第五十七話 空色の手帳
「あー。さっぱりした」
シャワーで軽く汗を流し、ハルトは執務室へ続く廊下を歩いていた。相変わらず城は広いが、もう迷わずに目的地へ着くことができる。初めて来たときからそれほど月日が経ったわけではないのだが、もはやここはハルトにとって、学校よりもずっと馴染みの場所になっていた。
(えぇと、水鉄砲……あった!)
執務室の扉の前で、ハルトは水鉄砲を構えた。リーダー以上でなければ開くことができない扉はハルトが手を翳してもぴくりとも動かないが、開く方法があると教えてもらったのだ。
(聖水にはミカエル様の力が入ってるから、鍵になる……って言ってたよね)
以前シルヴィアに聞いた言葉を思い返し、ハルトは水鉄砲を構えて軽く引き金を引いた。敵を倒す目的ではないので、威力はごく弱いものだ。クロムの指導により、ハルトは水鉄砲の威力調整も楽にできるようになっていた。
いつもよりも細い水の矢が扉に向かう。パシャリと弾け、扉が白く光った。音もなく開いた扉の向こうでは、リリィが難しい顔で空色の手帳に目を落としている。
「あ、ハルトさんっ!」
ぱっと、リリィがこちらを向いた。その笑顔に自然と頬が緩むのを感じながら、ハルトはリリィの隣に座る。ここ最近は会議を開かなくても自然と皆が揃うタイミングで話し合いが始まるので、執務室は常時会議用のレイアウトになっていた。
「どう? 何か良い事書いてた?」
ハルトは机に開いてある手帳ではなく、リリィの顔を見て言った。もちろん手帳も気になるが、見てもいいかどうかわからないので少し遠慮したのだ。そんなハルトを見て、リリィは手帳をハルトの側に寄せた。
「一緒に見てください」
「いいの?」
「もちろんです。きっと知っておいた方が良い事も、たくさんあると思うので」
リリィの開いていたページには、天国の大まかな地図がざっくりと書かれていた。ところどころに印がついてあり、下の方に植物の絵が描かれている。
「幸運のクローバー?」
ハルトは、七色に彩られた四つ葉の絵と、その下に書かれた文字を見て言った。リリィが頷く。
「幸運の力について何かわかることがないかなと思ったんですけど」
「これ持ってたらいい事が起きるってことかな……すごい。折れた腕がくっつくんだって!」
「失明した方の目が見えるようになったとか」
「これほんとかな?」
「どうでしょう。噂で聞いたことをただ書いている感じにも見えますけど」
「そうかも」
手帳に書かれた幸運の例は十例ほどあったが、全て走り書きで書かれている。とりあえず聞いたからメモした、という理解が正しいような気がして、ハルトも頷いた。
「探してみる? 四つ葉の群生地、たくさん書いてあるけど……この印のどこかに行けば、見つかるかもしれないよ」
「見つかるでしょうか?」
リリィは自信がなさそうに眉を下げた。何百年も天国にいて、虹色のクローバーがあるなんて話は今まで聞いたことがない。
「見つけたら、何か起きると思いますか?」
「どうだろう……でも簡単には見つからなさそうだよね」
「難しいと思います。時間もかかるし、関係があるかどうかも分からないですから」
しばらく考えて、リリィは違うページを開いた。時間をかけて探しても、見合う成果を得られる可能性は低い。とりあえず保留だ。
「他には何が?」
「えぇと……あ」
リリィは目を止めたページを大きく開いた。二人の視線が、吸い寄せられるように手帳に集まる。
「うわぁ。凄い……」
そのページは、たくさんの似顔絵で埋まっていた。色鉛筆でカラフルに描かれた様々な顔が、今にも動き出しそうにこちらを見ている。
「ルキウスさんが描いたのかな?」
「おそらく。父の顔だけないので」
「あっ、ほんとだ。でもローズさんはいるね」
ハルトは中央に描かれた桜色の長い髪を指さした。顔立ちはリリィに似ていて、それよりも少し大人びている。しかし凛々しく知性を感じる表情は、何か難しい事を考え込んでいるときのルークにそっくりにも見えた。
「リリィに似て凄く美人だね」
「本当ですか? ふふっ、嬉しいです」
「ミカエル様と黒谷さんは変わらないね」
「シルヴィアさんも。髪型が少し違うくらいですね。あっ、もしかしてこの方が魔王様ですか?」
「そうそう」
「怖そうな方ですね……」
「いや。面白い方だったよ」
ハルトはサタンの似顔絵を見た。よく見ると顔立ちはミカエルと似ているが、その表情は厳しく、ハルトが初対面で受けた印象のままに恐ろしく見える。しかし、彼と直接話したハルトは、魔王に敬意を抱きこそすれ、恐れることはしていない。
「面白い、ですか?」
「ユーモアがあるというか。でも、凄い方なのは間違いないよ」
剣を振り回すだけが勇者じゃない。魔王に言われた言葉は、今もしっかりハルトの胸に刻まれている。少し背筋を伸ばしたハルトを見て、リリィが微笑んだ。
「お会いできるのが楽しみです」
「そうだね」
視線を合わせて笑い合い、また手帳に視線を落とす。
「あ。きっとこれが先代『魅惑の悪魔』だ」
次にハルトは「ミア」と書かれた悪魔の似顔絵を指した。藤の花のような紫色の長い髪。くるんとした長い睫毛に大きな紫の瞳。魅了の力を使わなくても誰もが振り向くであろう魅力的な容姿の悪魔が、そこにいた。
「うわぁー。やっぱり魅惑ってつくだけあって、凄く色気のある……」
「スミマセンネ。色気がなくて」
「いや違っ! そうじゃなくて……リリィ?」
「知りません」
リリィはふいっと横を向いた。機嫌を損ねてしまったと慌てたハルトは、勢いよくリリィの方を向いた。
「違うんだ! 聞いて……うわっ!」
椅子がガタンと大きく音を立て、バランスを大きく崩した上半身が倒れる。朝のトレーニングの後遺症か、腹筋に力が入らず咄嗟に立て直しができない。
「きゃっ! ハルトさん。あの……」
「……ごめんリリィ、ちょっと待っ……」
――――シュッ
タイミングの悪いことに、ドアが大きく開いた。リリィに覆いかぶさる姿勢でどうにかバランスを取っているハルトと、その両腕の間に真っ赤な顔でおさまるリリィ。
「………………」
二人を見たクロムは、何とも言えない苦い顔でくるりと背を向け、無言で部屋から出て行った。
「……あ……や、ちょっと待って! 違う! 黒谷さん行かないで!」
「入ってきてください! クロムさん!?」
音もなく閉まった扉を見て慌てた二人。ハルトは痛む腹筋に鞭打って体制を整え、クロムを走って追いかけた。




