第四十話 医療棟の混乱(後編)
「出来たわ!」
シルヴィアの満足そうな声とともに、浄化作業が完了する。入口で遠慮がちに様子を見ていたオリバーが、ライアに駆け寄った。
「クロム様! ライアは……」
「もう少しだ」
「もう毒の心配はないわ。あとは暗示なんだけど、ちょっと複雑なのよね」
シルヴィアはベッドに横たわっているライアの枕元に立つと、頭の部分に手を翳した。すると皮膚や髪の毛などが薄くなっていき、頭を切り開いた時のように中身がはっきりと見えてくる。見た事のない技術に、ファルコは釘付けになった。
「これ……どうなってんだ?」
「あんた、解像投影もしないでどうやって治してんのよ?」
シルヴィアは首を傾げる。天国に病気の概念はないので天使の治療にはあまり使わないが、暗示や魅了など魔の力が絡む時はこうやって可視化してから取り除くのが定番だ。
「これを取りたいんだけど、結構深いとこまで来てるのよね」
腕を組んで考え込むシルヴィアの隣から、ファルコはライアの脳を覗き込んだ。よく見ると確かに、黒いこぶのような塊ができている。
「どうやって治すんだ?」
「切り取るのよ」
シルヴィアはどこからか一本のナイフを取り出し光を纏わせた。そして、自信なさげに黒い塊を指す。
「でもこの辺に触ると、記憶が消えるかもしれないから気をつけないと」
「記憶が消える!? 待ってください、困ります!」
シルヴィアの反対側でオリバーが慌てて叫ぶ。記憶が消えるなんて冗談じゃない。
「まぁ大丈夫そうなところから少しずつ切っていくわ」
シルヴィアはナイフで黒い塊を切り取り始めた。ファルコは隣でじっとその様子を見る。外科医をしてた頃の記憶が蘇り、何も持っていない手が勝手に動く。
(あー、そうじゃねぇ。先にこっちを……何でそこを切るんだ!? そっちに手を出したら……あーもう見てられねー)
経験者のような事をいう割には、シルヴィアの手つきは素人のように危うい。出来る事なら変わりたいほどだが、他人の執刀に口出しするのはマナー違反だろう。見ていられなくてそっと視線を外したファルコの耳に、どこかのんびりとしたシルヴィアの声が聞こえた。
「あたし内科医なのよね」
「ちょっと待て!!」
流石に今のは聞き逃せない。ファルコは思わずシルヴィアの手からナイフを奪い取ると、自ら黒い塊を切り取り始めた。
「あら、上手いじゃない」
「そりゃな。何万人切ったと思ってんだ」
「……治す方よね?」
「当たり前だろーが!!」
話をしながらでも、ファルコの手元がぶれる事はない。驚異的な速度で手術は終わり、ほどなくライアは無事に目を覚ましたのだった。
◇
「お疲れ様」
疲労回復効果のあるハーブティーをファルコの机に置き、シルヴィアは微笑んだ。最上階で待機していた部下達が、満面の笑みでファルコの机を囲む。
「流石ボス! まさか悪魔を治してしまうなんて!」
「天使医療の常識が覆されましたよ」
「ここのボスはやっぱり、ファルコさんしかいないっす!」
「あ……いやー……まぁ、な」
ファルコは煮え切らない返事をしながらハーブティーに口をつけた。こんなもの飲んでもやはり落ち着かない。
「大した事じゃねーよ、こんくらいな。お前ら早く研究戻れ!」
部下を追い出すように手を振り、シルヴィアとクロムに目を向ける。二人はここに戻ってすぐに、ライアを治したのはファルコだと部下達に報告したのだ。普段ならどんな裏があるのかと探るところだが、この二人に関してはおそらく何もないのだろう。探るだけ無駄な気がする。
「あの……その、悪かったな」
「え? 何が?」
「いや、ライアの件……手柄、取っちまった」
「何故だ? 治したのはお前だろう?」
二人は揃ってキョトンとしている。ファルコは毒気を抜かれた気分になった。自分だけが拘っているのが馬鹿みたいだ。
「誰が治すかなんて関係ないじゃないの。大事なのは治せたっていう事実よ」
「後遺症も無かったしな。実行犯の名を覚えていなかったのは残念だが」
「でもあんたに迷惑かけたのはちゃんと覚えてたわよね」
シルヴィアはクロムを見てくすりと笑った。ファルコも先程の光景を思い出す。目を覚ましたライアは彼の顔を見るなり、黒い翼を全開にして飛び上がり流れるように床に這いつくばった。
「あれ凄かったわね。フライング土下座っていうのかしら?」
「俺もあんなのは初めて見たわ。あんた何されたんだよ?」
「別に。ライアには俺より気合い入れて謝らないといけないやつがいるしな」
「ハルトくんに対してはもう土下座じゃ足りないわね」
「本当に何したんだよ……」
「何かしたと言えば今回はオリバーだろう。あいつも凄かったな」
「あんなに勢いよく謝られたのは初めてだわ」
オリバーは、シルヴィアが癒しの天使だと聞いた瞬間、ライア顔負けの土下座を繰り広げた。彼女の情報を売って毒を買い、彼女に助けてもらったのだから当然だろう。
ちなみに、オリバーから実行犯の容姿に関するヒントは手に入れた。ショートカットに真っ赤な口紅が似合う女性の悪魔。しかし名前は分からなかった。
「ま、とにかく良かったわね。お疲れ様」
シルヴィアはくるりと背を向けた。もしやこのまま帰る気なのか。ファルコは慌てて呼び止めた。
「ちょっ! 待てよ!!」
「え? なに?」
「何じゃねー! あんたに、話があんだよ」
ファルコは立ち上がり、先程シルヴィアが気にしていた試験管を持ち上げた。中に入った液体を零さないよう慎重に、シルヴィアに差し出す。周りで見ていた部下たちが、一斉に立ち上がった。
「ファルコさん! それは渡しちゃだめです!」
「これだけ蜜を取り出すのにどれだけ苦労したと思ってるんですか!」
「いいんだよ! ……これは、千年花の蜜だ。最近偶然一本だけ発見されて、万能薬を作る研究をしてた。最近少し行き詰ってたが、あんたならできるかもしれねーと思ったんだ」
大事な研究を渡そうとするファルコの指は少し震えている。シルヴィアは試験官を手に取った。千年花の扱いは難しい。試験管に入るだけの蜜を取り出すのにも、繊細な技術が必要なはずだ。
「ここのボスはあんただ。研究室を、明け渡す」
ファルコはシルヴィアを真っ直ぐに見つめて言った。完敗だ。しかし、研究は諦められない。ここまでの苦労が走馬灯のように脳裏に流れた。厚かましいのはわかっているが言うだけ言ってみようかと、ファルコはシルヴィアの顔色をうかがいながら言った。
「もし、あんたが良ければ……研究員として残らせてくれたら嬉しい。功績はあんたにやるし、俺の名は残らなくても構わねぇ。一度始めた研究を、最後まで見届けたい。それに、もしよければ悪魔の治療に関してだが……」
「いいわよ」
「え?」
シルヴィアはあっさり言って、ファルコに試験官を返した。次いで窓際に向かい来た時のように鉢植えを持つと、スタスタと入り口まで歩いていく。ファルコは慌てて後を追った。
「今日はもともと挨拶だけの予定だったし」
「え? あんた、ここの管理者になるんじゃ……」
「一応ね。でも当面はミカエル様の補佐で忙しいし、ここに通い詰めることはできないわよ。あんたがしっかりした医師で助かったわ」
「そ、それ早く言えって……」
「書類回したじゃないの。読んでないの?」
「あ? ……あ!」
入り口でくるりと振り返ったシルヴィアに聞かれ、ファルコはデスクまで走った。シルヴィアという名前だけ見て放り投げた書類。下の方には確かに、当面は監督業務のみで医療・研究は行わない旨が書かれていた。
「解毒と浄化、あと解像投影ね。教えに来るわよ。あんた手術上手いし、ちょっと練習すればあたしより得意になるわ」
シルヴィアはにこりと笑った。ファルコはそんな笑顔を前に、自然と膝を折る。天才医師と持て囃され、尊敬を集めるばかりだった彼が、初めて教わりたいと思った瞬間だった。
「よろしくお願いします、姐さん!」
「ボス!? 何で……」
「うるせー! お前らも頭下げろ! 癒しの天使様はすげーんだぞ!」
「「「はいっ、よろしくお願いします、姐さん!」」」
「……なんで皆あたしの事ねえさんって呼ぶのかしら?」
「さあな。さっぱりわからん」
シルヴィアは来た時とは打って変わった熱烈な見送りに不思議そうに首を傾げ、鉢植えを持ってクロムとともに医療棟を出た。
「それ、よかったのか?」
クロムが鉢植えを指さす。一見何も咲いていないように見えるその土の中に何が埋まっているのか、彼は知っている。
「いいのよ。万能薬のレシピはどうせ失くしちゃったし、コレも発表前だったから記録にも残ってないわ」
シルヴィアは医療棟の裏庭に降り立った。この鉢の中には、千年花の種が入っている。五百年前の事件があった頃、シルヴィアはちょうど千年花を人工的に咲かせることに成功したばかりだった。緻密な温度管理と溢れんばかりの聖なるオーラ、その他何重もの条件が揃って初めて咲く奇跡の花。発表すればこれこそ歴史的な快挙になるはずだが、彼女は名声にあまり興味がない。これも軽い気持ちで挨拶代わりに咲かせ方を教えようと思っていただけなのだが、彼らならいずれ自力でたどり着くだろう。
「今の医療棟はいい感じね。研究は彼らに任せましょ」
もう自分が先導していた時代とは違う。ファルコが中心となって切り開く新たな医療棟に期待して、シルヴィアは鉢植えの中身を土に還した。




