第八話 それでは会議をはじめます
翌朝。簡単に身支度をして柔らかいパンとスープの朝食を完食し、ハルトはあの執務室の扉の前に立っていた。天使はとても早起きらしく、日の出とともに活動し始めるらしいと起きてから聞いたのだ。できれば寝る前に教えてほしかった。そうしたら頑張って早く起きたのにと、置いていかれたハルトは思っている。
「えー、と?」
扉はどうやって開けるんだろうと、ハルトは昨日の黒谷を思い出した。とりあえず手を翳してみる。開かない。手の場所が違ったかな?と思い、そのままスライドさせてみる。開かない。距離の問題かと思って近付けたり離したりしてみる。やはり開かない。押したり引いたりしてみるが、当然開かない。うーん、と唸っていると、不意に後ろからのんびりとした声が聞こえた。
「ごめんね。その扉、リーダー以上じゃないと開かないんだ」
驚いて振り向くと、そこには見たことの無い一人の天使が立っていた。そういえば三人いるはずの天使のリーダーはリリィとルーク、クロムは悪魔だったのであと一人足りない。ということは彼がそうなのだろうか、とハルトは考える。
彫刻のように整った顔立ちに緩く編んだ長い白髪を前に垂らして微笑むその人は、ハルトに向かってゆっくりと右手を差し出した。
「君がハルト君だね。リリィやクロムから聞いたよ」
「あ、はい。あなたは……」
「ミカエルだ。よろしく」
ミカエルと名乗った天使は、これぞ天使という見本のような表情でハルトを見た。金色の瞳は穏やかな水面に映る太陽の光のようで、死んだ時にこの人が迎えに来たら安心して天国に行けるのであろうとハルトは直感的に思った。
「会えてよかったよ。君とは一度話をしてみたかったんだ」
「あ、はい」
「まずは君をこちらの事情に巻き込んだ事。本当に申し訳なかった」
ミカエルは深く頭を下げた。ハルトは慌てて首を振る。
「いえいえいえそんなっ!もういいです」
「今何とか方法を考えているところだ。でもまだいい手がなくてね。ライアの事もクロムが地獄中探し回ってくれたが、見つからないみたいだ」
残念そうに眉を下げるミカエルは、心からハルトを心配しているようだった。彼の口から打開策がほとんどないと聞いてもなお、この天使に身を任せておけば何もかも安心だと本能的に思わせる不思議な魅力が、ミカエルにはあった。
「ありがとうございます」
皆が自分のために動いてくれている、その事が嬉しい。感謝を伝えたハルトの頭を大きくあたたかい手が優しく覆った。たったそれだけの事で、母親に抱かれている赤ん坊のような心からの安堵がハルトの胸に広がる。偉大なる天使の力というのを、ハルトは本能的に感じ取った。
「君はいい魂をしているね」
顔を上げると、ミカエルはじっとハルトを見つめていた。金の瞳を優しく細めてハルトの頭を数回撫でた同じ手で、リーダー以上でなければ開かないと言った扉を難なく開く。やはり彼が三人目のリーダーに違いないと確信を持ったハルトだったが、その予想は中から聞こえてきた会話ですぐに打ち砕かれる事となった。
「あー、マスター!今起きたんすか?」
「はは、ごめんごめん。今何時?」
「もう八時を過ぎていますよ、マスター」
「まだ朝じゃないか。皆早いねえ」
「……ミカエル様が七時から会議と」
「えっ、ごめん!」
白髪の天使がリリィとルークからマスターと、黒谷からミカエル様と呼ばれて返事をしながら中に入っていくのを、ハルトは衝撃的な顔で見送った。
天国で一番偉い王様のような存在、マスター。いずれ会う予定だと聞かされていたが、まさか廊下でこんな風に出会うとは思わなかった。随分雰囲気のある天使だなと思っていたが、先程感じた包まれるような安心感や人を惹きつける存在感には納得の一言だ。さぞかしカリスマ性のある天使なのだろう。
その割に中から聞こえる会話は酷かったが、ハルトは聞かなかったことにした。
「扉の前でハルトくんに会ったんだ。ね」
ミカエルは振り返り、ハルトを招き入れるように手を振った。すぐにリリィが駆け寄り、ハルトの手を取って中へと誘導する。彼女は相当責任を感じているらしく、ここにいる間はハルトの世話は自分の担当だと率先して面倒を見てくれていた。最初は遠慮していたハルトだが、断ると微妙に捨てられた小動物のような顔をするので有り難く受け入れる事にしたのだ。それに、天然ドジっ子とばかり思っていた彼女の真面目で責任感に溢れた面を見て、ハルトの彼女への印象も良い意味で少し変わった。天然ドジで一生懸命な美少女は、ただの天然ドジな美少女より可愛い。
「ハルトさん。こっちですよ」
「ありがとう……あれ? 昨日と違う」
「会議ですから」
いつの間に模様替えをしたのか、部屋の中は昨日と少し変わっていた。中央に大きな机が置かれ、それを囲むように椅子が六つ、全ての席から見える位置に大きなホワイトボードのようなものが置かれている。確かに会議用のレイアウトだ。
勿論この城には他に会議室もあるが、主にリリィとルークの仕事場であるこの部屋は防音性も高く、部外者も入ってこれないので内密な会議に適している。人数もそれほど多くないので、リーダー会議はいつもこの部屋でやっているそうだ。
「ハルトさんの席はこっちです」
リリィが一つの椅子にハルトを座らせ、自分はその隣に座った。向かいにルークとミカエルがそれぞれ腰を下ろす。黒谷はホワイトボードの前でペンを持って立っていた。
「それでは、リーダー会議を始めよう」
ミカエルの号令から始まった会議は、穏やかな空気の中心にピンと一本の線が張っているかのような程よい緊張感の中で幕を開けた。
「まず、聞き取り調査の結果から報告します。やはり五百年間、ポイントを取り消した事例は一件もないそうです」
「記録もなかったな」
リリィが残念そうに報告を始めた。同意した黒谷の手が滑らかに動く。
『ポイント取り消し事例 聞き取り✕記録✕』
と、ペン字の見本のような字がボードの上に書かれた。昔はリリィが書記をしていたのだが、大きなホワイトボードの一番上に手が届かず背伸びをしているのを見兼ねて黒谷が代わったのだ。黒谷の字は綺麗で書き方も整理されていてとても見やすく、さらに進行役も上手いという事で、天国のリーダー会議を悪魔が仕切るという状況が生まれている。
「やっぱり無いんですね」
「ま、想像通りっすね。めんどいけど次おれー」
ルークが手を上げる。やる気のなさそうな台詞とは裏腹に、彼はテキパキと資料を捲った。あれ、意外だ、とハルトは思わず彼を二度見する。てっきり報告も適当な感じでするのだと思っていたが、彼の内面は第一印象と少し違うようだ。
「まず一番大きいポイントは百万点、自分の身を投げうって複数の命を助けた事例っすね。一人の身代わりなら場合によるけど五十万点が最高点かな。あと自分の財産全てを人のために使って無一文で死んだケースで三十万点、一般人の人命救助で本人死んでないなら十万点が最高」
黒谷の流暢な字でボードが端から埋まっていく。取り消すのが無理なら、何かしら理由を付けて増やそうという案だ。
「死んだら点数が高くなる?」
「あーそれは、最後にいい事して死んだから天国行かせてあげましょうって配慮?」
ハルトが疑問に思ったことに、ルークが素早く答えた。死んだらこれ以上数値は増えないので、マイナスの人でも改心したとみなしてなるべく天国へ行けるように高得点をあげるそうだ。
「結構良心的なんだね」
「悪魔側が何かと理由つけてポイント減らし出したから、めんどいけどこっちも対策練らざるを得ないよね」
「自死で減点百万なんて、配点に問題があると思うんです!」
ルークが投げやりな姿勢で身体を背もたれに預け、リリィが強い口調で抗議の意を述べた。ミカエルと黒谷が苦い顔で頷く。
「ある程度の自由裁量の部分を逆手にとって、悪魔側の配点がどんどん大きくなっている。こちらもなるべく合わせるようにしているが、最近勢いに押され気味なのは否めないね」
「配点の見直しをしようと思っても反発が大きくて難しい状況だ。改善案も何度も提出してはいるが、まあ通らんな」
諦めたように息を吐く黒谷を、ハルトはやはり不思議だなと思って見ていた。蝙蝠のような黒い羽を持ちながら天使たちの会議に混ざり、天国側を擁護するような発言を繰り返すこの人は、一体何者なのだろうか。
「クロムは悪魔側のリーダーだよ」
ミカエルがハルトの脳を読み取ったかのように答える。なぜ急に、という黒谷の訝しげな視線を真っ直ぐ浴びながら、悠々と机に腕を組んで続けた。
「自己紹介はきちんとすべきだ、ハルト君が戸惑っているだろう。ハルト君、クロムは悪魔の中でも指折りの実力者でリーダーの権限も持っているが、実は他の悪魔と折り合いが悪くてね……」
「はい。そんな気はしてました」
「おい」
本人の前での堂々とした悪口とも言える発言だが、おそらく事実なので黒谷も否定することは無い。ただハルトが心得たように頷く速さについては一言物申したいと軽く突っ込んだ。
「心根の腐った奴らと馴れ合って自分の価値を下げてやる程暇では無いのでな」
「師匠かっけー!」
ルークが黒谷を尊敬の眼差しで見た。茶化しているわけではない。クロムさんの強くてクールでフェアなところが格好良い、弟子にしてください!と土下座までして呆れた溜息とともにこの城にある自室まで送り返されたのは二百年ほど前のことだ。しかしこれも慣れたやりとりなのか、黒谷はルークの賛辞をスルーしてボードをペンでコンコン叩いた。
「ほら、さっさと本題に戻るぞ。議題はハルトのカウンターを適正に戻す方法についてだ」
「はいはーい」
すぐさまルークが手を挙げる。
「強盗犯とかバスジャックに突っ込んでいい感じに死んでー。一発逆転天国行き!よくね?」
彼は最高得点の百万点をビシッと指して言った。天使らしからぬ過激な案だ、もう本格的に面倒になったのかもしれない。ハルトが青ざめる。
「僕はまだ死にたくない!」
「えー?もう天国来てるし一緒じゃん」
「帰れなくなるだろうが」
「だめよ。ハルトさんはまだ人間なのよ」
「でもこれなら確実に天国来れるって」
「こらこら。ハルト君の寿命はまだだよ」
一気に執務室が騒がしくなる。ハルトとしては最後のミカエルの言葉が気になった。もしかしたら彼にはハルトの寿命が見えているのかもしれない。
「えー。やっぱダメかぁー」
ルークが残念そうに両手を頭の後ろに組んで、椅子の背に凭れた。多くの人間の死を見ている天使ならではの感覚だろう、染まりすぎるとこうなる。
「まぁでもさ。めんどいけどー、十人以上助ければ何とか天国来れるんじゃね」
彼はハルトをじっと見て言った。ハルトも数字を確認する。-991348。天国には黒谷以外の悪魔がいないので、ここにいる間は減ることがないのが救いだ。計算は苦手だが、確かに十人助けたら+になるだろう。
「確かに」
「やってみる価値はあるかもな」
「でもどうやってやればいいんでしょう?」
「死にそうな人探して急いで行くって?やっぱめんどいっすね」
うーん、と全員で唸る。溺れている人を助けたりして高校生がニュースで感謝状を贈られているのも見た事があるが、ああいうのは人生で一回あるかないかだろう。十人助けるまでに寿命が来そうだ。
「これは保留だな。時間がかかりすぎる」
「まあまあ。確かに良い案とは言えないが、保険にしておくのは悪くないかもね」
黒谷がボードに保留を示す三角のマークを書き、ミカエルが口を開く。最良の道がない今、他を探すのと同時進行で進めていってもいい案件だ。あわよくばいつか+になるかもしれない。
リリィが困ったように頬に手を当てて言った。
「やっぱり、地道に増やしていくしか無いんでしょうか」
「そんで+になる前に死んだら終わりじゃん」
「行い次第では更に-に傾くかもしれんしな」
「最近ほんと業績争い凄いっすもんね」
「業績を表にして共有してるって、聞いたことがあります」
まじか、とルークが黒谷を見る。俺のところはそんな事してない、と一蹴された。
「……していないが、どこか他から回ってくるんだろうな。広まる速度が速くて潰しきれん」
黒谷は疲れたように額に手を当てる。不正をしてハルトのポイントを奪った張本人のライアは黒谷の管轄だ。黒谷は部下に、ポイントは競走ではない、業績には関わらないようにと何度も教えているが、好戦的で快楽主義な若い悪魔達に地味な仕事の大切さを説くのは難しい。言えばいうほど口うるさい上司だと嫌われるだけなので、最近は諦め気味だ。
「師匠じゃ群集心理を操る戦法は分が悪いっすね」
「悪かったな嫌われ者で」
「いや合わないってだけの話っすよ」
「今は若い悪魔がほとんどだからね。業績のようなわかりやすい指標は彼らに受けがいい」
「でも業績が良くてもリーダーにはなれないんですよね?」
「地位より名誉じゃね?天使に負けるなーってやつ」
「天使側は別に争ってはいないんですけどね」
「共通の目標を作ることで一体感が出るし、天使との仲はますます悪くなる。カウンター制度がこんな風に利用されるとはね」
この制度を作った時は思いもよらなかったと、ミカエルは困惑の表情を浮かべた。ハルトは自分の左手を見る。いい事をすれば増え、悪いことをすれば減る。それは確かにわかりやすい基準なのかもしれないが、それを見る度に何となく釈然としない気持ちがハルトの胸に積み重なっていくようだった。
「こんな数字、なければいいのに……」
ピタッと、執務室の時間が止まったような気配がした。