第四話 不正はダメ!ゼッタイ!
ケーキやドリンクのメニューが書かれたシンプルなメニュー表と規則的なリズムを刻むアンティークな掛け時計に交互に目をやりながら時間を潰していたハルトは、それぞれのスタイルで頭を抱えたまま動かない目の前の二人におそるおそる声をかけた。
話し終えてからたっぷりと二十分は経過している。そろそろこの店のメニューを全部暗記してしまいそうだ。
「……………あの……」
黒谷は何でも信じると言ったが、内容が内容だ。実際に話をすれば、頭のおかしな少年の妄想だと笑われるか、哀れみの目で見られるかのどちらかだと思っていた。しかし、どうやらそうではなかったようだ。
「……あの、馬鹿天使が……!!」
よく見ると、黒谷は静かにキレていた。話し始めてからの反応を見て、二人がリリィというあの天使と知り合いであるらしいことはハルトも気づいていた。と言う事は、おそらく二人も天使なのだろう。
「……いつかやらかすと思ってたわぁ」
男の隣で絞り出すような声で唸っているシルヴィアの台詞からすると、やはりリリィはドジっ娘で有名なようだ。
やっぱりな。と妙に納得するが、一応命の恩人だ。代わりに謝っておく。
「すみません」
「お前じゃない。あの阿呆のせいだ」
「でも僕を助けてくれたので……」
「そもそもお前に使い魔やカウンターが見えたのは、あいつと接触したからだろうからな」
「使い魔?」
「毛玉よ」
すっかり冷めた蜂蜜入りミルクティーを飲みながらハルトは考えた。情報過多で処理が追いつかない。天使と接触したことで、死後の世界的なものと繋がってしまったというところだろうか。
「普通にすれ違うくらいなら影響はないはずなんだけど……たぶん助けた時に接触したでしよう?羽根も持ってたし、ちょっと近づきすぎたのよね」
シルヴィアが困ったように頬に手を当てた。天使の羽根は貴重品らしい。
「で、でも。あの羽根がなければ僕は 」
「天国に行けただろうな」
ふん、と皮肉気に吐き出された一言に、ハルトはビクリと肩を震わせた。そうか。あの天使に会わなければ僕は死んでいたが、天国に行けたのか。
ハルトは今まで自分にその発想がなかった事に驚いた。確かに人間はいつか死ぬ。それは自然だし、天国はいいところなのかもしれない。でも、ハルトは素直にそう受け取れなかった。天国地獄より前にとりあえず人間として生きていたい。
「 それより問題は使い魔だ」
黒谷は額を押さえて疲れたように息を吐いた。シルヴィアも心配そうに黒谷を見ている。ハルトは、つかいま、という聞きなれないワードを口の中だけで繰り返した。
「お前が見た毛玉は、ライアという悪魔の使い魔だ。悪魔は使い魔と契約している者が多い」
ライア?と首を傾げるハルトに、黒谷は向き直る。長い話になると思うから、と腰を浮かしたシルヴィアを見て、黒谷は冷めた珈琲を一気に飲み干しカップを手渡した。シルヴィアが店にいる時は、ドリンクは主に彼女の担当だ。
「天使はポイントを与え、悪魔は奪う。その話は聞いたんだったな」
ハルトは頷いた。リリィは「プラスやマイナスのエネルギーを与える」と言っていたが同じ事だろう。黒谷の言い方のほうが分かりやすい。
「このカウンターシステムは五百年前に出来たものだ。最初は上手くいっていたが、いつしかそれが『業績』と呼ばれ、天使と悪魔が競うようにポイントを取り合うようになった」
「業績……」
そこまで聞いてハルトは、考えるように空のカップに目を落とした。高校生の自分にはピンと来ないが、父親が今期の業績がやばいと連日残業していたのには覚えがある。
「ポイントをいっぱい与えたり奪ったりしたら、偉くなれるってことですか?」
「何百もある班の班長くらいまでならな」
「それ以上は?」
「無理だな。その上のリーダーという職は能力の強さで決まる。今は該当者が天国地獄それぞれ三名ほどしかいない狭き門だ。何億ポイント稼ごうがなれるものではない」
「割に合わなくないですか?」
「その通りだ」
黒谷は感心したようにハルトを見た。なかなか話のわかる少年だ。黒谷の視線が褒めるように僅かに緩んだ。
「もともと競い合うように作られた制度では無いため褒賞すらない」
「え、じゃあ何のために?」
「簡単にいうと種族争いね」
シルヴィアが戻ってきた。大きめのポットでハルトのカップに新たなミルクティーを注ぎ、残りを机に置く。あとはセルフだ。
「一部の悪魔が、天使を憎んで滅ぼそうとしてるのよ」
「おそらく無駄に競争させて天使と悪魔の仲を悪くする計画だろう。最近、悪魔達のポイントを奪おうとする意欲が凄くて天使が押され気味だ」
「なるべく天国にたくさん来てほしいし、天使側も頑張ってるんだけどね」
人間の知らないところでそんなスケールの大きな争いがあるとは。唖然とするハルトに、黒谷はうんざりだといった様子で息を吐いた。
「それで、くだらん競争が加熱した結果、ついに事件が起きたわけだ」
「事件って?」
「不正して大量のポイントを奪ってやろうというやつよ」
シルヴィアが二杯目のカフェオレを飲みながらハルトを見た。ハルトは思わず左手を見る。昨日までは確かにプラスだった、リリィにも天国に行けると言われていた、この数字は……
「……まさか……」
ハルトは一気に血の気の引いた蒼白な顔で黒谷とシルヴィアを見た。黒谷が苦々しげに口を開く。
「普通悪事の一つ二つを見つけただけでは大したポイントにはならない。でも、中には大きくポイントを削れるものがいくつかあるんだ。放火、殺人、そして」
「……自殺……」
黒谷の言葉を引き継ぎながら、ハルトはあの屋上での出来事を再び思い出していた。やはり、あれは紛れもなく毛玉に誘導されたといえる。つまりライアという悪魔が使い魔を使い、業績目当てに自分を自殺に見せかけて殺したことになるのだ。
「冤罪だ!僕はそんな事してない!」
ハルトは叫んだ。全身の血が怒りで沸き上がるのを感じる。そんな事のために地獄行きにさせられるなんてごめんだ。
「わかっている」
「だいたい、自死で地獄行きってのがもう時代遅れなのよね」
「五百年前に出来た基準だからな」
「なかったことには出来ないんですか?」
「ポイントの取消は出来ない事になっている」
「そんな……!!」
ハルトは左手を見た。罪人のような、咎めるような黒。僕は地獄に落ちるのだろうか。
「取消は出来ないが、他に手があるかもしれん。考えておくから明日また来い」
黒谷は奥の掛け時計をちらりと見て、まだ湯気の残る珈琲を一気に飲み干した。
ハルトも時計を見ると、もう下校時刻はとうに過ぎていた。まだそれほど暗くはないものの、そろそろ帰らないと母が心配する時間だ。
「わかりました。明日また来ます」
ハルトは渋々腰を浮かせた。本当はここに泊まり込んででも何かしらの方法を見つけたかったが、学生はきちんと家に帰るべきという黒谷の意見が正しいこともわかっていた。何よりカウンターをこれ以上減らしたくない。
「もう遅いだろう。送っていく」
「あんたが行ったら親御さんが卒倒するでしょうが。あたしが送るわよ」
「お前だって怪しいだろうが」
「失礼ね!そんな事ないわよ!」
喧嘩するほど仲が良い、といった感じの言い争いを繰り広げる二人の送迎の申し出を、ハルトは丁寧にお断りした。本当に申し訳ない事だが、どちらと一緒に帰っても過保護な母親が警察に通報する可能性がある。
「ハルト。死ぬなよ」
薄手のコートを着て裏口から出ようとしたハルトの背中に低い声がかかる。見送りにしては大袈裟な言葉だと思いながら振り返ると、黒谷は続けて言った。
「カウンターがプラスになる前に死んだら、地獄行き確定だからな」
「あ!」
そういうことか、とハルトは左手を見た。カウンターがプラスになるまで自分は絶対に死んではならない。ハルトは拳を握りしめた。
「プラスにするまで絶対に死にません!」
ドマイナスの左手を誓うように高くあげて、ハルトは店をあとにした。
「申し訳ありません。まさか人間が天使の羽根を持っているとは」
地獄、最下層。黒いショートカットの悪魔が深紅の瞳に恐怖を映し、高温の地面に膝をついて震えていた。
たまたま使い魔に反応した少年が誘導されやすいように幻術をかけたまでは良かったが、彼が生き残ったのは完全に計算外だ。少年があの毛玉を目で追っていたのは生まれつき彼自身の感覚が鋭いのだと思っていたが、天使との接触の影響だったのだと後でわかったのだ。
「よりによってあいつに保護されるとはな」
炎に囲まれた漆黒の玉座に平然と座る悪魔が彼女を見下ろす。計画を事あるごとに邪魔してくるあの忌々しい長身の男さえいなくなればと、この五百年間で何度思ったか知れない。彼への怒りで玉座の肘掛け部分に爪痕がつくと、足元で部下がびくりと肩を震わせた。
「も……申し訳……」
「まぁいい。奴の性格では、あの人間を放っておく事は出来ないだろう。奴等がたかが人間一人のカウンターを適正に戻すために無駄な労力を使っている間に、こちらの計画を進めれば良い事だ」
震える部下を冷めた目で見て、玉座の悪魔は気を取り直す。この計画で重要なのは、一人の悪魔が不正をしたという事実が明らかになる事だ。人間の生死など、彼に取っては些細な事だ。
「ライアと言ったか。まずはあの捨て駒の不正を大々的に広めろ。地獄法第十三条【悪魔は他種族を傷つけてはならない】に違反だ。上司にも責任を取らせてやる」
自分の口からこの言葉が出る事がおかしくて、玉座の悪魔は皮肉げに笑った。悪魔は筋力、体力ともに天使や人間の何倍もあるため、理由問わず他種族を傷つけただけで法律違反となる。そして地獄法からこの十三条を廃止して悪魔が他種族を傷つけても罰せられないようにする事が、五百年前から思い描いている彼の悲願であった。
「ライアは如何いたしましょう」
「処分する前に、まだやらせる事がある」
彼は鈍く光る黄土色の印を取り出した。元は完全な円形で金色に輝いていたが、彼の手にあるのは歪な半円のみだ。完全な形を取り戻すには、これの片割れを手に入れる必要がある。そして二つが合わさり金印が元の形を取り戻した時、それを持つものが、地獄で最高位を示す真の『マスター』となれるのだ。
「これと同じものを探せ。あの忌々しい邪魔者から何としても取り返すんだ。失敗したら消せ」
玉座の悪魔はゆっくりと指示を出した。完全なるマスターの座を手にするため、そして憎き天使を絶滅させるため、彼は動き出す。
「この世に白い翼など必要無い。そうだろう?」
「勿論です。マスター」
まるで地獄が世界の全てだというように、最下層の業火は勢いよく燃え続けている。その一部を身に纏い、彼は計画の成功を夢見るのだった。