第七十四話 勇気ある者と勇者は違う
ハルトには聖剣の放つ光でぼんやりとしか見えないが、クロムの目にははっきりと彼の姿が見えていた。それに対し、氷塊の上に立つ人物――浅黄玲央は声の主を探すように目を細める。バサバサと揺れる羽の音、少し距離はあるが目線は同じか少し上。目立つ色ではなく、暗い色の何か。おそらく翼が生えている黒っぽいもの、巨大なカラスかコウモリかもしれない。
「凄い夢だな……喋るコウモリまで出てくるとは」
「…………」
こちらから浅黄の姿は見えるが彼の側からは見えないのだろう。以前リリィの翼を鳥に例えて怒られたハルトは、渋い顔をしているであろうクロムを気遣って浅黄の代わりに言い訳を始めた。
「(黒谷さん、悪気はきっとなくて。あの……たぶんよく見えてないんだと)」
「わかっている」
あっさり頷いたクロムは声色から察するに少し不機嫌そうだが、顔の向きが下で肩を震わせて笑いをこらえているシルヴィアに向いていることを考えると、不満があるのは浅黄ではなく彼女の方になのかもしれない。
「ごめ……っ、ふふっ。笑っちゃだめよね」
「…………変に気遣われるよりマシか。ハルト、あれは誰だ」
「浅黄先生です」
「あぁ、あいつが……厄介だな」
クロムはそう言いながら浅黄のすぐ前に向かって飛んだ。巨大なコウモリ、その全貌が明らかになり、浅黄は身を固くする。背中に翼が生えた大きな男。彼が何者かは知らないが、その腕に抱えられた少年の方は良く知っている。
「水島君!?」
「浅黄先生。こんにちは」
ハルトはぎこちない笑みを浮かべた。担任の教師と地獄の入り口で会った時の挨拶がこれでいいのかはわからないが、とりあえず廊下で会った時のように軽く頭を下げてみる。しかし浅黄の方は険しい顔でクロムを見た。教え子が見知らぬ者に捕らえられている。早く解放しなければ。
「貴様……水島君を放すんだ!」
「あぁ、熱血勘違いタイプか。面倒だな」
浅黄の性格をひと目で見抜いたクロムが盛大に眉を顰める。経験上、こういうタイプには何を言っても無駄だ。瞬時に誤解を解くことを諦めた彼の腕の中で、ハルトは一応説得を試みる。
「浅黄先生誤解です! 黒谷さんはそんなんじゃ……」
「黒谷だって!? この男が」
「あ」
「何だ」
余計なことを言うなと瑠奈に言われたばかりなのに、また口を滑らせてしまった。黒谷を敵対視している浅黄が、キリリと眉を吊り上げる。
「だから黒谷は危険だと言ったんだ!」
「だから何の話をしているんだ」
「すみません……」
激昂している浅黄と冷静に状況を把握しようとしている黒谷の間で、ハルトは頭を抱えた。シルヴィアが飛んでくる。浅黄は予想外の白い翼の出現に、驚き目を丸くした。
「何してんのよ」
「天使?」
「天使は知っているんだな」
コウモリと断定されたことを少し根に持っているクロムは憮然とした表情で言った。浅黄ははっとした様子でクロムを見る。彼を悪魔のような男だと称した時、紫藤瑠奈は何と言ったか。
「悪魔のような男ではなく……本当に悪魔だったんだな」
何故天使とともにいるのかはわからないが、悪魔は人間に害をなす倒すべき存在であると浅黄は思っている。しかもその恵まれた体格に堂々とした態度、見るからに強そうな怪しげな気配。悪魔とはこんなに恐ろしいものなのか。それとも彼が別格なのか。
「もしや、君が魔王か?」
「魔王……」
「やはりそうか」
コウモリの次は魔王かと、呆れて繰り返しただけの言葉を肯定と受け取ったようで、浅黄はクロムを睨んだまま聖なる剣へと手をかけた。先代勇者の剣なので碌に使えはしないと聞いていたが彼に武器を持たせるのは危険な気がして、ハルトは慌てて身を乗り出す。
「先生! 待って下さ……」
「動くな」
体勢を崩したハルトをクロムがしっかりと抱え直した。当然ハルトの身を守るための行為だが、浅黄の目には違う意図があるように見える。かわいい教え子を害する悪の組織の親玉だと、彼はそう思っているのだ。
「どうしても水島君を解放しないというのなら……力ずくで取り戻すしかなさそうだね」
浅黄が聖剣に手をかけた。聖剣から出た白い光が彼の全身に広がり、だんだん強く眩しく光っていく。シルヴィアが大きく翼を羽ばたかせ、クロムを庇うように前に出た。
「あんたは下がってなさい」
「……借り物の剣にしては強いな」
クロムはハルトを抱えたまま大人しく下がった。聖なる光は悪魔を祓う。策もなく前に出て無駄に消耗してもいい事はない。適材適所だ。
「黒谷さん……このままじゃ、先生が聖剣を」
「あいつが抜くのか……」
ハルトからはクロムの表情は見えないが、その言い方から察するに、微妙に嫌そうだが困るというわけでもなさそうな感じだ。シルヴィアの呆れ顔が浅黄に向く。クロムと違って、聖なる光に包まれた彼女の表情は浅黄にもハルトにもよく見えた。
「あんた、それ抜いたらどうなるかわかってんの?」
「当然わかっているとも。この聖剣が、魔王を倒す武器となるんだ!」
浅黄が手に力を込めると、聖剣が白い光を放ちながら少し動いた。自らの聖剣を出すのは勇者ただ一人。しかし他人の剣を台座から抜くくらいなら資格を満たしてさえいれば誰にでも可能だ。浅黄はどうやら、その最低限の資格は満たしているらしい。
「あれ抜いたら魔王出てくるって知ったらやめるかしら?」
「いや、聖剣を手に入れるのを邪魔するための嘘だと思われるだけだろうな」
「説得した方がいいですかね?」
「どうせ抜くつもりなんだからいいんじゃないかしら?」
「抜けるなら誰が抜いても同じだろう」
魔王を倒す使命を持った勇気ある者が、伝説の聖なる剣を手にする。それは有名な本の一節のような神々しい光景には違いないが、五百年もかけた魔王救出作戦の最後の一押しを空気の読めない部外者がしてしまうというのはとても複雑な心境だ。しかしこの場合大切なのは過程よりも結果なので、諦めるしかないだろう。無駄に争って更なる邪魔が入るのだけは避けたいと、三人はとりあえず見守った。
「これが聖剣……少し触れるだけで、力が漲るようだ」
浅黄は銀の柄を両手でしっかりと握り直した。剣が刺さっているあたりの氷塊が白い光に包まれてどろりと溶けていき、鋭く光る剣の先が少しずつ顕になる。
「世界の平和のために、魔王は倒されなくてはならないんだ」
全身を火傷して苦しんでいたクレハ、囚われの身になった教え子。これが夢でも現実でも、もう誰かが悲しむ顔は見たくない。浅黄の強い思いに応えるように、聖剣が一層輝きを増す。黒い階段に黒い壁、辺り一面が漆黒に包まれた中で、眩いほどの輝きを放ちながら勇気ある者は聖剣を抜いた。
封印が解けた氷塊は全体が白い光に包まれて、春の訪れを告げるようにその固さを少しずつ和らげていく。しかし手にしたばかりの聖なる剣に夢中な浅黄は、その靴の下で起こっている変化に意識を割く事はなかった。




