第六話 善と優しさは別物
「うわぁっ!凄っ。けどあぶなっ!怖いですって!」
「うるさいな。黙っていろ落とすぞ」
抜けるような青空の中を、黒い翼が力強く羽ばたいている。逞しく長い腕は小柄な少年を片手で抱えても少しもブレることなく支え続けているが、少年の方は地に足がつかない恐怖と必死に戦っていた。眼下には花畑が広がり湖は水底が見えるほど澄んでいて、遠くに緑豊かな山々が見える、まさに桃源郷と呼ぶに相応しい風景が広がっているのだが、肝心のハルトの目は風圧で半分も開いていない。
「あのっ。いつまで飛ぶんですか?」
「もう少しだ」
「もう少しって、さっきも。わっ」
青い鳥が至近距離を通過し、ハルトはがしっと黒谷の腕を掴んだ。呆れたようなため息が降ってくるが、背に腹は変えられない。男のプライドより命が大事だ。指が白くなるほど強く腕を握りしめているハルトをちらりと見て、黒谷は方向を確かめるように遠くを見た。
「おそらくこの時間だと全員城にいるはずだ。マスターにも会う。準備しとけ」
「マスター?」
「天国のトップだ。王みたいなものか?」
「王様に会うんですか?ちょっと、準備って何を?」
「心」
青ざめるハルトに、黒谷は笑う。揶揄われていることに気が付いた時には足元に大きな街が広がっていて、その中心にそびえ建つ白亜の城がどんどん大きく迫ってくるように見える。
「あそこだ。しっかり掴まっていろ」
これ以上ないほどしっかりと掴まっているだろうに何を言っているのだと思うのも束の間。今度は急降下しだした黒い翼に文句を言うより先に吐き気を感じたハルトは、よろよろとバルコニーの白いタイルに膝をついたのだった。
「うっ……」
「しっかりしろ。大丈夫か?」
「これが大丈夫に見えますか?」
「社交辞令として言っただけだ。大丈夫じゃなくても歩くんだな」
「酷い……悪魔みたいだ」
「そうだが?」
何を今更と言いたげな黒谷に、事実は悪口にはならないのだと思いながらハルトは歩いた。黒谷の性格上、こんな事で怒らないのは把握済みだ。事実、容赦ない口調とは異なり彼の歩く速度は随分と遅く、彼なりに気遣ってくれているのが感じられる。しかし悲しいことにもともとの歩幅が違いすぎるので、彼の長い脚には速足で追いつくのがやっとだ。ハルトは必死で黒い背中を追いかけた。
あれほど大きかった黒い翼はいつの間にか消えている。先程飛んでいる時に聞いた情報によると、感情が昂ったり力を使う時には勝手に出てくる事もあるが、基本的に出し入れは自由に出来るらしい。天国で黒い翼は目立つので、なるべく消すようにしているようだった。
「あの……」
歩きながら少し回復してきたハルトは、小走りで黒谷に追いついた。後ろから声をかけると、速度がもう一段階緩む。
「何だ」
「ちょっと質問が」
「だから何だと訊いている」
ハルトは歩きながら周囲に視線を配った。純白の翼を背中に生やした天使たちが、何人も遠巻きにこちらを見ている。ハルトは天使を初めて見たが、彼らの雰囲気は想像と違っていた。こちらを警戒するような視線、怪訝な表情、噂話を紡ぐ歪んだ口元、わざとらしく避けていく足取り。どれを取っても歓迎されていないのが明白だ。
「(天使って、もっと朗らかなイメージだったんですけど)」
「……善と優しさは別物だろう」
できるだけ声を潜めて切り出したハルトに何やら教訓めいた事を答えて、黒谷は右側の白い階段を上がった。少し遅れてハルトも続く。
「悪魔って天国に来てもいいんですか?」
「来れるならな」
「普通は来れないんですか?」
「慣れてないと溶ける」
「溶ける!?」
等身大の石膏像を左に曲がり、開けた道の真ん中。いつの間にか敷かれている緑の絨毯の上を堂々と歩く黒い背中を、すみませんと内心だけで呟きながら、心持ち背を丸め小走りで追いかけていく。ハルトは黒谷ほどメンタルが強くない。
「……ここだ」
やがて黒谷は、執務室と書かれた一対の豪華な扉の前で立ち止まった。ハルトもほっとしたように足を止める。重そうな扉だと思っていたが、黒谷が扉に手を翳しただけでそれは歓迎するようにあっさりと開いた。着いてこい、というようにちらりとハルトを見た薄墨色の瞳が、扉の向こうに消えていく。
「久しぶりだな」
「クロムさん!お久しぶりです。お元気でしたか?」
中から聞いたことのある声が聞こえ、続けて部屋に入ろうとしたハルトは思わず扉の前で立ち止まった。どうやらここではクロムと呼ばれているらしい黒谷が、コツコツと黒いブーツを鳴らしながら中に入っていく。
「おかげさまで急に忙しくなった」
「へぇー。なんか事件すか?めんどいっすね」
「まあな」
今度は聞いた事のない少年の声が聞こえた。傍から見ると随分失礼な物言いに聞こえるが、誰も気にしている様子が無いところを見るとこれが日常的なやり取りなのだろう。
先程廊下ですれ違った天使たちは黒谷に決していい感情を持っているとは言えないようだったが、黒谷はこの部屋の中ではごく自然に受け入れられているようで、それがハルトにはとても不思議だった。
「あら?有能なクロムさんが珍しいですね。何があったんですか?」
陽だまりのような優しい声が部屋から漏れ聞こえる。金髪の美しい天使がかわいらしく小首を傾げた姿が見えなくても容易に想像できて、ハルトの口元が緩んだ。
首だけで部屋を覗き込むと、入口の方にいた黒谷と目が合った。入れと無言で促されておずおずと一歩を踏み出すと、中にいた想像通りの天使が、光に溶けるような微笑みのまま綺麗に固まった。黒谷は置物のようになった彼女を見て口元だけで笑う。因みに目は笑っていない。怖い。
「どこかの天使が人間に正体を見破られた上、羽根まで与えて命を助けたそうだな」
「それは……その……」
「まじで?ねーちゃんだっせぇ!」
しどろもどろという言葉がぴったり合うようなたどたどしさでリリィが一歩下がると同時に、隣にいた少年がケラケラと笑った。姉弟なのだろうか。表情や立ち振る舞いから雰囲気は全く違って見えるが、よく見るとリリィとそっくりな顔立ちをしている。
「ルークでーす。めんどいけどいちおーね」
出会ってから二言目で、めんどい、というのが彼の口癖らしいとハルトは理解した。ルークは片側だけを刈り上げた桃花色の髪をがしがし掻いている。リリィより少し薄い空色の瞳は気怠げにこちらを向いているが、その奥には警戒心が滲んでいた。
「で。あんたなんでここにいんの?」
「俺が連れてきた。安心しろ、悪い奴ではない」
ハルトが答える前に、黒谷が庇うように二人の間に割って入った。それを見て、即座にルークが師匠がそう言うなら……と警戒の視線を解く。師弟関係だろうか、と不思議そうに二人を見たハルトの視線に黒谷は首を振った。勝手に呼ばれているだけだと付け足す。
「クロムさんなんですか?」
「ここではな。お前は黒谷でいい」
ついでに確認すると、すぐに答えが返ってきた。おそらく本名はクロムの方で、黒谷というのは人間にあわせた偽名なのだろう。そう考えると、素性は謎だがおそらく普通の人間では無いであろうシルヴィアは堂々としたものである。
「どーでもいいんだけどさー」
不意に、ルークがハルトを指さした。なんて事ない調子で続けた言葉に、リリィがはっと息を呑む。
「そいつ、カウンターやばくねっすか?重罪人かよ」
「あなたっ!どうしてこんな……」
彼女はハルトに駆け寄り彼の手を両手で握った。どうやら天使や悪魔は、直接手を見なくても数字がわかるようだ。彼女の小さな手は相変わらずあたたかいが、顔は青白く、全身が何か恐ろしいものを見たかのようにカタカタと震えていた。それもそのはず、彼女は以前に問題なくプラスだったハルトのカウンターを見ているのだ。ここ数日で何があったのだと思うだろう。静まり返った広い執務室の中に、黒谷の低音が響いた。
「天使と接触したせいでこちら側に足を踏み入れてしまった結果、業績に目が眩んだ悪魔の使い魔に誘導されて屋上から落ちたそうだ」
「なんてこと!!」
彼は現代文の答案のように簡潔かつ分かりやすく、ハルトの数日間を一文でまとめた。全てを理解したリリィの背後にピシャリと雷が落ち、その横ではあーぁ、とルークが引き攣った顔でドン引きしていた。
「そんな……私のせいで?」
「いえ!そんな。助けていただいてありがとうございました」
「えっ!?いえいえ。こちらこそすみませんっ!」
とりあえずお礼を言わなければと、ハルトは深く頭を下げた。彼女にお礼を言うことも、天国へ来た目的の一つだ。すぐにリリィも同じくらい頭を下げる気配がして、お互いに下を向いたまま感謝と謝罪を何度も伝えあった。確かにこんな事になった入口はリリィという一人の天使との関わりだが、責任を感じて涙を流しながら何度も頭を下げる彼女を前に、とても責める気にはなれない。
いつまでも頭を下げ合う二人だったが、黒谷は何をやっているんだと言いたげに怪訝な目で二人を見たあとくるりと背を向け奥の方の本棚を物色しはじめたし、ルークに至っては面白がって横でケラケラ笑っているだけだった。
「あった」
やがて一冊の本を持って黒谷が戻ってくるのを合図に、お辞儀合戦は幕を閉じた。彼の右手に持たれた大きく分厚い辞書のような本の表紙には、金糸で『天ノ国ノ法律書』と記されている。
「これが天国の法律書だ」
ハルトに向けて簡潔に説明し、黒谷は立ったままそれをペラペラと捲り始めた。身長差がありすぎて覗くことも出来ない。
「………!私はマニュアルを調べます」
「なんだ。お前にしては話が早いな」
「だって私の責任ですし」
黒谷の意図を察したリリィが、窓際のデスクに駆け寄りファイルを出す。そんな二人を見て、ルークが大きく伸びをしながら扉に手を翳した。
「じゃ俺マスター呼んでくんねー。めんどいけど」
いかにもやる気がなさそうにそう言い残して、鮮やかな桃花色は、扉の向こうに消えていった。