第七十話 裁きの天秤
白の部屋の奥の武器庫で、ミカエルは天秤を少しずつ右に動かしていた。
「もう少しかな?」
「はい。あと少しだけ……あっ、ちょっと待ってください!」
少し離れたところで天秤を見ていたリリィが、パタパタと白い翼を動かして中心上部の針が中心に近いかどうかを確認している。もはや肉眼では左右の差はほとんどわからない。ミリ単位の調整だ。
「今はクロムがいないからね。天国側に傾いてしまうと、調整が難しい。慎重に頼むよ」
「はい。あと……十五メモリです」
「十五メモリ……」
ミカエルは悩んだ。十五メモリ分の聖なる力とはどれくらいなのだろうか。今まで細かい調整はサタンがやっていたので、こんな最小単位の力など意識して出した事がない。
「マスター?」
考え込んだミカエルを見て、リリィが首を傾げる。天秤自体を今日初めて見たリリィに、調整の難しさなどはわからない。
「大丈夫ですか? もしかして、何か問題が……」
「いや、心配ないよ。ちょっとやってみるから、メモリをしっかり見ててくれないか?」
「はい!」
リリィは天国側に十五メモリ分動いている針を確認した。これが中心の赤いラインに重なったら、天秤の調整は完了するのだ。
「うーん……これくらい?」
「あっ、十一メモリ動きました!」
「…………」
「あと少しですよ、マスター!」
リリィの弾んだ声が聞こえるが、ミカエルは絶望的な表情を浮かべた。数メモリずつ刻もうと思ってごく弱い力を出したのに、十一。あと四メモリということは、これの三分の一以下の力。意図して出せる弱さではない。
(クロムならできるのかな)
ここにはいない頼りになる悪魔を思い浮かべる。経験はないだろうが、彼はこういうのが得意そうだ。時間感覚も緩やかでのんびりした気質の天使とは違い、地獄で罪人を管理している悪魔は細部に厳しい。適材適所とはよく言ったもので、天秤のミリ単位の調整は、悪魔の方が適しているに違いなかった。
(サタンはいつもどうしてただろう……)
五百年前の記憶を掘り起こす。そういえば以前に一度だけ、コツを聞いたことがあったとミカエルは思い出した。彼は何と言っていただろうか。ミカエルは目を閉じて、記憶の海に身を沈めた。
――――どうした?
天秤の裏側で、黒い翼が振り向いた。その手のひらは黒い球にしっかりと当てられ、そこから闇が吸い込まれるように天秤へと注がれている。
「いや。いつもながら凄いなぁと思ってね」
ミカエルは天秤を見上げながら、その寸分の狂いもない見事な調整の様子に感嘆の息を漏らした。膨大な力を持ちながら、弱い力を意識して出すというのは決して容易な事ではない。
「一メモリ単位の力なんてどうやって出すんだい?」
「お前にはいらねぇだろ」
サタンはあっさりそう言って黒い翼を動かし、針の前まで飛んだ。中心の赤い線から右に六傾いているのを確認して、また黒い球に手を当てる。
「調整は俺の仕事だ」
「でも、私もできるに越したことはないだろう?」
「……確かにな」
サタンは黒い球から手を離してミカエルを見た。調整役を任せるつもりは全くないが、確かに有事の際は代わりにミカエルが調整することもあるかもしれない。のんびりした天使の見本のようなこの男にどう考えてもメモリぴったりに力を押さえるなど無理そうだが、出来るに越したことはないという意見には同意できる。自分が見ていられる時に、少し練習しておいてもいいかもしれない。
「よしっ。じゃ今日の調整はお前な」
サタンは黒い球に再び手を当てた。天秤が左に傾く。今の力の入れ方は十メモリ。おそらく地獄側に四傾いているはずだ。
「お、ぴったり」
再び飛んで針を確認してから、サタンは表側の白い球の前に立つ。ミカエルも表に回ると白い球に手を当てて、そして不安げにサタンを見た。
「えぇと……四かい? 難しそうだな」
「まずやってみろ。自分でできる一番弱い力を出してみるんだ」
「わかった! やってみるよ。うーん、こうかな?」
「…………桁が違ぇな」
測定不能とばかりに天国側に振り切れた針を見て、サタンは一歩下がった。一瞬で肉眼でもわかるほどに皿が傾いている。
「もっかい左に傾けるから、ちょっと待ってろ」
「悪いねサタン」
「最初はこんなもんだろ。次はもーちょい弱く出来そうか?」
サタンが黒い球に手を当てると、あっという間に針が左に傾いていく。数秒のうちに針が止まり、ミカエルは思わず拍手した。そこはぴったり、中心から左に四メモリ。
「サタンは凄いね!」
「曲芸やってんじゃねぇんだよ」
サタンはほんの一瞬だけミカエルに呆れたような視線を向けたが、すぐに気を取り直して真面目な表情に変わった。
「コツはイメージだな。俺の場合は、『吸血コウモリ』が潰れるくらいの力で十動く。ぎりぎり潰れないくらいの力なら五だ」
「なるほど……?」
ミカエルは想像しようとしたが、さっぱりわからなかった。吸血コウモリは見た事があるが、潰したことはないし潰そうとしたこともない。
「コウモリを……潰す? うーん、こうかな?」
ガン、と針が振り切れた。サタンが急いで裏に回る。
「やりすぎだ。それじゃ内臓まで飛び出るだろ。血の一滴も出さずに心臓だけ止めるくらいの力だ」
「そうなのかい? 難しいな」
「もっと……いや潰すってのがまずかったか?」
きょとんとした様子で立っているミカエルの表情を見て、サタンは自分の例えの悪さにようやく気がついた。天使は何かを害するということに発想が向かない場合が多い。コウモリを潰すなんて想像もつかなかったことだろう。
「悪ぃな。今のは俺のミスだ」
「いや、どう考えても私の力加減が悪いと思うけど」
「にしても例えが悪すぎた。そうだな……鳥でいくか」
サタンは力加減のイメージを天使の感覚に合わせて考え直した。天国に生きものは滅多にいないが、死者が連れてきた鳥が何羽かいたはずだ。サタンは鳥の魂を抜いたことがないので知らないが、何となくこれくらいだろうとあたりをつける。
「鳥を聖なる光でぎりぎり包んで身動きとれなくするくらいの力が十、惜しいところで逃げられるくらいの力だと五くらい、魂抜くくらいの力だと振り切れる。いいな?」
「わかった! やってみるよ」
ミカエルは頷いた。今のは非常にわかりやすい。針は四傾いているのだから、鳥に逃げられるくらいの力だ。
「……こう、かな?」
白い球に手を当て、小さな鳥にも逃げられるくらい優しく力を込める。逃げてもいいよ、大丈夫だよと優しく。少しずつ動いていく針を確認して、サタンがミカエルの肩を叩いた。
「出来るじゃねぇか」
「今、出来てた?」
「おぉ、ほら。見てみろ」
サタンが指さす先を見る。針は赤い線の上。調整完了の証に、天秤が金色に光った。
「出来た……できたよサタン!」
「俺に何かあっても、これで安心だな」
嬉しそうに笑うミカエルに向けて、サタンはにやりと笑った。この後すぐにその顔が見られなくなり、壊れた天秤の修理に明け暮れる日々が待っているなんて、この時は想像もしていなかった――――
――――マスター!
「あぁ。ごめん」
ミカエルは記憶の海から顔を出した。いつの間にかリリィが目の前にいて、心配そうな表情を浮かべている。
「ちょっと考え事をしていてね」
「マスターったら、呼んでも返事がないので心配したんですよ」
リリィは頬を膨らませた。確かにこの距離で呼んで返事がなければ心配するかもしれないと、ミカエルは頬を掻く。集中すると周りが見えなくなる癖も直した方が良いと、それもサタンに散々言われていた。
「ごめん」
「いえっ。そんな謝ることでは……いつもの事ですし」
「いつもの事か……」
「えっ? いえっ、違いますよ! そういう意味では……」
リリィは慌てて手を振った。いつも話を聞いていないみたいに言ってしまったが、決してそんな事はないのだ。その様子を見てミカエルは微笑み、白い球に手をかける。
「わかっているよ。ありがとう」
「マスター。あと四です」
「うん。もう大丈夫だ」
ミカエルは自信たっぷりに言うと、小さな鳥を思い浮かべた。あの時と同じ四メモリ。小さな鳥でも難なく逃げられるくらいの優しい力。
――――針が赤い線に重なる。天秤が金色に包まれ、武器庫いっぱいに金色の光が広がった。
「マスター! これは……」
「大丈夫だよ。ゆっくり目を閉じて、天秤に身を任せるんだ」
ミカエルの穏やかな声が、不安を溶かしてくれる。リリィは言われた通りに目を閉じて、すぐ横の天秤に意識を集中した。ゴゴゴ……と激しい音が聞こえる。暗雲立ち込める嵐のような、建築途中の現場のような、至近距離を巨大なドラゴンが通ったような。
「世界が一つ現れるんだ。ちょっと大げさな演出くらいはあると思って、ゆっくり待っていればいい」
嵐のような騒音の中でも、ミカエルの声は変わらず穏やかだ。リリィは目を閉じたまま頷き、煉獄について思いを馳せた。天国と地獄の間にあるというもう一つの世界、煉獄。それは一体、どんなところなのだろう。
「終わったようだよ」
長いような短いような時間。数分にも感じたし、数時間にも感じた。静けさを取り戻したところにミカエルの声が届き、リリィは目を開けた。
「うわぁ……」
そこは、宙に浮いた真っ白な世界だった。浮いている、というのがなぜわかったのかというと、開放的な造りの空間にはところどころに隙間があり、床と平行に青空と薄い雲が流れているのが良く見えるからだ。
天井はアーチ状で、壁との間に大きな隙間があり、そこからも青い空と薄く伸びたような雲がのぞいていた。床一面には真っ白なタイルが敷き詰められ、端に数メートル間隔で丸い柱が立っている。壁は丸いこの部屋を途切れ途切れに囲むようにあり、扉のような切れ目が数か所、そして緩やかに下る大きな階段が一つ。
「ここが、煉獄……?」
「そうだよ」
ミカエルが、懐かしさに目を細める。長年閉ざされていた煉獄の扉が開かれた。しかしここで気を抜いてはいけない。敵が動き出す前に、速やかにサタンを復活させなくては。
「リリィ」
「はいっ!」
言われるまでもなく、自分の仕事はわかっている。リリィは白い翼をいっぱいに広げ、瞬間移動を発動させた。
(皆はちゃんと、店にいてくれているだろうか)
ミカエルは天秤に寄り添うように立ち、いつもより激しく動く鼓動を押さえるように深い息を吐いた。この煉獄のどこかにサタンは眠っているが、いつ何が起こるかわからない状況で天秤から離れるわけにはいかない。それに、ミカエルにはサタンを目覚めさせることはできないとわかっていた。
(ハルトくん、頼むよ)
ミカエルはサタンがどんな状況で眠っているのかを知らないが、クロムやシルヴィアから聞いた話だと、地獄に続く大きく長い階段の下で、先代勇者の出した聖剣が刺さった状態でいるらしい。ということは、サタンの復活には聖剣を抜ける人物が必要不可欠。勇者になるために修行しているハルトなら問題なく抜けるだろう。
天使と悪魔の争いに不幸にも巻き込まれてしまった少年。地獄行きに怯えていた人間をこれほど頼りにすることになるとは、全く予想していなかった。
「偶然か、それとも運命か……ねぇサタン。これだから、永遠に生きても退屈しない」
悲しくて、悔しくて眠れない夜もあれば、希望に胸弾む朝も来る。何千年生きてきても味わったことの無い緊張と軽い興奮を胸に抱き、地獄へ繋がる大きな下りの階段を見つめながら、ミカエルは仲間が来るのを静かに待った。




