第五話 少ない情報で決めつけるのは早い
翌日の放課後。 ハルトは黒谷の店の前に立っていた。
「おじゃましまーす」
CLOSEDと洒落た英文字で書かれたライトブルーの扉を開き、店内に入る。チリン、と微かな鈴の音が鳴った。
(なんか、イメージと違うな)
昨日は裏口から帰ったので、店を正面から見ていない。ハルトは昨日見た二階のカフェと黒谷のイメージから、店舗の方も落ち着いた雰囲気の菓子店なのだろうと勝手に想像していたのだ。しかし、淡いピンクやイエローで可愛らしく彩られた壁、その壁際に囲むように置かれたいくつもの焼き菓子、そして大きなショーケースの中に入った色とりどりの繊細な細工のケーキは、正しく誰もが想像する『ケーキ屋さん』のイメージだ。
(そういえば、ケーキ屋さんって言ってたっけ)
ショーケースをじっと見つめながら、やっぱり似合わないな、と失礼にもハルトは思った。ここに黒谷が居たら、昨日ケーキ食ったろうが、とのツッコミが入るだろう。
「あ、いたいた。ハルトくん!」
トントン、と階段をリズミカルに降りてきたシルヴィアがハルトに声をかけた。ハルトもケーキから目を離し、へらりと手を振って応える。
「今日もお邪魔します」
「来てくれてありがとう!遅かったわね。迷った?」
「いえ、ちょっと店を見ていて」
「そっか。ハルトくん店舗の方見るの初めてだっけ」
ハルトのすぐ隣に来たシルヴィアがショーケースを指さして言った。
「食べたいのがあったらいつでも好きなの取ってっていいのよ」
「あ、いえ。それは流石に……」
「いいのよ。どうせ趣味でやってるだけだから」
この店は毎日営業しているわけではないらしく、趣味でケーキや焼き菓子を作っている黒谷が折角だから食べてもらおうと始めたらしい。ケーキの味は評判だが開店は気まぐれで、滅多に開かない幻の店として有名だそうだ。本業に差し障りのないようにしないとね、と片目を閉じるシルヴィアを見て、天使って儲かるのだろうかとぼんやりハルトが思った時。パタンとショーケースの奥にある調理室のドアが開いた。黒谷だ。
「来たか」
黒谷はハルトがいることを確認すると少し考えるようにショーケースにちらりと視線を移し、すぐに昨日と変わらない無表情で再びハルトを見た。
「好きなの持って来い。上で待ってる」
シルヴィアと同じような事を言ってさっさと階段を上がっていく黒いコックコートを見送って、ハルトは今度は遠慮すること無くシルヴィアと共にケーキを選び始めた。
階段を上がると、黒谷はカウンターで湯を沸かしていた。ケトルがシューシュー音を鳴らし、挽きたての豆がセットされる。座れと促されて、ハルトは昨日のソファー席ではなく広いカウンターの真ん中あたりに座った。二人に近いここなら、作業しながらも話ができるだろう。
「で、昨日の続きなんだけど」
シルヴィアが下から持ってきたケーキを丁寧に白い皿に載せながら切り出した。確認するように黒谷を見る。
「結局、取消は出来ないのよね?」
「ああ、昨日マニュアルと法律書を確認したんだが、やはり取消の条項は載っていない。システム上不可能なのだろう」
申し訳無さそうな二人を見ながら、天国って法治国家なんだ、と全然関係ないことをハルトは思っていた。取消が不可能らしい事は既に聞いていたし、一夜経って冷静になったのもある。
「取消以外に方法は無いんですか?」
「それを探しているところだが、望み薄だな」
黒谷がハルトの前に、ミルクティーとケーキを置いた。顔が映るのではないかと思うくらい表面がつやつやのチョコレートケーキに慎重にフォークを入れる。食べるのが勿体無いくらいの美しさだ。
「それならここで考えてても意味ないわよ」
「そうだな……ちょうど次の会議も近い。議題にあげるか」
「どうせならハルトくんも連れてっちゃいなさいよ。これから行くんでしょ?」
「予定よりは少し早いが、緊急事態だし仕方ないな」
シルヴィアが従業員用の折りたたみ椅子に腰掛け、チーズケーキを口に運んだ。黒谷もミルクたっぷりのカフェオレをシルヴィアの方に寄せて座る。少し考えるように眉を寄せていた黒谷は、やがてその薄墨色の瞳でハルトを真っ直ぐに見た。
「ハルト。今から天国へ行くぞ」
「え」
傍から見れば一緒に死のうと聞こえなくもない誘いに、思わずハルトの手が止まった。黒谷の隣でシルヴィアが、大袈裟ねと笑う。
「やあねぇ。ちょっと行ってくるだけよ」
「そんなちょっと買い物行くみたいに……」
「しかし今日は帰れないかも知れんな。親御さんには友達のところに泊まると言っておけ」
「いやそれは大事ですけど。ちゃんと帰れるんですよね?」
「会議が終わればな」
ちょっと出勤するだけという調子で話す黒谷にとって、天国はごく身近なものなのだろう。しかし死んでから行くところという認識が強いハルトには少し抵抗があった。とりあえず無事に帰れるか確認し、そして天国とはどんなところなのか想像を巡らせる。やはり天使がたくさんいるのだろうか。ハルトは命を助けてくれたあの輝くような金髪と柔らかい笑顔を思い出した。もしかしたら会えるかもしれない。
「天国って事は、リリィさんもいますか?」
「勿論だ」
「よかった!ちゃんとお礼を言わないとって思ってたんです」
「なんだ。惚れたか?」
揶揄うように、黒谷の薄い唇が僅かに弧を描く。あまり表情の動かない人だと思っていたが、よく見ると意外と感情が豊かなのがわかる。しかしその口から放たれた言葉には、ハルトは首を振った。彼女には今のところ、惚れるどころかさんざん不審者扱いしてしまった事への罪悪感しかない。
「いえそんな。綺麗な人だなとは思いましたけど」
「確かに可愛いわよね。まだ若いから肌綺麗だし。羨ましいわぁー」
「シルヴィアさんも綺麗ですよ」
「あらありがと」
「こいつを口説こうとは勇気あるな」
「ちょっとどういう意味よ!」
感心したように頷く黒谷に、シルヴィアが眉を吊り上げる。もちろんハルトに口説いたつもりはないし、二人もそれはわかっている。ただの戯れ交じりの会話だ。それよりもハルトは、彼女の恋愛対象は男性か女性かどちらなのだろうかという方が気になった。ハルトの視線に気がついたシルヴィアが立ち上がり上半身を乗り出して、カウンター越しのハルトに艶やかな色気ある笑みを向ける。
「どっちだと思う?」
「え?ええと……」
「おい」
黒谷が呆れた視線とともに、シルヴィアの腕を緩く掴んで引き戻す。慣れたやり取りのようだが、不思議と二人の間に色恋的なものは全く感じない。仲良しだなーという印象だ。シルヴィア的にも少し揶揄ってみただけなので、あっさり座り直したその表情に不満の色は欠片もなかった。しかしミステリアスな人だなと、ハルトは胸を押さえて一瞬跳ねた心臓を落ち着かせた。危うく違う扉が開かれてしまうところだった。
「とにかく今から天国に向かう。目的は天国の法律書とマニュアルを再確認すること、あとハルトの事を今回のリーダー会議の議題として話し合う」
「リーダーって、あの三人しかいないっていう?」
「よく覚えているじゃないか」
「昨日聞いたばかりなので」
ハルトは記憶を辿った。ポイントの仕組みを聞いた時に、班長より上のリーダーというのは天国に三人しか居ないと聞いたはずだ。そしてその会議に出るということは、おそらく黒谷もそのリーダーの一人なのだろう。昨日のやり取りからも只者では無いと思っていたが、やはり相当上のポジションにいるらしい。
「今天国にはリリィと、あとルークというリーダーが居るはずだ。彼らに会って協力を仰ぐ」
「え、リリィさんってリーダーなんですか?」
ハルトは驚きの声を上げ、あの天然な天使を思い出した。確かに初めて会った時に部下の話はしていたかもしれないが、そんなに偉い天使だとは思わなかったのだ。とても綺麗だし天然なところも可愛らしいが、彼女が上司だとすると少し不安である。ハルトの言わんとすることを察したのか、カウンターの中の二人もそれぞれ複雑な顔をしている。
「……まぁわかるが、あれでも力の強い天使だ、何とかやっているんだろう、たぶんな」
「だいぶ天然だけど人気はあるみたいだしね。何とかやってるんじゃない?たぶんね」
二人の言葉の最後が不安を煽るが、おそらく大丈夫なのだろう、たぶん。とりあえず頷いたハルトの皿が空になったのを見計らって、黒谷が動いた。カウンターから出てハルトのいる反対側へ回る。
「行ってらっしゃーい」
「え、あれ?シルヴィアさんは行かないんですか?」
その場から動かずにひらりと手を振ったシルヴィアを見て、ハルトが首を傾げる。てっきり一緒に行くと思っていた。
「あたしはそっちには行けないのよ」
「そうなんですか?」
「ただの人間だし。羽もないしね」
にっこり笑ってのんびりとカフェオレを嗜むシルヴィアに、黒谷が意味ありげな視線を送る。これだけ人間離れした話をしていてただの人間なはずはないとハルトも思ったが、なにか事情があるのかもしれないとそれ以上は聞かなかった。
「留守を頼んだ」
「はいはーい」
「じゃあ、黒谷さんと僕だけなんですね」
「何だ。俺だけでは不服か?」
「いえそんな!黒谷さんかっこいいし、親切ですし。結構好きです」
「そこまでは聞いていない」
「ハルトくんって面白いわね」
「え?」
細身で小柄なのがコンプレックスのハルトは、黒谷のような強そうな外見に常々憧れを抱いている。照れもなく真っ直ぐ黒谷を見たハルトの視線に、耐えられず黒谷が横を向いた。ハルトもなかなかの天然だと、シルヴィアが声を抑えて笑っている。しかしハルトとしては笑いを取った意識はないので、不思議そうにシルヴィアの反応を見ながら頭ではもう別のことを考えていた。天国への行き方だ。
「天国ってどうやって行くんですか?」
「飛んでいくに決まっているだろう」
ハルトの疑問に、黒谷が当然といった感じで上を指した。本当に空の上にあるらしい。
「そうか。天使って羽がついてるんですもんね」
不思議な羽根は確かに貰ったが、その時リリィに翼はついていなかったし、実際に天使らしい天使も見たことが無い。天井を見ながら何気なく言ったハルトを見て、黒谷が面白そうに目を細める。シルヴィアがあら、と口元に手を当てた。
「俺が天使だと?」
「違うんですか?」
「あんた何も説明してないんじゃないの」
「え、でも天国に行くんですよね?」
ハルトは首を傾げて黒谷を見る。彼は天使のリーダーでは無かったのか。そんな疑問を浮かべるハルトに、彼は再び揶揄うような笑みを向けた。室内にも関わらず風がおき、棚の食器がカタカタと音を立てる。
思わず顔を覆ったハルトの腕越しに、バサッとした音とともに視界に何かが広がった。それが何かは見ればすぐにわかるはずだったが、ハルトの脳は受け入れるなと叫んでいる。
「まさか……」
それは思い描いた純白では無かった。一瞬真夜中になったのかと錯覚するほどの漆黒が、巨大な蝙蝠のように禍々しく、しかし雨空に広がる傘のような安心感を湛えて静かに広がりハルトの視界を覆っていく。
「残念だったな」
見上げるほど大きな身体を包み込む巨大な黒い翼は、それがあって初めてバランスが取れているのだと思うほど黒谷の身体によく馴染んでいた。禍々しくもどこか美しい艶やかな漆黒に包まれて、ここ数日ですっかり聞き慣れた低く深い声が響く。
言葉を発することも忘れて見惚れるように呆然と佇むハルトを見て、それはどこか満足そうに口の端を持ち上げた。
「俺は、悪魔の方だ」