第七十七話 悩みと再会
(……! 魔王!?)
地獄の最下層で黒い翼を広げたケルベスは、懐かしい凶悪なオーラに身を縮ませた。
(そうだ、これが『魔王』……久しく忘れていた)
その力の一端を感じただけで翼が縮むような威圧的な闇の力。以前は魔王本人の親しみやすい人柄でそれほど怖くは感じなかったが、敵としてみるとこれほどまでに恐ろしいものだとは。
(やはり、前回のは力の一部が漏れただけか。今のが復活とするならば、魔王が自由に動けるようになったということ……地獄に来るのも時間の問題だろう)
遠い日に別れた魔王の記憶を思い出す。彼の性格上、おそらく仲間との合流を優先するはずだ。煉獄に集まり、ある程度の方向性を決めてから満を持して地獄に来るはず。
(すぐには来ないだろう。とはいえ、あまり猶予はないな)
ケルベスは少し欠けた翼を動かし、久しぶりに玉座を離れた。姿を自在に変えられる彼は、今は屈強な壮年の男に扮している。彼は威厳ある王らしいこの姿が最も気に入っていた。
「さて。こちらもようやく動くときが来た」
ケルベスは最下層から下層へ、中層へ、そして上層へと飛んだ。煉獄につながる黒い階段の前でほんの少しだけ懐かしそうに目を細め、それから広い地獄の上層全体を見渡しながら、できる限りの威圧的な魔の力を纏わせる。
「今、凄い力があっちから」
「いや、こっち、だったかも……?」
「待てよ、この力はもしかして……」
「え、マスター? まさか」
「マスターだ!」
階段付近で様子を窺っていた悪魔たちが大きく下がった。魔王には及ばないが、それでも彼は地獄で三本の指に入る実力者。精一杯の虚勢の力でも、周囲の悪魔たちを平伏させるには充分だ。ケルベスは胸を張り、出来る限りの威厳ある態度で威圧的な声を出した。
「お前たち、ここにできるだけ多くの悪魔を集めろ。話がある」
「はいっ! おい、マスター直々の命だぞ」
「マスター命令だ! 皆集まれ!!」
「下層や中層の担当者にも連絡だ!」
狙い通り、彼らは先ほど魔王から放たれた闇の力と、至近距離から浴びたケルベスの魔の力をあっさり混同し、ケルベスこそがこの地獄唯一のマスターであるとあっさり信じ込んでいる。
悪魔たちが騒々しく飛び回り、何百もの黒い翼が地獄で最も広い上層に集結する。自称マスターの張りのある声が、地獄全域に響き渡った。
「皆の者、我こそがこの地獄の『王』だ。今地獄にかつてない危機が迫っている。今こそ我らが力を合わせ、地獄を侵略者から守る時だ。この戦いに参加する者は勝利の後、より良い待遇を約束しよう」
「うおぉぉぉぉぉぉおぉぉぉ――――!!」
相手はノリの良い若い悪魔たちだ、煽り方は心得ている。地獄が揺れるほどの叫び声が響く中で、ケルベスはにやりとその口元を歪ませた。
「魔王。もはや地獄にお前の居場所はないことを、私が証明してやろう」
◇
「ハルトさんたち、無事に魔王様のところまで行けたでしょうか」
リリィが祈るように両手を合わせ、白い下りの階段を見つめている。ミカエルは少し後ろからその様子を微笑まし気に見ていた。
「大丈夫だ。きっとハルト君なら聖剣を抜けるよ」
その頃まさに地獄の入り口では浅黄が聖剣を手にしようとしていたのだが、彼らにそれを知る術は無い。
「マスター! ちょっと来て」
今まで黙って作業していたルークが、ひらりと手を振ってミカエルを呼んだ。既に随分前に装置は完成形を露わにしているが、ルークは納得いかないのか難しい顔をして座り込んでいる。
「どうしたんだい?」
何かを聞かれても自分にわかるとは思えないが、ミカエルはルークの後ろから手元を覗き込んだ。ようやく振り返ったルークの顔は窶れていて、目元には大きな隈が出来ている。普段意外と身だしなみには気を使っている彼の珍しい姿を見て、ミカエルは労いを込めてルークの桃花色の髪を数回撫でた。
「ルークは偉いね」
「んーん。おれの仕事だし」
ルークは首を振った。疲れが滲んだ目元の奥には、確固たる意志の強さが潜んでいる。
「これはおれにしか出来ないんだ。だからぜってー完成させるし、完璧に守りきる。もう少しで魔王様来る? あと少しこのまま作業したいんだけど」
「もちろんだ。サタンが来たら言っておくよ。大丈夫、彼は誰より柔軟だ」
ミカエルが微笑むと、ルークは安心したように少し笑って白い翼を全開に広げ、守護の力を纏わせた。一体何日不眠不休で作業したらこうなるのか、その翼は艶がなくパサパサとしている。しかしその身から放たれた守護の力は凄まじく、全身が白い光に包まれた彼の姿は目を凝らさないと近くにいても見えないほどだ。
「ルーク……」
少し離れたところでは、リリィが心配そうに見守っている。物心ついた時から一緒にいる弟。彼のことは誰より理解しているつもりだが、ルークがこんなにも必死に何かをしている姿は初めて見た。
「ルークは頑張り屋さんだね」
ミカエルがリリィのそばに来て声をかける。リリィは頷いた。気怠い雰囲気と思い付きで発せられる言葉の数々から奔放な天使だとよく誤解されるが、彼の本質はそうではない。天国という世界の平和とそこに住む天使や死者たちの笑顔を守ることが自分の生きる意味そのものだと、ルークは心の底からそう思っているのだ。
「ルークは凄いです。自分の役割をちゃんと理解してて、すごく役に立ってる」
自分は、自分にはまだ何もないのに。リリィはそう心の中だけで続けた。自分だけ何の役にも立っていないことに悩んでいるなんてミカエルの前では口が裂けても言えない。唯一あるかもと思ったヒントも、まだ何かに使える確証もないままだ。
リリィはルキウスの手帳を取り出した。何度も手にしているうちにすっかり手に馴染むようになったこの空色の手帳に書かれた膨大な情報の何割かは、興味を持って行こうと思えばリリィにも手に入れられたはずの情報だ。
(でも……私は何も知らなかった。知らないのは私の頭が悪いからじゃない。知ろうとしてないから……天国という国を、私はそれほど理解したいと思ってなかったんだわ)
リリィは手帳をぱらぱらと捲った。どのページにもびっしりと書かれた細かい文字や多くの似顔絵と地図。見るたびに何十回も何百回も思う。ルキウスはこんなにも天国を、地獄を、天使を、悪魔を、人間を愛していたのだ。
「私は……今まで本当に何してたんだろう」
ミカエルの前だというのに、本音を抑えることができなかった。つい零れてしまった言葉に、ミカエルは首を振る。
「ルキウスは確かに凄い天使だった。彼の真似は誰にもできない。私にもね……でもリリィ。君の真似も誰にもできない。今の天国で唯一の『運命の天使』は君だ」
「でも、私は……」
「優れた人の真似をすることで学ぶことは確かにあるけど、自分だけの役割を見つけたいならもっと自由になった方がいい。君の翼はどこにだって一瞬で行ける、天国一自由な翼なんだからね」
「天国一……自由……」
リリィは背中の白い翼を動かした。ミカエルは微笑んで頷く。リリィは普段からミスが多い分、失敗を極端に恐れる傾向がある。しかし能力の使用方法に正解などはないのだ。リリィが能力の新たな使い方を見出せば、天国に新しい風が吹く。
「何もしなければ確かに失敗もないが、成功する可能性もない。何か思いついたのなら、どんどん行動するべきだ」
「でも。もし成果がなかったら……」
「「この方法では成果がない」という経験と知識が得られると思わないかい?」
そう続けたミカエルの視線は、リリィの手元を覗いている。何度も開いたあのページは、今回も無意識に開かれていた。
「虹色のクローバー……あの。マスター……っ!!」
リリィが言いかけたところで、ぶわりと大量の闇の力が階段を上がってくるような気配がした。二人は同時に階段を見る。まだ誰の姿も見えないが、何が起きたのかは想像できる。
「ハルト君が、無事に聖剣を抜けたのかな」
「きっとそうです……ハルトさん」
予定通りサタンが復活したということは大きな問題はなかったのだろうと、二人は胸をなでおろした。実際は割と問題だらけなのだが、それを二人が知るのはあと数十分は後のことになるだろう。
「凄い力ですね。この前の天秤の時も驚きましたが、それ以上です」
「これがサタンの本来の力だよ」
「どんどん近づいてくるのがわかりますね」
「怖いのかい?」
「少しだけ」
正直に答えたリリィの翼は、きゅっと縮んでいる。未知の者と出会う緊張と興奮、そして分かっていても拭うことができない恐怖心。それを和らげるように、ミカエルがリリィの白い翼をそっと撫でた。一応ルークの事も心配になって振り返ってみたが、彼は白い光を纏わせたまま微動だにしない。流石だなとミカエルは感心する。ルークは予想がつくものに関して慌てたことはない。サタンのオーラの恐ろしさも、想定内の事なのだろう。
――暗闇が迫ってくる。強い魔の力があっという間に濃くなって、ついに二対の黒い翼と一対の白い翼が連れ立って階段の奥から見えてきた。弾丸のように早い三つの塊はだんだん大きく近づいてきて、心の準備をする間もなくもう彼らは煉獄の床にそれぞれの靴音を響かせていた。クロムの腕からハルトが下ろされ、待ち望んだ合流が完了する。
「よっ。調子はどうだ?」
ごく軽く、サタンは片手を上げた。昔と何ひとつ変わらないその様子に、ミカエルが笑う。
「ははっ……不思議だな。君がいない時間はあんなにも長かったのに、昨日も一緒にいたような気がしてきたよ」
二人はハグどころか握手すらしない。少し目を合わせるだけの、五百年ぶりにしては淡白にも見える再会。しかし彼らのそっくり同じ色合いの金の瞳には、それぞれに言葉にならない感慨深さが確かに滲んでいたのだった。
 




