第六十三話 純な心は悪にも染まる
「魔王は死んだはずだ!!」
地獄の最下層、黒の玉座の肘掛けが大きく音を立てて割れた。ケルベスは動揺のあまり周囲に毒を撒き散らし、一時的に周囲の空気が濃紫に染まる。前回とは比にならないほどの猛毒に、クレハは口元に布を当てつつ息を止めた。
「有り得ない……魔王は五百年前に死んだ。勇者が殺したはずなんだ!」
叫びながらも、頭の片隅では冷静だ。勇者が魔王を倒すところも魔王が死ぬところも、直接見たわけではない。シルバーが生きていたなら、魔王が生きていてもおかしくはないのだ。
(シルバーに続き、魔王までもが生きていた? 生きているならば、なぜ今まで出てこなかったんだ。蘇った? 隠れていたのか?)
あらゆる可能性を考え、やがて聖剣が魔王を封印したという仮説にたどりつく。クレハが浅黄に与えた本は単なる人間が書いたつくり話のはずだが、もしもあの話のように、魔王が封印されていたとしたら。
(封印が解けた? いや、もうすぐ解けるのか? 何故今まで気が付かなかった……どこに隠れているんだ?)
地獄の最下層にいても感じられるほどの圧倒的な魔力。その出処はわからないが、あれが魔王のものであることは確実だ。 魔王がどこかの世界に生きている。その事実が、彼の心を追い詰める。
(まずい、魔王が出てきたらもう終わりだ……いや、まだ勇者がいる。攻めるしかない)
魔王が出てくるのならば自分に勝ち目は無いのではと、一瞬出てきた弱気な心を振り払うように首を振る。もはや魔王がいようといまいと、決戦は避けられない。持てる全ての力を使って、勝ちに行くしか道は無いのだ。
「勇者はどうした」
まだ空気中に毒が残っているにも関わらず、ケルベスはクレハに話しかけた。クレハは少し間を置いて、結局短く口を開く。
「聖なる気は充分かと」
一息で答え、再び布で口を覆う。手先が痺れたくらいで大事はないと安堵するクレハの様子は目にも入れずに、ケルベスは勇者が聖剣を出すきっかけについて考えた。聖なる気、善なる心、そして強い精神力。
(大切な人を守るため、か)
前の勇者は大切な人を守るために聖剣を手にした。聖なる気が充分なのに聖剣が出ないのは、そういう強い気持ちが足りないからかもしれない。
「魔王が動く前に、勇者候補の心を揺さぶって聖剣を出させるのだ。何かを守ろうとする強い気持ちが、彼を勇者にするだろう」
「仰せのままに」
クレハはそれだけ言うと、息を止めて飛んでいった。やはり前回と同じく、わずかに吸った毒の影響で翼の動きが鈍くふらついている。ケルベスが何気なくそれを見ていると、少し遠くで炎の直撃に遭い、黒い煙が彼女自身からあがるのが小さく見えた。焼けたのは翼か肌かどちらもか。どうせ常に火傷をしているのだしと彼は気にならない。クレハの肌がどれだけ傷つこうか、彼の知った事ではないのだ。
(大切な人……か)
愛しい婚約者を思い浮かべ、ケルベスは改正印を握りしめた。あの柔らかな栗毛色の髪に再び触れるためにも、一刻も早く金印を完全なものにしなければならない。そして十三条を廃止し、白い翼を絶滅させる。
(魔王など恐れている場合ではない。ルシファー、もう少しの辛抱だ)
鈍く光る金印から、彼女の声が聞こえる気がする。早くマスターになれと急かすように何度も囁かれ、焦る気持ちを抑えるように深く息を吐く。そうしてしばらくの間、彼は決戦に向けて静かに考えを巡らせていた。
◇
クレハは地獄を出てそのまま人間界に向かい、人気のない路地に入って黒い翼を消した。既に辺りは暗くなっており、仕事終わりの会社員が何人も足早に歩いている。
(痛っ……よりによって炎の中に入ってしまうなんて……顔はどうなっているかしら)
クレハは周囲に誰もいないのを確認して、すぐに鏡を取り出した。火傷しているのは顔だけではない。手足も、肩も、身体中のいたるところが悲鳴を上げている。しかし彼女は迷わず顔だけを確認した。顔全体がしっかり映る大きめの手鏡をのぞきこんで、嫌悪感を表情に滲ませる。
(やはり変装が解けている……あぁ、なんて醜いの)
死者のような青白い肌、紫色の唇。頬から口元にかけての火傷は先程負ったものだが、顔色は生まれつきだ。純粋な悪魔ならこうはならない。その顔色は、クレハの生まれの特殊さを現わしていた。
(全部、天使のせいよ……天使さえいなければ、こんな化け物は生まれなかった)
悔しさに強く唇を噛むと、血の味が広がった。他の悪魔と変わらない真っ赤な血。しかし、その半分は天使のものだ。
混血種――――その存在は決して禁忌ではない。しかし五百年前に天使と悪魔の仲が悪くなって以降、滅多にいない混血種の彼女に対する周囲の視線は冷たかった。
何もしていない。何も悪くない。しかし堂々と存在してもいいのだと開き直るほどには、彼女の心は強くもなかった。同じ黒い翼が生えていようと、本当の仲間には決してなれない。気持ち悪いと囁かれた言葉の数が、遊び半分に投げつけられた溶岩の数が、確実に彼女の心を黒く蝕み、そのたびに、彼女の変装は濃くなった。
(くっ……火傷が邪魔して上手く肌の色が変えられない……せめて口紅だけでも)
クレハは真っ赤な口紅を取り出した。地獄の炎のように鮮やかな紅。顔色は必死で身に着けた変身の能力で変えているが、唇の色を変えるのは難しいので道具に頼っている。マスターは全くの別人にでも変身できるらしいが、クレハにそんなことはできない。しかし、この死者のような顔色を変えれば普通になれる。その事が、クレハの自尊心を辛うじて保っていた。
「……紅葉さん?」
不意に爽やかな声がかかる。誰だと思うまでもない。人間界で、クレハに声をかけてくる可能性があるのは一人だけだ。
「……浅黄さん」
まずい時に出会ってしまったと内心で舌打ちをしながら、クレハは笑顔を貼り付けた。火傷も顔色もまだ何一つ隠せていないが、幸い外灯が切れかかっているおかげで顔色まではわからないかもしれない。頬に手を当てて火傷を隠しながら俯きがちに話せば、乗り切れるかも。
「どうしたんですか? どこか痛みますか?」
しかし浅黄は心配そうにクレハの顔をのぞきこんだ。そういえばこの人間は真っ直ぐ目を見て話すタイプなのだと、今更ながら彼女は思い出した。困った人を放っておけないのは勇者らしくて結構なことだが、放っておいてほしい時もあるのだ。
「……何でもありません。急ぎますから……」
「待ってください! こんな暗い道で女性一人を歩かせるわけにはいきませんから!」
浅黄は背を向けたクレハの隣に並んだ。流石に女性の身体に触れるのは躊躇われるが、このまま一人で行かせるわけにはいかない。いつもは自信たっぷりに背筋を伸ばしている印象の彼女が、今は顔を隠すようにして歩いているのだ。何かがあったに違いない。
「行き先はどちらへ?」
「この近くなので。心配ありません」
「送りますよ。駅ですか?」
「いいえ。本当にこの近くなんです」
クレハは早足で歩きながら言った。どうにか早く浅黄を撒きたい一心で適当に歩いているうちに、例のケーキ屋がある通りに出てしまう。無意識とは怖い。
(クロムに見つかるとまずい……早く行かなくては)
思わず店に視線を向けたクレハの顔が、店の前の外灯に照らされた。片手では隠しきれない爛れた頬が、浅黄の目に映ってしまう。
「紅葉さん?」
案の定、浅黄は一瞬驚いた顔をした後、クレハの両肩を掴んで頬の火傷を見た。間に合わなかった。思わず出てきた軽い舌打ちは、浅黄には聞こえなかっただろうか。
「……本当に何でもないんです」
クレハは指を大きく開いて顔の大部分を覆い隠し、その顔色までは見えないように光に対して背を向ける。おそらくあまり見えてはいないだろう。火傷してるという事しかわからないはずだ。
「何でもないわけないでしょう! 一体何があったんですか? とりあえず病院に……」
「いえ、大丈夫です。慣れているので」
「慣れている? そんな火傷が?」
軽い調子で言ったクレハに対し、浅黄の表情は真剣そのものだ。人間が皮膚が爛れるほどの火傷を日常的に負うなんて事は普通ない。言葉を発してからそれに気がついたクレハは、勇者の心に揺さぶりをかけろとの指令を思い出した。上手く行けば一気に解決するかもしれないと内心だけで笑い、表情には憂いを纏わせる。
「実は……」
あえて多くを語らずに、彼女は店の明かりがついている二階部分にちらりとだけ視線を向けた。中の様子は見えないので誰がいるのかはわからないが、強面の店員がいるというこの店の噂を、浅黄も聞いたことがあるだろう。
「まさか、ここの店で何かあったんですか!? 背が高くて怖そうな店員がいるという噂は聞いたことがあるんですが……もしかして」
案の定、浅黄は焦った表情でクレハと菓子店を見比べている。クレハは顔を覆って下を向き、即興で考えたそれっぽい台詞を口にした。
「全部私が悪いんです。あの人の言う通りに出来ないから……」
「そんな事ない!」
両手で顔を覆い隠すクレハを見て浅黄は確信する。彼女はその強面の男に暴力を振るわれているに違いない。彼女がこの店で働いているという話は聞いたことがないので、おそらく恋人だろう。そしてクレハもまた、浅黄がそう勘違いすることを望んでいた。
「紅葉さん。貴女は早くここから離れるべきです! 手当もしたいですし、まずは僕の家に……いえ、不安なら誰か女性の友人を呼んでください。それまで一緒にいますから」
浅黄とクレハはよく飲みに行くが、実際はそれほど深い仲ではない。恋人の話は聞いた事がないので勝手にいないと思い込んでいたが、まさかこんな暴力男だったとは。もっと早く話を聞ければと悔しさに顔を歪めながら、浅黄は必死にクレハを説得した。
(馬鹿な男ね……簡単に騙されて)
浅黄が熱を込めるほど、クレハの心は冷めていく。しかし馬鹿な男を揺さぶって聖剣を出させるのが今の任務だ。どれほど馬鹿馬鹿しく感じても、任務を放棄するわけにはいかない。
「明日病院も付き添いますから……紅葉さん?」
「え?」
考え事をしている中での浅黄の呼びかけに、クレハは街灯の存在をすっかり忘れて顔をあげた。あげてしまった。青白い顔がすっかり照らされ、浅黄に正面から見られてしまう。まずいと思って目を逸らそうとしたその時、浅黄の手が火傷の無い方の頬を優しく覆った。
「冷たい……紅葉さん、早く身体をあたためないと」
じんわりとした熱が心地よい。天使よりも人間よりも、悪魔は体温が低いのだ。彼の手から伝わる熱が自分が悪魔として存在している証のように思えて、不覚にも少し嬉しくなってしまった。だから、するりと本音が出てきた。
「……いえ。生まれつきなんです。冷たいのも、顔色が悪いのも。おかしいでしょう?」
ここ何百年も、誰にも本心を打ち明けた事はない。いっそ一緒に馬鹿にしてくれたらすっきりするのではと思い浅黄に視線を合わせたクレハは、彼のきらきらした琥珀色の瞳にほんの一瞬、囚われた。
「あなたは美しい」
本心なのか、同情か。ただのお世辞か気まぐれか。それはクレハがずっと欲しかった言葉だ。だが、人間からかけてほしかったわけではない。
「人間に……私の気持ちはわからない……」
頬を冷たい感触が伝う。混血種でも涙が流せるなんて知らなかった。天使が憎い。この世から天使がひとり残らず消えたなら、自分の血の半分もなかった事になるだろうか。
「紅葉さんはそのままで綺麗です。もしもこの顔を馬鹿にするような輩がいたら……僕が決して許しません」
浅黄はクレハの素顔を正面から見てはっきりと言った。しかし、クレハはもう彼の目を真っ直ぐ見ることができない。彼が同族だったらよかった。同族にそう言って欲しかった。生まれなんて関係ない、同じ仲間なのだと受け入れてほしかったのだ。そして今地獄でそれをしてくれる悪魔が、ただ一人。彼のために働いて必ず出世する。偉くなれば誰にも文句を言われない。そうしてやっと、自分は本物の悪魔になることが許される。
(マスター……必ず、浅黄を勇者にいたします)
心の中だけでそう誓って、クレハは無言のまま浅黄の胸に身を預けた。浅黄は優しく微笑み、二人は寄り添って歩いていく。
去り際に浅黄だけが振り返り、店の二階部分をちらりと見たが、憎悪を込めたその表情はとても勇者と呼べるものではなかった。




