第六十一話 待ってる方も寂しかった
白の部屋の奥の武器庫で、ミカエルはひとり天秤を見上げていた。シルヴィアは一度人間界に戻ってクリニックを閉める準備をはじめている。クロムもシルヴィアの身の安全を守るためと、かねてから探している『真っ赤な口紅とショートカットの悪魔』の目撃情報が人間界であったため、一度店へと戻ったところだ。
リリィはルキウスの手帳を見ながら瞬間移動で天国各地をまわっているようだし、ルークは工房にこもりきりで何かを作っているらしい。ミカエルも自分のやるべきことに集中する時だと、最近はこの部屋にこもりきりで天秤を直している。
(左右の鎖に切れ目なし。皿の欠けたところもさっき直したし……あ、ここにもひびが)
支柱部分の裏側に小さなひび割れを見つけ、ミカエルは手を翳した。白い光がひび割れ部分に吸い込まれていき、すぐに塞がっていく。支柱の裏側には拳大の黒い球が埋まっていた。調整時にクロムが手を当てている部分だ。そこに魔の力を注ぎ込むと、天秤が調整できる仕組みになっている。
(クロムは謙遜するけど、本当に立派だ。シルヴィアも。リリィもルークも成長したよ……五百年前からは考えられないほどにね)
早く復活して欲しいと願いを込めて、黒い球の周りを指でなぞる。ミカエルは、球そのものには触れられない。
(早く会って話したいよ)
次世代が頼もしく育っていると、そう言いたいのだ。天国も地獄もマスターひとりの力ではなく、各リーダーをはじめとする多くの天使と悪魔によって支えられている。そして特にその中でも、クロムとシルヴィアは別格だ。有事の際はふたりを次期マスターにしようと、サタンとミカエルはずっと前から決めていた。その決断も間違いではなかったと、直接話せる日はそう遠くない。
「さて。見たところ他に大きな傷はなさそうだし、少し休憩してこれでも読もうかな」
ミカエルは部屋の隅に置かれた簡易的なデスクに座り、一冊の本を手に取った。今度出版されるらしい、種族と世界を跨ぐ壮大なラブストーリーが綴られた本だ。
(それにしても、リリィのあれがこんなに効くとはね。意図したものではないだろうが、最近天国の雰囲気がとても良くなった。これのおかげだ)
ミカエルは本の表紙に目を落として微笑んだ。リリィのあれとは、五百年前の事件の真相を感動的なラブストーリーに捏造して広めたあれの事だ。そう。つまり、この本の原作者はリリィである。
(この状況で天使と悪魔の仲が悪くなるのは、ある程度仕方がないと諦めていたが……印象操作というのは凄いものだな)
天国内の殺伐とした空気や悪魔との小競り合いは兼ねてから問題視していたが、天秤の修理の方がはるかに優先順位が高かったために後回しになっていた。しかし、この本の元となった噂話が天国中を駆け巡ってから、天使の悪魔に対する根拠のない恐怖心や嫌悪感のようなものが和らいだのを、ミカエル自身も感じることがある。
(愛のため……か。当たらずとも遠からず……誰もが愛のために動いたのに、誰も幸せにならなかった……事実は、物語よりも残酷だ)
当時を思い出しながらページをめくる。そのまま静かに読み進めていくミカエルの肩は、いつの間にか震えていた。
「っ……あはははっ! これは傑作だ!」
中盤ほどまで一気に読んで、他に誰もいない静かな部屋に、ミカエルは耐えきれず笑い声を響かせた。思っていたよりもはるかに面白い。本人ならば絶対に言わないであろう歯の浮くような台詞の数々、無駄に派手なバトルシーン、ドラマチックな情景描写。登場人物が全員知り合いなのもあるが、それを差し引いてもとにかく完成度が高かった。
「これは大流行するだろうな……悪いねサタン」
重要な登場人物のひとりであるサタンに向けてそれほど悪いと思っていなさそうに呟き、ミカエルは天秤を見た。まだ一目でわかるほど天国側に傾いている。クロムが魔力を注ぐたびに少しずつ平行に近づいているが、いつ敵が動くかわからない今の状況で、クロムに無理をさせるわけにはいかない。毎日少しずつ確実に近づけていくのが、今の最善だ。
(でも思ったよりも早いペースだ。これなら本当にあと少しで……)
「……あれ?」
ミカエルは何かに気がつき、本を机に置いて立ちあがった。今ミカエルがいるのは天秤の裏側、支柱に黒い球が嵌っている方なのだが、その黒い球に違和感を感じるのだ。
(これ……こんなに濃かったかな?)
ミカエルは黒い球に近づいた。その色は黒には変わりないが先ほど見た記憶にあるよりも濃度が濃く、よく見ると微かに光っている。
(どうしよう。故障かな……ここは私には触れないし、クロムを呼んで……)
『退け』
一度聞いたら忘れられない、少しの甘さを含む落ち着いた声。それが、脳に直接響いた気がした。
「……っ!!!」
―――――ゴォォォォ、と勢いよく音を立て、辺りが黒く染まっていく。警告通り大きく後ろに下がったミカエルは、天秤の黒い球から圧倒的な闇のオーラが迸るのをただ眺めていた。
「……サタン…………」
早く来いと言わんばかりに勢いよく、闇は天秤を左側へ傾けていく。そのエネルギー量は果てしなく、とても封印されている本人が出したものとは思えないほどだ。しかしミカエルは知っている。間違えるはずがない。これは紛れもなく、数多くの悪魔の頂点に立つあの男、魔王のものだ。
(あの球を通して遠隔で魔力を? 封印はまだ解かれていないのに……サタン。君は本当に……)
何とも破天荒な王だと、ミカエルはもう呆れるしかなかった。そのうちに魔力の放出はおさまり、闇が晴れて天秤の姿がはっきりと見えるようになる。
地獄側に傾いた天秤を見て、ミカエルは笑った。
「ははっ! サタン。やりすぎだ」
表側に回り、白い球に手を当てる。今度こそ右に傾きすぎないよう慎重に、ミカエルは天秤を少しずつ動かしていった。
◇
(うーん……ここにもないみたい……)
その頃、中心街から少し離れた広い花畑で、リリィは虹色のクローバーを探していた。
(やっぱり簡単には探せない。ここになければ……あと何か所あったっけ?)
空色の手帳をめくり、四つ葉の群生地が書かれたページを開く。地図に印が付いた箇所は十五か所。探したのはここで七か所目だ。
(見つけても意味がないかもしれないし、そもそも見つからないかもしれない)
それでも何かがある気がする。根拠はないが、直感だ。強いて言うならば、リリィが手帳を閉じてぱっとめくると、必ずこのクローバーのページが出るのだ。他の人が開くと違うページが出るので、手帳自体に癖がついているわけではない。自分が開いた時にだけ出るこの幸運探しのページに、彼女は運命のようなものを感じていた。
(でも、これだけ探して何の成果もなかったら……)
リリィは悩んでいた。ハルトは最近修行の成果かあの白い光をコントロールできるようになっているし、ルークは工房にこもって食事も忘れるほどの集中力で一心不乱に何かを作っている。対して自分は役に立つかどうかも怪しいクローバー探し。これでは仕事をさぼっていると思われても仕方ない。
「やっぱり一度、城に戻ろうかな」
独り言を言いながらリリィが立ち上がったその時。空が急に暗くなり、分厚い雲が青空を隠した。
「え? 何!?」
経験したことの無い異常事態に、リリィは思わず叫びながら誰もいない花畑を見回した。天国は常に快晴。一部の特殊な地域をのぞき、雨は降らない。警戒心を露わに白い翼を広げたリリィは次に、邪悪なオーラを感じて身を縮ませた。
(悪魔!? だって天国にいるはず……っ!! マスター!)
膨大な闇のエネルギーの出処がどこなのか、リリィにはわからない。しかし何となく城のあたりが最も濃く感じるのだ。もしかしたらマスターが危ないかもしれない。そう気がついた瞬間、リリィはもう白の部屋にいた。
「マスター!! マスター!?」
白の部屋には、ミカエルはいなかった。天秤の部屋かもしれないと、リリィは部屋の奥へと向かう。武器庫にはマスターの許可がないと入れない。リリィの瞬間移動も、ここだけは対象外だ。
「ねーちゃん平気!? マスターいる!?」
ミカエルの無事を確認する前に、ルークが部屋に飛び込んできた。相当急いで来たようで、浅い息を繰り返しながら武器庫の前に立つ。
「マスター!! 無事!?」
「……あぁ。ふたりともそこにいたのか」
リリィとルークの呼びかけが聞こえていたのかいないのか。すぐにミカエルが武器庫から出てきた。しかしその表情はいつも通りだし、緊急事態とは思えないほどの落ち着きようだ。
「マスター! ご無事でよかったです」
「びっくりしたかい?」
ミカエルは悪戯っぽく笑った。あの膨大な魔力を感じなかったはずはないだろうに、余裕どころかとても嬉しそうだ。その表情を一目見て、ルークは理解した。
「……もしかして今の魔王様?」
「よく分かったね。そう、今のがサタンだ」
「封印が解けたんですか?」
「いや、まだだよ。封印は内側からは解けないはずだからね。ただ力は回復したんだろう。サタンの魔力がたった今、遠隔で天秤を動かした」
「魔王様すげー」
ミカエルはやはり嬉しそうに笑い、リリィとルークは驚いた。魔王とはやはり、桁違いに凄いらしい。
その後数分の短い作戦会議を経て、リリィとルークは天秤が動いたことを知らせるため人間界へと向かう事にした。
「じゃ行ってきまーす……あ、ねーちゃん工房寄って」
「わかったわ。マスター、行ってきます」
「よろしく頼むよ」
白い光が二人を包み、リリィとルークは消えた。
(さて。私もたまにはマスターらしい事をしなければね)
白い光を見送って、ミカエルは白の部屋を出る。パニックを起こしているであろう一般天使たちの混乱をおさめるためだ。
天国に初めて降った雨は冷たく大粒で、何の備えもしていない店や屋外施設などは大損害を負った。しかし何の心配もないと穏やかに語るミカエルの表情はとても幸せそうで、それを見た天使たちは一連の珍事について、ミカエルが自ら仕掛けた何らかのイベントなのではないかと勝手に勘違いをした。マスターがやりたいならば仕方ない。できれば事前に教えてほしかったが、雨を恋しいと思っている死者の声もたまにあるので、サプライズを仕掛けたのかもしれないと。
そしてその晩。やけになった天使や久しぶりの雨にテンションが上がった死者たちが「雨祭り」という名のレアな祭りを天国各地で開くという、何とも天国らしい形で混乱は無事回避されたのだった。




