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第七十三話 地獄への長い道

「マスター! 今のは一体……」


 地獄の最下層。黒の玉座に向かって(ひざまず)いたまま、クレハは先ほどから感じる大きな違和感の正体を探していた。マスターは驚きに目を見開いたまま、下層に繋がるルートを(にら)むように見ている。しかし下層に問題があるわけではないだろう。彼の意識はそのずっと先だ。


「煉獄が……そうか。天秤が完成したのか」


 赤褐色の瞳を鋭く細め、ケルベスは思案した。ミカエルが長い間天秤の修理をしていることは知っていた。しかし制度の違いなど些細(ささい)な事だと、そこに意識を割くことは無かったのだ。


「制度が変わる。いや、変わるのは制度だけではないか……魔王はどこにいるんだ」


 膨大な魔の力が天秤を動かしたあの日から、ケルベスは常に身構えていた。いつ彼が攻めて来てもおかしくない状況で、自分の身を守りながらもう片方の金印も奪わなければならない。


 しかし、この日まで魔王が地獄を訪れることはなかった。やはりどこかに封印されているのか、それともどこかに潜んで機を(うかが)っているのか。嵐の前の静けさのように、不気味なほど日常は変わらない。


「魔王が攻めてきたらと思っていたが、幸運だった……ふん。『幸運』か」


 まるで天使のように幸運を喜ぶ自身の発想を、ケルベスは自嘲気味に繰り返した。


 悪魔は罪人の「不幸」を取り込むことができる。個人的な感情とは別に、地獄で罰を受けている罪人から出る不幸なオーラは悪魔の能力を高め、翼の艶やかさを増す。天使でいう「お気持ち」と同様だ。


 しかし不幸を栄養源としながらも、自身の身に不幸な出来事が降りかかるのは嫌だという矛盾もある。他人の不幸で生き生きとする癖に、自分の不幸は避けたいなどと都合のいいことを平気で思ってしまう悪魔としての矛盾が、昔は酷く気になっていた。


(思えば昔はくだらない事を気にしていたものだな。自分と他人が違うのは当たり前。悪魔だけではなく誰だって、他人の不幸を(かて)に自らの幸せを噛み締めるものだ)


 ケルベスは最下層の業火に焼かれる罪人の(うめ)き声に耳を澄ませた。体中から力が(みなぎ)り、張りが増した黒い翼がしなやかに広がる。煉獄から地獄へは一本道、そのルートにだけ気をつければいい。


「攻撃を仕掛ける時が来た。お前は偵察に行け」

「……はい」


 クレハは聖水で(えぐ)れた脚を引きずるようにして立ちあがった。ハルトに一瞬でも気を許してしまった自分の甘さを反省しながら、黒い翼を広げて最下層から煉獄へと向かう。


(あの少年。調査結果ではただの気弱な人間だと聞いていたけれど、なかなか(あなど)れないわね)


 悪魔の「卑怯」は誉め言葉、罠に(はま)ったほうが悪いのだ。油断は禁物と気を引き締め直すクレハは、ハルトの行動が善意からのものだとは思っていない。


(それにしても『煉獄』に『魔王』……最近マスターが(おっしゃ)ることがよくわからない。この目で見れば、はっきりするかしら)


 ケルベスから詳しい説明を全く聞いていないクレハはそんな事を思いながら最下層から下層、中層から上層へと飛んでいく。地獄の入り口とも呼ばれる上層で、いつもは開けた空洞があるところに黒い階段ができているのを見つけて、クレハはいったん止まった。遠巻きに様子を見ていた悪魔たちが、少しでも情報を得ようとクレハに近づく。


「この先に何があるのか知ってるのか?」

「辞めとけ。ヤバい感じすっから」

「俺はちょっと行ってみたいけどな」

「じゃあお前だけ行けば」

「ちょっ、押すなって……!」


「黙りなさい」


 クレハの強い口調に、階段の入り口で小競り合いをしていた悪魔たちがぴたりと止まった。彼らはいずれもクレハの班ではないので彼女の事など知らないし、敬意を払う対象とは思っていない。クレハの方も関係のない一般悪魔にそこまでは求めていないが、マスターからの直々の偵察命令を邪魔されるのは気分のいいものではないのだ。


「私は『マスター』から偵察命令を受けているの。あなたたちはここで待っていなさい」

「マスターから……はいっ!」

「了解しましたっ!」


 滅多に出ないマスターの名に反応した悪魔たちがさっと道を開ける。クレハはその態度の変化に満足そうに頷くと、翼を広げたまま緩やかに続く漆黒の階段に足をつけ、一段一段ゆっくりと、確認するように上って行った。



           ◇




「マスター!」

「リリィ。皆揃っているかい?」

「はい!」


 煉獄大広間の天秤前。白い翼を全開に広げたリリィとともに現れた仲間たちの姿に、ミカエルは微笑んだ。すぐにクロムに視線を合わせ、緩やかな下りの大きな階段を指さす。


「サタンは向こうで合ってるかな?」

「はい。地獄に近いので、邪魔が入る前に急いで行かないと」


 クロムは黒い翼を広げてハルトを見た。煉獄が現れた衝撃は地獄にも伝わっているだろう。今頃ケルベスも焦っているだろうし、いつどんな動きがあるかわからない。何か想定外の事件が起こる前に、最速でサタンを復活させなくてはならない。


「ハルト。行くぞ」

「はい!」

「あたしも行くわよ」

「私も」

「あんたは待ってなさい」


 シルヴィアがリリィを止める。この階段の下の方には、地獄の濃い空気が流れているのだ。慣れていない彼女は立っているだけで辛くなるだろう。


「でも……」

「リリィ。無理しないで。大丈夫、ちゃんと魔王様連れてくるから」


 ハルトは笑顔でリリィを見た。リリィは行きたそうにしていたが、皆でやんわりと止める。瞬間移動も位置を正確にイメージできてなければいけないため、地図もない初めての場所に行くのは難しい。目測で瞬間移動して地獄に行ってしまったら困るので、どちらにしろ飛んで向かわなければならないのだ。


「すみません。お役に立てず……」

「お前の出番はここじゃない、それだけだ。それにルークも残るんだろう」

「もーちょい」


 クロムが自動防護壁(オートシールド)の前に座り込んでいるルークをちらりと見た。煉獄に飛んできたばかりにも関わらず、彼の目は依然として目の前の機械しか捉えていない。


「もーちょっとなんだ……あと少しで完成するから待って」

「そうだね。私もここにいるよ」


 ミカエルが頷く。クロムがハルトをしっかりと抱えた。ハルトはクロムの腕をしっかりと掴み、世界最速のジェットコースターに乗るような気持ちで心の準備を始める。今日ばかりはどんなに酔っても吐いている場合ではない。


「じゃあ、行っておいで。サタンによろしく」


 ミカエルの言葉を合図に、二つの翼は地を蹴った。




「……ここが地獄へのルートですか?」

「そうだ」


 緩やかな下りの階段がどこまでも続いている。終わりが見えない長い道を滑るように飛びながら、ハルトは風圧で開かない目をこじ開けてどうにか前を見た。前にはシルヴィアの白い翼。純粋な速さに関してはクロムよりも、彼女の方が少し上だ。


「シルヴィアさん速いですね」

「もともとあいつはサタン様の次に速かった。ちゃんと思い出せたようだな」


 医療棟でライアの治癒をした際は久しぶりで上手くいかないとぼやいていたが、すっかり馴染んできたようで何よりだと、クロムは微笑まし気に前の翼を見た。ハルトは周囲の景色を見る。いつの間にか白かった階段は灰色がかってきていて、それがどんどん色濃くなっていくような気がした。


「何か暗くなってます?」

「地獄へ近づくほど濃くなる。サタン様がいる場所はだいぶ黒かった。まだ先だな」


 クロムの瞳と同じくらいの薄墨色から、濃い灰色へ。次第に何か腐っているものが焦げたような匂いと()びた血の匂いが鼻につき、ハルトは口元を押さえた。


「うっ……」

「吐くなよ」

「大丈夫……です」

「地獄が近いな」


 そうかこれが地獄なのかと、ハルトは気を引き締めた。(うっす)ら漂う匂いだけでもそこがどれだけ恐ろしいかがわかる。同時に、そんな場所を日々管理している悪魔という種族が、急に遠く感じられた。


「まだ遠いが、やはり人間には合わんだろうな」

「仕方ないわね。ほら」


 シルヴィアが速度を落としてクロムに並んだ。彼女がハルトの肩に手を置くと、途端に吐き気が消えて息がしやすくなる。彼女が何をしてくれたのかは全く分からないが、癒しの天使の恩恵だろう。


「ありがとうございます!」


 ハルトが叫ぶと、ひらりと手を振る後ろ姿が見える。彼女は地獄にも行ったことがあると以前言っていたのをハルトは思い出し、シルヴィアの規格外さを改めて知った。前へ進むほどに濃くなっていく死臭、暗く怪しくなっていく景色。クロムに抱えられていなければ、ハルトはもう一歩も進めないだろう。


 同じく悪魔が天国に来るのもこんな感覚なのかと思えば、クロムや瑠奈の苦労も計り知れない。ハルトは一層気を引き締めた。歩み寄られてばかりでは駄目なのだ。関わると決めたからには、こちらも積極的に理解しに行かなくては。


「見ろ。もうすぐだ」


 クロムの低い声が落ちてくる。既に階段は殆ど漆黒に近く、目を凝らさないと壁がどこにあるかも定かではない。前方を飛んでいるシルヴィアの翼だけが白く輝いて、彼女の周辺だけを薄ぼんやりと照らしている。


「あっ」


 不意にシルヴィアが速度を落とす。下降して地に足をつけた彼女の頭上を、クロムは宙に浮いたまま越えた。前方には巨大な氷塊。そしてその上には、白く輝く大きな剣が刺さっている。以前に浅黄が開いた本の一ページ、台座に刺さって持ち主を静かに待つ一振りの剣。御伽噺(おとぎばなし)の中のような光景が、現実にあった。


「着いたわよ」

「これが……聖剣?」

先代勇者(・・・・)のな」

「ということは、魔王様がこの中に?」

「そうだ。早く抜いて……ん? ……誰かいるな」


 クロムの声が一段低くなり、ピリリと緊張の糸が走る。誰かいる、と聞いて、ハルトは人影を探した。暗い闇の中で、はっきりと見えるのはシルヴィアの白い翼と輝く聖剣。しかし目を凝らすと、その聖なる剣の隣。巨大な氷塊の上に、一人の男の姿が浮かぶ。


「……え……?」


 まさか、有り得ない。こんなところにいるはずがないのに。しかし浮かんだいずれの言葉も、ハルトの口からは出なかった。


「知り合いか?」


 驚きに言葉を失ったハルトの様子に、クロムが気がつく。ハルトは声を出せないまま微かに頷いた。クロムの瞳が鋭く氷上の人物を捉える。


「お前は誰だ」


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