


「……そうですね。良くなりましたが、まだ少し」

「あの男とは、もう会わない方がいい。彼は……悪魔のような男ですから」


 浅黄はクロムを思い出した。背中に広がる蝙蝠(こうもり)のような翼。魔王と見紛う怪しげなオーラ。クレハを傷つけた男だと認識していたからそんな夢を見ているのだろうか。クレハの全身を火傷させた「黒谷」の話は、浅黄が今まで直接見聞きした中で最も凶悪なものだったから。


「もしもこれが夢なら、あの男は魔王かもしれませんね」


 魔王を知らないクレハはすかさずそう言った。当初の目的は、クロムを魔王だと偽り聖剣で倒してもらい、彼が持っている金印の片方を得ることだった。しかしこの階段が出来てから、マスターの様子が明らかにおかしい。マスターが時々口にしている「魔王」とは何なのか。そんな存在は御伽噺(おとぎばなし)の中にしかないはずだとクレハは認識していたのだ。


「あの男は悪魔ですが、魔王とは違います。魔王は……もっと恐ろしい」


 クレハの言葉に、魔王(ほんもの)を知っている浅黄は首を振った。一度見たら理解できる。あんなのが何人もいるなんて流石に想像できない。氷塊から出てきた邪悪なオーラの塊、地獄を凝縮したような存在。あれは確かに「魔王」だった。


「魔王は本当にいると思いますか?」

「ええ。勿論」


 クレハが質問する。浅黄が首を縦に振る。薄い灰色になった階段の遥か上の方に小さな光が見えた。出口が近づいてきたのだ。


「これが夢なら、魔王と戦う前に覚めて欲しいものです」


 聖剣を持つ手が震える。茶色の革手袋をつけた左手には汗が滲んでいたが、彼はそれを取ろうとはしない。魔王と黒谷、謎の銀髪天使、そして何故か魔王の味方をしているらしい教え子。彼は一体何者なのか、浅黄はずっと考えていた。


 初めてのHRで遅刻し、呼び出しを無視した生徒。しかし話をすると意外に素直で、成績もぐんぐん伸びていき、更には政治家になりたいと将来を熱く語り始めた生徒。そして何より気になるのは、彼の人柄と大きくかけ離れた左手の数字(・・・・・)


(水島ハルト……彼の数字はやはり、間違いなどではなかったのか)


 ハルトの左手に刻まれた大きな六桁のマイナスを思い出しながら、浅黄は革手袋をつけた左手で聖剣をしっかりと握り直した。


(今年の四月時点でほぼマイナス百万、あんな数字は見たことが無い。何らかの不具合(バグ)だと思っていたが、魔王の手先なら納得だ。やはり、あの数字は善悪を点数化したものに間違いないんだ)


 彼に初めて数字が見えたのは幼少期、もう記憶にないほど昔の事だ。数字がマイナスになるとどうなるのか知らないまま、少しでも叱られるような事をすると減っていく数字に怯える日々。


 勘が鋭い血筋なのか、弟である聖夜は普通の人間には見えないものや危ないものがわかると言っていた。しかし浅黄にそんなものは見えない。見えたのはただ「数字」だけ。死後の世界もカウンター制度も知らないまま、浅黄の人生はただ、数字の増減とともにあった。


 小さい頃は「マイナス」の存在など知らなかった。だから、数字が0になると死ぬと思っていた時期もある。誰が減点しているかもわからない。だから、数字を決めるのが親だと思っていた時期もある。死にたくないから良い事をする。基準なんかわからないから、「大人が喜ぶような良い子」が良いのだろうと必死で演じていた時期もあった。


 挨拶しなければマイナス、片付けをしなければマイナス、友人と喧嘩をしてつい手を出してしまった時なんか、大幅に数字が減ってしばらく悩んだ記憶もある。


 一方で、わかりやすい加点の基準もあった。人に優しく、親切に。困っている人には手を差し伸べ、行事には積極的に参加を。いつも笑顔で背筋を伸ばし、誰も見ていなくても気を抜かず努力を欠かさない。


 誰もがそんな浅黄を、愛や優しさや向上心に溢れた素晴らしい人物だと評価した。しかしそんなもの、はじめから彼は少しも持っていない。全部「数字」のためにやっていた。他人のためでも無ければ、自分のためですらなかった。


(違う……そうじゃないんだ)


 そんな過去を思い出し、振り切るように聖剣で宙を斬る。後ろでクレハがびくりと震えたが、浅黄は気づかない。彼は階段を上りながら、自身の過去と戦っていた。


(この手袋をつけてから変わったはずだ……誰が決めているかわからない数字などではなく、自分自身のため、そして困っている人を助けるために自分の意志で行動すると)


 数字にコントロールされた人生からの脱却を図ろうと手袋をつけることを決めたのは、既に成人した頃だった。しかし、染みついた思考は消えない。何かを選択する時「教科書に載っていそうな方」を選んでしまうのも、テレビの中のヒーローのような「わかりやすい正義」に憧れるのも、彼のこれまでの人生を考えれば仕方のない事だった。勇者になれば減点されないなどとは誰にも言われていないが、彼はそれを密かに期待していたのかもしれない。


(聖剣を手にした今、この数字はどうなっているか……いや、確認するのは魔王を倒したあとだ)


 茶色の革手袋の下を確認したい気持ちを押さえ、階段を上っていく。確認しないのは怖いからだ。浅黄はもう何年もその数字を見ないようにしている。万が一あの水島ハルトのようなマイナスになっていたら、心が壊れてしまうような気がした。カウンター……浅黄にとっては「謎の数字」。それは彼の行動の指針であり、善悪の基準であり、人生の総合点を表すもの。点数に左右される人生は嫌だと思いながらもやはり、浅黄は点数を人一倍気にしているのだった。


「浅黄さん?」


 後方から声が聞こえ、浅黄ははっと足を止める。考え事をしていて、つい速度が速くなってしまったかもしれない。


「すみません。もっとゆっくり行きますね」

「いいえ、大丈夫です。何か考え事をしているようでしたので、お力になれればと」


 クレハがそう言ったのは、浅黄の思惑を知るためだ。彼は何を考えているのか。自分の正体について疑問を持っていないというのを確認して安心したかった。


「ありがとうございます。ですが心配はいりません。こんな状況なので、色々思い出してしまって……走馬灯ってやつですかね。あはは」


 浅黄は乾いた笑いを零した。そしてふと思い出す。そういえばクレハには数字がない。しかし、これに関して疑問はあるが、それほど不審だとは思っていなかった。


 人間界には多くの天使や悪魔が紛れている。手の甲に数字がない人、というのも、浅黄は多く目にしていたのだ。前世でよほど徳を積んで免除されているのか、何か理由があってこの世の理から外れているのか。よくわからないが、うらやましい限りだと思っている。


「……紅葉さん」


 浅黄はクレハに問いかけた。もし彼女にも左手の数字が見えたら、どんな事を考えるだろうか。


「……自分の行動がずっと誰かに監視されてて、評価されているとしたら。そしたら、紅葉(くれは)さんはどうしますか?」


「え? なぜ、そんなことを?」


 クレハは面食らった。もしかしてカウンターの事だろうか。しかし浅黄には見えていないはずだ。一体何のことを言っているのか、クレハにはわからなかった。


「そうですね……私はきっと、すごく気にしてしまいます。監視の人のご機嫌を取りながら、生活していくと思います」


 少し迷って、正直に答えた。周囲の視線を気にする日々を思い出す。普通の悪魔として暮らすことへのハードルの高さに溜息をつく毎日。更に評価などが加わったなら、きっとその「評価」を得るために、どんな事でもするだろう。それは、今マスターのために必死で命令を遂行しているのと何も変わらない。


「ですよね……僕もです」


 浅黄は少しほっとしたように頷いて、また歩き始めた。自分だけではない安心感に少し救われた気がした。


 一段上るたびに階段は白に近づいていく。煉獄に繋がる光は地獄から這い上がってきた者を天国へ導いてくれるような救いの光に見えるはずだが、浅黄には魔王が待ち構える地獄への入り口にも見えた。


「浅黄さん」

「大丈夫です。後ろにいてください。クレハさんには指一本触れさせませんから」


 浅黄はクレハを安心させるように微笑んで、出口に向かって歩いた。しかしそこに愛など欠片もない。浅黄は魔王を倒しに行く勇者の台詞をなぞったに過ぎないし、クレハの頭の中は保身一択だった。


「行きますよ」


 やがて広い出口と、その先に白い柱が見えてきた。唯一の武器にして心の支えである聖剣を握り、浅黄は決意を固める。彼の足の下にある階段の色は純白。あと十数段も上がれば出られるだろう。二人は一段、また一段と階段を踏み、確実に裁きの間へと近づいていった。その時――


「あれ?」


――突然浅黄の目の前で、出口が塞がった。(まばゆ)い光が射していた道は扉が閉まったように光を失い、真っ白だった階段も今は足元が見えないほど暗い。唯一の魔王への道が突然途絶え、浅黄は聖剣を握りしめたまま、固まった。






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