第六十八話 純粋な親切心
(よしっ! 誰にも見られてない)
瞬間移動で店の裏側に飛んで、ハルトは辺りを見回した。店舗の中に直接飛べればいいのだが、場所を正確にイメージするのは意外に難しく、数回に一回の割合で数メートルほどずれてしまうことがある。表でなく裏側でよかったとひとまず安堵して、ハルトは急いだ。
瑠奈はもう店についただろうか。店ではどんな話し合いが行われているだろうか。まずはいつも通りCLOSEDの扉を開こうと、走って表側に回る。
(早く行かないと……っ)
――――ゴンッ
「痛っ!」
慌てて走っていたハルトは、突然何かにぶつかった。倒れそうになる身体を瞬時に立て直すことができたのは修行の成果だろうが、注意力不足な時点でまだまだ未熟だ。
「いたたた……」
「うっ……」
「あっ! だ、大丈夫ですか!?」
ぶつかったのは人だったと、少し遅れてハルトは気がついた。前方に女性が倒れている。ここは店舗とクリニックの間の狭いスペースで、道ではない。人がいるとは予想外だった。
「あの、どこか痛みますか?」
ハルトは女性に駆け寄った。既に怪我をしているようで、あちこちに包帯が巻かれている。女性はすぐに上体を起こし、地面にそのまま座り込んだ。その顔をよく見る前に、脚から流れる血の方にハルトの視線が寄せられる。そこには包帯が巻かれていないので、今の転倒で負ったものだろう。怪我をさせてしまったと、ハルトは青ざめた。
「すみませんっ! 痛いですよね」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
怪我を確認するハルトの後頭部を、クレハは睨むように見た。まずいことになってしまった。鉢合わせしないよう細心の注意を払っていたはずだが、これは予想外だ。瞬間移動を使うとしたら直接店舗の中に行くはずだと思っていたクレハは、能力の扱いの難しさを計算に入れていなかった。
(まずいことになった……防護壁が発動する前に、どうにか逃げないと)
防護壁は基本的に害意のある魔を祓うのだと、調査結果で聞いている。ということは、害意を見せなければいいのだ。善良な人間のふりをして乗り切ればいい。幸い、数字があるはずの左手にも包帯は巻かれている。火傷がこれほど役に立つとは思わなかったと、クレハは皮肉気に口元を歪ませた。
「本当にすみません。僕が前を見ていなくて」
「いえ、ぼうっと立っていた私が悪いんです」
「いえいえそんな。あの……この店に用ですか?」
「いえ、調子が悪くて少し休んでいて……」
クレハはわざと張りの無い声で言った。こういう時は、あまり多くを語らない方がいい。何も言わなくても全身に巻かれた包帯が説得力を増すだろうし、この人間は浅黄と違ってあまり深くは踏み込んでこないだろうという直感もある。
「そうだったんですね」
クレハが思った通り、ハルトはあっさり頷いた。ただならぬ怪我なので何かはあったのだろうが、助けが必要ならば自分から話してくれるだろう。そうでないなら、おそらく聞かれたくないのだ。詮索しない方が良い。しかし今負った怪我は別だ。
「結構血が出てますね……えぇと、ハンカチ……」
「大丈夫です。これくらいすぐに治りますから」
「いえ。ばい菌入ったら困るので、消毒しないとだめですよ。店舗に消毒薬があるので一緒に……」
「ダメです!!」
店に連れていかれたらたまらないと、思わず大声が出てしまった。慌てて口を押えるクレハを、ハルトは不思議そうに見た。クレハはなんとか誤魔化さなければと、しどろもどろに言い訳を紡ぐ。
「あ……えぇと……お店に迷惑をかけるわけには……」
「迷惑なんかじゃないですよ。店自体は閉まってるけど人はいますし、救急セットもあると思うので」
「いえ、あの。本当にお気になさらず……」
「ソファー席もあるからゆっくり休めますよ?」
なぜ人間という種族はこんなにもお節介なのか。もはや逃げ場がなくなったクレハは、急いで言い訳を考えた。浅黄についた嘘そのままならハルトに通用しないだろうが、少し言い方を変えれば。
「実は……恋人が嫉妬深くて」
「そうなんですか?」
「はい。男性と話をするだけで叱られるので」
「それは大変ですね」
ハルトはあっさり頷いた。ならばクロムには会わせない方が良さそうだと思いながら、ハンカチを患部に当てる。年齢が離れていることもあり、ハルトは自分も「男」のうちに入るとは全く思っていない。
「その怪我は?」
「あ……えぇと、ちょっと派手に転んじゃって」
「そうだったんですね。彼氏さん心配したでしょう」
「えぇ、まあ」
「治るまでだいぶかかるんですか?」
「もう少し……顔だけは、良くなったんですけど」
「良かった! 綺麗な顔なので大事にしないとですね」
いつの間にかハルトは、クレハの顔を正面から見ていた。ここにリリィがいれば頰を膨らませて怒るかもしれないので一応言い訳するが、彼自身に特に邪な気持ちは全く無く、単に綺麗な人だなーと思っただけに過ぎない。ハルトは割と思ったことを口に出す。それに、容姿の端麗さと恋心は全くの別物だ。
(顔……大丈夫、気づかれてないはず)
クレハの鼓動がドクンと跳ねた。今日はきちんと変装したので、変な顔色は完璧に隠せているはず。自分が普通の皮を被った化け物だとはわからないはずだ。
「……意外とお世辞がお上手ね」
「いえ、思った事を言っただけですけど」
「良いことを教えてあげるわ。女は化粧でいくらでも化けられるのよ」
クレハは自嘲気味に言った。女が綺麗なのは化けているからだと純粋な少年に教えてやろうと思った。素顔のままでいいのだと浅黄は言ったが、そんなの綺麗事だ。
「綺麗な顔の下には、醜い素顔が隠れているかもしれない。騙されちゃだめよ」
しかしハルトは首を傾げた。その化粧の下にどんな姿が隠されていようとも、騙されているとは思わないだろう。
「その……無理に素顔でいる必要はないと思いますけど」
「え?」
「だって、化粧も含めてその人ですよね。皆何かしら飾って生きてるんだからそれが普通じゃないですか?」
化粧だけではない。髪型、服装、その言動に至るまで、理想に近づくように努力することは褒められこそすれ、素顔の醜さを槍玉に上げて批判するものではないはずだ。
「っふふっ……あははははっ!」
「え? ……どうしました?」
クレハは笑った。自分だけではない。好きな自分でいるために、誰もがどこかしらを変装している。むしろそれが「普通」の事だと、ただ胸を張ればいい。
「そう、普通ね。あなた面白いわね」
「はぁ……どうも」
しかしなぜ笑われたかがわからないハルトは首を傾げ、クレハの傷口に当てたハンカチを見た。血が少しついている。
(思ったより酷いけがじゃなさそうだけど……あ!)
良いことを考えたと、ハルトはくるりと背を向けた。
「ちょっと待ってくださいね」
クレハから見えないようにハンカチに染み込ませたのは、水鉄砲に入っている聖水だ。確か回復効果があるとシルヴィアが言っていたので、治るかもしれない。
「なぁに?」
「ちょうど消毒薬持ってたんです。たぶんよく効くと思うので」
「いいわよ。店に行く予定だったんでしょ? そろそろ行かないと皆心配するんじゃないかしら」
「はい。でもその前にこれだけでも……」
きっとこれで治るはず。ハルトは聖水をたっぷりと染みこませたハンカチを、クレハの肌に近づけた。




