第七十九話 守護の天使が護るもの
最初に異変に気が付いたのは、ミカエルだった。
(聖なるオーラが減っている……いや、移動してる?)
やはり天国のマスターだけあって、ミカエルは聖なるオーラの増減には敏感だ。不審に思い天秤の前を見る。減っているのはルークの周りだ。サタンが来る前に様子を見に行った時は疲労が溜まっているだけに見えたが、今は明らかに、守護の力そのものが減っている。
(おかしいな。守護の力を全力で出してるとしても、ここまで急激に減るのは不自然だ……まさか、羽根を?)
邪魔をしないようにそっとルークの背後に立ち、ミカエルは観察した。思った通り、彼は羽根を抜いて装置に翳している。その仕草は朝起きて顔を洗うくらいに自然で、一切の躊躇いがないように見えた。
(まずいな……どうしよう)
ミカエルは迷った。本来ならば今すぐに止めるべきだ。しかし、天使が羽根を抜くことの意味を、ルークが知らないはずはない。それほどまでの覚悟で完成させようとしているものを、すぐに横から取り上げていいものだろうか。
「……ルーク」
ミカエルは、迷いながらも静かに話しかけた。どちらにしろ、彼の力が限界に来る前に止めるのは確定事項だ。ぎりぎりまでは進めさせてあげたいが、仲間を失うつもりはない。
「何、どうしたの?」
しかしミカエルの声に反応したのはルーク本人ではなく、近くにいたシルヴィアだった。彼女はミカエルと同じようにルークの手元を覗き込むと、険しい表情を浮かべてルークに迫る。彼女は少しも迷わない。癒しの天使のドクターストップは、ミカエルよりもはるかに厳しかった。
「あんた、いつからこんな事やってるの?」
「……ついさっきだよ。ちょっと力が足りないから、二、三本抜いただけ」
ルークは装置から目を離さないまま言った。見つかってしまった。できれば完成までは誰にも知られたくなかったのだが、こんな大広間のど真ん中で作業しているのだから嫌でも目立つ。
しかしシルヴィアはその答えを聞いて、より一層眉を吊り上げた。
「嘘つくんじゃないわよ。見ればわかるわ。あたしを誰だと思ってんの」
「えー。せっかくバレないように満遍なく抜いたのに」
ルークの調子はいつもと同じだ。しかしその声には覇気がない。
「何本抜いたの」
「数えてねーし」
「数えられないくらいって事ね」
「平気だよ」
「オーラが減ってんのよ。大丈夫なんかじゃないわ」
五百年前、力を使い切って人間になったシルヴィア。彼女には、ルークの力が失われていくのを黙って見ている事はできなかった。天使が翼を失うことの辛さは、誰よりも彼女がよくわかっている。彼女の場合はサタンの機転で何とかなったが、普通は二度と天使には戻れないし、人間になれば百年も経たずに寿命で死んでしまうのだ。
「……今ならまだ回復する。まだ余裕があるうちに、今すぐ辞めなさい」
「わかったわかった。辞めるから」
「言ってるそばから抜いてんじゃないわよ」
シルヴィアは、ルークの腕を掴んだ。もはや一秒たりとも見ていられなかった。鮮やかな桃花色、彼の母親の姿が浮かぶ。もう二度と仲間を失うのはごめんだ。
「ドクターストップよ、ルーク。これ以上は……」
「今おれがここで辞めたら、誰が天秤守んだよ!!」
ルークが叫んだ。そのあまりの剣幕に、全員が天秤前に注目する。シルヴィアが思わず腕を離した隙に、彼はまた羽根を抜いた。白い光が弱くなる。けれど、彼の空色の瞳は少しも揺らがない。
この装置のために天使としての自分を捨てる、足りなければ命ごと差し出すと、ルークはもう決意していた。そしてそのことをようやく、周囲は理解したのだった。
「皆それぞれ役割持ってこれから頑張ろうってのにじっとしてられるかよ! それにこれ守れんの、どう考えてもおれしかいねーじゃん。今すぐ誰か攻めてきて、長期戦になったらどうすんだよ! おれじゃ不眠不休でも守れんの三日が限界だけど、機械なら何千年も疲れずに完璧な防護壁張り続けられるんだよ!」
「そうだな。お前は正しい。だが決定的に間違ってる」
叫ぶルークの背後から、サタンが声をかけた。聖なるオーラが弱まった事で近寄りやすくなったのだ。クロムがルークの頭に手を置き、ピリッとした痛みが走るのも構わずぽんぽんと撫でる。
「お前と機械が同列なわけがないだろう」
「……同列じゃない。機械の方がすげぇもん」
「お前な」
「だって絶対役に立つし」
「そうだな。ひとりでやらせて悪かった」
「おれ、これしかできねーし」
「それは違う」
クロムがルークの頭から手を離し、少し下がった。振り返ったルークの目に見えたのは、それぞれ心配そうに自分を見る仲間たちの視線だ。特にリリィが、泣きそうな表情でこっちを見ている。
「ルークの馬鹿! 機械だけ残されて、それがどんなに凄くたって、ルークがいなくなっちゃったら私は……」
「ねーちゃん……ごめん」
リリィの目から涙がこぼれる。それを見て、ルークは初めて申し訳なさそうに眉を下げた。役目を果たすことに必死で、自分がいなくなって悲しむひとがいるなんて考えていなかった。機械があれば天秤は守れる。しかし機械は、リリィの唯一の家族の代わりにはなれないのだから。
「あんたも大概ひとりで抱えるタイプよね」
シルヴィアがルークに癒しの力を送り込む。守護の力をもとに戻すことはできないが、疲労や寝不足が回復された。
「ありがとシル姉。あとごめん」
「仕事熱心なだけでしょ。気持ちはわかるわ」
「おれ、天国と死者たちより大事なものねーから……ほんとに大事だから、どうにかしたくて」
「そうね」
ルークの言葉には全員が同意した。しかし、その気持ちだけでは勝てない事が、過去の経験でわかっている。サタンとミカエルが同時に苦い表情を浮かべた。あの悲劇を繰り返してはならない。
「……俺も地獄より大切なものは無ぇし、たぶんここにいる奴は大体がそう思ってる。で、それぞれが自分の命を真っ先に削った結果が五百年前のあれだ」
「私もその時は、自分の命と引き換えに天国を守れるなら安いものだと思っていたよ。でも、今はそれでは駄目なのだと思ってる。ここにはこれだけの優秀な仲間がいるのだから、誰も命を賭けなくて済む方法を探してみないかい?」
ミカエルが、一人ひとりに丁寧に視線を合わせる。サタンに、クロムに、シルヴィアに、リリィに、ハルトに。そして今まで黙って見ていたハルトの元へ行くと、その手を引いてルークの隣へ連れ出した。
全身が白く輝き、神々しい聖のオーラを放っているハルト。その手に聖剣は握られていないが、誰もがその姿を見て、彼にしかできない特別な役割があるのだと確信した。
「僕に出来ることがあるでしょうか」
ハルトはミカエルの穏やかな金の瞳を見た。どうにかして、ルークの力になれるなら。
「方法は簡単だ。ただ祈れば良い。あとはやるかやらないか。君は、どうする?」
慈愛に満ちた金の瞳が背中を押す。その瞳に見守っていてもらえるのなら何でもできる気がした。ミカエルは確かに天国という大きな国の『王』なのだと実感しながら、ハルトはしっかり頷いた。
「やってみます」
「駄目だよハルト。その力使ったら、今度はハルト守れなくなっちゃうから」
ルークが首を振る。ハルトには契約した時に、ルークの力が一部分け与えられているのだ。契約破棄すれば、ハルトの力はルークに還る。それで装置は完成するかもしれないが、その選択肢はルークの中には全くなかった。ルークは、ハルトも守りたかった。
「いいよ。今までたくさん守ってもらったから。それに、もともとルークの力だし」
「……ごめん」
ルークがハルトに向けて無言で装置を傾ける。ルークの隣にしゃがみこんだハルトの手が装置に振れ、白い光が輝きを増す。クロムとサタンが同時に、広間の端まで大きく下がった。
「すげぇな。勇者ってこんなの出来たか?」
「ルークと契約を結んでますから。守護の力も元から彼の中に」
「あーそれでか」
サタンが納得したように頷いた頃、ハルトはルークと契約を結んだ時を思い出していた。死んで地獄行きになったら困るし、と軽い調子でもらった力。防護壁には、今まで何度も助けてもらった。今度は自分が助ける番だ。
(防護壁なんてなくてもいい。全部返すから。お願いします。天秤を守る力を、あと少しだけ足してください)
ハルトは目を閉じて祈った。防護壁に包まれた時のような安心感がハルトの胸に広がる。これは自分の力ではない、自分の中にあるルークの力だ。
「ルーク?」
「ハルト。仕上げ、いっしょにやろ」
いつの間にかルークは、羽根を一枚持っていた。力を失うぎりぎりの最後の一枚。横で見ているシルヴィアが止めないのなら、本当に大丈夫なのだろう。
「これ持って、ここに置いて……できそ?」
「うん。任せてルーク」
ルークの指定した箇所に羽根を置く。羽根から放たれた白い光が広がって、ゆっくりと装置と天秤を包んでいく。普段防護壁を発動させたときの何十倍もの安心感。感じたことの無いような大きな『護り』に包まれながら、ハルトとルークは天秤を見上げた。
「これ、完成?」
「ん。ありがとハルト」
ルークは天秤を守る分厚いオーラの塊を見て、心から安心したように笑った。成功だ。そうハルトが思った時には、ルークの空色の瞳は瞼の裏側に隠れ、身体がスローモーションのようにゆっくりと傾いていく。
「うわっ。ルーク!?」
慌てたハルトが崩れ落ちたルークを支える。素早くシルヴィアが駆け寄り、彼の様子を隈なくチェックしていった。
「大丈夫よ。一度に力を使いすぎたから気を失っただけ。ちゃんと回復するわ」
「よかった……!」
ハルトが安堵の息を吐く。リリィも近くに来て、心配そうにルークの頬を撫でた。
「医療棟に連れて行った方が良いでしょうか」
「そうね。しっかり寝かせてあげた方が回復も早いでしょ。あたしも行くわ」
「行ってきます!」
リリィが翼を全開に広げ、ルークとシルヴィアとともに瞬間移動で消えた。ハルトは立ちあがって再び天秤を見上げた。肉眼でもはっきり見えるほどのオーラの塊。天秤をすっかり包み込む厚く強い防護壁は、これから長きにわたり天秤を守っていくだろう。
「お礼なんてよかったのに。全部ルークの力なんだから……」
この偉業は紛れもなく彼ひとりの力でやり遂げたのだと、目覚めたら一番にそう伝えたい。後世まで語り継がれるであろう偉大なる功績をあげた守護の天使。彼の一刻も早い回復を願いながら、この場にいる者は皆しばらく天秤を眺めていた。




